考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

正法眼蔵の諸法・仏法・縁起・不生不滅

2012å¹´02月18æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 正法眼蔵の現成公案(正法眼蔵のエッセンスらしい)はこう始まるようだ。
「諸法の仏法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり、万法ともわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」
 「諸法」とは、「あやゆるもの」のことらしい。(これは、本の解説などにあるようだ。)仏法はわからないから、(安直にウェブで)辞書を引いた。「仏の教え」とあるが、なんのことかわからない。「法」も調べると、「掟、秩序維持の規範、一定の手順」などの意味がある。もちろん、「仏教で、仏の教え」「仏教で、存在、現象」「死者を弔うこと」などがある。「諸法」の「法」も「存在・現象」であろう。「法」のこうしたさまざまな意味から類推するに、「法」の本質には「何かが他のものと何らか秩序だって繋がっている状態や状況」があるのではないだろうか。(その観点で「存在・現象」を捉えると非常に興味深い。「仏の教え」という意味は、仏の教えそのものがこうした「法」の本質に則ったものだということだろう。)
 般若心経には「諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得」などあるが、まあ、もともとは同じお釈迦様に由来するから同じだろう。で、普通はこうした文言が何を意味するか、わからない(と私は思う)。で、もう一つ、「縁起」もよくわからない。

 でも、突然ですが、思ったのです。
 仏教で言われる「法」や「縁起」、そこから生起する「不生不滅」などの考え方は、もともとは、生物のクエン酸回路のように、モノが循環する「システム」あるいは「働き」「機能」としてあるものではないか、と。ちょうど、「唇」は存在しても、「口」は機能を表す言葉だから、「口」そのものは存在しない、みたいな。(@養老先生)「縁起」とは、モノが巡り巡って循環する、まさに、その「循環する働き」を指す言葉ではないでしょうか、と。(この考え方は、私が類推する「法」の概念と重なります。)

 そのように考えると、我々でも誰でも、「個物」の存在は、それぞれ「別個のモノ」として存在するものの、我々を形作っている原子や分子、エネルギーの循環など、さらには、思考の伝播のような授受、その他もろもろを「働き」あるいは、他との「循環」が関わるシステムと捉えれば、たとえ我々がそれぞれ個別に生死する存在でありながら「仏法」や「縁起」が常に同様に、自分自身に関わってきます。我々は、個別に存在しながらも、自己以外のものとの繋がりなしに存在できません。この現実を仏教では「仏法」や「縁起」と表現したのではないでしょうか。この意味で、我々は決して仏法や縁起と無縁でいられないのです。巡り巡る「循環」という働きそのものは「我々」を個別に存在させ、生滅させながらにして、「循環」は決して止まることがないと言う意味で同時に「不生不滅」であることになります。
 クエン酸回路は、いつ観察しても固定して物質が存在しているように見えます。この状況が「諸法」として存在する「あなた」や「私」です。しかし、クエン酸回路は、一瞬たりとて、同じ物質がそこに留まっていることがありません。つねに外部とも内部でも、「やりとり」をして恒常的に循環が行われています。その機能や循環というシステムこそが「仏法」や「縁起」に当たるものではないかということです。「循環」は常に、どこででも生じているということです。この意味において、さまざまな場所、形態で生じる現象のすべてが「法」ではないのだろうか。

 ならば、話が早い。

 「循環する機能やシステム」と言う考え方をすると、そこには生もなく死もなく、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。・・」ということになるのは、当然です。

