考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

「わかる」ためには、「あーかもしれない、こーかもしれない」と自分で考えることが必要

2009å¹´05月29æ—¥ | æ•™è‚²
 授業で先生が、「AはBです。」と言ったとする。聞いた生徒が「ふ~ん、そうか。。AはBなんだ。」と思う。通常、これで、「わかった」とされるのかもしれないが、私は「真にわかった」ことにならないと思っている。ただの知識の張りぼてである。

 「AはBです。」に対して、「AはBなのか。そうすると、この間習ったCとかDと今習った『AはBだ』とどのように関係があるのだろう? CとAはよく似た内容だけれど、BとDは、ちょっと違う気がするなぁ。ってことは、どういうことなのだろう? う~ん。。。」と思考が続く。それで、なんらかの繋がりが見えてきて初めて「AはBだ」が「わかった」ことになる。

 こう言うと、「じゃあ、先生が、『AはBだ』だけでなく、CとかDについても言及してくれればいいじゃないか。自分で考えると勘違いが起こってくる危険性があるが、先生がそこまできちんと教えてくれれば、AとBだけでなく、CやDについても正しい理解が深まる。先生~、もっと丁寧にわかりやすく教えてよ。」という反応が返ってくる。で、間違えて貰っては困る、とばかりに、先生は、どんどん丁寧に教える。
 「AはBである。これは、先日教えた、Cとはこれこれの関係があり、Dとはこれこれの関係がある。しかし、CとDでは、あれこれの点で違いがあるから、この違いに注意しなければならない。」
 生徒は、「ふむふむ、なるほど。この先生の授業はわかりやすくて良い。わかった。」と思う。

 しかし、これでも私は「真にわかった」とは言えないと考える。

 読者の中には、「えっ、なんで? さっきAはBだ、と習ったら、CやDとの関係でも捉えることが真にわかったことになると言ってたじゃないか。ほりは矛盾しているなぁ」と思われる方がいるだろう。
 
 もし、先生がAとB,更に、CとDについて言及したなら、生徒は更に、「ってことは、どういうことか? じゃあ、その前に習った、EやFとは、どう関連するのか?」と考えるべきなのである。そこまで考えないと、「真にわかった」と私は見なさない。逆に、「AはBだ」を初めて習ったときに、CとDを思い浮かべなくてもよいのである。EとFとの関連で考えても良かったということでもある。
 
 要は、新たな学習内容は、既知の事項から孤立させてはいけないということである。(それで、ついでに言うと、アタマの良い子は、無意識的に瞬間的に既知の事項と結びつける思考をする。だから、あまり親切な授業は彼らの思考の幅を奪うと私は思う。)

 で、上記のような「わかりやすい教え方」は、思考をどんどん孤立させる。「AはBだ」とだけ教えれば、生徒は、自分で「じゃあ、CやDとの関係はどうなのか?」を自分で考える余裕がある。(もちろん、先生の仕事としては、「関連づけて考える」という方法を常に示し、教える必要がある。)しかし、そこまで先生が話してしまうと、生徒はもっと高いハードルであるかもしれないEやF、或いは、GやHとの関連を自分で考えないと自分自身の思考にならない。

 勉強というのは、自分の中に自分で「体系」を形作ることである。それで、その「体系」は、決して借り物であってはならない。先生から教え込まれた「体系」は、記憶されるべき借り物に過ぎない。そのままでは、自分が「わからないこと」に出会ったときに利用できる物にならない。
 ジグソーパズルに似ているかもしれない。出来上がったジグソーパズルを与えられても、「あ、そうか」と思うだけであろう。完成作品をいくらたくさん持っていても、ピースがバラバラのジグソーパズルを与えられたときに自分で作り上げる能力にならない。ビミョウな形と色彩を弁別して組み合わせるという経験を通して初めて、パズルの作品は少しずつ仕上がっていく。途中の「間違い」は、「しようがない」のである。どのピースも間違わずに順に組み合わせて作品を作り上げる人はいないだろう。内容が難しければ難しいほど、間違いは、「しようがない」、「間違って当然」なのである。
 しかし、間違う経験が積み重なって、人は間違いから学ぶことを覚え、やがて成功に繋がっていく。この右往左往しながら回り道を歩む体験が後々まで利用できる能力を培って行く。ちょっとずつ間違える経験は、新しく学んだことを自分の中に落とし込む良いチャンスになるということだ。
 
