思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

魂入れ

2008å¹´07月31æ—¥ | ã“ころの時代
 義兄の棟上式に出席。

 安曇野を一望できる、我が家の隣に建設中です。

 棟梁の魂入れの一声に、大工さんが木槌で横木を打つ。

 造るという作業と心、こころとものとのつながり。

 森羅万象すべてのつながりの中に音は響きます。

オクラの葉

2008å¹´07月29æ—¥ | ã“とば
 やまと言葉の世界では、人間の体と植物の各機関の名称に同じ発音をするものが多いことは、以前にもブログに掲出しましたが、その中の「は」について改めて「もの的」な思考の世界に浸りながら話して見たいと思います。

 今日のブログのきっかけは、1ヶ月ほど前に植えたオクラの成長からです。オクラは、その実を採るときには、その下に伸びている葉も一緒に採らないといけません。そうしないと同じ幹になる他のオクラの成長が悪くなるという性質があるからなのです。写真のオクラの実のすぐ下に生えているのが、切るべき葉です。オクラの「は(葉)」は、植物の成長という中で、実に面白いものです。

 万葉学者中西進著「ひらがなでよめばわかる日本語 新潮文庫」第一章「体のパーツ、なぜこうよぶの?」に詳しく書かれています。以下の文章は、この本の一部を参考にしていますが、これまでの中西先生の話と自分なりの研究から書いてみました。

 人間の身体で「は」という名がついているものは、「歯」があります。そのほかに「花」と「鼻」、「芽」と「目」などがあります。
 やまと言葉の自然観の中では、植物も人間も含めた動物もすべてつながりの中で生きています。ですからその性質や働きが同じならば同じ発音で表すのです。
 その中で「は」というのは、「はし(端)」末端を表しているのだそうです。言(こと)の葉は、言葉のことですが、表すものの固定されたものであり、最終的な言い表しになるわけです。

 歯(は)が、なぜ末端なのかと思いますが、整った形に成長し端が形とした存在しています。それが更に成長が進むと、歯の成長は止まり葉が枯れるように、歯も弱ってきます。中国語の「齢」は、歳を表し、またこの漢字は、齢(よわい)と日本語では読まれます。実に「は」とはおもしろいやまと言葉です。
 

安曇野の夜明け

2008å¹´07月28æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜

 連日夕方になると雷と大雨が続いています。

 土曜日に塩尻市で玄蕃まつりが行われましたが。 突然の雷と滝のような大雨で途中で中止になってしまいました。

 同じ松本平の一地域であるのに、塩尻だけが小規模でしたが洪水被害に見舞われました。日曜日には全国各地で突風などで死者や怪我をされた人が多くいたようです。

 今日も不安定な天候になる予報ですが、早朝の空気は澄み渡り、松本平にはうす雲が見えます。


大悲と蝉の声

2008å¹´07月25æ—¥ | ä»æ•™

 早朝の私的回峰行のような中「不生不滅 不垢不浄 不増不減・・・」で、松尾寺の薬師堂裏山の蝉の声が急に小さくなった。

 蝉に聞く耳があるのか、私の声に生物学的な反応を示した。

 人の声を聞く耳を持っている。 勝手に都合のよい解釈をしてしまいそうだが、とにかく生物学的な反応である。

 「大悲」は、帰りきた者の当然の心でなければならない。ましてや先導なる人々は「大悲」の真っ只中にあるのが、釈尊の教えではないだろうか。蝉の静かなる鳴き声にふと思う。

 昨日の新聞下欄に「従来の歎異抄解釈を越える解釈」というような広告を見てから、これが「大悲」なのかと心の中で響いていたのか。

 越える教えが大悲なのか。

 しかっりした聞く耳を心に持ちたいものであると、今日も教えを授かりました。

      


古代ハス

2008å¹´07月21æ—¥ | ä»æ•™
 「譬えば臭泥のの中に蓮華を生ずるが如し。但だ蓮華を採りて、臭泥を取ること勿れ」の鳩摩羅什の言葉にひかれるように今日は、塩尻市の洗馬下小曽部(せばしもこそぶ)の曹洞宗興龍寺に古代ハスを見に行ってきました。

