思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

考えるとは物と親身に交わる事だ

2017å¹´07月20æ—¥ | å“²å­¦
 『人生の鍛練 小林秀雄の言葉』(新潮新書)の「考えるとは物と親身に交わる事だ」という章に個人的に好きな箇所がある。小林先生57歳から61歳の頃の講演会録(新潮社CD)にも語られた言葉で、

 愛する事と知る事とが、全く同じ事であった様な学問を、私達現代人は、余程努力して想像してみなければ、納得しにくくなっている。一冊の書物を三十年間も好きで通せば、ただの好きではない。そういう好きでなければ持つ事の出来ぬ忍耐カや注意力、透徹した認識カが、「古事記伝」の文勢に、明らかに感じられる。これは、今日言う実証的方法とは質を異にしている。私達は、好き嫌いの心の働きの価値を、ひどく下落させて了(しま)った。(p190)

 人間の良心に、外部から近づく道はない。無理にも近づこうとすれば、良心は消えてしまう。これはいかにも不思議な事ではないか。人間の内部は、見透しの利かぬものだ。そんな事なら誰も言うが、人間がお互の眼に見透しのものなら、その途端に、人間は生きるのを止めるだろう。何んという不思議か、とは考えてみないものだ。恐らくそれは、あまりに深い真理であるが為であろうか。ともあれ、良心の問題は、人間各自謎を秘めて生きねばならぬという絶対的な条件に、固く結ばれている事には間違いなさそうである。仏は覚者だったから、照魔鏡(しょうまきょう)などというろくでもないものは、閻魔(えんま)に持たしておけばよいと考えたのであろう。(p191)

 彼(本居宣長)の説によれば「かんがふ」は、「かむかふ」の音便で、もともと、むかえるという言葉なのである。「かれとこれとを、比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」と解する。それなら、私が物を考える基本的な形では、「私」と「物」とが「あひむかふ」という意になろう。「むかふ」の「む」は「身」であり、「かふ」は「交ふ」であると解していいなら、考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に交わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう。(p201)

今回は、「考えるとは物と親身に交わる事だ」という章題に注目したいと思う。文中の物には他者も含まれることは公演中にご本人が語られており、「交わる事だ」との言及は「これで善しとする」先生の考えである。
 疑いなき善しとする自己決定、これについて哲学者木村素衛先生の次の言葉が浮かぶ。
 
 鶏肉屋から逃げた鳥を店主の親爺が追いかけ、捕まえたとたんに鶏の羽を折り、首をひねり回し殺す様子を目撃しその残酷さに衝撃を受けた時の話である(木村素衛著『魂の静かなる時に』燈影撰書18・p15)。

 おお世界の根本に横たわるこの根本悪よ!汝は見るに堪え難ねた恐ろしい姿をしている。わたしたちは悪人だ。今の唯一の場合を考えても、食わんと欲する私たちがいなければ殺すあの親爺も生じなかっただろう。私達は悪人だ。生きるということそれ自身が悪から離れることのできない事なのだ。そして、私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。それを持たざるを得ない。
 何とした矛盾であろう。私は真に真面目にならなければならない。「生」ということを知らなければならない。あの鶏のために考えてやらなければならない。

 木村素衛先生の個性で本当にまじめに何事にも取り組む人で、たかだか鶏の命ではないかと思われましょうがこれで善しとするところに木村先生という人が現れる。

「私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。」

 木村先生は生ということ、生命ということを見つめる機会に遭遇しそこから問いを受け、「生きるということ」それ自身が最高の善だと自覚する。実存精神分析にV・E・フランクルは「人間は期待されている存在である」と言う。見ること、触れること、聞くこと等の諸器官の作用はまさに事象をも含めた他者を認知する。

 西田哲学ならば「物が来たりて我を照らす」という言葉や「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する」という言葉になる。

