考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

考えない人

2008å¹´08月31æ—¥ | æ•™è‚²
が、世の中多いんだなぁとつくづく思う。
方法にこだわる人は多いけど、意味や目的や結果を考慮しようとする人は少ない。
考えると、まずは、自分。まあ、それが「ふつー」なのだろうと思う。
まあ、だから、たいていの共同体が機能するのだろう。

方法ってのは、「行き方」に関わるから、行き先は定まってる。目的や結果、意味は、どこに行くのかわからないということだ。これも、ベクトルの大きさと次元に関わるなぁ。

「考えるのが好きだった」というタイトルで検索すると、大方は、「○○の方法を考えるのが好きだった」に近いのがよく出てくる。「次元」に関わるものは少ない。

抽象と具体

2008å¹´08月30æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒に教えるのが難しいのは、抽象と具体の捉え方である。抽象化能力の多少?が人によって異なるからである。
 「リンゴ、蜜柑、梨」で「果物」を連想できるかどうか。「果物」は抽象語ではあるが、それでも、具体的事物で示すことができるから、まだわかりやすい。しかし、「コトバを連ねたもの」になると、具体と抽象、抽象の更なる抽象を混同する事例が多い。
 具体例は具体例でしかない。下位の抽象は下位の抽象でしかない。「リンゴ」は「リンゴ」でしかない。そのものが「果物」ではない。まあ、これは「最もわかりやすい例」だが、--だって、共に具体物だから--この類のことに気が付かない人は意外に多いように思う。抽象の更なる抽象となるとわからない人が多いのだ。たいていの議論の根底には、必ず抽象化のレベルの違いという問題、抽象化のレベルの違いに気が付くか否かという問題が潜んでいる。
 見える人には見えるが、見えない人には見えない。で、見えない人は見えていないことに気が付かない。
 生徒を見ていると、偏差値73位の壁だなと思う。75くらいあると大体は通じるかなぁ。


「仮説」の楽しさ・面白さ

2008å¹´08月28æ—¥ | æ•™è‚²
 「ひょっとしたら、これってあれと関係があるのではないのかな?」などという仮説を立てるのが好きである。正確に言えば、「仮説を立てる」より、「つい、思い付いてしまう」と言った方が良い。それで、思い付くと、そこから思索が始まる。正しいのか間違っているのかわからない。でも、それが何だというのだろう。

 で、思い付いたことを言うと、「ほほう」と面白がる人と、「それって本当?」と訝しげな反応をする人が結構いる。で、ちなみに私の経験では後者が圧倒的に多い。
 私としては、そんなの、本当かどうかわからないからこそ、「これってひょっとしたら、アレと関係があるんじゃないの?」と考え続けることが出来るのである。既にわかっていることだったら、わざわざ表明しなくていい。

 この感覚は、わかる人にはわかると思うが、わからない人にはわからないような気がする。
 わからない人は、アタマに留める価値があるのは「正しいこと」「本当のこと」だけだと思っているのだろう。実証されていないことなどは重要でないと思っているのだろう。

 子供をある見方で見ると二通りに分かれる。(記事に書いたことがあるけど。)何でもいいから問題を出す。それで答えがわからないとき、早々に答えを聞きたがるタイプと、逆に、こちらが答えを教えようとしても「自分で考える。言っちゃダメ」と拒否するタイプである。
 上記の「わからない人」は、子供で言うと前者であろう。「答え」という自明のものを得て安心するのであろう。「わからない」のは、ある意味で不安な状況である。