夜明けとともに開く花です。
 午前中が見どころとのことで、午前9時ころ寺に着きました。

 住職の洞派さんが、長寿観音のところにも少しあるということですのでそちら方も見て回りました。
 約二千年前の弥生時代に咲いた古代ハスとして知られる大賀ハスを貰いうけ5年程前から増やしているそうです。
 白蓮よりも赤色の色が多く見られました。

 鎌田茂雄先生は、講談社学術文庫「天台思想入門」で次のように書かれています。

 私は、そのまま鳩摩羅什が平穏に育って、亀茲(キジ)の国も平穏であったら、仏教にとっては大変なことが起こったと思う。それは、中国仏教が成り立たないということを意味する。『法華経』が中国へ伝わってこないし、『阿弥陀経』も伝わってこない。また、竜樹の著作である。中観仏教すなわち空の教えといた『中論』が伝わってこないし、さらに『維摩経』が伝わってこないということであり、中国仏教は、これでどんなことになったかと思うのである。

ということで、鳩摩羅什の一生が平穏なものであったならば、天台宗は成立しなかったかもしれない。すると最澄さんの天台教学はなく、法華経を中心とした現代の新興宗教はもちろん、比叡山で学んだ各宗祖は、何を求めたのでしょうか。

 興龍寺は、山の谷間にあるお寺です。敷地内には沢山の句碑があり、長寿観音のお顔がなんともいえない優しさが見えました。

鳩摩羅什と諸法実相

2008å¹´07月20æ—¥ | ä»æ•™

 川や山を見ると心動かされる私です。昨日は午後、突然山に登りたくなり裏山の燕岳へ出かけました。午後3時を切ってしまいましたので、運動不足解消のため2時間登山1時間下山を敢行してみました。できるものですね。現在疲れはありません。

 自然がいいですね。帰路に自然水で身を清め飲んできました。美味い。
 自然に感動していましたが、しかし感動ばかりしていてはいけないらしいのです。 

 スマサーナサーラスリランカ初期仏教長老の書籍も勉強させてもらっています。
 すると如何に私という人間は悟りの低い人間だということに、気づかされることがあります。

 我々は、自分の無常に徹底的に逆らうのです。歳をとること、疲れること、お腹が空くこと。観察能力が乏しいのです、自分の無常に気づくときには遅いのです。すでにガンは進行してしまっているのです。
 人は流れる川を観察する。水の流れで、泡が現れて弾けていくことを観察する。自分も変わっているのだと理解する人も、たまにはいます。10万に1人くらいでしょうか?
 それ以外の愚か者は、「きれいだ」「落ち着く」「風情がある」などと喜ぶだけです。自分自身の無常に気づかない。自分も同じスピードで変化してゆくと気づくことができない人には、川はどのように見えるのでしょうか?
 それは通常の人間とは別の世界です。
 その人は、瞬間、瞬間、別の人です。川も自分も同じスピードで変化しつづけることを知るその人は、川も「川だ」と認識できない。認識のレベルが、ほかの人とまるで違います。言葉は存在しません。人に語ることもできません。それが悟りの世界なのです。(お釈迦様が教えたこと1無常の見方 サンガP63)

 長老によると「無常」は、「超越した真理」「聖なる真理」パーリ語で「ariyasacca(アリヤサッチャ)」というのだそうです。


 従って、聖なる真理(無常)は、涅槃、悟り、解脱に押し上げる真理だそうです(上記1無常の見方P53)。
 
 私は、川の流れが好きで、清流を見ると前回のブログのように「きれいだ」「落ち着く」「風情がある」などと喜ぶ人間になってしまう。どうしても名詞的な、事的なものの見方(認識)ができないのです。

 どうしても動的な、はたらきの「もののけ」の「け」の中に森羅万象を見てしまうのです。永遠に我には涅槃は理解できず、悟り得ない身なのです。
 
 大乗仏教の経典は、初期、中期、後期に分類され、初期に属するものには「般若経」「維摩経」「華厳経」「法華経」「無量寿経」などがあります(華厳の思想 講談社学術文庫 鎌田茂雄著P48)。

 鳩摩羅什というお坊さんは、「中論」「百論」も含めそのほかにも沢山訳しているようです。
 講談社版新シルクロード歴史と人物第4巻は「青き都クチャ キジル石窟と破戒僧・鳩摩羅什」です。映像はNHK、監修平山郁夫先生で執筆は長澤和俊先生です。

