考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

しばらくお休みします

2007å¹´12月29æ—¥ | æ•™è‚²
年末年始のお休みにします。
本年はどうもごひいきいただきましてありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
どうぞ良いお年をお迎えください。

コメント、TB、一応止めてあります。
ご了承ください。

世間を牛耳るのは

2007å¹´12月29æ—¥ | æ•™è‚²
「今の社会は、偏差値55が牛耳ってるんだよなぁ。」
「わっはっは。」

(注・教員間の会話ではありません。)

 以上、終わり。


bとdの筆順

2007å¹´12月28æ—¥ | æ•™è‚²
 新課程の生徒が入学するようになって、bとdの筆順に関して、共に「棒書いて丸」の生徒がものすごく増えた。どうやら、中学で筆記体をほとんどしなくなってきたのがその理由のようだ。
 だから、生徒の板書したdが「棒書いて丸」の場合には(見ればわかる。)、「違うよ」と指摘する。それでも、なかなか治らない。
 仕方がないから、なぜbは「棒書いて丸」なのにdは「丸書いて棒」なのかを筆記体で書いて教える。昨年度でも今年度に入ってからでも、何度書いたかわからない。しかも、成績の善し悪しと余り関係がない。一体、どうなってるのだろ?

 普段は、筆記体はこう書くから、ほら、bは「棒書いて丸」だし、dは「丸書いて棒」でしょ、といってるだけだが、ホントは、「左から右に書く」ことから説明したいくらいだ。

 たぶん、これは、右利き用の書写法である。
 漢字の「一」でも、横棒一本でもいい。「書け」と言われたら、右利きの人は、左から右に線を引くはずである。その方が、力が入る。(今これを書いてて思いついたのだけど、テニスや卓球などの、フォア打ちとバックでは、断じてフォア打ちの方が力がこもる。書くとき腕が下方向にあるのと、これらのスポーツで腕が空にある違いなのだろうか。あるいは、振り切って力を逃がすのと、とどめる違いなのだろうか? う~む。。。)
 これは、書道の「右払い」と「左払い」の違いにも通じる。左は、さらりと力を抜く。なぜなら、すぐ後に続けて他の線を書くからだ。「大」が「左払い」「右払い」の順のように。一方、右払いは「止め」の役割も果たすから(これが筆順で最後になることが多い。漢字は、上から下、左から右、の筆順である。)、力を込めてそれから少しずつ力を抜く。(もちろん、毛先は最後まで留める。)最後に力を込めるのが、「一」の棒と共通する。
 だから、漢字の「右」は「右から書く」。つまり、左払いを先に書いて横棒を書く。そうすると、書き始めも右で、力が留まるのも右になる。αの書き順みたいなものである。
 ついでに言うと、「左」は左から、横線を書いてから左払いを書く。だから、左の横線は短めで左払いが長めになる。この点、同じ横線、払いの線であっても、長さが「右」の字とそれぞれ異なるのである。(活字だと同じ長さになってるのは実は非合理的、変なのである。)このように書くと、「左」の「エ」や「右」の「口」は、添え物?と思えば(私の思考でそこまでの論考は出来ない。)書き始めも書き終わり(くどいけど、エや口は、別ね。)も、右は、右方向を強く意識できるし、左は、左方向を強く意識することになる。

 「左から右に書く」は、筆記体でも、bとdについても共通する。
 もっとも、授業でここまで言ったことはない。まあ、筆記体の説明で生徒は大体納得するし、時間もないからね~。

 でも、中学校でこの辺りもしっかりやってほしいなぁと思う。しかし、小学校の書写の時間も無くなってきていると聞く。
 要は、基本になる土台がないのである。
 「教育内容」が高度になってくれば来るほど、困難を極めるはずである。


