思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

そっちょく・すなお【素直】な話し

2015å¹´06月29æ—¥ | ã“とば

 最近の世の中の動きを色々と自分なりに考え、自分の意見を持とうと思うのですが意見の間(はざま)といいましょうか、どうしてもどちらかに身を置く意決断に立たされてしまう事態が多いように思います。

 将来を見据えると危険な状態が迫りつつある、あの忌まわしい過去が蘇る可能性が大きい、そういう事態にどうもあるようです。

「そっちょくな意見」「すなおな意見」

「そっちょく」という言葉と「すなお」という言葉があります。

漢字で書くと「率直」という二文字になるようですが、辞書(Goo辞典)をみると、

<そっ‐ちょく【率直】>
[名・形動]ありのままで隠すところがないこと。また、そのさま。「―に言えば」「―な意見を求める」
[補説]「卒直」と書くこともある。
[派生]そっちょくさ[名]

<す‐なお〔‐なほ〕【素直】> 
[形動][文][ナリ]
1 ありのままで、飾り気のないさま。素朴。
「―なる山家(やまが)育ちのたのもしき所見えて」〈露伴・風流仏〉
2 性質・態度などが、穏やかでひねくれていないさま。従順。「―な性格」「―に答える」
3 物の形などが、まっすぐで、ねじ曲がっていないさま。「―な髪の毛」
4 技芸などにくせのないさま。「―な字を書く」
5 物事が支障なく、すんなり進行するさま。

と書かれていて、個人的にもこの意味解釈がに納得する。

「自がでているのはどちらのことを言うのか?」

「自分が出ている」

「我が出ている」

自(おのずか)らの自分が出ている。

自(み)ずからの自分が出ている。

意識してなのか、それとも無意識の内に・・・それは出ているのか。

私というものは、嫌な癖がある。薫習のなせる業(わざ)なのか。

私というものは、どのような染まり方に生きてきたのか。

 私というものは、他者と自己の間にあって第三者の視線で審級の主になっているようなもので、どう高みに登ろうとしたところで、結局は結論を出さない生き方の方を選び、烏合の集団の中に、それとも遠く離れた山麓の庵で残りの人生をまっとうした方が無難なようにも思える。

 「まっとう」

 この言葉は、船が風を受け真っ直ぐに進むことが語源であったことを思い出す。

 世の中の風

 その吹き方を解釈しているのが自分であることに気づく。

 カントリー・ロード

 田舎道を歩くと風に当る。

 気圧の高低によって・・・吹くのでしょう。

 ここまで来当て早朝のお勤めといいましょうか薬師堂への巡り。今朝は気温は低くほど良い風に当りました。

 何という本に書かれていたか忘れましたが、ある試験問題に「ナス」の写真が掲載され「これは何?」という問題が出て、「茄子(なすび)」と書いたら「茄(なす)」が正解で{×」バッテンになったというはなし。教師は一般的には「茄」が正解で・・・ということらしい。しかし茄子を書いたその生徒の母親はいつも「ナス」のことを「茄子」と呼んでいたそうで・・・そう書いただけの話。

 茄子は茄の語源

 「ナスビ」の「ビ」が取れて「ナス」になったようです。

 今は「ナス」が正しいかも知れませんが「バッテン」はないでしょうと思のは普通でしょうか。

 あくまでも試験問題は一般的を選ぶべきなのでしょうか。

 「そっちょく」「すなお」

どちらかという結論は今の私には現れてこない。正直な話し・・・です。


地貌(ちぼう)

2015å¹´06月27æ—¥ | ã“とば

 季語の関係した本を色々読んでいたところ「地貌(ちぼう)」という言葉に出遭いました。辞書を引いても出ていない作者の自作の言葉です。

 「ことばには貌(かお)がある。」

 「貌」は、「ボウ・バク・かたち・かたどる」とよむことばで、形(かたち)、模(かたど)る、象(かたど)と書けばその意するところは見えてきます。

 「顔形(かおかたち)」を「顔貌(かおかたち)」とも書くことができるようで、

 「形貌(けいぼう)」は、「すがた。かおかたち。容姿。」を意味します。

 「地貌」の作者は、次のように語っているのです。

 言葉には、貌(かお)がある。そのことばが使われている土地の貌がことばに映し出されている。私はそれを「地貌」の言葉と呼んでいる。

と。私なりに説明すると、共通語をその土地だけで意味を共有できる音韻の言葉にするのとは異なり、その土地で起きる自然現象が、その土地のその場に生きる人々にだけ解せるもので、その現象の到来がその土地に住む人々の季節の到来を告げる挨拶言葉になるようなそのような言葉になっている、そのことを地貌と言っているように思います。

