考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

思考の枠組みの必要性

2010å¹´01月31æ—¥ | æ•™è‚²
 勉強をするとき、「基本と応用」という考え方をする。それで、応用問題は難しい、などと表現する。しかし、応用問題とは、基本事項が絡み合っているにすぎない。言ってみれば、何本かの糸が絡まり合って結び玉が出来ている状態である。これを、「難しい」と表現する。ほどくには、結び玉の部分を緩くする。そうすれば、糸と糸の絡まりがよく見えてくる。この糸があの糸の下側を通っていて、もう一度絡まって、また違う糸の上に回り込んでいて、、、という感じ。これがわかれば、後は、順番にほぐしていけばいい。わからないのは、絡まり具合がわからないのである。それで、どうしたら絡まり具合がわかるようになるかと言えば、それぞれの「糸」を深く知ることである。そうすると、「この糸」と「あの糸」がぱっと見た瞬間に区別できる。それで、絡まり具合が見える。
 難しい問題を解くときに何が難しいかというと、絡まり具合が難しいだけで、基本事項そのものが難しく変貌しているわけではない。ここが肝要だと思う。基本は、基本問題であっても応用問題であっても、変化はない。応用問題がわからない、というのは、基本を本当に習得しているわけではないということにすぎない。
 (と、ここまで書いて、わりに最近書いた気がしてきた。)
 それで、こうした基本の重要性に気がつくのが意外に難しい。

 と、違うことを書こうと思っていた。
 思考の枠組みである。知識はおおかた羅列的に存在する。典型的なのが、「単語集で単語を覚える」とか「一問一答」である。生徒は、これで勉強をしたがる。しかし、羅列的な知識は活用できない。体系的に捉えられてないと、結局応用できない。ここで必要になるのが、「思考の枠組み」である。勉強をするには、この「枠組み」が必要である。それで、関連する事項を引っ張り出す、「ずるずる」と。「引っ張り出し方」が応用である。それで、羅列的な知識だけで物事を済まそうとすると、「思考の枠組み」「体系」というものの存在すら気がつかない。大事なのは、これだ。どんな場合であっても、「体系」というものが存在すること。これで捉えると、物事が異なって見えることを知る。体系的にモノを捉えることの最大の価値は、「体系というものが存在すること」を知ることである。一旦、こうした思考の枠組みの存在を知れば、他の思考の枠組みの存在を知る力になる。この意味で、最初に体得する思考の枠組みは、どんなものであろうと構わない、ということになる。なんだって、いい。でも、そういうものが「在る」ことを知ることが大事なのだ。
 何であれ、勉強をするこのと意味は、ここにあると思う。

 でも、↑こういうことを言うと、「でもやっぱり、個々の知識だって重要だよね」と言う人が出てくる。体系とか、思考の枠組みと言った時点で、個々の知識を含有するのである。「個々の知識⊂体系」である。知識と体系は並列するのではない。

こんな時になんだけれど、点数なんてどうだって良いじゃないか

2010å¹´01月30æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒は、私大や国公立に向けて、頑張っている。英語の授業は相変わらず、授業。当たり前だけど。
 最近(?)疑問に思うのだけれど、ひじょーに多くの人は、受験勉強と普段の勉強は違うと思っているということである。
 うん。ある意味、--たとえば、指定語数で答えなければならない、とか、ケアレスミスをしてはいけない、とかにおいては、試験対策と勉強の違いは歴然と存在するが、英語なら、英文を読む、日本語を英語にする、基本的に要求されることはそれだけである。どう違うんだと思う。そんなの、一緒じゃないか。
 普段の勉強が受験勉強を含有する。なのに、受験勉強と普段の勉強が違っていると思うから、普段の勉強が浅くなって、読み書きも力が付かず、試験も出来ない、という悪循環に陥る。
 それで、たぶん、上記の根本的な(私に言わせると)「勘違い」は、特に「読む」を受動的な仕事だと思っているからではないかということだ。だから、問題に答えなければならない試験は、いつもの自分の読み方では対応できないから、特別な勉強が必要だと思うことになる。
 でも、読む仕事は、能動的な営みである。だいたい、パターンが決まっている。と、こう書くと、「出題パターン」と言う発想で捉える人が多いだろう。でも、私の意図はそういうのではない。もっと、内容に関わる着眼点である。要は、ちゃんと読めれば、それなりに答えることが出来ようと言うことである。あとは、自分の日本語力や纏める力である。それで、これは、自分で努力しないとできるようにならない。ちゃんと答えるためには、ちゃんと読み取る、ちゃんと日本語で答える、の2つの過程が関わる。ところが、多くの場合は、両者の区別が付かない。実際にはちゃんと読めてないのに、自分は纏めることが出来ないでいるんだ、と思ったりする。それで、もっと問題に慣れないといけない、と考えたりする。もっと読む力を付けないといけない、とは考えないのである。それではいくら問題をやっても出来るようにならない。
 それで、ちゃんと読む、のは、普段の授業でできるのである。もっと言うと、自分でできるのである。それで、これが出来なければ、問題だってできない。