 数学の問題を解くのもこれに似ている。正しいかどうかわからないまま、「この問題はひょっとしたら、こうしたら解けるんじゃないのかな」と最初に想定して解く。わかっていて解くのではない。近頃は何でも「対策」ばやりだから数学にしても「問題の解法」を暗記して問題を解くのが普通なのかもしれない。しかし、私が言ってるのは、そういうのではない。
 幾何の証明などが典型だろう。それなりに「解法」はあろうが、補助線の引き方にしろ何にしろ、「これはまずこの三角形とこの三角形の合同を証明すると、なんとなく、これとこれが今度は相似になる証明になりそうだから、どうのこうの」と、行き先不明のまま、勝手に推論していかないことに話(というか、証明)が進まない。この段階では、「これは多分こういう風にすると解けるのではないか」という仮説でしかない。にもかかわらず、仮説のままで思考を続ける。答えに至れば仮説が正しかった、ということになるが、出来なければ方向転換を余儀なくされる。

 このとき必要なのは「正しいかどうかわからない仮説のまま考え続ける」姿勢である。正しいと言うことがはっきりわかって考えるのではないというのが面白い。
 ああ、そう言えば、問題を解いて果たして解けるかどうか、不安になったときだってあったなぁと思い出す。でも、その不安を乗り越えないと本当に考えることは出来ないと思う。否、「乗り越える」のではない。没頭して、不安が不安でなくならないと本当に考えることにならないということだ。これは、「勉強は、わかるから面白いのだ、知識を得るから面白いのだ」というのとは全く違う性質の面白さだ。

 しかし、不思議なのは、「なぜ、思い付くのだろうか」と言うことである。これはもう本当に不思議でならない。自分で言っておきながら、なぜなのかを説明できないのだから。

 数学にしても、なぜ解き方を思い付くのかわからない。最初思い付かなかったのが、勉強をしていくうちにひとりでに思い付くようになることが多い。(多かったと言うべきか。)しかし、「思い付く」のは意識の仕業ではないだろう。だって、わからない、思い付かないときはどんなに頑張っても本当に思い付かないのだから。

 それでも、正しいかどうかもわからず考え続けることで、何か思考の回路がアタマの中に出来上がるのだろう。それで、こういった無意識的な過程に、具体的には「わからない状態に耐えて考え続けることに没頭すること」に価値を見いだすというか、まあ、とにかく、そういうことが実際にできる人とできない人に、人は分かれるのかもしれない。それが、わからないことを楽しめる人と、わかることで安心する人に分かれるのかもしれない。

 私が徒然なるままに(って、そんなにヒマなわけではないんだけど・笑)よしなしことを書きつづるのも、「わからないから面白い面白さ」である。それで、疑問が次なる疑問を呼ぶ。疑問は今のところ、まだ絶えることがないようだ。(自分でもなんでこんなに書けるのかわからない。うん。ホント。)

飛行機と大雨って関係ないのかなぁ

2008å¹´08月26æ—¥ | æ•™è‚²
 夏休みも終わろうとしているけど、世の中、猫も杓子もこれだけ大勢の人間が飛行機に乗って旅行をしてるのだから、そりゃ、大雨だって異常気象だって起こるよなぁと思えてしまう。

 だって、飛行機が地球上のそこら中で、しかも、雲の上で燃料を燃やして、雨粒の核をばらまいているんだもの。下界に落ちてこないはずがない。
 気流か何かの関係で、それらが一カ所に寄って渦巻いたりして何らかの影響を及ぼさないはずはなかろうと思うのだ。

 ---仮説です。

 学校の旅行で、なんで宅配便を使ったり、飛行機を使ったりするのだろうと思う。前者はとんでもないと思ってるが、--ガソリンが上がってるから、料金の関係でやがては減ると思うが、--遠い地方の観光収入を増やすことと飛行機の煤煙をどう斟酌するのかなぁと思うけど、こんなことを言うのは、(知る範囲では)私くらいじゃないのかなぁ。


とある人の「オンリーワン」説

2008å¹´08月25æ—¥ | æ•™è‚²
 あるところで、人の話を聞いた。教育関係者ではない。(極めて広汎な意味では、教育に関わってないワケではないのかもしれないけど。)
 その人が、「ナンバーワン」より「オンリーワン」と言っていたが、例に挙げたのが「ジャガイモのみそ汁を作らせたら最高だ」というものだ。
 でもさぁ、これって、実質的に「ナンバーワン」と同じじゃないのか。

