思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

裁判員制度について~ある検事と死刑因の44年~から

2010å¹´05月31æ—¥ | å®—æ•™

 私は、裁判員制度に反対するものです。これまでにも裁判員制度についてはブログに多く書いてきました。「信仰の自由に思う」もその一つです。
 
 昨年の内閣府の世論調査では、死刑はやむを得ないと答えた人は、85.6%で昭和31年からの調査で最も多い数値になったとのことです。

 昨夜NHK綜合のETV特集で「”死刑裁判の現場”~ある検事と死刑因の44年~」という番組が放映されました。

 元最高検察庁刑事土本武司氏の44年前の強盗殺人の被告人への求刑と判決での「死刑」、その後の死刑因との手紙のやり取りから、果たしてこの死刑因は死刑に処してもいいのであろうか、との悔悟の姿を追う内容でした。

 裁判員制度制度がはじめられ、死刑という刑罰を判断しなければならなくなった現代、死刑に処するという判断において充分な情報を共有し判断されていけるのが、その疑問を提起する番組でした。

 私自身は、そもそも裁判員制度が、愚かな人々によるとんでもない悪制度だという意見を持っています。

 社会制度の立法においての、法益の侵害に対する刑罰の適用は、公務員の手によるものでなければならない、と思っているからです。

 その背景には、人々が、正義、正当性の名において「殺人」という罪を犯すことがあってはならないと思うからです。

 この罪は信仰的な「罪深き」の「罪」ということです。

 死刑制度の意味・目的というテロスを考えるときに、その目的的論議は、教育刑か応報刑の論議が中心に論議されますが、裁判員制度は、「罪深い」という人の本来的な深い部分の問題を冷血的に排除しています。

 今番組は、教育刑の視点からその問題を提起していましたが、この論議は、人の生命の尊さ、生きるという権利、行為者の悔悟などが中心課題で、処する側の負うべき「罪」は度外しにしています。

 今の世の中であるからこそ、この方が論議されるすべき人々の生きる姿ではないかと思うわけです。無宗教主義もそれは個人の自由ですが、その無宗教が果たして本当に人間的なのか、私は疑問でし方がありませんし、そのような人々との、共通善を共有し
できるのかも疑問です。

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ハーバード白熱教室・第9回 「入学資格を議論する」

2010å¹´05月30æ—¥ | å“²å­¦

 久しぶりに「ハーバード白熱教室」をアップすることにしました。はじめにNHKの解説を引用します。

第9回 「入学資格を議論する」
Lecture17 私がなぜ不合格? アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を議論する。サンデル教授は、1996年にシェリル・ホップウッドが起こした訴訟を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールを受験したが、白人女性である彼女は、合格したマイノリティの出願者よりも成績がよかったにも関わらず、不合格となった。サンデル教授は、アファーマティブ・アクションの是非を議論していく。私たちは教育環境の不平等を是正するために、人種を考慮するべきなのか?そのような方法で、奴隷制や人種差別のような歴史的不正を償うべきなのか?人種など多様性を増すという大学側の論理によって、白人を不合格にすることは権利の侵害になるだろうか?

Lecture18 最高のフルートは誰の手に 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの正義論を紹介する。アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと考える。正しい分配をするためには、分配される物の目的を考えなければならないと論じる。最高のフルートは、誰の手に渡るべきだろうか。アリストテレスの答えは、最高のフルート奏者である。すばらしい演奏がなされることが、フルートの目的だからだ。目的から論じることは、正義について考えるには不可欠だ、と言ったアリストテレスの正義論を理解した上で、サンデル教授は再度、アファーマティブ・アクションの是非の議論を振り返る

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今回の講義は、現在アメリカで行われている、大学進学における合否判定基準のアファーマティブ・アクション、差別の是正措置の問題点から論議が進められた。

 過去の過ちに対する償いか、社会の多様性をもたらすものか、富の分配にかかわる重要な問題として論議されました。

 種類が異なる二つの主張

道徳的な対価
正当な期待に対する資格

との間のロールズの引いた区別について論じられ

 ロールズは、分配の正義を道徳的な対価の問題と考えたり、その人間の美徳に従って報いるものだと考えることは誤りである。

と論じている点をから、今回は、「道徳的な対価の問題」が「分配の正義」とどのようなかかわりをもつのかということを、アファーマティブ・アクションという点の問題点を追求することで明らかにしていきます。

 アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)、こんな措置があるのかと驚かされるのですが、アメリカという国の持つ、歴史的差別問題が引き起こした事実が、今日的な論議の中で扱われて、また学生が、積極的に自由に自分の主張ができることに驚かされました。

