考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

今日の説教・再

2008å¹´02月28æ—¥ | æ•™è‚²
 「学校の勉強は役に立たない」と言う大人がいたら、間違いなくその人は、学校の勉強をちゃんとしてこなかった人だ。テストで点を取るための勉強しかしてこなかった、とか、勉強は受験のためにするものだ、と思って高校時代を過ごしてきた人だよ。
 でも、勉強は、そんなものじゃない。「どうしてこうなのかな?」「へぇ、これって、こういうんだ。昔の人が見付けてたんだ」と思いながらすると、新しい発見がある。発見は感動なんだよね。勉強ってのは、小さな感動を積み上げていくことなんだ。もちろん、難しい語句や数式などが出てきて、ややこしくて、わかりにくくてどうしようもない気持ちになることはあるだろうね。覚えなければならないこともたくさんある。でも、そもそも、発見や感動は、そういうややこしさが前提にないと生まれ出てこないよ。ああ、ややこし、わからん、わからん、と思い続けて、突然、「あ、そうか」という発見と感動が訪れる。最初からわかってることだったら、すーすー入ってくることだったら、発見も感動もないよ。
 みんなは、効率的、合理的に勉強をしようと思ってるようだけど、効率や合理性は、なるべく障害物がないようにすーすーやっていこうとすることだから、ややこしいことはスルーしちゃって、「なるべく単純に」「労力を掛けずに」と思ってやることだから、面白いことが目の前に転がっていたとしても、気が付かないんだよね。だって、「邪魔」でしょ、そんなの。それで勉強がどんどん面白くなくなってくる。
 それで結構大事だと思うのは、発見の感動は、成績の善し悪しとは関係がないんだよね、不思議に思うかも知れないけど。いくら成績が良くっても、これとこれは試験に出るから覚えるんだ、なんてことだけを気にしてやってると、つまんないよ。点取りゲームにはなるだろうけれど。で、勉強で「点取りゲーム」ができないと、点が取れないと「面白くない」ということになる。そりゃ、点は取れた方が良いかもしれないけれど、勉強そのものの面白さに目覚めた方が、役に立つものだ。
 だって、世の中のどんな事柄でも、仕事でも、発見と感動を見つけ出すのが上手な人の方がものごとをちゃんとやれる人なんだよ。どうしたら「発見」見つけ出せるか(ちょっと変な日本語だけど。)を学び取るのに、結構勉強が役に立ったりするものだよね。勉強が役に立つ、というのは、「学び取った知識などがそのまま社会生活などに役に立つ」と思っている人が多いと思うけど、そればかりじゃなくて、「どうやって学ぶか」「どうやって発見をするか」を身につけるんだよ。まあ、「知識などの結果」ばかりじゃなくって、「深い方法」を学ぶんだ。知識は忘れたら終わりだけれど、身に付けた方法は、意外に残る。これが結構役に立つものなんだよね。これこそ役に立つものだと思った方がいい。
 だから、勉強をするなら、ちゃんとやれよ。面倒くさいなと思っても、ちゃんとやる。そうすると、国語は国語、数学は数学、と違うものだと思っていたことでも、意外に「繋がり」がみえてくるんだよね。これがまた面白い。大きな発見と感動だ。それで、その「繋がり」は、人によって違ってるものなんだ。だから、勉強は一人一人がしなければならないんだよ。それが借り物じゃない君自身を作ることになるんだから。難しく言うと、体系化と言うことなのだろうけどね。実のある体系化は、「発見と感動」を通してしかなす事はできないと思うよ。で、その体系は非常にダイナミックに動く。変化するんだ。たぶん、人が生きている間中、ずっと変動する。これは勉強以外にも通じるけど、まあ、君たちはタマタマ今は勉強ができる環境にいるのだし、これを活かさない手はないよ。もったいないことするんじゃないよ。それで、大人になって「学校の勉強なんて役に立たない」なんて言う情けない大人になるなよ。



そこまで来たかコミュニケーション

2008å¹´02月27æ—¥ | æ•™è‚²
 面接練習はけっこう好きである。(笑)看護系が得意?である。「素人」でもできるからである。
 あるブログで、私は良い指導法を教えて頂いた。今はもう更新してないし、その記事が削除されてるブログだから、どこだと述べる必要はないだろう。
 「どんな看護師になりたいか? あるいは、看て貰いたいか?」と言う問いに、まあ、私の文言に変えると、次のような4つの答えが考えられる。

 ①注射が上手で(要は、医療技術などの専門性、確実性に優れている)、笑顔がステキな(コミュニケーション能力が高い)看護師さん
 ②注射は下手だが、笑顔がステキな看護師さん
 ③注射は上手だが無愛想な看護師さん
 ④注射も下手で、無愛想な看護師さん

 はっきりしているのは、①の看護師さんである。「では次に?」と問うと、さて、あなたはどうされるか?
 常識的には、①、③、②、④の順になると思う。実際、経験的に生徒も、①の次には③の専門性確実性が優れた看護師を選ぶ生徒が多かった。