もし、あなたが「教師」なら

2007å¹´12月27æ—¥ | æ•™è‚²
 あなたが、生徒の「授業料」を目当てに教師をするなら、或いはあなたの「威厳」を保つために教師をするなら、「知識」や「小手先の技術」をちびちび小出ししながら、丁寧に、丁寧に、教えると良い。
 生徒はあなたを素晴らしい先生だと思うだろう。そして、あなた無しではものごとを習得できないから、授業料は安泰であろう。生徒はあなたを越えることはないから、あなたの心はきっと穏やかだろう。

 もしあなたが「自立して習得を目指すことができる」生徒を育てるつもりなら、「根本にある考え方や方法論、そして究極の目標が「どこ」(「何か」ではない)にあるか」を教えると良い。生徒は自分で学ぶようになる。そして、生徒の中にはあなたを越える者がでてくるだろう。

 もしあなたが上記の事実両方に気が付いていて前者の道を選んでいたとしても、世の中の人で「この事実」に気が付く人はほとんどいない。
 だから、どうぞ、ご安心召され。あなたはあなたのやり方を続ければいい。


おいしい料理法とまともな勉強の共通点

2007å¹´12月26æ—¥ | æ•™è‚²
 魚を焼くときは、塩をふってしばらく置いてから表面の水分を拭いて焼く。そうすると身が締まって美味しくなる。ハンバーグも捏ねてからすぐ焼かない。しばらく寝かせる。野菜に火を入れるときは予め大きさを揃えて切っておく。茄子は素揚げしてから焚くと美味しい。煮物の味付けは同じ量の醤油を入れるにしても、一度に入れない。3度に分ける。
 何れも「時間と手間」がかかるが、その分できばえもおいしさも優れたものが出来る。

 これは何も料理に限ったことはない。勉強も同じである。
 「時間がない」「効率が悪い」といって、塩をふってすぐに焼いても同じような焼き魚はできる。しかし、食べれば違うことがわかるだろう。同じ量の醤油を入れるにも、一度に入れたのは、まるで一夜漬けの勉強である。「効果」が違うのだ。

 料理上手はちょっとした「手間ひま」を惜しまない。「勉強上手」も同じだろう。
 わからない語句を見たら、ちょっと辞書を引く。書き留める。同じようにノートをとるにも、ちょっとだけ考える。どうしたら、わかりやすくなるか、復習をしたときに役に立つか。これが「良い成績」に繋がるのである。

 ちょっとした「心遣い」でもあるかのような「違い」が積もり積もって「これ、いつもと違う。おいしいよ」となるか、「良い成績」につながるかは、勉強も料理も似ているかもしれない。

 料理を習いに行くのは、レシピを習いに行くようなところがある。(って、料理を習ったのは、家庭科の時間だけだけど。)習った料理は美味しくできるが、習ってないと、できない。これは、勉強で言うと、「知識」だけを学んで、「やり方やその意義」を学んでないのと同じだろう。

 上記で言うと、「魚が美味しく焼けるのは身が締まっているからだ。そのための塩」と言う発想かどうか。「野菜を切りそろえるのは火の通りを均一にするため」と言う方法論。醤油を分けて入れるのも、唐揚げで下味を付けてしばらく置いて揚げるのと同じ発想だろう。

 知識を学ぶのは容易である。羅列という意味では数多くなれば「大変」ではあろうが、この大変さは「作業量の多さ」ゆえの大変さなのだ。しかし、方法の体得は、「思考の転換」「次元の転換」という「作業」とは全く異なる困難さをともなうのである。

 日本人でフランス料理に貢献したとフランスから勲章を貰った三國清三(きよみ)は、まだ無名の若者だったときに帝国ホテルの村上シェフに大抜擢されたことがある。彼は、大勢居る若者の中で人と違ったことをしようと洗い場で一人鍋をぴかぴかに磨いた。しかし、それだけでなかった。「塩の振り方を見ていたのでしょう。」と回顧していた。塩の振り方で、料理の力量がわかるという。これは料理最大の「方法」を知っているかどうかの重要性を村上シェフは見て取ったということで、多様な料理の知識を20歳前後の若造に見込んだわけではなかったのである。