 「この『世界』とは、物の集合としての対照的な世界の意味ではなく、我々の自覚を媒介してくれる場所のようなものである。」と臨床哲学の木村敏先生は語るが、私も場の論理の「場所」とはそういうことのように思う。
 私の見ているものが実際に私が見ている通りに存在しているか分からない、しかし私にはそれが確かにそう「見えて」いるように「思われる」。この「・・・と思われる」あるいは「・・・と見える」ということは絶対に疑いようがない。デカルトのコギトとは実はこのことだ。私が考えているから私がある。というような単純なことではない。私があることの確かさは、私が物を見たり、聞いたり、感じたりしていると「思われる」ことの確かさであり、物がしかじかに見えたり、聞こえたり、聞いたり、感じられたりすることの確かさである。(木村敏著『分裂症の詩と真実』河合文化教育研究所・p31)

このように考えると、

「考えるということは、疑うということです。」

という哲学的言及は小林秀雄の

「考えるとは物と親身に交わる事だ」

という言及よりも思考過程における後的な結論に思う。

 我々の思考は世界と接することからはじまる。純粋経験は疑念なきところからはじまるのである。世界に色を付けること無き世界が現れているということだ。言葉を変えれば自己の認識はそこにおいては現象の奴隷ではないということである。

 自分に起きる事象、見つめる他者の現われに「させられ体験」が見るものはすでに従属性に固執、執着している。

 仏教でいう色相とはまさにそこにある。「疑いのまなざし」とはまさに個的色付けの世界観である。

 人間の最も純なるものは何であろうか。

 105歳で亡くなられた日野原先生は「生きること」「生命への畏敬」を常に語られていた。上記の木村素衛先生の「私は生きるということが絶対のそして最高の善であるという自覚を持っている。」という言葉が重なる。

 人間存在の哲学的な思考の根源には何があるのか。混沌からの現われのそこに、存在の自覚の問いがある。人間が人間であるための問いである。

 最高の善は、最高の善しはそこにあるように思う。

老いはピエロ

2017å¹´07月16æ—¥ | ã“とば
 休日になると昼間からカラオケ喫茶に出かける。昼間からお酒を飲むわけでもなく午後1時から午後5時まで1000円歌い放題で好きな歌を歌うのである。集う人は若者ではなく殆どが60歳以上の老人で、各地でこのようなカラオケスナックがあり、時々日曜日に大きなホールで発表会が行われている。
 古い曲から新しい曲が披露されるが、新しいと言っても若い人の曲ではなく、最近発売された有名無名の演歌歌手の曲で、このようなカラオケ喫茶には無名の演歌歌手が訪れ、早々にこのご老人たちはこの曲を覚え自分のものとして行く。
 音楽教室なるものもあり、ご老人たちは先生から指導を受けそれはそれは歌唱力は半端ではない。
 今月の最終の日曜日には穂高の図書館の多目的ホールで有志90名ほどのカラオケ発表会がある。女性群はドレスや着物、男性群は青色や白色の背広、まるで演歌歌手のような衣装で登場する。
 3年ほど前に図書館に行った際、多目的ホールに人がたくさん集まっていたことからこのような会、このようなカラオケ喫茶があることを知り、老人の生きがいの構築の姿を発見した思いがした。
 個人的な話になるが、私もカラオケが好な方で時々このカラオケスナックへ歌いに出かける。その際に歌う曲に昭和33年ころのフランク永井さんの『公園の手品師』という一曲があります。わたしは29年生まれですが父母が歌好きでいつもラジオの歌番組を聞いていたこともあり、いつの間にかこの曲を覚えてしまいました。この曲をカラオケで歌うこともなかったのですが、カラオケの曲の中にこの歌を発見し歌うことにしました。そして歌って驚いたことがあります。
 私が幼き頃に覚えた歌詞が誤った記憶であったことを発見したのです。原文の歌詞は、
公 園 の 手 品 師
作詩 宮川哲夫  作曲 吉田 正
1 鳩がとび立つ 公園の
  銀杏(いちょう)は手品師 老いたピエロ
  うすれ陽に ほほえみながら
  季節の歌を ラララン
  ラララン ラララン うたっているよ
  貸してあげよか アコーディオン
  銀杏は手品師 老いたピエロ