 「土地の貌がことばに映し出されている。」

 酷寒の地に住む人々が「しばれる」という時、そこには確かにその土地の貌が映し出されています。

 その土地だけで意味が解せる言葉を「方言」といいます。goo辞典によると、

「方言」

1 一定の地域社会に行われる言語。一つの国語が地域によって別々な発達をなし、音韻・文法・語彙(ごい)などの上で相違のあるいくつかの言語圏に分かれたとき、それぞれの地域の言語体系をいう。九州方言、琉球方言など。

2 共通語・標準語に対して、ある地方で用いられる特有の言葉。俚言(りげん)。

3 特定の階層に用いられる独自の言葉。隠語・俗語の類。

方言も土地の貌が映し出されているものであり方言を聴きに「なつかしさ」を生じるならばまさにがその土地の地貌に触れたのでしょう。

 「木の根明く」
 
 「根明き」

という言葉があります。雪深き信州の小谷村ではこの言葉が春到来のあいさつの言葉となり、雪深い地方には共通して季語となっているようです。

 春の陽気で雪が融けはじめ、木々の根本だけが先に雪融けが進み、樹の根本の土が輪のように現れることを「根明き」などというのだそうですが、まさに「土地の貌がことばに映し出されている。」のです。

 「土地」

 空間的には限定的な地域を示していますが、この「土地」という言葉を違う言葉に変えてみるとなかなか面白い。

 「集団的自衛権」「個別的自衛権」

 この言葉の映し出されているものは何か。

 解するこちら側はいったい何処に居るのだろうか。

 「戦争は絶対にしない。」

 という言明にともなう行動は、そうならないための仮想敵の説得が主であって「希(こ)い願い」の言明がなければならない。

 仮想敵の代表に「希い願い」をしているか。

 仮想敵国に出向き「希い願い」をしている集団を見たことはなく、内輪の論争に明けくれています。

 集団の貌がことばに映し出されている。

 妙な刷り込みが、妙な染め込みが見えてなりません。

 「親(うや)のゆし事(ぐとぅ)や 肝(ちむ)に染(す)みり」

 子は親になり子を育てるようになる。

 妙な生き方は、奇妙な生き方に代わるとき現れる。

 その奇妙さにおのずから気づくのはなかなか難しい。


肝(ちむ)に染(す)みり

2015å¹´06月25æ—¥ | ã“とば

 戦後70年、NHKでは先週は沖縄特集の番組を放送していましたが、その中で音楽番組の「SONGS」で「さんご~母から子へ 伝えたい沖縄の心~」と題しKiroroのお二人とそこに沖縄のバンドHYの仲宗根泉さんが加わり子育てユニットの美しい歌声が紹介されていました。

 そこには沖縄の人々が歩んだ戦中戦後の経験の中から子どもたちは伝えるべき思いのこもった歌がありました。

 番組の半ばに「でいご娘」の四人姉妹が登場し子育てユニットと四姉妹で沖縄民謡「てぃんさぐぬ花」という歌が唄われました。

 その中の歌詞に「親の言うことをよく聴きなさい」という内容の詞がありました。


(NHK「SONGS」から)※とてもいい番組でした。


実際は、

「うやのゆしぐとぅや ちむにすみり」

と唄われ、漢字交じりで書くと、

「親(うや)のゆし事(ぐとぅ)や 肝(ちむ)に染(す)みり」

となるようで、意味するところは、

「親の言う事は 心に止めなさい」

と先ほど私が最初に書いたように「親の言う事を聴きなさい」という話になるのですが、

「肝(ちむ)に染(す)みり」

であると知ると、「聴きなさい」などという表現を使うことが如何にその意を得ていないかがよくわかります。

 染色の「染(そ)める」

 肝(きも)