 その人独自のものを大切にしろ、という意味で言ったのだろうけど、それで、たとえありきたりのジャガイモであったとしても、みそ汁の美味しさを他の人と比べているだけの話じゃないか。
 で、これこそが巷で言う「オンリーワン」の最たる誤解(というか適例)であろう。

 学校で行われている「絶対評価」と言う名前の奇妙な相対評価と同じことである。挙手の回数やノートのカラフルさ、提出状況を数値化して評価して「意欲」を見るなどの「絶対評価」も、「より回数の多い人の有無」「よりカラフルなノートの人の有無」という相対性でしか結局は測っていないのは実態である。人間が他人を評価する際に用いる判断は、互いの相対主義でしか理解できないものである。(犬の嗅覚のすばらしさを「アタマが良い」と呼ばないのと同じことである。)

 学校の「絶対評価」が浸透してきたものだから、狭い範囲でのナンバーワンをオンリーワンと呼ばせる(?)この歌が流行ったのかな。


作文と要約と和訳

2008å¹´08月22æ—¥ | æ•™è‚²
 模試の結果が来た。
 分野ごとに見ると、作文と和訳が良い。平均はそこそこだが、作文と和訳が良ければ、まあ、これでいいやと思った。これから伸びてくる可能性があると思うからだ。
 文法等が悪いのは、テキストが易しいせいである。教科書の問題ができるものだから、生徒は安心してしまったのである。和訳は、教科書が難しい特訓が効いたようなものである。作文は講習でやってるのと自由英作文を何回か書かせたせいだと思う。作文は、間違えても良い。とにかく、書かないことに始まらない。全般的に言えることは、生徒を安心させてはいけないということである。(わかりやすい授業がいけないのも同じ理由である。)
 私の担当クラスでひどく悪いクラスがあった。理由はわかった。要約問題の出来が他のクラスより良いせいである。たぶん、要約に手間取って、他の問題が十分に出来なかったのである。授業中、私が要約の重要性をしきりに言ったせいである。というわけで、教科担当者として反省はない。(笑)


人生の無駄の有無

2008å¹´08月20æ—¥ | æ•™è‚²
 「人生に無駄なことは何一つない」という言い方をされることがある。もっともらしい言だから否定できなかったが、何かしらわだかまるものを心の内に感じていた。なんてことはないが、やっとその理由がわかった。(笑)

 「無駄」とは、常に何かしらの「目的」か「結果」を前提にした概念である。しかるに、人生に、目的も結果もない。あるのは「過程」だけである。
 
 一般に「目的」とされるのは、その時々に想像できる範囲内における憧れや理想だったりするものだ。(これと同時並行に想起されるのは「希望」であろう。)それで、「目的」は「未来に向かうこと」であり、時間が経過して「未来」が「過去」になると「結果」が生じる。そこで初めて「無駄」とか「役に立った」という判断がなされる。だから、上記の言は、「人生においてはすべてが役に立つ」と同義になる。
 しかし、「全てが役に立つ」といわれると「えーー、そんなぁ~」と、違和感を覚える方は多いのではないだろうか。(わからんけど・笑)

 「若い時の苦労は買ってでもせよ」と言われる。なぜなら、苦労が「無駄」になることがない。苦労をバネに、以後の飛躍に繋がるからである。しかし、それなりにトシを取ってくると、「無駄な苦労」には嫌気が差してくる。無駄という言葉が持つ目的とか結果という、有限の時間の切り取り方に、逆説的に「無限の時間性」を見出すからであろう。「結果」がいつ出るのかわからないことを待つには「無限の時間」を必要とする。が、人生とは有限なものであるからには、そんなに悠長に待っていられるわけはない、というわけだ。(笑)よって、「人生に無駄なことは何一つない」に「虚偽」のニオイを感じたのだ。