 だから、「授業はちょっとわかりにくい方が良い」のである。右往左往する時間を与えてくれるからである。それで、その授業を聞いた生徒が間違えても、しようがないのである。大事なのは、間違えたときに修正する術を身に付けることである。これこそが正しい勉強の方法である。
 それで、いかに修正する技術を身に付けるかが学習上の基礎基本の習得である。基礎基本とは、ただの「容易に理解できる事項」ではない。迷った際に「立ち返ることが出来る拠り所」として、役に立つものが基礎基本なのである。(英語なら、S+Vとかね。)

 先生が「思考の結果」をわかりやすく説明をすればするほど、生徒に考える余地がなくなり、というか、生徒により大きな枠組みを与えてしまうことで自分で自分の身体に落とし込むスキも時間も与えられず、真の思考力が身に付かなくなる。人から習ったことと自分で身に付けたことは、全く次元が異なるのである。
 感受性の高い子供は、教わるだけでは自分がなくなると感じるだろう。
 「覚えさせられることが多いから勉強が嫌いになる」というのも同種かもしれない。その生徒にとっては、自分の能力以上を要求されているということなのかもしれない。(しかし、今どきは、本当に記憶力が旺盛な小学生時代に暗記する能力を育成してないから、なおのこと、覚えることを嫌う中高生に育ち上がってしまい、「覚えることが多いから、勉強が嫌いになる」と言い訳し出す可能性もあろう。う~む。この可能性、結構、高いかも。「ゆとり」以前の生徒は、こっちが驚くほど、何でもかんでも覚えてすませようとしていた。まあ、これはこれで、問題だとも思ったけど、今の生徒は、覚えることを本当に嫌がる。多くの勉強は、知識があって始まるものだ。)
 
 ちょっと前のアエラだったかな? 倉本聡さんのことが出ていた。演劇の富良野塾の塾生の変化である。話は聞くけど、聞いているだけ、とか、反応が無くなったとかなんとか、そんな類である。指示待ち人間と言うことだろう。もちろん、それだけと言わないが、「わかりやすく丁寧な学校の授業」が加担していると思う。演劇とい非常に主体性を要求するものを志す若者にあってすらこうなら、後は推して知るべしであろう。
 
 思い出した。
 私は歴史が苦手だった。記憶力が悪いから、覚えられない。しようがないから、自分で年表を作った。学校では日本史なら政治、経済、文化等は、時代毎に別の単元になっている。世界史なら国、地域別になっている。どちらもそれぞれ、1枚の年表にどんどん書き込んでいった。(世界史はややこしい。)もちろん、ぐちゃぐちゃする。しかし、書いて作ることを通して意外な発見があり時代全体の雰囲気や流れが見えてくる。だから、試験は( )埋めは苦手でも(だって、知らないことが出たら手も足も出ない。)、論述なら書けた。自分が勉強をして覚えてきたことをもとに考えて視点を定めて切り取って書けば、解答用紙は必ず埋まった。精神衛生上、こっちの方がずいぶんと良いではないか。昔の歴史は、今どきより簡単だったとは思うけど。(今は難しいと聞いたことがある。)
 ふむ。
 つくづく、私って、真っ当に勉強をしていたんだなぁと思う。それで、私は、歴史の勉強で、視点を定めることを学んだのかもしれない。今はもう、細かい内容は、ほとんどアタマに残ってないけど「方法」は今でも多少は身に付いているようだ。(そりゃ、知識もちゃんと残っているに超したことはないよ~・泣)

私と話が合う人・合わない人

2009å¹´05月28æ—¥ | æ•™è‚²
 私が人と話をして、その人と話が合うかどうかを判断するのは簡単である。極めて身勝手で、一方的なものである。

 「わかりやすい授業はいけない」と私が言ったときに、「その通り!」と間髪を入れず頷く人や目からウロコを落としてくれる人とは基本路線の話が合う。
 しかし、「えっ? それはおかしいんじゃないのか。やっぱり授業はわからないと。。」などと言ったり、思っていたりする人とは話が合わない。