2 雲が流れる 公園の
  銀杏は手品師 老いたピエロ
  口上は 言わないけれど
  なれた手つきで ラララン
  ラララン ラララン カードをまくよ
  秋がゆくんだ 冬が来る
  銀杏は手品師 老いたピエロ

3 風が冷たい 公園の
  銀杏は手品師 老いたピエロ
  何も彼も 聞いていながら
  知らん顔して ラララン
  ラララン ラララン すましているよ
  呼んでおくれよ 幸せを
  銀杏は手品師 老いたピエロ


です。誤っていた言葉は「老いたピエロ」で、私は「俺はピエロ」と誤って覚えていたのです。
 今の年齢でこの曲の全体像を知り非常に感動します。この曲の場合は「銀杏」と書いて「イチョウ」ですが「ぎんなん」とも読みます。個人的に銀杏には興味があり、過去のブログにも書いたことがあります。

銀杏は雄株と雌株があり実が成る過程に人間と同じ「精子」なるものが存在することに驚く。植物と動物の進化の真中(まなか)にあるような存在で不思議な物(もの)です。

 物(ぶつ)ではなく物(もの)的な存在。植物ですから生命ある存在ですが他の植物以上に人間に近しい存在に思えます。イチョウのエキスは脳の活性化に効きく話を知り、最近は「イチョウ葉&DHA・EPA」なる文字の入った健康食品を愛用している。

 効果如何、それは自分にはわかりません。物覚えというよりも思い出せないことが多くなったことは事実で、覚えてもすぐに忘れてしまう。

 別視点からこのことを考えると、黄ばんできた記憶を思う。白紙や白ワイシャツ、年を経るごとに黄ばんでくる。戦中の酸性紙の本が時代とともに黄ばみを増し、いつの間にか紙はボロボロになります。

 記憶が褪せるとは、薄れる意味ですが、色が薄れる現象から記憶が褪せるという表現になり、薄れるは結局黄ばみへと移行し、染められた衣類も色が褪せ同じようにボロボロになります。

 『公園の手品師』に話にもどりますが、ピエロは道化師、道化師には滑稽をイメージしますがそれとともに悲しみの表情もあり、ピエロの涙といってピエロの眼の下には涙が描かれています。

 紅葉期にはイチョウの葉の黄色は一番目立ちますし、絨毯のように道を引き積めます。

 なれた手つきでトランプのカードをまくように。

 カードは配ると書くところですが、「まく」という言葉が使われています。イチョウ並木の歩道をランダムに引きつめてゆくその情景を思い描きます。

「老いはピエロ」

 黄ばみが増し樹を離れる。一年周期の生命の循環の青色(実際は緑色)から黄色への変化、青年期から老年期への戻らない時の流れ。人間の喜怒哀楽の時の流れに肌のくすみ、皺の数は皮膚完走とともにますます増える。

 滑稽でもあり、心淋しい感覚も現れる。

フランク永井さんの人生を知るものにとって、イチョウの木の下ではないが、この曲のジャケットは印象的である。



ウィキペディアに次の記事が書かれていた。

 最晩年は幼児レベルの知能状態だったとも伝えられている。やがて周囲も復帰は絶望的と見切りをつけるが、恩師の吉田正だけは最期まで諦めず、よく永井を見舞い、周囲にも「フランクに歌わせたい曲がいっぱいあるんだ」と語っていた。第三者との会話が殆ど成り立たない状態にあったとされる永井だが、吉田と話すときには常人と変わらない状態で話すことができたと関係者が明かしている。

『公園の道化師』の作曲は上記のように吉田正先生でした。

利己的遺伝子の意味するところ

2017å¹´07月13æ—¥ | å“²å­¦
 言葉による表現、そこには作者の思惟の結果が表されている。ソシュールの記号の恣意性という話に重なることだが、個人の知悉している言葉という記号をあれこれと分節化させ関心のある事柄や自分の思いを切り出す。

 言葉の構成、思考の結論は、個々人の癖が作用する。思考の癖である。現在Eテレの100分de名著ではジェイン・オースティンの『高慢と偏見』が放送されている。京大大学院の廣野由美子教授で作品に描かれている人々の、特に女性の心理が興味深く語られている。