 大学の進学の合否が、成績のみではなく、人種や宗教の違い、レガシー・アドミッション(自分が入りたい大学に親も通っていた出願者は入学に際して有利に扱われる)、また大学の社会貢献にふさわしい人材育成の見地からその合否が決定される、このアファーマティブ・アクションの支持の論拠は、

1 是正---教育的背景の格差のため
2 償い---過去の過ちのため
3 多様性---教育的経験のため(人種等の違いのある学生と生活する)
     ---社会全体のため(例大学の地域貢献にふさわしい人材教育)

の三点なのですが、実に鮮やかに学生間の論議の中で明らかにされていきます。

、ハーバード大学の過去の入学審査の主張は、

「我々は多様性を重んじる。学術的な優秀さが、ハーバード大学入学審査の唯一の基準であったことは、今までに一度もない」

というものですが、多様性とは都会人、農場出身の少年、バイオリンニスト、画家、フットボール選手、生物学者、歴史家、古典学者を意味し、この多様性のリストに、今では人種と民族が加わってる、とのことなんとも驚きです。

 したがって、優秀な成績を期待できる多数の志願者を審査する際は、人種がプラスに働き、それはアイオワ出身(農村部)であることや、優秀なフットボール選手やピアニストであることと同じことを意味することになります。

 白人と黒人がともに同じ成績ならば黒人のほうが有利ということになるようです。差別された白人が訴訟を起こした例が提示されていましたが、なる程です。

 さらに、多様性の評価は次のように説明されます。

 アイダホの農場の少年は、ボストン出身者にはできない何かを大学にもたらす。
 
 同様に、黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらす。
 
 全学生の教育的経験の質は、それぞれの学生に固有のバックグランドの違いや、ものの見方の違いに負うところも大きい。

というものですが、この論理には、個人の権利の侵害という大きな問題が横たわっています。

 またカントの個人を道具として「利用する」という道徳的に認められない問題にも抵触してきます。

しかし、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)というものは、個人の努力や優秀さ、功績の正当性を一切考慮に入れない事実があるのです。

 前半では、これが、道徳的な対価、分配の正義の問題として論議されていました。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 後半がまたすこぶる面白い。多様性の論拠は、社会の使命、公共の利益の名のもとになされていますが、公共の利益ないし一般的福祉促進するための過程で、明らかに個人の権利の侵害があってもそれを善します。

 そこに多様性の論拠の問題点があるわけで、個人の権利、自分の力が及ぶ範囲の権利の考察が重要になってきます。

 白人であることの事実は、自分では変えようがない事実です。ハーバード大学の場合は、私立ですから自由に求めるべく学生の資格を自由に規定することができます。

 大学が社会的使命を決めそれにふさわしい資格を規定すれば、いかなる権利も侵害していないということになるのですが、これが正しい考え方か、学生にサンデル教授は考察させます。

 歴史的にみると、大学の入学資格で、過去には黒人差別、ユダヤ人差別も、大学の果たす社会的な役割の中で行われ、、原理的には現代と同じように社会的な役割に基づいて行われていました。

 これを学生に論議させています。

 過去には「悪意」的なきめ付けがあったが、現代の選抜の方針が、人間をその機関の社会的使命にとって貴重な存在として尊重されて行われているかぎり許される。アファーマティブ・アクションは支持される、ということになります。

 さらに、次の問題点ですが上記の入学志願者を「利用」という観点からの論議です。この利用は道徳的な対価としての利用ではありません。
 
 ここで分配の正義が道徳的な価値でなされるべきか否かの問題が出てくるわけです。

 ロールズの「正議論」では、分配の正義は、階級や収入、財産、地位、立場であれ道徳的対価の問題であることを否定しています。

ここで「正義」というこの講義の主題が見えてきます。

 「分配の正義」の問題を道徳的な対価---美的な問題殻切り離したよいのであろうかという哲学的な大きな問題が提示されます。

 ロールズが「分配の正義」を道徳的対価から切り離す理由の根底には、平等主義的なもののようであるとサンデル教授は語ります。

 道徳的な問題を脇に置くことで、平等的な視野はかなり広くなります。ロールズの「分配の正義」における正義が明らかにされていくのですが、切り離しの視点は平等とは異なるところにあるようです。

 リバタリアニズムの立場をとる権利中心の理論家達

 平等主義をとる権利中心の理論家達(ロールズそしてこの場合はカントも含む)

は、分配の正義や福祉国家については、意見を異にするものの、「正義」とは、美徳的・道徳的な対価に報いたり、賞賛すべきものと理解するものではない、という点では一致しています。