以前ブログで「心はどこにあるか」ということに言及しましたが懐(ふところ)の心底にある肝が出てきましたがやはり日本人の心はそこが肝心な場所なのですね。

 そこを染めなさい。

何とも心に染(し)みる「肝(ちむ)に染(す)みり」です。

 政治家は何か特別な「染み(シミ)」があるようで、真民(まことのたみ)との心の隔たりを思いました。


唱和の意味するところ

2015å¹´06月19æ—¥ | ã“とば

 早朝の山麓の小寺、聞えてくるのは野鳥の声や木々の風により揺れる梢枝の触れる音や葉がすれ合う音、安曇野の有明宮城の山では盛んにキツツキの樹を叩く音をよく聴きます。

 早朝の寺参りに経を唱えるのですが、そこに「和」を付け「唱和する」と表現するとき、そこに「問われる」機会を頂く。単独の唱であって「和」があるのだろうかと。

 われ独りの声音が山麓の木々の中や薬師堂に溶け込んでいく。

 ウグイスの法華経が我が声に立ち去ることもなく、静かに時は刻みます。

 「和する」とはこういうことではないだろうか。

 時は静かに刻む。

 「時は流れない」などと我をそこに留めはしない、全てが鳴(な)るがままに刻むだけです。

 少し離れた有明神社の近くにある無住の正福寺では小型の釣り鐘がわが声に唸(うな)ることがあります。

 「ウォン、ウォン・・・」

 声の周波数が、鐘の固有の振動数と重なるのでしょう。

 「唱和」

 そこに「何」を感じるか、固有の振動数の現われをみるなばそれは教えなのでしょうね。

 経は経であってまた教・・・なのでしょう。


哲学の動機

2015å¹´06月16æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜

「哲学の動機は驚きである」と古代ギリシャの哲学者は語り、西田幾多郎先生は、「

 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。

と語っています。(旧版西田哲学全集第六巻「場所の自己限定としての意識作用」p116)

 最近この言葉がまた私の頭をよぎります。2年ほど前のNHK放送された「日本人は何を考えてきたのか(昭和編)」で扱われた「近代を超えて 西田幾多郎と京都学派」の第1回にこの言葉が登場し、西田先生の壮絶な人生から生まれた言葉に私の思考の世界も重なっているように見えた。

 その後「哀しみ」や「悩み」を思想の糧とするような事態もなく淡々と時の中に埋没していたところ、「なぜこのような事態に遭遇するのであろうか」という事態が起こりはじめ、西田先生のこの言葉が浮かんできたのです。

 毎年信濃教育会の生涯学習教室で、西田哲学の講義を聞くことになっていますが今年は昨年に続き藤田正勝先生の「純粋経験」の話ということを知り、藤田先生の名が田辺元著『種の論理』(岩波文庫・藤田正勝編)から引用するブックマークブログに登場し、その偶然性の中に上記の言葉を思い出す何かが発動し始めたようです。

 まず「人生」という言葉で、「人生は宝である」と語ったV・E・フランクルを思い出します。過去は確かであるが未来は不確定であり確かな過去にこそ今現在の精神的無意識の根底にある意味器官が、苦悩する存在に意味転回を図る機会を直面させ「人生には生きる意味がある」との認識を得る機会が必ずやある、との一つの哲学がそこにはあり、西田先生の「深い人生の悲哀」も壮絶な過去がもたらす言葉に思うのです。

 「人生」という言葉を考えるとき、自分の過去をふり返るとともに未来を見つめて感慨にふける。まさにしみじみとした気分の内に身を置いています。

 私の人生は何だったんだろう。

 切実な問いが我が身に起きるとこの「人生」という言葉が現われてくる。

 西田先生が「深い人生の悲哀」という表現をされているところに半端ではない極限の事態がそこにあったことがわかる。だからといって過ぎ去れば拒否することはできないわけであり、事態は常に善し悪しに関係なく起り続けるのであって、そのような場に人間は置かれていることに気づく。

 どこまでもどこまでも鼓動を産み出す身体(からだ)

 室山の池の蓮華を見つめると、その可憐な姿の中に美の存在の力を感じる。

 
 
 

 なぜにこんなに美しいのか。

 自然の美

 そのように表現し語るのは人のもつ感覚器官がそのように作られているわけで蓮華自身、同居する鯉もそうは感じ思うわけもなく淡々としている。

 

 人間の鼓動は産み出す。

 人間の生の意味

 進化の過程を問うことはある意味、「人間の生の意味」を問うているように聴こえる。


室山池に睡蓮が花ひらく

2015å¹´06月14æ—¥ | é¢¨æ™¯

 今年も安曇野市の西部に位置する室山地区にある池に睡蓮(スイレン)がその可憐な姿を見せています。

 

 睡蓮は、古代エジプトの高貴な花としてされ、極楽浄土の花の蓮(ハス)は、7月ごろさきその花の姿は仏の台座のように何か神聖なものを感じさせる。

 

 