 その中で廣野教授は次のように語っている。

 人が成長するにつれて形成される物事の根本的な捉え方や、信念の土台となるような考えのことを、精神医学の一領域である認知療法では<スキーマ>(schema)と呼びます。また<スキーマ>に基づいて無自覚のうちに生じてくる脳内イメージ(自動思考)によって、不合理な考えや否定的な感じ方がもたらされることを(認知の歪み)といいます。(テキストp33から)

 第一回目の「偏見はこうして生まれた」の中での解説ですが、人それぞれに個的な表象モジュールを備えているという考え方にも重なる。遺伝的に継承される癖的なものから後天的に習い修めた「された体験」もまた自動思考に共振して表れる。

 「私は不幸癖」という言葉が出てくる古い演歌があった。まさに世の中をネガティブに考えてしまう私がそこにいる、という話である。しかし世の中にはまるで不幸を見たことがないような人もいるのは事実で、ポジティブ思考という概念が消えることはない。

 二元的な思考が合理的な物事の解釈を推し進め、人間社会の快適さが追及され自然破壊が横行し、異常気象もその表れだという。だから自然は手付かずのままの状態を維持すべきであり、異常気象は母なる地球の叫びであるともいう人がいる。

 科学的な飼料よりも有機的な自然をベースにしたものの方が人には優しく、有機農法も一つの選択でもある。英国の生物学者であるリチャード・ドーキンスは、人間の行動は動物と同じく、「利己的な」遺伝子によって支配されているという学説を唱え、世界的に大きな反響を巻き起こしたことは大いに知られるところです。

 彼のその発想の根拠は何か。チャールズ・ダーウィンの自然選択説を個体レベルから遺伝子レベルへと移換させたところにあり「利己的な遺伝子」という言葉が流布したが、単なる化学物質に過ぎない遺伝子に利己主義も利他主義もない。

 自然選択は、つねに最大の繁殖成功を欲しているようなことを考え始める人がいる。どうしても自然というものに主体があるように思い描きながら考えないでは、この世の奇美が説明できないのである。それはそれでまた楽しい世界でもある。

 利己的、利他的とはどのような概念なのか。そもそもこの言葉は進化生物学的見地からの視点上に現れた言葉で、ある個体が自らの適応度を増大させ同時に他の個体の適応度減少させるような行動は利己的(selficle)であり、自らの適応度を減少させると同時に他者の適応度を増大させるような行動は利他的(altruistic)と定義しことにある。

 利己的とは自己保存的な行動であり、利他的とは自己犠牲的な行動という話になる。そもそも動物の行動パターンは生得的に有している脳のモジュールの働きにも続くもので、その脳モジュールの発生は動物のゲノムにおける単一あるいは複数の遺伝子に依存している、と説く脳科学者もいる。

 血縁的利己主義、互恵的利他主義、などという言葉もある。絵本物語の「鶴の恩返し」もあれば「因幡の白うさぎ」の話もある。

 子どもも大人も楽しめる絵本

は生得的利他心を物語る、がこれもゲノムの引継ぎからであろうか。自然選択という言葉を使用するならばそこには成る事実と今現在の形成があるだけである。

 『進化論はなぜ哲学の問題になるのか』

 生物学の哲学の現在はなかなか面白い。多くのことを知ることは楽しいことでもあるがまた縁起の世界観でみるならば負も現れてしまう。だからと言って「色即是空」や「無常」という言葉が否定されるものでもない。被災地でそんな話を聞いたことがない。

人は、ことばを覚えて、幸福を失う。

2017å¹´07月12æ—¥ | å“²å­¦
 人間は言葉を使って自分の思いや考えを表現する。それぞれの持つ言語体でそれぞれの言語能力により喜びや、悲しみを表現する。同じ言語体の人々ならば言葉の概念を共有し意思の疎通を図ることができます。