 全員が平等主義者でないので、平等的な考え方からきていないことは明らかです。しからば「正義」とは何ぞや・・・・ということになります。

 そこには、自由という概念がでてきます。美的・道徳的な対価の考慮は自由から遠のくことを意味すると考えているようです。

 ここで登場するのが、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスです。アリストテレスは、正義を名誉や美徳、真価、道徳的対価に結び付けています。

 ここでアリストテレスの正義をより具体的に説明するために、文頭にあるLecture18 「最高のフルート」に書かれているアリストテレスのフルートの目的性の話がなされます。

アリストテレスの「正義」とは、

 正義とは二つの要素がある。一つは物、もう一つは物が割り与えられた人々だ。

 平等である人々には、平等な物が割り与えられるべきである。

ここでまたしても問題が出てきます。「平等」とは何に関する平等なのか?

 アリストテレスは、それは分配されるものの性質による、と説しています。 フルートを例にとった場合、その性質、音楽を奏でるという目的性によることになります。

 フルートを与えられる人は、奏でるのが一番の者であり、その際の人の選別はにおいての正義については、アリストテレスは「すべての正義は差別を内包する」と説きます。

 フルートを持つにふさわしい美徳を持っていること。その外の方法によることを否定します。地位や階級による分配は許されないということです。

ではその美徳はどこからくるのか、それがフルートの持つ目的性になるのです。

 フルートが、うまく奏でることができる人に使われることが目的であるからということです。

 これは目的を見ることから正義を見るということになるわけで、アリストテレスは、「物事のテロスを考えなければならない」といいます。

 テロスとは「意義・目的・目標」で、目的が明確になってはじめて正義に適った「分配」がなされたということになるわけで、正義に適った差別が可能になるということにもなるわけです。

テロス、目的というものかが逆算して物事を考えることを「目的論的論法・テロス(目的・目標)からの論理」といいます。

 これがアリストテレスの有名な思考法になるわけです。サンデル教授はこの考え方には直観的な説得力があると述べています。

 さらにサンデル教授は、この目的的論法・目的的説明の背景が古代ギリシャの自然観の中で展開されている論理であることを指摘します。

 私もそのように思うのですが、場の論理、説かれる論理がどのような時代で、どのような場でなされているものなのか、それをしっかり理解していないと愚かな論理の転換になってしまいます。

 アリストテレスの論理は直感的には正しいように見えても、現代を考えると少々疑問も出てくるわけです。

 サンデル教授は、この後、「くまのプーさん」の話もされ目的的論法・目的的説明の問題点を説明していきますが、今回の「ハーバード白熱教室」は、さらに「正義」を深化させていきます。

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安曇野のパワースポット

2010å¹´05月30æ—¥ | é¢¨æ™¯

最近パワースポットという言葉を聞きます。特別な力を授けてくれる場所だそうですが、ランニングコースにしている安曇野市穂高宮城にある有明神社にもこのパワースポットがあることが、雑誌に掲載されていました。

 すると最近、休日になると以前は閑散とした神社に、人を見かけることが多くなりました。

 そのパワースポットなのですが、それは直径2.55m・厚さ0.3mで重さ2.5tの寛永通宝のような銭型をした写真の石です。

 字の部分には、「吾唯足知」(鳥居側)、「吉呼員和」(神社側)と書かれています。
 
「吾唯足知(われただたるをしる)」と言う四字熟語は、すぐに臨済宗妙心寺派龍安寺(りょうあんじ)の石庭なある蹲踞(つくばい)を思い出します。

解説によりますと、

 蹲踞は茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石のこと。ここの蹲踞には「吾唯足知」(われ、ただ足るを知る)の4字が刻まれているが、その意味合いから石庭の石が「一度に14個しか見ることができない」ことを「不満に思わず満足する心を持ちなさい」という戒めでもあるといわれる。また水を溜めておくための中央の四角い穴が「吾唯足知」の4つの漢字の「へん」や「つくり」の「口」として共有されているのが見どころであり、そのため一見「五・隹・疋・矢」と読める。

       
 
ということです。次にこの裏面にかかれている「吉呼員和」という熟語です。 解説によると、「きちをよんでかずわす」と読むのだそうで、この字は実は、阿智明け神社の宮司等々力満さんの自作で「この四角(□)をくぐりぬけて、吉運を集めてくださいとのこと」ということを言っているのだそうです。

 この有明神社には、110余年前に、全国から集められた和歌が、神社の社宝として保管されていたのを「残月集」として発刊した記念に建てた碑で、従って日本に一つしかないものです。

