考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

知的作業能力と意味探索能力(レジメ)

2005å¹´05月15æ—¥ | æ•™è‚²
長文の予定でしたが、骨子をレジメにしました。反論を想定しながら例を挙げて説明するととても長くなりますが、要旨はこれで十分かも知れないなぁ。。。
 私、意味を探索する能力が大事だと思うんです。

 人間の能力で特徴的なのは抽象化の能力で、言語を操るようになったことでそれと知れる。これが更に知的能力として発達し、(それに伴い脳が大きくなり)ヒトの生存能力が拡大し、現在では60億以上の人間が生きることができるに至った。
 人類が生まれて初めて、ここまで生存率が高くなった現代社会では、人間の知的能力を、知的作業能力と意味探索能力の二つに分けて考えた方が、今後の何らかの指針を見いだすのに、意味があるのではないかと思う。

 まずこの2つの能力の説明をする。知的作業能力は、外在化し、何か目に見える形で物事を行うことができる能力で、多くの場合、人類の生存を有利に(時には愉快に)運ぶために発達してきた。また、動物が持っている能力を拡大拡充してきたものがほとんどである。よって「いかに生きながらえるか」に関わる方法論的能力と言える。一方、意味探索能力は、価値判断力としても良いかも知れない。人の脳内の過程で、言語化する以外に外在化させることができず、周りの人も、その意味が理解できない限り存在が明らかにならない能力である。意味が理解できれば、物事に潜む意味を探る能力であることがわかるだろうし、一人一人の内面に関わる「生きる意味を問う能力」であると言うことができよう。
 この2つの能力は、人間特有の同じ知的能力ではあるが、性質が全く異なるので、思い切って2つに分けて考えた方が、より人間について理解できるようになるのではないか。

 現代社会では、人間の知的作業能力が高度化し、生存を目的とする場合、かなりの飽和点に達しつつあるようだ。その反面、特に現代の日本では、意味を探索する能力の育成が(おそらくは歴史的な背景のせいで)阻害されていたり、あるいは重視されていないので、(また、生得的な面とも思われるが、この能力が乏しい人も多いので)多くの諸問題の遠因になっているのではないか。

 意味を探索する能力は、生命が脅かされている状況でも切に求められようが、物理的生命が充足された状況においても、人間が人間らしく生きるために求められるものに違いない。今後の教育において最も重視されるべきことになるであろう。なぜなら、この能力こそが、人間だけが独自に発達させてきた抽象化の能力の極だからだ。

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おはようございます (shooting_stars)
2005-08-05 08:40:14
マックス・ウェーバーの見方も一つの参考になるのではないでしょうか。ということで、自分のブログで、プロテと資本主義の精神を取り上げてみましたですう。

意味探索能力を知的作業能力にすり替える一種のマジックとまではいいませんが、意味探索能力意義を見えにくくする一つの要因ではないかと思ったり、思わなかったり。

ま、私のブログでは直接的には書いておりません、書くとさらに長くなりそうだったし(笑)。



ところで、意味探索能力と知的作業能力についてのほりさんの複数の記事は、このあたりで、一度一つにまとめてみてはいかがでしょうか。ま、検索すれば読めるので問題ないのですが。おもしろいので。



では、失礼いたします。
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遊んでいる者、思考する者の後ろめたさ (ほり(管理人))
2005-08-08 00:52:09
この手の文章の読解に全く自信がないのですが、マックス・ウェーバーさんは、こう言ってるのかな?(大学生の考えごとhttp://blogs.dion.ne.jp/shooting_stars/参照)

「何が大事かって、金儲けすること、そのものなのさ。それで自分が幸せかどうかなんて目じゃない、儲けたお金で何かするなんてのも目じゃないんだよ。

で、仕事を持つ意味なんて誰も知らないし、考えてない。仕事はただの金儲けだけなんだけど、みんな仕事を持つのは大事だって考えるのさ。それが資本主義文化でみんなが大事だって思ってることなんだよ。」

「ピューリタンは(禁欲なものだから)何より仕事が一番だ。今はみんなそうなのさ。理由は、我慢して働くことが大事って考えが世界中ではびこっちゃって、金儲けの一大システムができた。だもので、直接金儲けをしている人だけでなく、少しでもそういった奴らに関わってしまうと、もう抜けられないんだってことなのさ。」



う~ん、これでいいのかなぁ??? ま、でも、こう読んじゃった上での感想です。。



大学と企業を結ぶインターンシップが増えているように思いますが、大学の実学重視、物事の原理原則軽視、哲学軽視も、ウェーバーさん流の考え方でとらえることができるのかなぁ??



それで、やっぱり拙ブログ6月26日「人間の動物の違い」の8つめのコメントで触れた「好奇心と知的欲求」との関係が気になります。

shooting_starsさんの>>意味探索能力を知的作業能力にすり替える一種のマジックとまではいいませんが、意味探索能力意義を見えにくくする一つの要因 

ウェーバーさんは、意味探索をひたすら「金儲け」にしちゃったという感じですね--この捉え方が何か解法になるような気がしないでもありませんが、今は分からない。



>>意味探索能力と知的作業能力についてのほりさんの複数の記事は、このあたりで、一度一つにまとめてみてはいかがでしょうか。



最初は纏めて書くつもりだったのですよ。(笑)が、今の私の能力ではどうやらなかなか困難な様子です。自分でも全体像がまだよく見えてないので、どう分解して一本の流れ(つまり文章)にしていくかが取り留めない。で、仕方なく、バラバラと書いたのが実態でして。(笑)

もともとは養老先生の言いたいことを、私なりに突き詰めていこうとしたら、こういう考え方が出てきた。で、プラトンさんやアランとかもよく似たことをおっしゃっていると分かってきた。う~ん、こりゃ、勉強せにゃぁ~、というところですが、なかなかでして。

いずれは自分の思考として整理したい思いは強いです。

(わっ、長いコメント! そのうち記事にしちゃうかも。)

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むずむず (shooting_stars)
2005-08-08 21:49:30
表層的好奇心と知的好奇心(表現変えています)という分け方ができるということは、さらに、生徒の好奇心をそのように分けて観れるということは、かなりほりさんの中ではっきりした区分けができているようですね。とても興味深いです。



私にはそもそも分ける以前の問題として好奇心なるものがあったのだろうか?としばし悩んでしまい、なかなかレスできませんでした。普段全然考えていないことに気づきました。



私の中で「好奇心」というのは自ら積極的に関わっていく姿勢が感じられる語感なのです。行き当たりばったりでたまたま遭遇した人物や自然や物事に感動して、その後関心を持って追求していくという私の普段の在り方からは殆ど意識されてこないのです。うーん、問題だ。



後からの関心を好奇心と捉えたとして考えてみても、私の場合は分けて考えていないですね。ただ、人に対する関心は異常にあります。素敵な振舞いする人とか素敵な文章を書く人とかに対しては、しつこく追求して(ストーカー?)接触する機会を惜しみません。相手の反応が少なくてもお構いなしです(なんて奴だー)。だから、私のお友達は少ないですが、素敵な人しかおりません。

これは、単なる好き嫌いですねえ。



では、好奇心とはなんなのでしょう。好き嫌いと分けて考えることができるのでしょうか。うーん、混乱してきた。



私にはなかなかに難しい問題のようです。

もう少し考えて見ます。

ろくなコメントではありませんが、失礼します。逃走。
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