 社会の仕組みは言葉を使って説明できますし、法律は言葉を使って、法典になって社会の秩序を堅持しようとし、人々に順法精神を扶植します。

 ある意味、言葉があることによって社会が成り立っています。もともと人間社会に言葉がなかったならばとどうなるのだろうかと、使うことが当たり前の状態で考えると不便という言葉が浮かびますが、さらに考えを進めると。テレパシーのように言葉なくして意思の疎通ができれば世界が幸せ感に満ちるのではないかと思ってしまいます。

 テロ対策法案、新設共謀罪の成立そして施行、社会は平和と秩序が保たれると思う人がいる一方で多くのものを失うと思う人もまた多くいるようです。

 言葉を覚えて幸福を失う。

 実際そういう話にもなります。先週の日曜日の地元の多目的ホールでノンフィクション作家の柳田邦男さんの講演会が開かれ聴講させていただきました。

 「生きる力、絵本の力~大人も子どもも心が育つ~」と題した予定1時間30分の講演でしたが2時間超の熱い語りを聞くことができました。

 1936年生まれの81歳、元気ですね。公演最後に花束をプレゼントされ、生花ですので列車で持ち帰るのはかわいそうとのことで、その場で同年齢の女性に逆にプレゼントしていました。確かに車内に生花を置くのは大変なことで、花がかわいそうは言葉の表現力だとまたまた感動しました。

 è¬›æ¼”は詩人の長田弘さんの『幼い子は微笑む』という絵本の話からはじまりました。個人的に長田さん詩が好きでブログにも書いてきましたが、長田さんの詩には哲学を感じます。

 『幼い子は微笑む』は絵をいせひでこさんが描き講談社から出版されている大型の15頁ほどの本で詩も短く暗記することができる詩が書かれています。

 この本の詩の中に次の一文があります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何かを覚えることは、何かを得るということだろうか。

違う。 覚えることは、覚えて得るものよりも、

もっとずっと、多くのものを失うことだ。

人は、ことばを覚えて、幸福を失う。

そして覚えたことばと

おなじだけの悲しみを知る者
になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この詩を思い出すと詩の哲学といつも思うのですが、「言葉」というものがどういうものなのかがよくわかる話です。
 まさか言葉を知って失うものがあるだろうかと、疑念をもつ人が多くいると思いますが、自分を見つめるもう一人の自分の視点から見つめてみるとこれほど深い話はないのではないかと思います。

 「確かなもの」

 「正しいもの」

を他者に伝えたいと思いで言葉をしぼり出し表現しますが、一方で失うものもまた多くあることに気づきます。

 言葉を使用しないで思考することもできず、概念の理解ができなければ意思の疎通も図れない。

 言葉という足かせ

このような話を知って、言語哲学の世界に触れると視点が大きく変わってきますし理解力も高まります。

 言葉を使い。ソシュール、ウィトゲンシュタイン。大森荘蔵、井筒俊彦等々、哲学者は何を語ろうとしたのか。

 言葉を使い、社会批判、政府批判をアップすると幸福を失うことになる。

 ほんとうはほんとうは、言葉以前の微笑みを得たいのですが。

 言葉によって理解することができたのですが、「生きる力、絵本の力~大人も子どもも心が育つ~」という柳田先生の講演会、聞くことができ改めと言葉というものを考えてしまいました。