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カントの「自然状態にある国家」

2010å¹´05月30æ—¥ | å“²å­¦

 沖縄県も理念無き革命政党の扇動に呼応してか、琉球国に変容しつつあるように見えます。一国の首相に責任を取らすような問題ではなく、多数の国民が自己の幸福実現をすべく、選んだ政府の決定を受忍する義務があるのは自然の法理のように思いますが。

 少数民族の住む土地を、他民族が侵害するとき過去ならば国際法の中での問題になるところ、一国に統治されているときはどう考えたらいいのでしょう。

 前政府とアメリカとの合意は間接的な民意の反映の結果であったものを、その後の民意の変容で、後の政府はこの合意を反故(ほご)にすることにしてしまった。

 それは全てを混乱の中に巻き込むものであることを知らなかった。「愚かでした」という言葉にすり替えられ、元に戻そうにもとき既に遅しでした。

 身内の内閣に全く異なる、勢力を入れたことも大きな失敗だったかも知れません。過去の連立では、闘争課題に係わるような国家レベルの問題は論議することは無かったわけで、政権能力のレベルが問われるわけです。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 今朝は、カントの『永遠平和のために』のなかの「自然状態にある国家」の記述を紹介したいと思います。カントの生きた18世紀の世界秩序、特に国家とはとは何かについてです。

 「ハーバード白熱教室」でも説明された「自然状態」の言葉も出てきます。

◆第二確定条項

国際法は、自由な国家の連合に基礎をおくべきこと
◇自然状態にある国家
 å›½å®¶ã¨ã—てまとまっている民族は、複数の人々のうちの一人の個人のようなものと考えることができる。民族は自然状態においては、すなわち外的な法にしたがっていない状態では、たがいに隣あって存在するだけでも、ほかの民族に害を加えるのである。
 
 ã ã‹ã‚‰ã©ã®æ°‘族も、みずからの安全のために、個人が国家において市民的な体制を構築したのと同じような体制を構築し、そこでみずからの権利が守られるようにすることを、ほかの民族に要求することができるし、要求すべきなのである。

 ãŸã ã—これは国際的な連合であるべきであり、国際的に統一された国際的な国家(フェルカーシュタート)であってはならない。このような国際的な国家は一つの矛盾であろう。どの国家も上位の者すなわち立法者と、下位の者すなわち服従すべき大衆で構成されているものである。もしも多数の民族が一つの国家に統合されるならば、多数の民族が一つの民族になってしまうことになるが、それではこの考察の前提に反することになろう。
 
 ã¨ã„うのはここでわれわれが考察しているのは、諸民族がそれぞれ異なった国家を構成しながらも、単一の国家にまとまっていない状態において、いかにして諸民族を支配すべき法が定められるかということだからである。そのことは人問の原初的な状態を考えてみればわかるだろう。原初的な状態にとどまろうとする人々は、法のない自由にこだわり、みずから法を定めてその法の強制にしたがうよりも、むしろ殴り合いで解決することを好み、理性的な自由よりも愚かしい白由を好むものである。
 
 ã‚ã‚Œã‚ã‚Œã¯ã“うした未開な人々をみると、粗野で、礼儀というものを知らず、人間性を獣の地位に貶(おとし)めるものだと深い軽蔑の念を感じるものだ。この軽裏の念をもって諸民族の問題を考えてみよう。それぞれが一つの国家を形成している開化された諾民族であれば、このような未開の人々と同じような状態からは、できるだけ早く抜けだすことを望むはずである。

 ところが現実にはそれぞれの国家は、国家主権(民族主権というのは変だから、こう表現しよう)を所有しているかどうかを判断する基準を、外的な法による強制にしたがう必要がないことにみいだしているのである。そして国家の元首はみずからの威厳を示すために、自分ではいかなる危険にさらされることもなく、まったく関係のない事柄のために幾千の人々の命を犠牲にするように命じるのである。
 
 ここにヨーロッパとアメリカの未開な部族との大きな違いがある。アメリカでは多くの部族は敵の部族に食い尽くされて滅びてしまった。しかしヨーロッパでは戦いで勝利した部族は、征服した部族を滅ぼしてしまうのではなく、それをしたがわせて臣下の数を増やし、さらに戦争を拡大するための道具の数を増やしたのである。(カント 光文社古典新訳文庫から)

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 この国の政治レベルはどうなっているのでしょう。沖合いの滑走路建設は、シーシェパード並みの、建設業者への攻撃、基材搬送の阻止闘争として座り込み、人垣作戦。当然本土からそれなりの革命家が賛同し阻止闘争に参加するので(既にその状態があるかもしれませんが)、飛翔弾もありえるかもしれません。