 勉強にも同様な「塩の振り方」があるのだ。それを身に付けた者がこの基本に立って多くの「レシピ」に向かったとき、初めて「勉強が出来るようになる」のだ。


「隔靴掻痒」は「わからないまま留めておくこと」

2007å¹´12月25æ—¥ | æ•™è‚²
と思った。
 内田先生が「村上春樹にご用心」の中で、「内的違和」と書いていた。それと共存することが人間を人間たらしめている、と。
 村上春樹が、小説は「うなぎ」との三者協議だとか言ってることについてだが、これって、真に勉強する、学習をすることにも当てはまると思う。
 内田先生も言ってるけど、簡単にしちゃダメってこと。簡単にわかっちゃだめなんです。どこかしら、「でも、ちょっとねぇ、、、。」と「、、、」のように、簡単に言語化できないような部分がないと、勉強はできるようにならない。(それで多分、「、、、」が「うなぎ」なのだろう。)

 「わかる」、「わかった」は良いんだけど、それで終わっちゃいけないんだと、いつも言ってることになるけど。すぐに、「だったら、次のこれは?」という「内的違和」が生じる発想でないと、本当の勉強じゃない。
 で、うんうん、唸って、で、デスクトップに未整理状態が目に付くように長時間置いておいて、それで、ある日、ふと「あ、これって、あれのことじゃないか。」とわかる。
 その連続。

 内田先生と気があったわ♪♪
 
 関係ないけど、英語の参考書、四択の参考書が今流行っているようだけど、私、それ、キライなのよね。
 だって、英文が、問題文のところにしかかいてないから(まあ、大抵そうなのだけれど)、ある程度学力のある子でないと、使いきれないと思うのだ。
 だから、去年習ったあの文と、この文は同じ文だ、と、気が付かない。
 文法事項としての説明はあっても、それを目の前にある例文に当てはめて考えることが出来ない。で、問題は、四択だから、「答えがわかればそれで良い」という発想になる。
 こんなので、出来るようには決してならない。
 後知恵だが、ノートを作らせると良かった。(この選定に私は関わってないが。)この参考書専用のノートを作らせ、1番からずーーっと、中にある問題文を「正しい英文」としてきちんと書かせる。
 この話をしたら、「それは学習の効率が悪いですよ」と言われた。--わかってないと思った。

 私は、正直、英語はできない。でも、生徒が、その生徒の能力の限りにおいて、どのようにしたら高校程度の英文を使いこなせるまでに習得できるかは、わかる。そんなとき、「効率」「受験」なんて言ってたら、習得できるものもできなくなってしまうのだ。

 この間、作文を書いたと書いたけど、それをとある先生に読んで貰ったら、「高校1年生の英文だね」と言われた。確かにそう。まあ、本人としては高校2年程度とは思ったけど。(笑)
 でも、まあ、内容に関しては、ウチの学校の2年生には書けないと思うよ。ブログに書いてる内容に近いことも書いた。
 通学途中で、近くの中学に行く外国人講師となぜか知り合いになった。ときどきだが、会うと会話する。英語教育についてのおしゃべりだが、その人はなかなかインテリである。なぜなら、私の英語のレベルに合わせて語彙を調節して話をしてくれるから、そうとうアタマのいい人なのだ。だから、十分に話が出来る。で、ここに書いているようなことを話すと、とても興味を持ってくれる。なかなか楽しい。外国人講師というと、すぐにアクティビティばかりになることが多いが(まあ、そういう教育を受けているようだが。)この人は、(授業はどうだか知らないが)そんなことばかりが重要と考えないから面白い。
 内田先生が、「選択的コミュニケーション」と言っていた。(これはブログだっけ?本だっけ?)フランス人を理解したかったらと、低俗なフランスのテレビ番組か何かを見ろと言われたとき、断ったら、そのフランス人教師がイヤな顔をしたと言う話を思い出した。
 田中耕一さんのノーベル賞の英語の講義も、高校生の英語である。聞いてたら、もろ、受験英語だった。わかりやすい。(笑)
 「学校英語」も、ちゃんとやればなかなか役に立つものさ。