よい出来事は誰にも解る

2017å¹´07月05æ—¥ | ã“とば
 自然の破壊力には驚く。河川におかれた重機が大雨に警戒し、高く積み上げた土盛りの上においていたところ、増水した水は土盛りを削り重機を土石流の中に沈めた。
 各地の大雨のニュースの中にそんな一場面がありました。その後台風は猛威を振るい北上し続けているのですが荒ましいものがあります。
 自然の破壊力と表現しますが、自然現象はなす意図があるわけでもなく、なるがままにその現れを成し、人間にとっては災厄な事態がおとずれているということになります。
 その間北朝鮮は弾道ミサイルのその性能向上を完成させたようで、日本がこれ以上北朝鮮にとっての理不尽な行動を継続すれば、いつでも弾頭に核爆弾ではなく通常の爆弾を搭載し、日本の各地の原子力発電所へ攻撃できるわけで、東京電力の幹部陣が自然災害を予期できず最悪な事態を招来させたように原発被害が発生し、日本人の居場所がなくなるのは明白な事態になっています。
 しかし北朝鮮の首領様はそのような理不尽な、理性を欠いたことはしないという期待だけは日本人は暗黙裡に持ち続けているようです。
 日本の政治家の悪行三昧と精神異常的な言動が横行し、互いの罵りあいとが続くばかりです。
 理性的な行動ができないのは北朝鮮の首領様だけではないことをこれほどまでに明示されるような現象が起きているのは事実ですが、一体このような世の中の流れはどのような未来を描くことに向かっているのでしょう。
 自然現象がその主体を持つわけではなく、人間が相関性の中で織りなす社会現象もまたその明確な主体があるわけでもなくともに予測を超えた次元にあるように思えます。
 いつかの次元で「させられ体験」が必ず現れるわけで、そこで反省と二度と起こさない起きない体制を思い描き、堂々巡りの時の流れに歴史体験と名づけながら子だもたちに引き継ぎ事項としていくのでしょう。
 この世から「悪」という言葉がなくなり、「よい」と「よくない」という言葉表現しかなくなり、悪人は、「よくない人」と呼称することになったとして、「悪い政治家」は「よくない政治家」と呼ぶようになったとする。
 今の世の中、よくない政治家が横行している。心よき政治家が見えないのである。
 誰もがよくない出来事を自覚できるが、どうしてかと考え始めると「悪」を設定しなければ合理的に解せないのである。そして結局「正しさ」を宣言したくなるのである。

「させられ体験」が生み出す善

2017å¹´07月02æ—¥ | å“²å­¦
 つい最近、還暦という年齢の刻みを意識したばかりなのに、あっという間に更なる年齢を刻んできたことに気がつく。
 巷には、何かにつけ悲憤慷慨する人々の声が聞こえる。田舎の山はいま松の赤枯れが急激に広がり、里山が赤茶色に染まってきています。

 松の赤枯れは害虫によるものなので、害虫対策のための行政側の薬剤散布が計画されているのですが、「薬剤」ですので人体への影響を心配する方々の、「薬剤散布しない欲しい」の声に一部の地域では本年度の散布を中止にしたところも出てきています。
 薬害被害を心配する人たちは女性の方々が多いようで「子供らへの影響」を特に心配し、人権派の女性弁護士さんが散布絶対阻止に頑張っているようです。

 新聞にも掲載されていましたが、散布対策を推進する関係者側自宅には無言電話や誹謗の抗議電話があるようで、危機意識は半端なものではないようです。人体への影響といえば原発の放射能問題がありますが、穏やかに平和に暮らしたい人々のこころを「させられ体験」に引き込むようです。

 いま目の前で行われた運動が自分自身によって引き起こされたという感覚、運動主体感は、自己は自己であるという自己感覚の重要な要素ですが、「させられ体験」を履修はじめると、悪意的な他者を創造し、官能器官は他者への攻撃を選択し、おのずから統合された心になろうとする働きも、偏狂始めます。

 「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行なう悪によるということです。そんな人には動機もなく信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を私は“悪の凡庸さ”と名づけました。」

ハンナ・アーレントの有名な言葉ですが、「人間であることを拒絶した者」とはどういう者なのか。

 現日本国憲法を改正しようとする人がいる。
 原子力発電所を存続しようとする人がいる。
 沖縄の米軍基地を自然豊かな場所を破壊しそこに移そうとする人がいる。
 友人の希望をかなえてあげようと行政権を意図的に曲げようと画策する人がいる。
 場に合わない言動や行動をする人がいる。
 部下を長時間労働に従事させ、苦悩する部下を冷笑する人がいる。
 毒を散布し、子供たちの健康を害する人がいる。
 それぞれのする人に追従する人がいる。

こういう人たちが悪魔に見える。このような人は「人間を拒絶した人」ように見える。そのような人には、

 「動機もなく信念も邪心も悪魔的な意図もない。」

と言えるとするならば、

「動機」「信念」「邪心」「意図(悪魔的)」

とはいったい何なのか考えたくなる。

 人間の意識的行為、無意識行為も身体を有する存在としての有機体そのものの、おのずからの現われです。
 意識、認識、自覚、意図以前にすでに述語の主体は織りなされる。
 したがって意識段階における分別、二元的思考における善悪(ぜんあく)、幸、不幸もなく有機体としての存在の根源に組み込まれてた素体づくりの癖が働きにおいて成すのである。