 内閣機密費を作業工作資金に大いに活用する時かも知れません。協力者工作、潜入工作、早期に手をつけないと有効な鎮圧手段を行うことができなくなり、第二の成田闘争になるのではと懸念しています。

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夕映禅(ゆうばえぜん)に思う

2010å¹´05月29æ—¥ | ä»æ•™

 最古級の縄文のビーナスが発見されたとのニュース。滋賀県の県文化財保護協会が29日、滋賀県東近江市の相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡で、竪穴建物跡から国内最古級となる縄文時代草創期(約1万3000年前)の土偶1点がほぼ完全な形で見つかったと発表しました。記事によりますと、

 粥見井尻(かゆみいじり)遺跡(三重県明和町)で出土した同時期の2点の土偶と比べ、より写実的に女性の上半身を造形しており、同協会は「縄文人の精神世界を探る手がかりとなる」としている。

 土偶は高さ3・1センチ、最大幅2・7センチ、重さ14・6グラム。腕、足などはなく、体に厚みを持たせ、乳房や腰のくびれを明確に表現している。底は平らに仕上げられ、立たせることができる。草創期の自立する土偶は初めてという。首に小さな穴(直径約3ミリ、深さ約2センチ)がついた突起状の部分があり、頭部を表現したか、別に作られた頭部(未発見)との接合痕とみられる。

とのことです。
 土偶というものが、芸術作品としての存在としてではなく、産や豊饒を祈る地母神崇拝のような土俗的な信仰の家庭に存在していたとする時、信仰の向こう側に見える神的なものは、古代人にとってどのような大いなる感覚をそれを感じ、それを意識していたのか、という興味がわきます。

 類推することはできても事実的なものはその時代に生きる者でない限り、知ることができないこはに当然です。しかし、人間である以上、精神的に多分それに等しい感覚を持ちえることはできるように思います。

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 時代に生きるとは、当然今ならば、今のこの瞬間に生きる人々の歩みの時で、戦国ブームの、幕末ブームにおいてはその時代に生きる人々の生き様ということになります。

 当然宗教もそれぞれの時代において、それぞれの社会情勢の中で変化してその時代の人々を導く形に整う自然のように思います。

 奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教がそのように勃興するのもその流れの中に、それぞれに救いの道を開かんためにあったのであって、その必要の要を見極めることが仏教好きなものにとっては、欠かせない命題のように思います。

 ブログ村の哲学・思想ブログの仏教は、なかなかその点非常に参考になります。哲学ブログもそれなりに面白いのですが、アクセス件数を見ると異常数値とも思えるアクセスに驚かされます。

 アクセスする人が多いということは、それなりに興味がある人が多いということで、今の日本人のそのようなカテゴリーに興味がある人は、それなりの思考が好きなのだということがわかるわけです。

 僧侶の専門の方は別として、哲学も仏教も専門の学者先生は参加していないところがまた大変に興味深いところです。私などもそうなのですが勝手気ままに学者批判をしているのですが、そこもまたネットの世界の楽しいところで、個人的には得ることがたくさんあります。

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 今夜は、何を思考の題材にするか、「ハーバード白熱教室」を最近サボっている(掲出しない)ようになっていますが、決してそういうことではなく、他の思考材料が多いこともあり、サラリーマン時間もなくまとめられないの一語につきます。

 私自身は仏教徒で、曹洞宗が先祖来の家の宗教であり死んだ時はそれなりの形で、お願いすることになるはずです。

 曹洞宗というと禅になるのですが、最近仏教内のブログを読んでいると


  「坐禅だけが身心脱落」
 
  「悟りを求めることは良くないことだ」
 
   駒澤大学の「袴谷・松本」両教授

というなつかしい議論を目にし、コメントをみるとまたそれなりに、そうなのか、そして今の時代の論争なのかと少々疑問には思うのですが、まあそう述べているのでそうなのかと思うことにしてはいます。

 「夕映禅(ゆうばえぜん)」という言葉があって、知っている人は知っていることで、知らない人は全くわけがわからない言葉です。

 例えば「不立文字」という言葉を書いたときに、「夕映禅」がしこの片隅にあると、陽明学も朱子学もその姿があらわれ、その時代の人々の求めが見えてきます。

 「儒教の徳行学問は、実に仏教の命脈骨髄である」
 「今の講家は多く律行を忽(ゆるが)せにし、禅門はあわせて経典を廃す。門庭いよいよたかくして、邪見ますます甚だし」

という、某禅僧の彼の生きた時代の公憤の言葉があります。
 時代に生きる宗教とはこういうものであって、現代人は禅宗の衰退を見てしまいますが、果たしてそうでありましょうか。