丸暗記は抽象思考を育てない

2007å¹´12月22æ—¥ | æ•™è‚²
 今の教育ってのは、要するに、「本」を丸暗記させるようことばっかりだから、決して「本」を書く人は育てない、ということだ。

 上記の「本」は、もちろん「たとえ」ですよ。お間違えの無いように。
 (ここまででご理解いただける方は、以下、読む必要はありません。最初、これだけにしようと思ったくらいだから。ちなみに7500字ほどあります。)

 で、こういうことを言うと、たぶん、次のような反論が出てくるだろう。
 「本を暗記すれば知識が増えるじゃないか。これは良いことじゃないのか。」が、一つ。
 次は、「第一、『本』なんて、大方、いわば他の違う本に書いてあることの焼き直しじゃないか。だったら、書いても書かなくっても同じことさ。」これはかなり高度な反論だろう。

 第一の反論は、言ってみれば「論外」としたいと思っている。理由は、「知識の暗記が役に立つ」という、私見では、感覚レベルの「記憶」に依存する動物なら何でも持っている行動基準に準拠した考え方だからである。
 「記憶は感覚に関係する」というのも私見である。少し説明すると、「感覚」は、「ものが異なる」ことを捉えるものである。で、かつ、生存に有利な「感覚」が捉える世界とは、「AならB」、「CならD」など、間柄の記憶である。いずれにせよ基軸になるのは「AであるかAではないか」の差異を捉える能力、「感覚」である。この点、ちょいと昔の現代人も、「このお肉、食べられるかしら? ジロジロ。(観察する。)くんくん。(ニオイを嗅ぐ。)これならまだ大丈夫よ。でも、おばあちゃんは今日はちょっとやめておいた方が良いかもしれないわ。今、身体が弱っているから中るかも知れない。」のように行動基準にすることがある。(「賞味期限」なんて、昔はなかった。)この判断は全て、「感覚と記憶」に依存する。この能力を持つ存在は生存に有利である。

 だから、「論外」と言いつつも、私だって全否定するわけでない。上記のように、人間も感覚に依存する動物なのだから。
 もう少し説明を続けよう。
 自然界においてヒトは、「いつ、どこに行けば何が取れる」「その時には、このようにすればこれこれできる」などを経験的知識として体得した。この有無がその人個人や所属する集団の生存を有利にも不利にもしただろう。動物も、この手の知識を持っている。野良猫だって、「あそこに行けばエサにありつける」などを体得しているはずである。
 人間が野良猫などの動物と多少異なるのは、この経験を、「知識」の一種「生活の知恵」として世代を超えて伝授して生きてきたことである。(野良猫だって伝授はあると思うが絶対量に差がありすぎるはずだ。)ここには「訓練」が必要だったこともあるだろう。未開民族は今も昔ながらに、狩りの仕方、弓の作り方、弾き方を親から学習する。知識・技能の伝承である。が、これは、何も未開民族や大昔の話ではない。「団塊世代の大量退職」で、「若者の熟練者育成」を企図する企業は多いはずである。内容は異なるが、やっていることの本質は同じである。

 今私は、「内容は異なる」と書いたが、問題にしたいのは、「なぜ、内容は異なるのか」、正確に言えば、「なぜ内容が異なってきたか」である。ここに、他の動物とは違う「人間らしさ」が潜む。