 「無駄」や「役に立つ」は、人生を小刻みに見れば真実を表す。しかし、より長いスパンを想定すると、これもまた非常に逆説的ではあるが、「無駄」や「役に立つ」という概念を超越した考えの方が有用で必要になろうと思う。それで、私のコトバでは、それは常に「過程」であるということになる。


今日はお休み♪

2008å¹´08月19æ—¥ | æ•™è‚²
内田ブログより

>30年教師をやってきて、その経験から導かれた自明の結論だと私は思うのだが、あまりそういうことを公言される方はいない。

・・・私もここで細々と言ってんだけど、弱小ブログじゃ、公言にはならないということね。(笑)


「評価」で何が分かるか(これもどんどん長くなった)

2008å¹´08月18æ—¥ | æ•™è‚²
 ときどきお邪魔するブログに「M17星雲の光と影」という予備校の先生のブログがある。「分けられないもの」という記事があって、とても良い話である。
 電車の中の若いカップルの会話である。女の子が、自分の鼻がもう少し高かったらいいのに、あなたはどう思うか、と彼氏に問う。しかし彼の方は、どれだけ問われても鼻だけ高い彼女の顔を想像できない、鼻だけ分けて考えられないと答えるというやりとりである。
 で、M17星雲さんは、愛の対象は分離できないものであるという。部分部分の集合ではなく、「>有機的なまとまりをもった全体」と呼んでいた。

 深く同意する。
 人間はまざにパーツの集合体ではなく、あれこれ分かちがたいものが集まって「一つ」になっているということだ。だから、人を受け入れ愛するというのは、良いところも悪いところも丸ごと受け入れることになる。「この人のここは自分にとって都合が良い。(あえて、「都合がいい」という利便性を伴う表現にする。)あの人よりこの人の方が自分にとって都合が良いところが多いから、私はこの人を愛する」は、「きっかけ」としてあり得るだろうが、それで何年も過ごせるわけはないだろう。「もっといい人」が出てくれば冷めるに決まっている。
 親子の愛情にしても、同様であろう。それぞれ足りないところがないはずがない。それでも結果的に丸ごと受け入れるなければ、親子は親子でないだろう。

 で、これらをふまえて学校などに於ける「イマドキの評価」について考える。

 イマドキの評価は、必ず事前に評価項目を設定しなければならない。
 と、これだけ書けば、賢明な読者諸氏はもうお分かりであろう。評価とは厳密に---「公平に」とほぼ同義になろうが、---行おうとすればするほど、項目を細かく設定しなけれならない。これは、評価の対象たる人物は、ことごとく分割されて捉えられている、ということだ。

 その昔、「スター誕生」という番組があった。ろくに見てないけど(勉強してたから・笑)、先日、阿久悠さんの追悼番組で昔の映像が流れていたから思い出した。あの番組の面白いところは、10週だっけ?競争相手の中を勝ち抜いていくが、最終的に「合格」するかどうかは、レコード会社が手を挙げるかどうかだけである。最終的な評価が、数値項目による設定ではないのを私は非常に興味深く思う。「売れるか売れないか」の「評価」は、人物丸ごとを捉えての判断であるに違いないからだ。
 「芸能と知識学問に関わる学校の評価と同じにしてはいけない」という声が聞こえそうだが、ならば、なぜ、異ならせてはならないのか。なぜ、詳細な項目にわたる数値付けによる評価が、仕事や学問上での正しい評価たるのか。単に、一人の人物を分割して捉えようとしているだけではないのか。