 「仏教」の教えとは、広大な「システム機能論」だったのです。

 数週間前「ためしてガッテン」で、不安を克服する番組をやった。そこに、謎の男性「平井さん」と言う方が出てきて、バンジージャンプに挑戦するが、おなじ挑戦をした番組スタッフと異なり、平井さんは、不安をやり過ごしていた。
 「平井さん」の正体は禅僧だった。平井さんの脳の検査をすると、背内側前頭前野という部位の血流が多いことがわかった。この部位は、不安の感情を生み出す扁桃体の暴走を防ぐらしい。平井さんの場合、これがうまく機能していたため、上手に不安を乗り越えた。
 「座禅によって極度の不安をのりこえることができる」という一種の「生活の知恵」は経験で到達したのでしょう。
 「仏教」が目指すものは、ある意味一部に、(ひょっとして、)通常の意識だけでは到達できない能力の開発も含んだのではないでしょうか。(少なくとも、「修行」はそうだろう。)
 「禅」は、たぶん、「今、ここ」を大事にします。これは、自転車をこぐことを大事にするのと同じような気がします。だって、自転車はこぎ続けないと、倒れてしまいますから。こうした循環・機能を重視することが、まさに、「生きる」ということではないでしょうか。個体としては生死があっても、循環するという機能の観点で、不生不滅になるのです。

 この考えの根底にあるのは、「現象(個物)」と「現象を形作るもの(循環という働きのシステム)」を同次元のにある対比的なものとして捉えず、「重なり合うもの」として捉えたことです。(次元が変わるということです。)「諸法」と「仏法」を、「犬」と「猫」のようにとらえると、決して違いを理解できないでしょう。そうではなく、「犬」と「動物」のように捉えるわけです。犬と動物は、思考の次元が異なるので、異なるものでありながら、「重なり」があるのです。

 「仏法」とは、我々生きとし生けるものは生死ある個別的な存在としてだけでなく、循環機能的な存在として在ることを知らしめる教えではないでしょうか。それで、これを体験的に知ることが「悟る」ことではないかというのが私の仮説です。

 (と、理屈ではわかったとしても、修行の「し」の字も知らない者は、実感としてわかることなんて出来るものでない。)

江戸幕府とスルタン

2008å¹´01月25æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
とは奇妙な組み合わせであろう。
 
 聞いた話。オスマントルコだと思うけど、スルタンが統治していた。しかし、スルタンは世襲制らしいが、血を分けた後継者が一人決まると、他の兄弟は、たぶん、異母兄弟も含まれるのだろうが、皆、命をなくされたらしい。自ら死を選ばされたのか、あやめられたのかどうかは聞いてない。
 「そんなの、人間のすることじゃないよね」という感想がふつーだろう。

 しかし、(と、こんな書き方をすると、おまえ、人間じゃねぇな、と思われそうだなぁ。苦笑)そのお陰で、無駄な世継ぎ騒動や謀反が起こらずにすんだのではないのだろうか。「不要になった高貴な血」が絶たれることによって、「多くの庶民の血」が内乱で流されずにすんだ、東西を結ぶ要地にあって国家が繁栄したということはなかったのだろうか。
 
 このスルタンの例は、「集団と個」の対立にかかわるだろう。
 「帝国秩序の維持」という「集団」の利益を最大の目標に掲げた上での「政策」として、対立的に「個」たる「高貴な若い血」が流れたのだ。

 人間にとって、最も不都合なのは、共同体が維持されない状態、アナーキーな状態であろう。そこでは、個々人の生活、命の基本が全く保証されないからである。現代社会では民主政治が最高のものとされ、専制政治や独裁は否とされる。しかし、アナーキーを土台に想定すると、たとえそれが独裁政治や専制君主の存在であったとしても、アナーキーより「まだまし」「ないよりずっといい」という判断が可能になるだろう。なぜなら、ともかくも「ああするとこうなる。こうならないためにはああすると良い」などの「予測可能な未来」としての「秩序」が存在する。個人の自由などが保証されるわけではないが、「その制度」への適応を図れば、なんとか生き残る道が開かれるのである。
 その点、「王の血を分けた」というだけで命を失わされた者たちには、極めて非人間的で理不尽な仕打ちだったろうが、「帝国」という「共同体」を守ろうとした手段として、考えられ得る方策だったとも言えるのではないか。もし、スルタンが「兄弟」と反目し合い、内乱が起これば、「帝国」はそれだけの理由で潰れた可能性を孕んだはずだ。イスタンブールの繁栄の陰には、おそらく「高貴な血の犠牲」があったのだ。