 金曜日の新聞に写真入りで報じられたので、昨日土曜日の昼頃に人出があるかと思って出かけたところ、さほど観賞者は来ていませんでした。

 
 
 
 


気配の話

2015å¹´06月11æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜

 超常現象を定義すれば長い文章になってしまうので、不思議な現象について今回は書いてみようと思います。早朝5時頃に私は近くにある寺の薬師堂の前に居ます。静まりかえった静寂の中に居る場合もありますが、鳥の声や風の音などのバックグランドミュージックが周辺から聞こえる場合もあります。

 手を合わせ経を読む、薬師堂や周辺の木々の中に唱和の声は吸い込まれていきます。

 全ては私がそう思う、感じることなのですが時々背後に人の気配を感じることがあります。

 人の気配とは何か。

 そばに人がいると、気配がある。生暖かい感覚のようでもあり、薄い網をかけられたようでもあり・・・とにかく気配なのです。

 唱和の最中は振り向くことはありませんが、ことが済んで背後を見ても周辺を見ても誰もいません。

 今朝はあるブログを見ていると「霊感」について語っていました。

 霊感となると超常現象の類に入りそうですが、私の場合は単なる気配感でこれまでも同じようなことが数限りなく経験しているので「気配」ということについては、不思議さはなく当然に怖さもない。

 「気配」

 ある程度その人間の人間性を知ると、気配プンプン・・・気配を撒き散らす人がいます。

 場の雰囲気を壊す。

 今の私の第二の職場の隣りに席する66歳の男性はこの気配が尋常ではない。

 極端な話し、酸欠状態になりそうな気配を放ちます。

 あくまでも私的な感覚の話を書いているのですが、一旦ここで切り、寺へと向かいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 30分余りの朝のお勤めというよりも誓願と歩き三昧

 今朝は気配なく、お堂の周りを一周する姜に鳥肌が立ちました。5m先にはお墓群、・・・何事も見ることなく鳥の声も少なく静寂に近い感じでした。真言宗の寺ですので、空海さんのお堂もお参りし、慈母観音にも手を合わせ帰路へ・・・。

 自宅に着く直前昭和13年生まれの老人に出遭いました、三才を入れるビクにワラビがいっぱい。朝方よく出会う近所の老人ですが今日はいきなり「将棋をやるかね」と声をかけられました。

 5分ほど会話をしたのですがそのときの話題が「一期一会」の出会いの話。

 世の中にはたくさんのほとがいるが、出会いは唯一、自分も唯一、その接点も唯一。

 気配の話からこのような話になったのですが、今朝の気配は・・・・あったのでしょうか。

 断わっておきますが、私は霊能者ではありません。


NHKスペシャル「生命大躍進」第2集「こうして“母の愛”が生まれた」を見て

2015å¹´06月09æ—¥ | ç§‘å­¦

 NHKスペシャル「生命大躍進」という番組が放送されています。既に第二集まで放送され、つい最近第1集「そして“ç›®”が生まれた」に続いて第2集「こうして“母の愛”が生まれた」が放送されていました。

 DNA研究はここまで来ているのか。

 5・6万年前にほんのわずかな現生人類の祖先がアフリカ大陸を離れ全世界に広がった事実は、考古学的な研究とともにDNA研究がその解明を可能にしています。

 それよりもはるか昔、3億年前からはじまる進化過程における大躍進、第二集では「なぜ人間は、かくも強い親子愛で結ばれるようになったのか?」というテーマを中心に語られていました。

 卵生から胎盤を持つ生き物として、そこにはウイルス感染によるDNAへの侵入、そこに現れてくるのは他人的な存在である我が子を身ごもる不思議な胎盤の機能があるようです。

 身ごもるとは異物を体内に取り込んでいるようなもの、そこのも「愛」の芽生えがあり、それ以前の卵生から胎生への進化過程における母乳の元型的な物質の存在(母乳の誕生)にも「愛」の芽生えがあるのですから進化とは本当に不思議な現象です。

 汗が卵を雑菌から守る機能に変化しそれが栄養分をもつ物質に変化、「子を守ろうという機能」即ち殺菌物質リゾチームがDNA内に作られたという事実・・・。

「なぜ人間は、かくも強い親子愛で結ばれるようになったのか? 実は太古に起きたDNAの大事件で、母の愛が芽生えたことが明らかに」

と番組紹介が語るように、知るということによって何か壮大な感覚をもちます。

 個人的には「異物でもある子を身ごもる」という言葉に、前回に引用した、

「世界はたくさん、人類はみな他人」

を思い出します。

 親子といえども体内においては胎児は異物的な存在、しかし生命の継承はこれがなければ今日のわが身体はないのですから、その意味するところはいかに深いものか。

 「“母の愛情”の意外な起源」

 その根源性においては母親の愛ばかりではなく「愛」そのものが感性の育成に重要な役割も担っていることをも示しているのではないかと思うのです。

 日曜日に放送された番組を早朝から見ての感想です。


映画「アラヤシキの住人たち」を見てきました。

2015å¹´06月08æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜

 (見出しの写真は映画「アラヤシキの住人たち」から引用しました。)