 後者と話が合わない理由は、2つある。

 一つは「わかりやすい」を「わかる」と同視する思考の粗さである。「わかりやすい」は「わかる」と同じではないはずなのに、「わかりやすい」を「わかる」と早合点する人は、自分自身が「苦労してわかる良さ」を身に浸みて納得してないのである。
 勉強なんて、結局は、自分で苦労してやらないことに決してわかるようになるわけがない。先生の話を聞いての「わかった!」は、はっきり言って、まだまだわかったうちに入らない。生徒の大部分は、大抵、授業を聞いて「わかる」。しかし、できない。習得出来なければ、わかったうちに入らない。この違いは、目的の違いに通じるからもの凄く大きい。その人が、日頃から習得まで念頭に入れて勉強について考えているかどうかがわかるのである。

 もう一つは、「授業の目的がわかることにある」とその人が思っているということがわかることだ。授業の真の目的は、わかると言う結果そのものにあるわけではない。「わかる」に至るプロセスこそが授業の真骨頂である。しかし、これを勘違いしている人は「授業はわかりやすい方が良い」と考える。なぜプロセスが大事かは、習得に関わるからである。素麺のようにつるつる習得できるものなんて、どこにもない。「記憶=習得」でもない。習得には、必ず「内的なプロセス」が関わる。
 習得できなければ、真の理解に到達せず、何も新しいものは生み出せない。真の学習とは、いかに簡単なものであるにせよ「創造」なのである。「自分自身の創造」なのである。(記憶するだけは張りぼてに過ぎない。)

 ついでに言えば、この反応で、その人がこれまでどんな勉強をしてどんな結果を出してきたかもわかると思っている。経験的に、大方間違っていない。

 近頃攻撃的。

楽しかったブロック遊び

2009å¹´05月27æ—¥ | æ•™è‚²
 子供の頃、いろんなことをして遊んだ。低学年のときは外遊びが多かった。近所には子供がたくさんいて、走り回るところも多く、よく遊んだ。宿題が終わらないと遊びに出してもらえないのが不満だった。
 家の中の遊びは、着せ替え人形もあったが、あれは小学校の中学年か、ちょっと大きくなってからだと思う。本を読むのも好きだったが、今でもやりたい(笑)というか、衝動を抑えるのが困る(笑)のがブロック遊びである。

 楽しかった~♪♪

 家にあったのはよくあるレゴブロックではなく(当時、そんなのはなかった。)、イラストに描くウサギの顔のような形で、突起が2本で角のように尖っていた。色は、赤や黄色、緑があったような気がする。赤と黄色は良く覚えているが他の色は覚えていないなぁ。でも、3色ではなかったような気もするなぁ。黒もあったかなぁ。あったような気もしてきたなぁ。青はなかった。赤が好きだった。色を合わせて作りたがっていたが、そこまで数が多くなく、色が混ざってちぐはぐなになるのがいつも嫌だった。

 どうしても出来なかったことがある。ブロックを立てた状態で平面を作ることである。端が真っ直ぐに整った平面を作りたかったが、できなかった。平面を作ろうとすると、2段ではバラバラになりそうで、3段重ねになりそうだった。しかし、元々が、突起が2本でしかもやたら尖っていたから、3段も積むともはや平面を作っているという気分になれなかった。端もギザギザで、途中に穴も空きそうだった。いつもいらいらしていた。結局、投げ出した。変な塊になったのを覚えている。

 2段で互い違いに積んで、ぐるりと丸く大きな輪っかを作ったのは良く覚えている。いろいろなものを「見なし」をして作った。具体的なものでなくても、いろんな形を作った。2個、3個、4個、3個、2個など繋いで自分では○を作ったつもりでいた。なるべく○に近づけようとすると、もの凄くたくさん数がいるようだった。多分、途中で諦めている。
 二つしか突起がなかったから、大きく立体にして繋ぐのが難しかった。また、とんがった角が邪魔だった。一つ二つ、角を折ったのがある。それでも重ねれば、角がどうしても表れる。嫌だった。