 最初、私は「暗記は知識を増やす」と書いた。事実であり、現実問題として、この能力だけで、現代社会においても十二分に生き残っていくことはできる。次から次への情報を暗記し、利用するという方法を取れば、「AならB」「CならD」でやっていけるのだ。
 もう少し具体的に言えば、「テレビを付けたかったらこのボタンを押す」「チャンネルを変えたかったらこのボタン」「このケータイで写メールしたいときにはこうする」「うまいラーメンを食べたかったら、あそこに行くと良い」「これこれが欲しかったら、あそこへ行くと安く良いモノが手に入る」などなど。今の日本には、この手の「知識」が「情報」として形を変えて、町に溢れ、空間を飛びさえしてさまざまな欲望を満たしてくれる。
 ネットの検索も同様ということである。自分が必要とする「情報」という名の「外部記憶による知識」を入手し、利用する。これは、実のところ「莫大な暗記」が「ネット」という名称に変わっただけの話であることに皆さんもお気づきだろう。
 だから、「インターネットで何でもわかる」と言う人が出てくる。(何年か前、管理職の一人がこう言っていた。何度もこのブログ記事に出てくる方で、自分で考える能力のないヒトである。おっと、話が先に進みすぎた。)しかし、このように言う人は、逆説的に言えば、「インターネットで検索できる知識、要は、他人の受け売りで十分に満足できる人」ということである。で、事実、それで、満足いく生活を、しかもかなり豊かな生活さえ送ることが出来るのだ。情報格差だっけ?が、問題になるのは、これ故の「豊かさ」の有無である。ネット利用で有利な情報を得ることが出来るか出来ないかというのは、大昔の例で言えば、個人の経験をもとにやってきたことを人との共有知識として自分も利用活用できるかどうかの違いを問うているのだ。なぜなら、(くどいようだが)多くの場合、それだけで人は十分に豊かな生活を送ることができるからである。よって、「生きていくのに必要な情報以上に一体なにが必要というのだ?」と判断する方が出てきて当然である。(ただ、教育者がそれで良いかどうかは別。)

 しかし、私が言いたいのは、「『情報』という『知識』がもたらしてくれる豊かさ」ではないのである。(この論点をしかとご理解いただかないと、話が続かない。)「情報さえあれば十分だ」と思っている方とは無縁の話であり、前述の「内容が異なってきた理由」に関わることである。

 伝授される内容が異なってきたのは、人間が「考える」ということをしたからに他ならない。大事なのは、「考える」は決して「暗記ではない」ということである。
 ここで、「考える」ことを知る手がかりに「勉強ができる」とはどういうことかを確認する。これは、2通りに分けられる。
 一つは、「徹底的に暗記する」という方法である。もう一つは、「体系化する」ということである。
 
 前者は、試験前の勉強に近い。「これは重要事項だから(「重要」というのは、「試験に出る」とほぼ同義である。)覚える。」「数学も暗記だ」と言われる所以もこれである。もう一つは、「体系化」である。こちらは意外と難しい。暗記するのが目的ではなく、「理解する」ことが目的になる。なぜそうなるのか、学習する事項や知識の背景には何があるのか、その奥には、どういった規則性や系統性が潜んでいるのかを考えることによって探り出し、さまざまな項目を編み込んだ「体系」として俯瞰的に捉えることが目的である。
 
 この後者は「抽象化能力」と呼ばれよう。私は最初に、「記憶」について述べた。どんな動物も記憶力はかなり持つだろうし、多少の抽象化能力を持つ動物もいるだろう。しかし、人間以上に抽象化能力をもつ動物はいないだろう。
 人間の脳味噌は異様に大きいのは、このせいであろう。生き物として生きていくのにさほど必要でない抽象化能力を持つことで脳の中で入出力を繰り返し、「これとあれは同じではないか、しかし、この観点では異なる」などの「分類」を行うようになった。しかも、多種多様で階層的な分類である。異なる個体の「リンゴ」を「リンゴ」という語で概念化し一つにまとめ、今度は、同じようにまとめた「みかん」と組み合わせて「果物」とし、更に大きく「食物」という分類を作り上げたり、或いは、「植物」という分類をしてみたりなど、「視点」の置き方で多様でしかも階層的な分類をし、それぞれの「関係性」を見出し、「体系化」してきたのである。この営みを、我々はおそらく「学問」と呼んでいるのだ。
 もちろん、「記憶」による「知識」は必要である。しかし、この知識は羅列的に存在するものではない。あくまでも体系化され、その体系の中で「位置付け」があった上での知識である。この点において同じ知識と言えども「丸暗記」による知識と全く異なる。