 確かに、「仕事」という観点では、ことに単純労働や純粋な専門職になると「項目」が関与する。職業人養成に関わる専門教育は、項目設定による到達度評価に帰結し、所定の「役割」を果たすことが期待される。しかるに、学校教育の目的は、「特定の項目」を企図していない、一般教育である。しかも、海のものとも山のものともわからない--将来、どのような「役割」を果たすことになるのかわからない子供を対象とするのだから、ありとあらゆる方向に伸びていく余地を残しておくべきものでなければならないはずだ。
 しかるに、小さな子供時分から、自分の「得意分野」をかなり意図的に意識的に伸ばそうとしたり、事細かな項目設定を示すことは、逆説的に「その方向にしか伸びることが出来ない」ことを露わにする。

 近頃、親が子どもを見るのも、勝手に「項目」をこしらえて評価している場合が多いのではないのかと思う。「勉強が出来る」「英語が出来るように」「野球がうまい」「モデルにしたい」等々。その子どもの全体像を捉えるというのではなく、体よく言えば「専門化させる」、分割している捉えるのが当たり前に思われるのではなのかな。「この子の長所は、欠点は」というとらえ方を否定するつもりではないが、なんというのかなぁ、人間を見るときと言うのは、わかりやすく言語化できる評価項目の集積として捉えることはないと思うのだ。逆に、そんなに正確に我々は人間を見ることができているのだろか。評価項目の厳密化は、ある種の「自惚れ」であると思う。

 子供を項目毎に捉える試みは、上記の「職業人養成」に似ている。全人的な存在としてではなく、ある種の役割を果たすべきもの、もっと過激に言ってしまうと「道具」として捉えられ、扱われるようになったと言うことはないか。親が子供を道具のように、ペットのように自慢の対象としたり、自分の評価の対象としたり、着飾り見せびらかすのもそうだろう。先生が生徒を自分の名誉のために利用する。学校によっては、○○大学○名もそうだし、○○大会優勝もそうだろう。(部活動だと、中学で良い成績は収めたものの、させられすぎて、高校ではやりたくない、なんていう事例は多い。活動が、自己の成長に関わるものと捉えることができない何かがあったのだろう。)
 
 学校においても、学問上でも生活上でも、生徒を捉えるときには、はっきりとした輪郭線を持つものとしてではなく、「ぼわ~~ん」と捉えようとするのは、その子を丸ごと一人の人間と見なすのに必要欠くべからざることであろう。なぜなら、とにかく、子供は成長をする存在だからである。成長とは「何がいつどこでどのように変わるかわからない変化」で、「役割が刻々と変更していくこと」を意味する。特定の項目(ベクトルの次元、軸の設定)上の変化だけでなく、次元そのものの変更をある日突然余儀なくさせることでもある。

 勉強に関しても、英語の読み方、作文、(たぶん)数学の問題の解き方などにしても、何とも言いようがなく、ふむふむ、ああ、この子は今この段階にいるのだなぁとか、ちょっとずれてきているかなぁと思うことがある。いわば、次元のレベルで捉える見方である。
 それらをすべて「項目」という、言わばベクトルの次元を既定のものとして設定し、その次元上のみで数値化し、ベクトルの大きさを出して評価とするのは、極めて一面的であると思う。「じゃあ、異なる次元を項目として設定したらいいのではないか」という考えは当然出てくるだろう。しかし、奇妙なことに、たとえ次元やレベルが異なる項目を設定したとしても、項目の数が多くなればなるほど、一面的になるような気がする。「既定以外の項目」を想定しにくくなるからだ。それで、私は、ずらり並べ連ねられた「表現された評価項目」が「自分の全てに違いない」という勘違いが起こることを危惧する。人間って、そんな簡単に言語化できる範疇で評価しうるものじゃないと思うのだ。(でも、これは、例えば「英語の学習」等に関しては、反対意見が多いだろうな。シラバスにしても、いろいろ「到達度」を重視する方策が良しとされ、例えば「英検合格」など目に見える効果があるのも事実だから。)