 どうやって繋ごうかといつも考えていた。今から思えば、突起が2つしかないのだから大変だったはずだ。レゴは突起が小さく、8つある。私が遊んだのとは全然違う。8つあれば、何でも作れる。2つの突起で、しかも、もともとそんなに数学的?発想に優れているわけでないから、多分、私には大変なことだったと思う。

 でも、楽しかったぁ~♪ 
 いろいろ考えて作るのが、いや、作る、というより、作ろうとするのが楽しかったのだと思う。できばえが良かったわけでないから。高学年か、既に中学生になっていたかもしれないが、大分大きくなってから、レゴのセットに丸い車輪のような物が付いているのを見たことがある。良いな、と思わないでなかったが、車輪の大きさに出来上がりが限定されて、かえってつまらないのではないかなと思った。
 でも、さすが、中学生になってブロック遊びはしてないなぁ。

 何にしろ、遠い昔の話だ。

ゴミ・ケータイの文章の方がしまってる

2009å¹´05月25æ—¥ | æ•™è‚²
 やっと、ケータイから開放され、パソコンの前に座っている。
 しかし、ケータイで打った文章の方が簡潔でしまっているのはどういうわけだ。まあ、コピペの出来ずに打つのが面倒だから、脳味噌はいつもよりたくさん使って書いたと思うけど。
 ちょっとしょっく。(笑)



一皮めくった視点と具体的な話題

2009å¹´05月24æ—¥ | æ•™è‚²
読解の授業で、私はよく文と文の関係を問う。求める答えが、後の文が前文の理由になっているとか具体例になっているとかいう類だが、これが意外にできない。具体的な内容で答える生徒がそれなりにいる。

勿論、問うからには、常日頃、問いに答えられる読み方で教えているのだが、それでも自分だけの力で文と文の繋がりを見いだすことが困難な生徒がかなりいる。彼らの意識に、文同士の関係性なんてどうでもよく、それよりも個別の語句の意味などの方が重要だという考えがあるかのようだ。理由は予測がつく。試験で答えるべき内容は、関係でなくそこに書かれている具体的な説明だったり訳だったりするからだ。しかし、問いに答えるときには、その問いの意図をきちんと汲み取らないと正しい答えにはいたらない。この際、重視すべきことが、文と文の関係だったり、語句と語句の関係、段落同士の関係だったりするのである。しかるに、そこまで深く思いが至らず、どうしても具体例な語句や表現に終始してしまう場合、成績の伸びは頭打ちになる。真に読めないのである。語句などに表出しない部分まで読み取ってそれで初めて読んだことになると私は思うのだが、なかなか難しいようだ。

それでも、みんなが大学に合格する。そこそこ良い大学にもちゃんと合格する。大学で、きちんと一皮めくった視点からの読み方ができるまで学習してくれれば良いけれどと思う。通り一辺やって、自分は何でも理解ができていると思うことほどこわいというか世に迷惑なことはない。

勉強をする、というのは、そこまでできてやっと基礎に到達したということだと思う。

わかりやすさと情報化と成果主義

2009å¹´05月23æ—¥ | æ•™è‚²
わかりやすさと情報化と成果主義は、関係がある。
全て、切り取ったものを重視するゆえ、非常に明解であるという点が似ているということだ。

わかりやすさの反対のわかりにくさとは、十分に切り取られていなくて曖昧模糊とした状態である。情報化とは記号化で、これはこれで白黒はっきりしたものである。成果主義は、結果主義ということだから、少なくともその時点でそれ以上の変化は想定しない。だから、明解であると言える。

変化という観点で言えば、石の上にも三年は、石の上であっても三年ということだろうから、実際は五年、十年であろう。離職する若者や離婚の増加も理解できそうである。自己の変化すら想像しないということだ。

変化するものは、基本的にわかりにくいのである。子供が大事にされないとしたら、彼らは、成長という変化をするから、今の世の風潮に合っていないのだろうな。

それで、変化するものを捉えたかったら、ただひたすら感覚を研ぎ澄ますことだ。変化を捉えるのは、身体感覚を通してのことだ。

わかりやすさは脳への入力で情報化と結びつき、結果も情報と同様に変化しないという点で結びつく。
これに対立するのが変化を捉える感覚となると、これは、養老先生である。