 ここで疑問を持たれる方がいるだろう。「体系そのものを丸暗記すれば同じではないのか」と。しかし、これは大きな誤解である。なぜなら、その「体系」に新たな「知識項目」が加わってくることを考えると明白になる。「丸暗記の体系」の場合、新しい知識がその体系のどこに加わるべきものかの関係性がわからないはずである。なぜなら、丸暗記の体系は「既に完成されたもの」だから、新しい項目は入り込む余地がないのである。(もし、どこに加わるかがわかるのなら、それは、体系を自分のものとして理解し体得したことを意味する望ましい状態である。)

 しかるに、丸暗記でない体系の場合、新しい項目は「しかるべき位置」を既に存在する体系の中に見付けることが出来る。なぜなら、その項目は、既にある体系内の他の項目とどういった関係性を持ちうるかを体系の主は考慮し判断することが出来るからである。これが、物事の真の理解になる。
 それで、もしも関係性が見いだせないとなると、体系そのものの見直しが必要になる。既存の体系の基盤たる観点から見直す必要性が出てくることもあるだろう。(現に、理論物理学者がやっているのはこれであろう。)体系とは、決して固定化されたものではなく動的に変化するということが重要で、こういった「変化」を生み出すものが真の「思考」である。

 だから、体系の変化が起これば伝授される知識の「内容が異なること」に繋がり、おそらく、これこそが人間が他の動物と異なって持つ能力なのである。この「動的な体系作り」のお陰で人類は文明を発展させてきた。この変化をもたらすものの基盤にあるのが真の学問で、その恩恵が現代社会のありとあらゆる利便である。
 
 これにより、最初の疑問「暗記による知識の増加」は、暗記そのものでは足りないと回答することができる。重要なのは、「体系化」という方法を経ているかどうかなのである。

 しかし、現在の教育は、「丸暗記」が最重要であるかのような試験形式をとり、教える側も学ぶ側も何の疑いも持たず、「知識の伝授」だけが学力だと思っている節がある。それも、体系化する方法を踏まえた上での伝授なら歓迎すべきものであるが、効率という名の下に「知識という結果」だけに主眼をおくことが多いのは否めない。なぜなら、「体系化する理解」は、(似たようなこと(つまりはベクトルの方向)を他の記事でも何度も述べているが)非常に時間が掛かるからである。
 もともとヒトが誕生する以前から、動物(それなりの脳を持つ程度には進化した動物ね)の生存に必要な能力は記憶力だったわけだから、「体系化する能力」はいわば「あと付け」で、生まれつきの状態では非常に弱い力しか持っていないと判断してよかろうというものだ。進化の途上にある能力と言えるかもしれない。しかし、この「弱さ」を補うのがおそらく「教育」なのである。教育を受けることで、ヒトは抽象化能力を高めてきているはずである。「学校に何年行ったか」、「学校で何をどのように学んだか」によってこの能力が異なってくることに気が付いておられる方も多いだろう。体系化する勉強をしてきた人なら必ず思い当たるはずである。「教養」というコトバを用いると一層わかりやすいかもしれない。あるレベル以上になると、「教養」が単なる知識の集積でないことに気が付かれるだろう。(内田先生に言わせれば、「これってあれのことじゃないの?」である。つまり、関係性を捉える能力ということにである。)
 