 「法華経」は「諸法実相」を説いた経典として有名ですが、長澤先生によると

 諸法実相 生前、鳩摩羅什はこの言葉を好んで使ったという。いっさいをとらわれのないまなざしで見つめよ。そこに真実の姿がある、と。
 鳩摩羅什にとって、真実の自分とはいかなるものであったのだろうか。

と長澤先生は、ここで言葉を止めている。

 もう一つ、長澤先生によると

 鳩摩羅什は、毎朝、弟子たちに講説をするたびに、講述べていたという。「たとえば臭泥のの中に蓮華を生ずるがごとし。ただ蓮華をとりて、臭泥をとることなかれ」
 美しい蓮の花は、悪臭を発する泥土の中に咲きます。あなたがたは、私の泥のような汚れた面をとるのではなく、ただ翻訳の真髄である華の部分だけをおとりなさい。
 破戒僧に貶められた運命を受け入れたあとの、悟りの境地を示す言葉なのかもしれないが、そこはかとなく彼の語りつくせない悲しみが滲みでているように見えてならない。

 と長澤先生は語っています(同上)。

 「諸法実相」という言葉なのですが、この誰でも用いる言葉を私たちに示してくれたのは鳩摩羅什なのです。彼は「般若経」「法華経」「中論」などを漢訳する時に、数種類の原語を自由に達意的に「諸法実相」「実相」と訳したのだそうです(講座 東洋思想5仏教思想Ⅰインド的展開 東京大学出版会 第二節 大乗仏教の無我思想 紀野一義著P112)。

 同書によると、鳩摩羅什が「諸法実相」と原語ですが、この原語が何であるかを体系的に研究されたのは中村元博士で博士で、挙げられた言語は、「ダルマター、ブータ、サルヴァ・ダルマ・タタター、ダルマ・スヴァバーヴァ、プラクリティ、タットヴァスヤ・ラクシャナ」の六種類になるそうです。紀野先生によると

 第一の「ダルマター」は、「法性」「法相」とも訳し「法であること」つまり、法が法として成立している所以を指している。竜樹は「大智度論」の中で「釈していわく、法性とは諸侯実相なり。」といっているから、「法性」と「諸法実相」は同じ意味の言葉であることが分かる。そして、法が法として成立するのは、存在するものが相依相関の関係で時間的にも空間的にも無限にひろがって行くからである。これは「縁起」であるから、「諸法実相」は「縁起」の別名でもある。
 次の「サルヴァ・ダルマ・タタター」は、「すべての法がかくのごとく成立していること」である。従って「法性」と同義である。
 次の「「ブータ」は「ブータ・コーティ」(実際)と同義であると見てよいが、「大智度論」によれば、
 実際とは、先に説けるがごとく、法性を名づけて実となし、入処を名づけて際となす。
のであるから、この語も「法性」と同義である。
次の「ダルマ・スヴァバーヴァ」は「法の自性」の意で、これまた「法性」と同義である。
「プラクリティ」(自性)についても、「法の自性」は「中論」に対する月称の注釈によれば「法性」と同義だといわれている。
 次の「タットヴァスヤ・ラクシャナ」は、「それたることの相」の意で、それがそれとして、つまり、存在が存在として成立していることの如実相である。これもまた「縁起」の理法を意味しているのである。
 以上の六つの原語がすべて「縁起」と同義語であることを示したのであるが、第五の原語「プラクリティ」の用例については、中村博士のあげられた用例のほかに「法華経」の「方便品」の次のような面白い例がある
 この法のありようは常に相続し、
 法性または常に明らかである。
 至高の仏はこれを知り、
 この一乗を説くであろう。
 これを第102偈で、鳩摩羅什はこれを「諸仏両足尊、知性常無性、仏種従縁起、是故説一乗」と訳している。「仏種従縁起」の語はやや理解しにくいが、「縁起」の思想を言おうとしていることは疑いないのである。