 6月7日(日)の昨日、安曇野市は安曇野マラソンが開催され、市内は交通規制が実施されました。松本市の県の森では地元出身者の社会学者の大澤真幸先生の講演会がありで、マラソン好きで思考好きな私はどれかを選択するところですが、松本市のお隣の山形村にあるアイシティシネマに養父と午前9時ころには安曇野市有明山麓の自宅を出発昨日(6日)から同月19日までの期間限定で上映されるブログでもこれまで取り上げている本橋成一監督の製作ドキュメンタリー映画「アラヤシキの住人たち」を見に行きました。

 監督の舞台挨拶あり真木共働学舎の宮嶋信挨拶あり、短時間でしたが宮嶋さんとお話することもできました。

 あなたという人は地球始まって以来、絶対いなかったはずです。
 あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはずだなんです。
 わたくしはそう思っています。

 雪山の道を歩く共働学舎の人々の荷物を背負子(しょいこ)に乗せ運ぶ姿が鳥の音、沢の水音の響く中映し出され映画が始まりました。そして上記の宮嶋さんのお父さん宮嶋眞一郎の言葉が文章で静かに流れます。

前回のブログにもこの映画の副題的な言葉になっている

 「世界はたくさん、人類はみな他人」

という言葉に一瞬首をかしげますが、よくよく考えると絶対真の響きを持ちます。

 本橋監督は「アラヤシキの住人たち」小雑誌の中で次のように語っています。

 かつてテレビで「世界は一家、人類はみな兄弟」というCMが流行しました。そのときは「いいこと言うなあ」ともったけれど、仕事で外国に行くとことが多くなってわかった野は、風土も宗教も言葉も食べるものも違う人たちが「みな兄弟」なわけがない。大切なのは、自分と違う相手を認めること。「世界はたくさん、人類はみな他人」だったのです。

この宮嶋さんの言葉に心底納得。

 多様性、多様性の社会と語る一方で、一律的な社会観、倫理観、道徳観を要請され、危機的な状況にある日本はこうなければならないという”正義 ”観が強いられる。

 そう要請する人々は「世界は一家、人類はみな兄弟」と叫んでいた人々と同類ではなかったか。

 「人類はみな兄弟」と思っていたが、違う人もいるようだ。そういう人たちが我々の生命身体を侵害する行動に出る可能性大と方向転回をする。そもそも兄弟喧嘩があり、最悪な事態になるケースも山ほどある。

 そもそも寂しい言葉に聞えるが親兄弟でも「人類はみな他人」であること、そのベースにある事実に驚くべきであろう。親兄弟ならばその不思議な縁(えにし)を体感する育ちがあるべきであろう、そうあればこそ他人以上の何ものかがその関係性意識にあるのではないか。

 前回ブログで「アラヤシキ」が「阿頼耶識」に私には思えると書きましたが、上記のこの映画の小雑誌には哲学者の内山節先生の「何事もない世界」というこの映画によせる文章が掲載されていて、内山先生も私と同じように唯識の「阿頼耶識」を思ったようです。

 独自の創造的な自己実現に向かう衝動から生ずる力に身をゆだねるのならば「自己実現」という言葉も下品には聞えないが、内山先生も語るが、どうも現代社会は「有る事」(有事)を前提に物事を考え、今ある無事を停滞とみなし、発展や成長を求め自然のありようからかけ離れ、競争や自己実現を下品に語っているように思います。

「お前も私も自然の創造物にすぎない。たんなる創造物がいかにして、他の創造物より上に立って、その価値判断をくだせるのか。」

『荘子』人間世篇第四にはこんな言葉が出てくる。独自の創造的な自己実現に向かう衝動から生ずる力は、各人は何か他人と異なるから、自分自身の固有の何ごとかを成しとげる存在であるのだろう。

独来独去(独り来たり 独り去り)
無一隋者(いつの随う者なし)