 項目を設定しての評価の全てを否定するつもりはない。しかし、今の学校では、(しばしば書いてるけど)日常生活も平常点も何もかもが評価の対象となり、生徒(特に中学生?)は、まるで先生に評価されるために学校に来ているかのような現状に違和感を感じるのだ。典型的な悪弊は、「こうすれば点になる」ことが多ければ、点が欲しい生徒は、それのみを目的にすることが賢明であると思い込むだろう。「それでもその生徒が伸びれば良いことではないか」と思われたとしたら、私は短慮であると思う。これは、特別な家庭や特別な稽古事など、専門家を目指した特定の一人二人の評価について論じているのではないからだ。あくまでも、「学校教育」という、何百何千、何万の子供を対象としての話だからである。私は、初期中期の集団教育は、他の可能性の芽を摘んでならないと思う。

 評価については、生徒だけでない。教員も、さまざまな評価をさせられ、自分もされている。評価付けの毎日である。生徒はたぶん、「評価の根源」たる試験のための勉強にしか興味がなくなるだろうし、試験に興味もない生徒は、勉強そのものに対する興味も無くなっていくだろう。それで、教員も同様である。評価されない、あまりにも当然とされる事項は頑張らない、する気もなくなってくるだろう。(それで、今、最も犠牲になっているのが授業だと私は考える。教員対象の評価は、評価項目の設定の仕方がまずすぎたり、また、管理職の考え方次第ということにもなるけど。)

 現実は相対評価でしかない今の「絶対評価」は、生徒をどんどんパーツとして捉えることを助長する。それくらいなら、集団によって誤差が大きく出る欠点はあるものの、細かな項目無しに決めてしまう、或いは試験だけで決めてしまう純粋な相対評価の54321(昔は、割合が決まっていた。)などの方がずっとマシじゃないのかと思ったりする。国語が苦手として、自分が読解が苦手なのか、作文が下手なのか、漢字が書けないのか等の具体的な項目は、それこそ先生と顔を付き合わせて話せばわかることである。自分で考えればわかることである。細かいことまでいちいち書面で指図するな(と私が生徒だったら思うだろう)。想像力が貧困になるだけである。模試の結果にしても、五月蝿すぎる。そんなのを読んでいるヒマがあったら、単語の一つでも覚えた方が良い。儲けているのは受験産業である。(失業率は減ってるということだが。)

 学校は、生徒を丸ごと捉える場所でなければならない。だからこそ、子供は安心して成長ができるのだ。だのに、詳細な評価によって、自分という一人の人間が日常的に事細かなパーツとして分割されうる存在として捉えられると、視野も世界観も小さくなるのではないか。だって、数多い評価項目だけが「自分」であると勘違いするだろうから。評価項目だけで「全人的な成長」が可能になるわけがない。

 事細かな評価は、「公平さ」を求め、「到達度」がよくわかるよう、良かれと思って始めたのだろうが、大いに疑問である。どこにどこまでいくかという目標や到達度は、目先のこととしては極めて有用である。しかし、それがいちいち「評価」に結びつくとなると話は別だ。こんなことは、ちょっと勉強をした経験があれば(勉強じゃなくっても良いと思うけど。)誰だってわかるだろう。(だいたい、学校の先生になる人は、生半可にしか勉強をしてない。)

 評価は、「自分のことを知る」ためでもあろう。しかし、「自分のことがよくわかる」なんて幻想に過ぎないのだから、「何だか良くわかんないけど、オレって、ヒトから見ればこんなものなのか。全然わかっちゃいないねぇ。それより・・」と目をソトに転じて、勉強そのものに向かったり、自然や社会現象に興味の対象を向けた方が、どれだけ「オレの世界」が広がるかわからないはずだ。それで、世界を広げることが本来の教育の目的だろう。だのに、わざと視野を狭めようとしているのが今の「評価」であるように思われてならない。

 (上記と関係ないけど、4月の記事にM17星雲さんにヘンなTBを送ってるのに気が付きました。ごめんなさい。)