 ところが巷の価値観のほとんど全てが、情報収集を含め、結果としての知識の重要性が問われることが多い現状で、抽象的な体系化能力を伸ばすことは、学校においてすらまず期待できないのである。
 これでは学問の発達の見込みは薄いというものである。いかに能力が高い生徒であっても、基調が暗記に留まれば展望に限りが出てこようものだ。暗記は範囲が決まっているものを「固める」ことである。これが動的な体系を動かす原動力になることはない。
 繰り返しになるが、「暗記」(追記:この「暗記」は上記で言ってきたことの総称として書いてる「たとえ」です。)だけで十分生きていけるのである。だからといって、古の人たちの努力が同様な暗記だけだったとしたら、決して現代の生活はない。これは、暗記だけで暮らして行こうとする人はその恩恵を受けてるだけであることを意味する。(だからといって、その生き方全てを否定するわけではない。)

 次の第二の問いについて考える。
 私が書き記すことでも、多くの方がお気づきのように、養老先生の受け売りだったり内田先生の受け売りだったりする。しかし、私自身が理解していないことは書いてない。
 「西洋哲学史2000年はプラトン哲学に対する注釈に過ぎない」と言うコトバがある。ホワイトヘッドという人が言ったらしい。それでも、「プラトンの肩に乗れば、それだけ遠くをのぞむことができる」とも言う。(これはだれだかわかならい。)
 ホワイトヘッドの言が真実だとしても、そのようにして、我々はこれまで存在してきた。動的な体系を少しいじって新しい「思いつき」の位置付けをプラトンに重ねてきたということである。これは、人文系は「体系の変形」にはなかなか至らないということも意味するだろう。

 しかし、自然科学における「体系の変容」はギリシャ時代以来すさまじいものがある。人間がこれほどまでに自然界に手を加えて変化を及ぼしてきたのも、偏に動的な体系をどんどん大きく動かし続けてきたせいである。もし人間が他の動物と同様に物事を体系化せず、個々人の経験的な記憶だけに頼る生き方をしてきたのならば、自然は太古の時代のまま何ら変化していないだろう。
 この意味では、決して「焼き直しはない」のだ。是非は別として、動的な体系の変容という観点で捉えると、受け売りだけに留まっているわけではない。数学が物理学の基礎を作り、物理学が工学として自然に手を加える。化学も同様であろう。

 それでもホワイトヘッドの言も、おそらく真実なのだ。(私は西洋哲学の勉強をしてないから正確にはわからないが。)似た例がある。養老先生は「自分が書いたことは全部お経に書いてあった」と言う。しかし、大事なのは、養老先生はお経を読んで本を書いたのではないということである。養老先生は、自分で考えて本を書いた。そしたら、その内容は、お経の内容と同じだったということである。
 結果が同じであっても、私はこれを単なる「焼き直し」とは考えない。なぜなら、養老先生が書いた本は、養老先生が、考える養老先生として存在したから今ここに存在しているのである。結果が同じであろうと、辿った過程が異なる。私は、これを重視したい。なぜなら、過程が異なるとは、人が生きていることを意味するからだ。養老先生にしても、彼が経験した時代を経なかったら、解剖学に進んだかどうかわからない。そうなると、養老先生の思考がお経に繋がる思考になったとは限らないから、唯脳論だって出たかどうかわからない。これは「やってみたからできたこと」といえる。「やってみる」とは、結果がわからずにやるしかないことだから「過程」である。それで、「自分で考えてみる」過程は、その人ごとに「新しい体系」を形作ることを意味する。
 だから、人は勉強をし、自分の体系を築き、既存の「知の体系」のどこに位置するかを確認する。それが「これってあれのことじゃない?」という「教養」になる。端から見れば、到達する結果は同じであるかも知れない。しかし、その過程そのものが知の系譜に至る人間独自の営みで、その人が「人間」として生きることになると思うのだ。(これは、以前書いた「知の系譜を忘れた学校」に繋がるかな。)