という言葉が無量寿経にあります。

そしてこんな言葉続く、

身自当之(しんじとうし):身自(みずか)らこれにあたる。
無有代者(むうだいしゃ):代わる者あることなし。

僧侶で教育者出会った東井義雄先生が、

 「みんな人間は、自分の荷物はどんなに重くても辛くても、自分で背負って生きるしかないんです。この言葉については、最近教えられたんですが、「代わる者あることなし」ということと、「代わる者なし」ということとは違うんだそうですね。「代わる者なし」ですと、たまたま、そのとき「代わる者がいなかった」という程度のことですけども、「代わる者あることなし」は、いつまで待っていても、どこへ行って探しても「代わる者が金輪際ない」ということです。親でも子どもに代わって生きてやることはできない。仏さんでも代わって生きてくださることができない。独りぼっちなんですね。これは教育を考える上でも、宗教の上でも、ずーっと私を貫く大事な考え方になってくれました。いま思いますと、漢文の先生の宿題は、如来さまのお手回しであったんじゃないか、と思われてならんわけです。」

と、私というひとりの人間の存在について「代わる者あることなし」を教育の上でもとても大切であることを強調されていました。その言葉を思い出し、

 冒頭に紹介した、映画「アラヤシキの住人たち」の最初に出てくる、宮嶋誠さんの父で共働学舎創設者宮嶋眞一郎の言葉、

 あなたという人は地球始まって以来、絶対いなかったはずです。
 あなたという人は地球が滅びるまで出てこないはずだなんです。
 わたくしはそう思っています。

が意味深くとても重要な言葉なのかがわかります。

 私がとやかく語るよりも、是非見て頂きたい映画です。

 最後に、南小谷真木地籍、共働学舎の方々が今は誰も訪れないかつてそこに住んでいた人たちのご先祖のお墓の草刈りをしていました。

 真木に小学校の同級生がいて既にその方は亡くなっていますが、養父は感動していました。


現代人の「もの」忘れ

2015å¹´06月06æ—¥ | éƒ·åœŸ

 長野県北安曇郡小谷村の真木地区にある「真木共働学舎」を舞台にした本橋成一監督の映ドキュメンタリー映画「アラヤシキの住人たち」を観たいと思っていたところ明日6日から山形村にある映画館で上映されるとの情報を受け、さっそく明日養父と観に行くことにしました。

 養父は小谷村の出身で昭和2年生まれ真木地籍には小学校の同級生もいて、「真木共働学舎」の話をしたところ、この共働学舎の写真集を持っていて、聞くと飯田市に就職している娘が「おじいちゃんが小谷村の出身だから」と偶然書店でこの写真集を発見しプレゼントしたものとのこと、私はこの共働学舎のコミュニティーの特徴点に興味を抱いて小谷村を抜きに注目していたのですが、まぁ偶然といいますか縁ですんねぇ。

 「アラヤシキ」というと養父は「新屋敷」を漢字に訳したイメージで話は進みますが、私はどうしても唯識の「阿頼耶識」という言葉が出てきます。

 深層心理学的な世界をも取り込んだ人間の根源的なもの、自体の底なき根源性、生の根源性を探究する思考が私を支配します。

 それぞれに個々に環世界を生きる人間、近代的な平等感で違いを是正し平均化された人間像が理想とされ、そこからこぼれる人間は落伍者であり、社会性なき人間のレッテルが張られる。

 平均値の倫理、道徳感からはみ出る反社会的な破壊者とは異なり互いの違いの範囲を十分に理解し合うことのできる人々がそこにいるに違いない。人の話しや本で知るのみですが私はそんな人々のような気がします。

 現代人の忘れもの、物質文化に翻弄され本当の「もの」忘れに至っているのではないか。

 宇宙白熱教室の再放送が始まりましたが、ビックバーンから現存在の宇宙構造まで「ある」ことの不思議さに再度驚きます。

 共存するのは共存すべき構造として空間に現れているに違いなく、そこに粒子の衝突があるから人間存在には争いがあり片方の消滅や吸収が社会構造の中に現れるのか。

 小規模か大規模か、地方か国家か。

 違いの現れは何を意味するのか。

 発生と消滅の繰り返しだが、拡大し続ける意味は何か。

 地方消滅が叫ばれる中で、細々だが地方はあり続けます。

 先週に引き続き養父と小谷村に出かけました。

 

 途次国道に設置されている気温12度の電光掲示板の表示に寒さが一段と伝わってきました。小雨の天気でしたが、木々の青さがとても美しく感じられました。