 というわけで、なるべくちゃんと読むための授業をしているつもりだけれど、問題が付いているテキストだと、生徒は問題だけやって終わり、になりがちである。わかってないんじゃないかと思う。今年は、彼らに勉強の方法を教える時期に、諸般の事情で教えきれなかった。仕方がなかったのだけれど、彼らの悪弊を取り除くことが出来なかったのが悔やまれる。

 ↑タイトルと全然違う内容だ。

 「先生、この答えだと何点ですか?」と私に聞きに来るのは止めろ。
 採点基準なんて、大学によって違う。学力を付けたいのなら、今の自分の点を気にするより、どうしたらより良い答案になるか、に関心を持て。でないと、力は付かない。当てずっぽうの自分の英作文の出来を気にするより、模範解答を覚えた方が、ずっといいぞ。

作文病その2

2010å¹´01月23æ—¥ | æ•™è‚²
 自分で文章を書いて良かったと思うのは、読むときに「文章を書いた人の気持ち、思考」をなぞれる気がするからだ。
 自分自身が、言葉を連ねるとき、(真面目に書くときは)必ず、語と語と関連を考える。もちろん、文と文の関連、段落の関係も考えて書く。だから、読むときも必然的にそういった思考法を取る。けっこう、徹底している。で、これ、授業の時によく役に立つ。英語の文章は、特にこうした捉え方が重要だから、ラッキーと思う。でも、困るのは、こうした読解を生徒にも要求するから、彼らはときどき「何を聞かれているのかわからない」と言う。まあ、私の質問の仕方が下手だというのはあるのだけど。自分で気がつくことを質問するって、私にとっては難しいのだ。

コラボレートする自分

2010å¹´01月23æ—¥ | æ•™è‚²
 自分で書いた作文に驚くことがある。
 「これ、誰が書いたんだ?」
 とてもじゃないが、自分で書いたと思えない。読みながら、ほほーっと感心する。何でこんなに理路整然としているのだろうか。と、こんなことを言うと、「ばか」とか「あほう」という言葉が聞こえてきそうだが。
 私は、「わかる」とか「できるようになる」と言う事実が不思議でしようがない。努力すればわかるようになったりできるようになったりするのは当たり前のことだから、「練習しなさい」「頑張りなさい」と人に、自分に言う。練習をするとできるようになるのは、自分の意識とあまり関係がない気がする。数学の問題でも、繰り返し勉強をするとできるようになる。ボールを蹴ったり投げたりすることでも、練習をすればできるようになる。当たり前だが、不思議である。
 そもそも、何らかの仕組みがあるから、練習すれば出来るようになるということであろう。ならば、その仕組みとは何なのかということになる。

 言葉を連ねることでも、繰り返し書くことで、次に書くべき言葉が出てくる。言葉を探し出すべく考えて思いつくと言うこともあるが、ほとんど無意識的に言葉が出てくるとき、とてもじゃないが自分が努力していると言う気にならない。独りでに出てきて、出てきた言葉に自分自身が驚く、という寸法である。
 内田先生が、書いている自分と推敲する自分、印税を貰う自分の誰に著作権があるのか、と書いているが(「邪悪なものの鎮め方」)たくさんの自分がコラボレートして書き上げる、と書いていたが、とてもよくわかる。どこかに妙にれーせーな自分がある。書いている人とは違う気がする。ひょっとしたら、「自分の書きたいこと」を表現しようとしたがる自分と、「言葉というシステムに住む別の自分」の最低限二人の自分が存在しないと、文章は書けないのではないだろうか。それで、ボールを蹴ったりする場合も、「ボールに住む自分」を持たないことに、自分の思うところに自分の思うようにボールは届かない。
 これは、推論すると、「努力」とか「練習」というのは、別の自分を、対象、つまり上記の例で言うと、言葉の世界だったり、ボールという世界に住まわせるためのものということになりそうだ。
 人がものがわかるようになったり、できるようになったりするというのは、複数の自分をそれぞれの世界に住まわせることによって互いにコラボレートさせるということだろう。いかなる対象であろうと、その対象が持つシステムだったりするものが存在し、システムは、そのままではそのシステムを利用したがっている自分の意のままになるものでないのである。あくまで出来るのは、コラボレートできる自分をそのシステムに住まわせることによってしか、システムは自分の意のままにならない。
 対象に住む自分は、表現をしようとする自分とはちょっと異なる存在だから、自分でけっこう満足がいく、というか、「誰が書いたんだ?」と思う作文は、「書く」とか「作る」という他動詞的な能動ではなく、コラボレートの結果、自動詞的に「出来てくる」かのように感じ、結果的に「驚く」ことになるのだろう。