「夕映禅」という言葉、私は折り合いの世界で何かを見たような気がします。
 
 ということで今夜は、わけのわからない話を掲出しましたが、果たしてそうなのか。

 例えば、「ユーロー」は、「帝国」からくる。という言葉を書くと、わかる人にはわかるのですが、今の時代ではある面常識的な話題でもあるわけで、私にすれば、雇用における労働条件の共通善、共通項目までも多様化させると価格の問題までも、安定という面では・・・・と、考えるのですが、・・

この話も、わけのわからない話しになってしまいました。

 曹洞宗は道元さんが開いた宗派で、それをどう見るかは、私の心の動きがなせる技、前後にもそんな言葉にあったように思いますが、書かずにおきます。

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転向という言葉・日本は転向文化?

2010å¹´05月29æ—¥ | å“²å­¦

「普天間問題:辺野古へ移設、閣議決定…福島消費者相を罷免」ということで、もめにもめ、「民心は一丸となって国体の護持に当る決意を堅めた」なのど歴史時代の遺産の言葉になってしまいました。
 
 国民が一丸となって困窮状態を打開する。現段階が国家としての困窮状態かというとそうとはどうみても思えないのですが、さすが旧社会党員の姿を見るようです。

 過去に社青同という左翼活動集団がありました日本社会主義青年同盟で日共に批判的な左翼活動家が結集した組織でいわゆる革命集団であるわけです。

 なぜかニュース画面を見ていると、薄笑いの中に不思議な嫌悪感が私の場合わいてきます。

 今は昔、共産主義、社会主義者が当局に逮捕され、「転向」を強制された時代がありました。中には逆スパイに仕立てられたものもいますが、思想というものは、宗教とにているところがあり、「信じる・確信」という「自分で自分を自分化する」哲学的な意味で非常に、思考する題材に適しています。

 ある種自分を変える、また、自分を取り戻す。自分とは何か・・・・・。

 主眼をどこにおくかで、多様性のある思考をくり返すことができます。

 ということで、今朝は「転向」という言葉について昨日につづいて、長野県出身の竹内好先生の言葉を紹介したいと思います。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 転向は、低抗のないところにおこる現象である。つまり、自己自身であろうとする欲求の欠如からおこる。自己を固執(こしつ)するものは、方向を変えることができない。わが道を歩くしかない。しかし、歩くことは自己が変わることである。自己を固執することで自己は変わる。(カ割らないものは自己ではない。)私は私であって私ではない。もし私がたんなる私であるなら、それは私であることですらないだろう。私が私であるためには、私は私以外のものにならなければならぬ時機というものは、かならずあるだろう。それは古いものが新しくなる時機でもあるし、反キリスト者がキリスト者になる時機でもあるだろう。それが個人にあらわれれば回心であり、歴史にあらわれれぱ革命である。

 回心は、見かけは転向に似ているが、方向は逆である。転向が外へ向う動きなら、回心は内へ向う動きである。回心は自己を保持することによってあらわれ、転向は自己を放棄することからおこる。回心は低抗に媒介され、転向は無媒介である。回心がおこる場所には転向はおこらず、転向がおこる場所には回心はおこらない。転向の法則が支配する文化と、回心の法則が支配する文化とは、構造的にちがうものだ。
 
 私は、日本文化は型としては転向文化であり、中国文化は回心文化であるように思う。日本文化は、革命という歴史の断絶を経過しなかった。過去を断ち切ることによって新しくうまれ出る、古いものが甦る、という動きがなかった。つまり歴史が書きかえられなかった。だから新しい人間がいない。
                        竹内好「近代とは何か」
                        
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 最後の日本は「転向文化」、中国は「回心文化」という竹内先生のお考えですが、果たして今の時代でもそういえるかは疑問のあるところです。

 ç¦å³¶å…šé¦–は「裏切ることはできません」という言葉を使いましたが、時代語に聞えました。

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確実な生命感

2010å¹´05月28æ—¥ | å“²å­¦

 秋葉原の歩行者天国再開されるとのこと、思い出されるのがあの凶悪事件、日常生活の中で、突然狂者が現われ、災難に遭遇する。残されたものは、如何ともしがたい、運命にただ忍従するしかありません。

 現在展開されている、沖縄の普天間米軍基地移転問題。それぞれに何か「くるい(狂)」を感じます。県民この場合は多数のようです。功利主義的にいうならば、多数の幸せは「県外移転」にあるようです。

 早急に解決すべきことは何か、米軍基地の必要性を早期に検討し、対処すべきことのように思うのですが、そうも行かないことは、旧自民党政権下のこの問題の回避してきた事実にも見ることができます。