ということです(同書P113・4)。

 鳩摩羅什の漢訳経典は、7世紀に玄奘三蔵による翻訳が行われてから、「旧訳」と呼ばれるようになりました。
 仏教用語には、いまも「旧訳」の用語が用いられることが多く「観世音」「舎利弗」「涅槃」がその言葉です。
        いっていることが理解できましたら押してください。
 今日の写真は、上記の講談社版から切り取りました。このDVDは最高にお勧めです。


穂高川

2008å¹´07月19æ—¥ | ä»æ•™

 聞きなれた川の流れの水音(みなおと)。サラサラでもなく大王橋の穂高川はそれなりの急流の水音を奏でる。

 一級河川の清流に朝陽が当たる。キラキラと輝き昼間の暑さは今はない。肌寒ささえ感ずる。

 科学的な現象で映し出され、生成されるその森羅万象であるが、どうしてこんなに心落ち着くのだろうか。

 日々の生活が喧騒の中にあるでもなく、また静けさを求めているわけでもないが、今この刹那は心静まる原風景にある。

 老子の「無」はどこまでも何もない無であり、それは虚無の深淵になるが、仏教の「空」はからっぽではなくて、からっぽのなかから無限のエネルギーが生まれてくる・・・・(講談社学術文庫 天台思想入門 鎌田茂雄著 P56)

 日本神話では、「そら(空)」は「からっぽ」ではあるが、久方(ひさかた)の遙か遠くには濃密な「あま(天)」がある。あま(天)からは、あめ(雨)が降り、川となり、あま(海)へと流れる。

 「何もの」かが織り成す原風景。そこから心地よさがただよう。

          


今年のオクラ

2008å¹´07月15æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜
 オクラという野菜、今は九州産が中心に出回っている。

  ハウスものならば、一年中あるが、やはり我が家の手作りオクラが最高である。

 昨年はよりも今年は、数を増やした。

 毎日食べ、秋ごろまで十分という量を計算して植えた。

 今朝も順調に、しっかり成長している。
 

維摩の一黙、響き雷鳴の如し

2008å¹´07月13æ—¥ | ä»æ•™
 昨日は、仏教哲学者の鈴木大拙先生の命日でしたので、時間が無く今日掲出することにしました。

 読み進めている本の中に一冊に鎌田茂雄先生の書籍がありその中で鈴木先生の思考の世界について興味深い話を知っり、それが命日の前日でした。

 「不二法門」と維摩の沈黙については前にも掲出していますが、文殊師利がぎりぎりの答えを出し、最後に維摩に質問する。「私たちはみな、自分の考えを話しました。今度はあなたの番です。不二法門に入るにはどうしたらよいですか」と。固唾をのんで待つ菩薩。これに対し維摩は黙然として答えない。

 この一連の流れにおいて、「維摩の一黙、響き雷鳴の如し」をどのように捉えるか、について鎌田茂雄先生の「華厳の思想 講談社学術文庫」に、鈴木先生の維摩の沈黙について次のように書かかれていました。
 維摩の一黙を、沈黙の意味に理解してはならないことを鈴木大拙博士はつぎのように言う。
普通には維摩の一黙をしの黙にのところに解(げ)すのであるが、自分の考へではさうでない。この一黙は、不言不説ではなく、凝然不動でなくてはならぬ。黙を言説のの上に見ようとするのは浅い、印度流である黙のうちに維摩その人を見なくてはならぬ。黙の中に維摩は跳ってゐるのである。骨を父に還し、肉を母に還して、然る後、その本身を現じて、父母のために、真実の法、不二の法門を説く那咤太子その人がここにも拝まれなくてはならぬ。維摩はここで南無阿弥陀仏の体を示してゐるのである。それ故、文殊はこの一黙の上にこの体を看取しなければならぬ。維摩の黙は維摩拠坐(きょざ)である。(『鈴木大拙全集』第十五巻、三八一ページ。)
 世界的な禅学者である鈴木大拙博士の理解は、ふつうの仏教学者と見方が違う維摩の黙をけっして沈黙から見ることをしない。維摩の黙ではなく、維摩即ち黙であるという。維摩の外に黙があるのではなく、また黙を離れて維摩を見るわけにもゆかぬという。黙と維摩とは同一事実であり、文殊の面前にはただ黙が坐しているだけにすぎない。
 維摩が文殊の面前に拠坐しているということは、その居場処を離れず、そのままじっとしていることだ。具体的で、現実的で、絶対性を持ったものがそこにある。もっとも絶対的なものは、もっとも現実的でなければならぬ。