 その点、江戸幕府さんは全然違う。というか、世継ぎに恵まれないことが多かったというのはあるのかもしれないけれど、それでも、御三家が謀反を起こすことなんぞ、想像し得なかったはずだ。もっと言えば、スルタンの例に倣えばそもそもは邪魔になったはずの「御三家」である。それが時機を得たときに機能したのは、実に幕府の統治がうまかったといえるのだろう。もちろん、民族性の違いが関与したかもしれないし、また、将軍そのものが、常に暗殺や勢力争いの渦中に位置しているという危険を前提としたこともあろう。「毒味役」なんてのは対策の典型だ。(と言って、スルタンに毒味役いたのかいなかったのかどうかは知らない。)
 もちろん、江戸幕府にも「泣いた個人」の存在が数多く陰にあったはずだ。それで、その人たちは、必ずしも「庶民」とは限らなかったのだ。庶民は平和なときにあって、平和を当然のものと欲望する。しかし、その陰で、支配者層の欲望だからといって、皆が皆、必ずしも叶えられていたわけでなかったはずである。

 個と集団の関わりを考えると、なんと人間の欲望とはややこしいのだろう。

 

「修行」と「人生は過程である」

2007å¹´11月17æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 玄侑宗久さんのテレビ番組「知るを楽しむ」(?)を見た。
 「禅の修行」ってのは、「自分に対する信頼」を元に自分を確認することなのかなとちょっとだけ思った。それが常に継続していく。(「だから、人生とは過程なんだよね、きっと」と私の中でリンクする。)
 肉体を酷使することで、自分を知る、それまで意識上でしか知り得なかった自分「以外の自分」を知る、というか。でも、これは、そもそも自己の存在に対する根源的な信頼、変容に対する柔軟性も含めた信頼のようなものがないとできないんじゃないのかな、とか。

 生徒が「変わりたい」と思ったとき、或いは、だれでもそう思ったときにするのが、着るもの、格好、ヘアスタイルを変えることである。物理的な「肉体」の延長を変化させることではないか。しかし、安易である。
 それを難儀にも肉体そのものを酷使することで行うのが修行なのかな、と。だから、偽物でなく、根源的な変容に至る可能性を秘める。それでも、或いは、その変容をもぐくめて全てが自分なのだ、と。
 人間は、肉体無くして存在し得ない。「脳」なくして存在し得ない。入出力を司る「身体」なくして存在し得ないという前提である。

 ちょっと余り脈絡無く思っただけ。(整合性があるかどうかわからない。)

私の考える「絶対性」

2007å¹´10月24æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
今日の内田先生のブログ、

>真の知性は「存在しないもの」、私たちの意識から絶えず逃れ去ろうとするもの、知性が把持することのできないものを選択的に追う。

これが「絶対性」なんだよ。私のコトバで言うと。
「絶対性」は、問うても問うても、逃げ水のように捕まえられないモノだと思う。それで、「問うてはならない」領域にまで行くのは、人間の知性の限界が、今のところそこだということなのだ。「数学の原点」とか「にわかに無がある」がそれだろう。(荘子も、だから、「にわかに」としか表現できなかったんじゃないのかな。←これがいい加減な言。ま、私の言うことは大方いい加減だけど。)
で、だから、人によって「絶対」の定義は異なるとも言える。


「わかる」を好む人と「わからない」を好む人

2007å¹´09月15æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 私は2つに分けて考えるのが好きだから(あくまでも、「視点の取り方」という意味での分類である。)、タイトルのように分けてみた。

 一般には、前者に属する人が圧倒的に多いのだろうなぁ。「わかりやすさ」というある種「幻想」が蔓延っているのもだからだろう。というか、「わかりやすさ幻想」が蔓延ることで、前者が目立つのだろうなぁ。「わかって安心」する人たちである。自分はわかるんだ、という自信家なのだろう。
 これに対して、後者は、「わからないから面白い」と感じる人だろう。で、いろいろ考える。答えもいろいろ出る。で、あーでもない、こーでもないと仙人になって談義する。きっと楽しいだろうよねぇ~。

「普遍」の不幸

2007å¹´05月08æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 う~ん、どう考えても(ってほど考えてないけど)、「普遍」は「抽象」に通じる人間だけが獲得した概念なのだろう。で、感覚の世界と対立する。全ての問題の根源がそこにあるような気がする。