書き始めた時に、まさか養老先生がでてくると思わなかった。

う~む。養老先生は、やっぱりすごい。

↑今、携帯メールで打っているから、推敲ができない。話があっち行ったりこっち行ったりして、わかりにくいかもしれない。すみません。
ん?その割にましか(笑)

○をつける

2009å¹´05月23æ—¥ | æ•™è‚²
生徒が自分でする答え合わせで、和訳であれ説明であれ、記述の解答で、私の理解を超えているのは、自分の答えが模範解答通りでない場合、---ほとんどがそうだということになるが、---ばっさり×を付けて模範解答を写すことだ。あるいは、少し違っていて、不十分な答えにもかかわらず大きく○をつけるやり方である。部分的に修正を加えて訂正する生徒が少ないのが気にかかる。

記述式の場合、all or nothingで○付けできるわけがないのに、彼らはそれをする。自分の解答の間違っている部分を見つけだしてそこだけ訂正することをしない。
多分に、間違いを見つけだす力がないのだろうと思う。

勉強をする上で大事なのは、どこがどのように合っているのか合ってないのかを判断して区別することだと思う。そうでないと、本当の力にならないし、大体、世の中の全ては、一部分が正しく、一部分が間違っているものだから、そうも簡単に○×を付けて判断してもらっては困る。

ふと思えば、数値で結果を表すのにも同じ思考法が使われているはずだ。点数は、最高点が決まっているから付けることができる。数字は、一見、正確にみえるが、判断しているのは、あくまでも人である。上記の生徒のような人が○×で点をつければ、一体どうなるのか。基準が大切だ、という声も聞こえそうだが、基準を決めるのだって、その場にいる人だ。その人たちが、、、と思うと、すごい世の中だなと思う。
まあ、だから、みんなマスクをして歩いているのかもしれないけど。

勉強が好きな子が少ないワケ(推敲)

2009å¹´05月21æ—¥ | æ•™è‚²
 たいていの子供は勉強が嫌いだ。

 当たり前だ。勉強とはそもそもが不快だからだ。必ず、わからないものや未知のものに出くわす。了解不能は、気分が悪い。誰だって「わからない~」は、嫌でしょ、ということである。しかも、勉強の不快は、食欲、睡眠欲、性欲という動物的本能から著しく逸脱している、後付けの大脳が感じる不快であろう。あたりを見渡せば、三大欲求から鑑みての魅力が溢れている。これらの達成に多少の不快が伴ったとて、本能ゆえ、つまり、自己、或いは種族存続のためゆえには、当然のごとく当座の不快を乗り越えよう。よって、勉強の不快は、他とは違う不快に満ちていると言えるだろう。
 しかし、そもそも、「わからない」という不快に対する嫌悪感は、これもまた、ひょっとしたら本能に由来するのかもしれない。とにもかくにも自分たちが生き抜いてきた既知のアリーナの外から襲ってくる未知なる敵ほど恐ろしいものはないだろうから。勉強が持つ「未知」には、たぶんにそういった性質がある。なんてたって大脳は、まだまだ進化の途上にある臓器なのだから。そこから何が出てくるのかなんて、だれも全くわからない。

 勉強に伴う不快を解消するにはいくつか方策がある。
 一つは、未知なるものに出会ったとしても「これは既知だ」と自分に思いこませることである。生徒の学習法だと、きちんと覚えきってないことでも覚えたつもりになることだったり、授業を聞いただけでわかったつもりになったりすることである。試験さえなければ、試験に出題されなければ、自分がわかってない事実に直面せずに済むから自分の中では十分に「既知」に分類しうるというわけだ。重要なのは、実際にどうであるかでなく、あくまでも自分に不安を感じさせないことだから、客観性はどうだっていいのである。たとえ試験でできなかったとしても、「本当はわかっていたんだ。たまたまあのとき、できなかっただけだ」と思えばいい。---このような判断をする生徒は多く、概して成績が今一つである。しかし、現実に目をつむりさえすれば、自分の不快感は解消される。「勉強よりもっと大切なことがある」と、価値の転換を図ることもありうる。しばしば「逃げ」と表されるものだが、同調する人も多い。イヤなものからは、逃げ切ることができれば逃げるに越したことがないのも真理の一つだ。ただ勉強に関する「逃げ」に叱責が来るのは、単に、今の日本の社会が、勉強や学校から逃れにくくなっているからという理由ゆえである。