またまた思考の視点が揺らぐ。

 「沈黙」というとみている私があり、「黙」というと「黙」を維摩の身にある働に、私はみなければならない。そのように理解するのですが、それにしても深さのある視点は限がないように思う。

 今日の写真は、松尾寺の水車小屋と紫陽花である。水車の水音に小鳥の声、静寂の中の自然の形像である。
                               

身を鴻毛の軽きにおく

2008å¹´07月07æ—¥ | ä»æ•™
 「自分が自分で自分を自分する」
 というこの言葉は、沢木興道老師の口ぐせであったことを無量寺の青山俊董先生から教えてもらいましたが、もう一つ沢木老師の言葉に
 「仏法とは此方(こちら)の目や耳や頭をかえることじゃ」
 という言葉もあることを知りました。

 此方とは「わたし」のことで、私の持ち物である心の視点を変えるということを意味していると思います。
 いわゆる心のもちようでものの見方も変わるということだと思うのです。
 
 今日の写真は、剣道大会の写真です。
 昨年も観にいったのですが、きのうは青少年育成剣道大会がありました。
  今日はその剣道大会で思ったことについて書きたいと思います。

 剣道にも関係するのですが、漢文によく出てくる言葉で「身を鴻毛の軽きにおく」という言葉があります。この言葉は、太平洋戦争中は「特攻隊」の精神のイメージが強く、また、この言葉の使用法を誤り失敗した政治家もあり最近ではあまりイメージのよくない言葉になっているような気がします。

 剣というと最近ではナイフと同様に「持凶器」のイメージが強く、言葉を変えると「凶器不祥」というイメージが強くなってしまいました。
 しかし、剣といっても剣道の剣は、剣道にみるように「礼に始まり、礼に終わる」精神修養の道であり、「身(み)」というものの「あるべき姿」を作り出すものだと思います。

 剣道の流派には「直心、神道、無敵、無念、天心・・・」などの名称があり大森曹玄先生は、「剣と禅」(春秋社)の中でこのような流派の名称には、

 「勝敗の両頭を超越し、人間本来の根源的な主体を剣のはたらきの上に発露して、自在を得ようとするのが剣の道というものであります。逆にいえば、剣の作用を凝視して、そこにそこに流れ出てくる人間という、その未知なるものをつかもうとする道であるといってもよいと思います。剣の道は殺し合いの術ではなくて、実に人間の道なのであります。ここに本質的に剣と禅とが一如なる理由があるのであって、かならずしも剣の妙を得るために禅の力を借りることを禅剣一致というのではないと思います。」

 と語っています。

 今日のブログは「身を鴻毛の軽きにおく」という言葉を主題にしたいのですが、現在の剣道はどうしても思考の世界に二元的な志向性の視点を持ってしまい、「心の自在」「無心」などの中に「身体」から出(いず)る無我の作用、動作に惹かれていると思います。

 あるべき姿は、そうではないと思います。「身(み)」というときの「み」は、やまと言葉です。
 植物になる「実(み)」と同じ言葉です。もの的(やまと言葉のもつ動作、作用、はたらきの視点で言葉にすること)に思考すると「み」とは「結実なるもの」を意味します。
 意味といっても「はたらき」ですので動詞的にとらえることをいっています。

 表現が分かり難いというか、どうしても自己満足的な表現になってしまうのですが、沢木老師のいう「私」「此方」が「結実なるもの」のはたらきを表していると思うのです。
 ところが二元的な世界でみてしまうと「重み」「厚み」の無い私で、自在に、事態に対応し、変化する姿に見えてしまいます。

 しかし、結実なる「私」「此方」は、「重みのある」「厚みのある」はたらきのうちにあるものだと思うのです。正義を決する私は、不動なる結実した私でありながら鴻毛の軽き動きを示し、事象に対し「自在」に対応できる。
 「身を鴻毛の軽きにおく」が「命を鴻毛の軽きにする」になるとき、それを美とする思考は、超越的なものに絶対性をおく二元的な思考のあらわれです。

 豆剣士の姿をみながら思いました。