 学校で勉強を教えていると、(まあ、それが仕事だから・笑)そろそろ人間の抽象化能力の限界にきているんじゃないのかなと思う。どう見ても、高校の学習内容は、中以上の生徒の能力を超えている。だから、校進学率90%で、「わかりやすく」「効率的に」など、本来無理な方法論が世を席巻しているのだろう。そんなにわかるわけないんだって。

 で、ついでに言うと、わからなくても良いんだって。だって、ニュートン以前は、誰も微積分なんてわからなかったのだもの。地球が丸いと言うことも、微生物が物を腐らせることも、だれもわからなかった。でも、昔から、ずっと変わらずにやってきたことはある。分かるためにはどうしたらいいか、考え方を身に付けようとすることだ。最も大切なのは、そのことなのに、今はこれを忘れて、結果だけを身に付けさせようとしている。今の日本の教育の最大の問題点は、そこ。だから、応用力に欠ける。だから、大人になって、学校の勉強が役に立たない。で、ますます、「学校ではもっと役に立つことを教えろ」という論法になる。この「役に立つ」は、短絡的な意味での「役に立つ」だから、ますます本来のあり方を離れる。悪循環も甚だしいったらありゃしない。

 で、そろそろ人間全体の抽象化能力も限界に来ているから、養老先生は「物量にもどせ」と感覚(身体)を重視させることをおっしゃるのだろう。

 養老先生の「小説を読みながら考えた」をパラパラ読んでいる。よくもまあ、小難しいことを考えながらファンタジーを楽しめるものだ。養老先生は、ホントに脳味噌の容量が大きいようだ。
 ファンタジーを楽しむ能力と、虫を楽しむ能力は似ているのじゃないのかな。(と、両方を楽しめない私は思う。「自分の分からないものは、全部同じものだと想定する」という判断の典型である。笑)
 で、ま、自分のことを言うと、ホント、私は自分の脳味噌の能力以上のことを考えようとしているとしか思われない。

 (おお。「予習」をしなければならない。でも、明日のじゃないよ。笑)

突然ですが、「不立文字」(追記有り)

2007å¹´02月26æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 以下、恐ろしい推測。(笑)

 禅の「不立文字」は、人間も感覚の世界に根ざしていることを表すのではないか。

 人間は、言葉なくして生活しえない。言葉には「切る」作用がある。これは、感覚世界に根ざせば全てが異なるあれやこれやの存在物にどこかで線を引き、「これとこれは同じだと見なす、よって同じ名で呼ぶ」「これとこれは異なると見なす、よって異なる名で呼ぶ」と分類することである。抽象化である。

 しかし、動物的なる存在としての人間は、もちろん、生き物としての「感覚」を有する。ところが、何せ人間は上記のような「言葉」を持ってしまったゆえに(正確には、抽象化思考をすることで、言葉を持つに至ったわけだが)、ややもすると、ひたすら抽象の方向に思考が進んでしまう。生徒を見ていても、同じ言葉で表現されるものに「差異」を見出す生徒は実は少ない。大抵は、「同じ言葉」で表現されれば「同じもの」だと捉える。「感覚」が忘れさられるわけだ。たぶん、人間は、そんな風に、「言葉を通した抽象化」が大好きな存在で、感覚で捉えた外部情報も、「言葉」というフィルターに掛けられると、大概のものを「同じ」と分類処理して思考を停止し感覚を麻痺させ疑うことをしない。

 「不立文字」は、そこに異を唱える。こういった言葉に左右される思考法にそれこそ「喝」を入れると言うことだろう。

 禅の「悟り」とは、ひょっとしたら「言語に象徴される抽象の世界」と「動物的な感覚の世界」の行ったり来たりを自由に行えることを示すのではないか。その意味で「次元」を異ならせて変幻自在に世界を捉える自由ということはないか。

 幸運なことに、くだけた口語訳の禅の公案を時間を掛けて読む(?)機会があった(←タマタマである。)のだが、公案の意図するところは全然わからなかった。(笑)でも、ぼんやりと「印象」として残ったのが、これである。