  ここで唐突ですが、西田幾多郎著『善の研究』の話をします。あるブログに、「『善の研究』西田幾多郎への批判」というタイトルのものがあり、読ませていただいた。

 西田幾多郎著『善の研究』は何を語っているのか。

どうも『善の研究』には人生の目的が書かれているという。個人的に知る限りこの『善の研究』において「人生」という単語は序文も含め18箇所でてきます。

例えば、第三編第八章倫理学の諸説その四には、
〇人間もし快楽が唯一の目的であるならば、人生ほど矛盾に富んだ者はなかろう。
〇快楽をもって人生の唯一の目的となすのは未だ人性自然の事実に合ったものとはいわれない。
第三編第九章善(諸説)
〇氏(アリストテレス)に従えば人生の目的は幸福である。
〇しかし最も深き自己の内面的要求の声は我々に取りて大いなる威力を有し、人生においてこれより厳なるものはないのである。

という記述はあるが、そのブログには、

<人生の目的とは、真理を探究し、その過程で神(または仏)の心を知り、神(または仏)と同じような心を持って神(または仏)と同じような行動をすること。それは、言いかえれば「完全なる善」で、それを実行することによって永遠の幸福を得ることができる。>

と、言っているようだという記述がありますが、『善の研究』にはそんな記載はありません。参考に「永遠の幸福」ということばは、「永遠」という言葉が二箇所で使われているが・・・無い。

さらに、その批判ブログには、

<「善いことをするのは何のためか」「幸せになるのは何のためか」>

ということについて書かれていない、とも書かれていますが、そもそも『善の研究』は初めての西田先生の最初期の著であり個人的理解においては「善(よし)の研究」であって根源的人間発動における根源的論理の展開であると思う。そして、その後の西田哲学においては哲学/宗教、宗教/哲学でと考える研究者もおり、個人的にも宇宙物理学や生命科学等の他の学問においても、共通の根底を見出さないではいられない感覚を覚える。

 文頭で、運動主体感は、自己は自己であるという自己感覚の重要な要素と書きましたが、苦悩に苦悩する人生を歩むと運動主体感が失われていきます。

 今朝のEテレ「こころの時代アンコール 禅僧ティク・ナット・ハン(2)ひとりひとりがブッダとなる」では、本来の自分を取り戻す瞑想の重要性が説かれていました。

 天使である、悪魔であるとのレッテルの履修は、「させられ体験」の履修でもある。

 「させられ体験」がその人の思考の癖になり、行動傾向があらわれる。それは自己の「正しい行動」の主張であって善良なる行動以外の何ものでもない。

 松枯れから始まった今回のブログですが。松くい虫にはオケラが天敵であるという話からオケラの繁殖を考える小学生も話題になっています。新しき発想に感心してしまいますが、思考に癖のある人は、「オケラも増えすぎれば問題もある」と直ぐに否定的にかかります。

 現在話題になっているAIは、人間の脳のニューロンの働きを模倣した「機械学習」を主にして、ディープ・ラーニングは限りなき二元の世界の演算で形づけられています。無限大の演繹と表現してよいと思う。そこには徹底した、勝敗、正否、安全・危険等の分別が現れる。

 人間はブログにも書きましたが「ニューロンの働き」のみに依拠しているわけではなく身体の諸感覚も含めた大域的アトラクターでありニューロンの集団の活動を協調的に向かわせる働き機能も有している。

 人生は矛盾に富んでいる。

 協調に向かわせる働きにおいて、現われは矛盾そのものである。

 悲しみも苦しみも、喜びも、満ち満ちて存在し、天空瓦解の杞憂もありなん。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ここまで書いてまとまりのない、自己発現であることに気づくがせっかくなのでアップすることにします。「させられ体験」という言葉は認知脳科学に出てくる言葉です。