 現実的な政治理念なき闘争をくり返す集団は、「辺野古の文字」を主張。政治は乱れる一方です。

 政治理念を持った人たちによる、安保の必要性を問う議論が必要な時代がきているように思うのですが・・・・・・。

 そもそも狂気とは何ぞや、今朝は定義集から木村敏先生の『人類の異常と個人の異常』からの狂気の定義を紹介しようと思います。(『定義集』ちくま哲学の森P151から)

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 狂気の本質は、狂気において実際に示される非常識な行動や非現実的で不可解な妄想の中にあるのではない。それはむしろ、ある人間がなにゆえにそのような異常な行動や妄想を選ばなくてはならなかったのかという点にある。
 
 狂気の理解にとっては、妄想が抱かれているという当面の事実よりも、その妄想がどうして抱かれねぱならなかったかの事情のほうが、はるかに重大である。
 
 非常識な行動や不合理な思考がそこから必然的に生じて来ざるをえない根底にあるもの、それは常識や合理性がもはや有効な拘束力をもちえたくなった危機的な事態であるにちがいない。
 
 それは自已が自己の存在に対して自明な実感をもちえず、反省的意識の次元での自己存在が確実な生命感から遊離しているような事態のことである。
 
 常識や合理性が本来人類の生存という目的意識から生み出されたものであってみれば、確実な生命感のないところでそれが十全な拘束力をもちえないのは当然だろう。
 
 こうして、個人の狂気の根底にある事態とは、人類全体のすでに成就している自然からの離脱が、そこから当然生じるべき充分な個人的生命感のうらづけのないままに、観念的にのみ遂行されているという事態である。
 
 つまりそれは、人類全体の異常性への参加が生命的なレベルにおいては拒否されている事態だということができる。

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「自分の心の奥底に耳を傾けないまま哲学に善悪を問う」ことを提起するブログを目にしましたが、確かにそのように思います。
 
 「確実な生命」感とは、理論ではなく経験的体感で裏づけされていかなければなりません。
 
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仏も昔は人なりき 

2010å¹´05月27æ—¥ | ä»æ•™

 国文学者西郷信綱先生の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』に、次の歌がかかれています。

仏も昔は凡夫なり 我等も終(つい)には仏なり いづれも仏性(ぶっしょう)具せる身を へだつるのみこそ悲しけれ

これは「仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに、今様一つ謡へかし」と清盛に所望され祗王のうたったものだが、並み居る平家一門の公卿殿上人以下みな感涙を流したと平家物語は記している。祗王は梁塵秘抄に

仏も昔は人なりき 我等も終(つい)には仏なり
三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

とある法文歌を、今の我が身になぞらえてかくは歌いかえたわけで、この「仏」はいうまでもなく仏御前をも暗示する。

 それを聞いてさすがの清盛も、「時にとつては神妙に申したり」とほめ、そそくさとその場を去ったという。

この、「仏も昔は人なりき 我等も終には仏なり 三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ」という歌を、私は、文字のスクリーンセーバーにするときがあります。

 徹底した大乗的な、身のおき所をあらわしていると思います。

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 西洋哲学では、17世紀から18世紀にかけての大きな心のおきどころの変化がわかります。

 神をその自己の背後におく、いわゆる後見におく神的理性が神からの脱却から人間的理性へと大きく変化します。

 ところが一方、東方の地では逆に、原始仏教は、理法によって形而上学的な座は、合理的な思考法で超越的な存在そのもの否定から発祥しました。

 ところが、現代社会においては、原始的なスピチュアル的な要素とは異なるものの精神的なおきどころの場所として自然界のオートポイエーシス界の自覚にが求められているように思います。

 大乗への推移の中で、今日的な身のおきどころが私の場合には重ります。

 仏も昔は人なりき 我等も終(つい)には仏なり
     三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなれ

 哀れなのかは、本人以外に決するものはいないわけで、他者から言われて自覚するものでもないと思うのですが、いろいろとみていると、いい師に出会えるのが最良な手法なのかも知れませんが、そしてそれを善いとするならそれでいいのかも知れません。

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快・不快は考え方から生れる

2010å¹´05月26æ—¥ | å“²å­¦

 超訳『ニーチェの言葉』(白取春彦著)は、本屋さんに行ってもかなり売れ行きのよい本のようです。

 原文を読むととんでもなく頭が込み入ってくるのですが、このようにピックアップし、超訳されるととても読みやすく理解しやすいように思います。

 当然超訳ですから訳者の恣意的なものがあるのですが、読む側が納得すればそれでいいことで不快の心を抱く必要などありません。

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072快・不快は考え方から生れる

 快感とか不快感は、何かが自分に与えてくるものだとわたしたちは思い込んでいる。

 けれども実際には、自分の考え方が動かしているものなのだ。

 たとえば、何かをしたあとでわたしたちは「ああしなかったら、うまくいったのに」と不快感を覚える。逆に、「こうやったから結果が最上になった」と快感を覚える。

 こういうふうに思えるのは、自分はやり方についてどちらの選択もできたと考えているからだ。つまり、自分にはいつもどちらも選べる自由があるという前提から生まれた考えなのだ。