 もう一つは、「それは自分には関係がない。必要のないことだ」ともっと積極的に排除する方策である。この考え方を取る生徒も多い。今現在の自分が興味を覚えないこと全てを「そんなこと知らん」「関係ない」と捉えれば、自分を取り巻く世界の全てが、既知あるいは既知に近い事柄となる。周りの大人は、もしそれが自分の将来のことだったら、関係ないどころか、自分そのものの問題だろうと思う。それなのに、なぜ関係がないとするのかが理解できない。しかし、これは、それぞれが既知とする世界の範囲が設定からして異なるということに過ぎない。

 いずれにせよ、こうした考え方を理解するには、「未知に対する姿勢」を考えるとよかろう。
 多くを「わかったつもり」になっていたり、「関係ない」「そんなこと知らん」とする生徒(大人でも同じだが)は、「未知への欲望」がないのである。

 未知への欲望を損なわせるものは、今の世の中にあまりに多い。インターネットで知り得た知識の既視感もそうだろうが、勉強と重なりやすい概念として、何でも「わかりやすい方がいい」というのがある。しかし、この「わかりやすさ」は、seeing is believingの視覚優先、イメージ優先のわかりやすさになることが多い。「説明」が、論理的な思考力を伴った「わかりやすさ」でなく、瞬間的にわかる「わかりやすい説明」に、我々は日頃から慣らされてきている。これは、勉強に関わる「わからない」という未知と対立する考え方に他ならない。思考に関わる「わからない」という不快を究極まで排除することで、言わば「未知なるもの」を徹底的に否定していると言えよう。
 勉強とは己の未知に向かうものであり、必然的に「わからない」という不快を伴いながら自分の世界観を広げていくものである。なのに、世の風潮は、勉強を根幹から否定しているのが現状ということだ。

 この環境で「勉強好き」が増えたり「勉強嫌い」が減ったりするわけがない。不快を排除した「楽しく、ためになる勉強」を目指せば目指すほど、子供の世界観は既知に捕らわれ限定的になるとみなしてほぼ間違いないと思うが、いかがだろう。だって、「楽しく」も「ためになる」も既知の世界観を表出する言語だ。(こう書くと、「未知を知る楽しさがあるだろ」と言う人がいそうだが、それはまた別の話だ。enjoyの後には--ingしか来ない。to不定詞は来ない。)

 ついでながら、自死が多いのにも私は同根があろうと思っている。

 書き忘れた。
 人間が、同時に未知への欲求を持ち合わせているのも事実である。いかに上手にそっちの方を引き出すか。---勉強とは、そもそも、面倒くさく、そんなに簡単に楽しくなるものではないのが当たり前、と教えておくのが一番だ。
 なんといっても、勉強は、後付けの大脳を鍛えるのが目的なのだから、背筋を伸ばしたちょっと緊張した雰囲気という、三大欲求からは遠く離れた気分で何年もそのように言われ続ける必要があるだろう。時間を掛ければ、多くの子供は真の勉強がどんなものであるが、自ずからわかってくるだろう。子供とは、そういうものだ。
 ついでに言えば、もともと勉強が好きな子は、大脳が相対的に進化発達しているのである。該当するのは、知的能力として上位に位置するわずか数%だろう。しかし、人間は、そもそもが大脳の発達途上にいるのだから、全ての子供が、発達しうると考えて良い。だからこそ、人間は、人間であるゆえに勉強をするのだ。勉強に関わる未知への知的欲求は、発達遅滞の子も持っている。学生時代、そんな論文を私は英語で読んだ。

 それにしても、今どきの絵本のような教科書が最悪だね。視覚に訴えた興味関心や理解は思考の論理を育てないよ。絵本は、もともとは、未だ思考力のない幼児のためのものである。(と、こう書くと、「あら、大人だって、絵本を読んで豊かになるわ」と言い出す人が出てきそうだが、漢字表記を習ったからと言って、ひらがな表記を使わなくなるわけでないのと同じである。)わかってないよなあ。