英作文の注意点

2010å¹´01月19æ—¥ | æ•™è‚²
 中堅校程度ならば、和文英訳は、①正しく動詞を使う。--文型、呼応、時制 ②名詞は可算名詞か不可算名詞かをしっかりと意識して冠詞を考える。
 これを意識するだけで、君の英作文は、格段のできになるだろう。あとは、これまでに仕込んだ知識を利用することだ。「思い出す」努力を。
 あ、でも、難関校一歩手前までは、これだけで行くかも。「和文和訳」が出来れば、かなり行く。単語力も多少関わるが、進学校でこれまでにやったテキストの語句を覚えていれば、ばっちりだろう。(まあ、これがなかなかなんだけど。)




いろいろ疲れた

2010å¹´01月19æ—¥ | æ•™è‚²
 プリントを、結局すごい量の印刷をした。
 ん? プリント嫌いの私がなんでって?
 2次対策の作文問題です。今どき、四択の客観テストをやっていたのでは埒があかない。
 それから、英語の基本を日本語で解説したもの。今どきの参考書なら、各章の最初の方に載っているようなことをまとめた「ほりオリジナル版」です。昨年作って、でも、なぜかというか、時期が悪くて配布し損ねて、気がついたら、1年経っていた。
 ほりはこうしたプリントを作ると、「見て見て~。使って~」とみんなに配布します。

試験はゲーム

2010å¹´01月18æ—¥ | æ•™è‚²
 試験はゲームである、と当たり前のことを言う。
 ゲームに勝つには、対策を立てる必要がある。試験の場合、2通り考えられる。「何が出題されるか」という問題そのものの対策と「何が出ても対応が出来る」という対策である。スポーツでも同じかもしれない。対戦相手の研究とその対策、および、全般的な自分の実力養成であろうか。
 生徒が好むのは、あるいは期待するのは、前者だろう。その方が、省エネで、対効果率が良いだろうから。

 ところが困ったことに、私は前者に全く興味がない。元々興味がない。
 それで、前者にしても、二通りの対策の立て方がある。
 一つは、たとえば、四択問題の解き方とか並べ替えなどで確実に出来る方法を習得することである。(読解でも、そういうのがあるのかもしれないが、私はわからない。困る。出題の仕方がさまざまで、出題された文章の構成や性質によって設問が変わるから、確実に出来る方法を私は考えられない。)
 もう一つは、「何の分野が出題されるか」という、いわゆる「山を賭ける」方法である。私は、絶対にこれが出来ない。しない。こんなのは、勉強ではないと思っているからだ。

 高校時代、前者は得意だったが、後者はしたことがない。後者については、「たとえ今回出題されなくても、いずれ出る」と思っていたからだ。結局、この考え方は功を奏した。
 しかし、点取り稼業、点取らせ稼業の場合は、何もかもが重要だろう。
 私は、こういった職種ではない。しかし、「進学校」という看板があると、関係するのだろう。何となく、少し自分は場違いなところにいるような気がするときがある。

解説なんて、いらない

2010å¹´01月16æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒が勉強が出来ないのは、解説が不足しているのではなく、過剰に解説されすぎているからだと思う。彼らは、与えられることに慣れきってしまった。それで、自分で考えられない。
 模試というものがある。解説が詳しい。文法的なものだと、昔はなかった類題まで載っている。模試が終わると復習をさせるのが常識のようだ。でも、模試の復習なんて、出来るのだろうか。模試は、難しい。80点くらい取れる生徒が復習をするならわからないでない。それでも、未習事項が出題されていたりする。語彙も文章も長くて難しい。そんなのふつーの生徒が出来るのだろうかと思う。模試の復習をするくらいなら、授業の予習をする方がいいと思う。きちんと予習をするのは大変だから。
 授業以外で解説を渡すと、授業が薄まって、結局、身につかないのではないのかなぁ。

読んで貰いたい人に読んで貰う

2010å¹´01月16æ—¥ | æ•™è‚²
 作文を書いた。読んで貰いたい人に読んで貰えることになって、それだけで嬉しかった。
 ん? らぶれたーじゃないよ。
 
 

試合と試験

2010å¹´01月09æ—¥ | æ•™è‚²
 部活動の試合前、生徒は一心に練習に励む。活動時間を延長したがる。
 勉強だと、試験前になって生徒が聞きに来る。「先生、何をしたらいいのですか?」
 私は不思議でならないのである。部活の試合のときに、何の練習をしたら良いですかと聞きに来る生徒はいない。なぜいないのかというと、自分に何が足りないのか、どうしたらいいのかを知っているからである。ところが勉強になると聞きに来るのは、自分が何が足りないのか何をしたら良い状態で試験を受けることが出来るのかがわからないからである。
 「自分で自分のやるべきことがわからない」が、諸悪の根源である。今まで何をやっていたんだ。試合前、サーブもレシーブも何もかもダメだとしても、それなりに一生懸命に練習に励むではないか。勉強だって、同じである。
 スポーツだと理解できるのに、勉強だと理解できないのが不思議でならない。

 まあ、こう言うと、「好きでやっているかどうかの違いだね」と言う人がいるだろう。好きであろうと、嫌いであろうと、「やる」と言うことに関しては同じである。「やる」からには「やる」、ただそれだけのことができていない。自分がやっていることにもかかわらず、他人任せになっている。
 「普段から、自分で考えろ。」