 おそらく、人文科学の発達は、自然科学の発達ほど未だ進化していないのだろう。(これも養老先生か誰かが書いてたかな?)それは、人文科学は、自然科学のような「知識の伝授」を行いにくいからではないかと私は推測する。
 人文科学が基礎とするのは、個人の経験や感情に関わる思考ではないかと思う。誰しも信頼するのは「自分の経験」であり、他人の経験ではない。「人のふり見て我がふり直せ」というコトバが存在するのは、人の行いを見て自分の行いを直すことは「学習しないと出来ない」からのはずである。「愚者は自分の経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉がある。この意味で、多くの人間はいまだ「愚者」の仲間なのであろう。だから、他人、しかも、時空を異にする他人の行為である「歴史」から学ぶことは難しいのである。
 理由は、経験や感情とは基本的に伝達不可能なものだからだろう。コトバに置き換えることは出来ても、それが聞いた人の「体験そのもの」になることは決してない。1年体験して得たことを伝えるには、やはり同様な1年という年月が必要になると考えた方が良い。なぜなら、経験や感情は「時間」を抜きに存在しない「過程」だからである。「結果」は伝達可能でも、「過程」は「時間」という次元を経ているから伝達不能なのである。だから、プラトンの辿った道を辿り直せば、多少は減じられるかも知れないが、やはりそれだけの時間がかかるろうというものではないか。
 人は歴史を通して同じ経験を繰り返しているのだろうが、一つ一つの「過程」が実は「新しい体系」として存在するのである。ところが、いざ言語化され「本」になると、経験は途端に「結果」と同一視され、色あせる。異なるものも同じとする言語の持つ習性ゆえだろう。
 私がここに書いていることでも、たかが知れている。しかし、文字になった結果はどうであれ、このように思考する経験そのものは紛れもない私自身のものなのだ。レベルの高低はあろうが、知の営みとはそのようなものであると私は考える。

 よって、第二の疑問は、「本」が現物として存在していようといなかろうと(ブログの文章類なども含めてだよ。)、現実に知の営みに参画したかどうかの指標となるのは、その人が自分が得た知識を自分のものとして体系化したかどうかによるのである。したがって、たとえ結果が同じになったとしても、「あってもなくても同じ」にはならない。それは、人間として時を掛けて生きることの否定に繋がるからである。


私はケータイ釣り

2007å¹´12月20æ—¥ | æ•™è‚²
の名人ではないかと密かに思っている。
 もちろん、ポケットの中のケータイをつり上げるのである。たぶん、校内最高記録保持者(←そんなもの、ない・笑)ね。
 使用者発見も、セカンドバッグの中の電源入ったケータイ(鳴ってない)の発見とか。。

う~ん、我ながら「才能」があるんじゃないかと思う。(笑)


わ~い

2007å¹´12月19æ—¥ | é¤Šè€å­Ÿå¸
郵便局に行ったら、年賀状の宣伝チラシがあった。養老先生のだけ5枚くらいもらってきた。(勝手に取ってきた。)
わーーーい。ウチには、5人も養老先生がいるよー!!
サインだって、あるよーーー! 一つは落款付きだぞーーー!(でも、年賀状宣伝用チラシの落款とは違ってる。たくさん持ってるのかなぁ?)

私が授業で教えていること

2007å¹´12月19æ—¥ | æ•™è‚²
は、英語そのものというより、英語の勉強の仕方、どうしたら自分で英語の読み書きができるようになるか、どうしたら自分の英語の間違いを発見できるか、なんだよね。もちろん、基本的なレベル。第一、私の英語運用能力は、高校2年生程度だもん。(笑)でも、その英語だけで、結構、書けるものだよ。そういうこと、みんな知らないんだよ、たぶん。
 で、「考え方の基礎」があれば、後は自分でできるようになる。その子の母語運用能力(言語能力)次第で。