 自分には選択の自由があったというその考えさえなければ、こうなったという現状に対して、快感も不快感も生まれる隙はないのではないだろうか。

『漂泊者とその影』

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 ニーチェは、カントよりも後の人、カントの厳格な理性を知っていると、何か自律的な己の選択のレールに生かされている自由的なところの意味理解が重なる様な気がします。

 快も不快も動くのは己の心、大変だ大変だと騒ぐのも己の心、愚直に「これでいいのだ」と思えばそうなのであって、永遠に何かの囚われの中に身に置くことはない。

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聞くことの正常化

2010å¹´05月25æ—¥ | ã¤ã‚Œã¥ã‚Œè¨˜

 はじめからもめる話になることは予想され中、誠実さを持って理解をしていただこう説明にでかかて行くのですが、明らかな嘘の前には倫理性の欠けらもなく、これは異常としか思えません。

 明治維新後全国的に行われた廃仏毀釈の怨念とは思いませんが、安曇野の廃仏毀釈を受けその後再建された山里の寺の境内に立つ大きな松の大木を見るたびに、不敬なことを何故したのか、涙が流れてし方がありません。

 鳩山家の母方の祖父は、松本藩の藩士であり維新後明治政府において、この愚かな廃仏毀釈に心血を注ぎ、松本藩内は全国的にもかなりの被害を受けました。

 山間で修行に専念する僧を見てきた大木、苔むす大木に雨は涙のように見えます。何をもって友愛というのか、彼の歴史身体は何をもって友愛の思想を理解しているのか、薄い己に忠実な精神は、混乱を招きその責任のとり方さえわからないようです。

 これも全て、比例代表という最も愚かしい地域性を離れた多数の論理で、なるべくしたなった結果かもしれません。

 地方分立で重要なのは、如何に地域を考えるかですが、1票の重さの本当の意味を理解しない、司法により分立とは逆方向に進んでいます。

 間もなく行われる選挙でも、この愚かしさが出てしまうのか、残念です。

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 今朝は、対話思考ということについて、対話とは何かそこでは何が行われるのか、簡単な様であって誰も意識していないことについて、「対話の正常化」について書かれた文章を紹介したいと思います。

聞くことの正常化

・・・「聞く」ためには自分の言葉を沈め、自分をからにしなければ、他者の言葉を聞き入れることは原則的に不可能である。

 自己に満足し、自己のうちにとじこもっている者は聞くことができない。「自我」が肥大化して、すべての他者関係を自己の拡大によってぬりつぶしているからである。

 かくて自我の小部屋は、ライプニツのモナド(単子)のように窓がなく、個体として自足的であるのみならず、完壁な反響装置が備わっていて、自分が語った言葉のエコーしか聞きとれないようになっている。

 そこで問題は「聞くことを正常化する」こととなる。聞くためには自我の外郭を破って歩みいで、他者にむかって「対向」し、「出会いへの出行」を決意したけれぱならない。

 「対向」とは自我を放棄し、他者に没入すること、いわゆる「神秘的合一」を目ざすのではない。「放棄さるべきものは我ではなくて、あの誤れる自己主張欲、つまり、関係の世界という頼みにならぬ、緊密でない、持続性に欠けた、見渡すことのできぬ、危険な世界から、事物の所有のなかへと人間を逃避させる自已主張欲なのである」とブーバーは適切にも指摘している。

 したがって対向とは自己中心主義的思想から転じて、他者に向かって自己を開き、他者の言葉を聞いて応答する「関係の世界」に立つことをいう。
 
 そのためには「聞くことの正常化」から開始しなけれぼならない。対話の基本運動は「聞いて語る」という相手との相互性によって展開する。
 
 そこには「聞く」受動性と「語る」能動性が見られるのであって、対話の基本運動としての「対向」も、ある対象や実在によって引きつけられて、そのかかぎりでは受動的に、しかし、同時にそれに対して「汝」と語り出す専一的関係をとる能動的行為でもある。『対話的思考』(金子晴勇著 創文社P94)

 自己満足で話を進めることは如何に愚かしいことか、それは基本中の基本の自覚なのですが、それさえもできない。その現実が今日も展開されるのです。

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