 多少なりとも合っているのか間違っているのか、わからないが、禅の修行が身体を酷使し、新しい展望を開くことを企図しているようにも思うから、どうだろうかと思う。

(追記)
 「悟ったとき」は、「わかったとき」であろうが、「わかる」のはパチンと手を打ちたくなるような瞬間の出来事だろう。となると、「悟り」も瞬間だろうと予測される。(そこに至るまでの「助走」のようなものはあろうが悟りそのものは瞬間に訪れるのではないか、ということだ。)
 「瞬間」とは、きっと「無時間」であると考えられる。「無時間」は視覚情報のような平面或いは空間モデルで表されるものだろう。となると、「言葉」とは相容れない。なぜなら、「言葉」は時間軸に依るからだ。言語は、瞬間のような無時間では決して表現されない。「考えを述べる」場合も、言語を使う限り「時間が掛かる」ということだ。
 だから、ひょっとしたら、禅の悟りは時間軸に当てはまらない無時間モデルの「不立文字」なのか。

道具や新製品が好きな人

2007å¹´02月24æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 「文明」は、道具の発達の歴史に関わるだろうと思う。道具とは、もちろん「何かをするという目的完遂のための物品」だが、人間というヤツは、案外に、道具そのものを作るのが結構好きなんじゃないかと思う。その結果、より便利に効率的に目的を果たすことができる道具、より快適に使える道具を作ることが出来るようになってきた。車も飛行機も、眼鏡も望遠鏡も、テレビも電話もコンピューターも全てそのはずだ。で、多種多様な道具を作り出してきたのには、目的完遂のためだけというより、ただひたすら工夫して、次から次へと新しく作り直すことそのものが好きだってことはないのかなぁ?(←言いたかったのは、これ。) 

 で、「道具を工夫する能力」は、国民性や民族によっても異なる可能性があるだろう勝手に想像するが、ここで日本人の登場である。
 日本人が、物まねというか、改良するのが得意なのは、そもそも「工夫好き」の血が流れているからではないかしら。

 もちろん、「自然の豊かさ」に関わる。
 道具とは必ず「モノ」である。(よくわからないが)コンピューターのハードは「自然」に関わる「感覚世界」に所属する。だって、機器として成り立たせるのは、プラスチックにしても電気にしても何にしても、物質(やその類)である限りもともとは「自然」の産物だからだ。(脳味噌の中から、機械の原材料は取り出せない。)小さなチップ(と言うのかな?)を作るには、「モノ」を使わないことに、しかも使いこなさないことに、どんなにアタマの中で正確な設計図を書いたとしても実体化は不可能である。
 で、なんてたって、自然の豊かな土地で暮らしてきた日本人は、感覚世界の住人として、抜群の才能を示すだろう。扱う「モノ」が変わろうと、「そこに存在するモノを意に沿わせるがごとく工夫して扱いこなす」という過程は同じだからだ。

 で、加えて(かどうかよくわからないけど)、日本人は「新しいモノ好き」のようだ。(養老先生によると、そもそも大陸から出てきたことそのものが新天地を求めてのことになる。)それで、モノが豊富なこの土地で、どんどんその才能を発揮した。材料に不足はないうえに、どんどん新しいモノに出会いたいという欲望がある。で、工夫していくことの面白さを知ってしまった。それで、改良を重ねて「より良いモノ」を作る。それがこれまでやってきたことだろう。

 社会の規模が大きくなってくると、分業化が起こる。「工夫する人」と「それを使う人」に分かれる。「お客様のご要望に応じて」が起こる。これが更なる工夫、改良となって連鎖し続ける。

 「新製品」と聞くと、ついつい買って試したくなるのにはこのような背景があるのではないのかな? で、こういった購買層に支えられ、工夫する側の人の生活を支え、新たなる新製品開発の動機を与える。
 
 えー、ちなみに、私は、(こんなこと書かなくてもおわかりになると思いますが、)新製品にそんなに興味がありません。(笑)


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2007å¹´02月15æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
・加筆をしました。骨子は変わらないんだけれど。もともとが養老先生の受け売りです。(笑)

2006年8月22日の記事「無思想と四季」です。
http://blog.goo.ne.jp/kkhrpen/e/b1000e86a09ccab97f2f9261007fb270