 ところが、驚いたことに、今年は、②を選ぶ生徒が私の予想外にいたのである。②は、当然、患者を取り違えたり、注射を間違えたり、と言うことも含む、と言ってあるにもかかわらず、「でも、やっぱり、②の看護師さんが。。。」と曰った。彼女たちの知的能力にそれほどの差はない。どうやら、「それでも、やっぱり、心を大切にする方が大事じゃない?」そのように思ったようなのだ。巷では何かというと、「心のケア」というコトバが蔓延っている。何か事件があれば、「心のケアの専門家を」とニュースに出る。当然、幾度となくこの言葉は彼女たちの耳に響いている。

 私は考え込んでしまった。(動作が止まったわけではないけど。)
 これは何を意味するのであろうか???

 専門性や知識をこそ、医療系の大学や専門学校は教えようとするのではないか。授業の大多数は、それに割かれているはずだ。少なくとも、私の常識ではそうである。なぜなら、笑顔やコミュニケーション能力は、医療系でなくても要求される能力だからである。
 洋服の販売員でも、それこそ、切羽詰まって必要なのかどうかわからないものを扱う者こそ、営業トークに関わるであろう「コミュニケーション能力」が必要であろう。しかし、看護師のような専門的知識技能を必要とする職業において、これが第一に来るとは、一体どういうことなのか??? 
 もちろん、近頃では、医者の腰も低くなり、患者に対して失礼のないというか何というか、一時は患者に「○○様」と呼ぶのが一般的になっていた。(今は、個人情報の関係で受け付け番号で呼ばれる。これも変だと思うけど。)インフォームドコンセントという(扱い方次第では「無責任」とも取れる)患者に対する説明が必要とされる時代になっている。こういった一連の「コトバの扱い」を重視する方策は「より良い医療」を求めながらも「人間関係重視」の方策に繋がってないわけがない。また、誤解のない関係ができていれば医療訴訟の数が減るとも聞く。あるテレビ番組で、患者と医療スタッフの間に入ってコミュニケーションを円滑にさせる職員を置く病院が紹介されていたのもこの類で、事実、訴訟は減ったらしい。訴訟は人間関係である。

 しかし、である。

 私が考え得る答えはこうなった。
 「コミュニケーション能力によって築き上げられた人間関係は、専門性の欠如による失敗をも凌ぐ大きな力を持っている。」

 たぶん、そのように「コミュニケーション能力」が、その他のあらゆる人間の能力の最上位にくると考える人間が出てきていると言うことではないか。

 確かに、例えば手術をうけるときなんぞは「まな板の鯉」状態で、ひたすらお医者様に「どうかよろしくお願い致します」と言うほかない。これは医者を信頼すると言う前提があってのことである。
 ときには、「この先生になら、この先生だから、私の命を預けよう」と思うことがあろう。これに大きく関わるのは、「先生の人柄」である。技術だけに人は自分の命を預けない。これも「人と人の関係」である。

 もう随分と昔のことだが、大々的に老人を騙した超有名詐欺事件があった。赤の他人が孤独な老人の相手をし、心を開かせ、家に上がり込んで、老人からは親族より強い信頼を得てカネを引き出す。もちろん、彼らの目的は、当たり前だが信頼を得ることではない。老人の信頼は、あくまでも金を奪うための合理的手段に過ぎなかった。しかし、騙された老人の中には、自分が騙されたと思ってない人もいたらしい。「あんなに親切にされて嬉しかった」と。まあ、それほどまでに親族と疎遠になって、孤独な老人が真に欲していたのは「優しい言葉とちょっとした行為」という「人間関係」だったというわけだ。これなんぞは、「人間関係がいかなる専門性の欠如をも上回った」ことの証左である。(大体、「詐欺」というのはそういうものであろう。ペテン師に「見るからに悪人」はいない。)

 ①の次に③より②を選んだ生徒の反応を聞いて、私はこの話を思い出した。「人間関係」が、「金銭」という通常かなり高い価値を占めるもの以上の価値を持ってしまった事実と同様、基本的には「身体」を扱う医療に、「人間関係」という全く別個の要素が強く入り込み、力を増しているといえるだろう。
 
 もちろん、それなりに技術に対する安心感にもなる「元手」あっての話であろう。(老人が騙されたのも、お金という元手があってのことである。)それでも、所詮、我々患者は「素人」である。素人であるからには、「専門家」にお任せしなければならないことが多い。「自分の希望」はあっても、その希望を叶えることで生じる「マイナスの要因」があるのかもしれない。専門家自身も、実際のところ人体という「未知」のどこまで分かってるのかわからないもののはずだ。最後は、長年の「勘」などの感性に関わるだろう。(まあ、大抵のことはそんなものだと私は思っている。)「前提」をどこに取るかで治療法や看護の大筋から細部まで大きく変わる。(誰でも使える精緻なマニュアルなんて、あるわけない。オーダーメード医療が目指すのはそういうものだろうけど。)
 ここでの理想は、「最善の治療や看護」であろうが、現実的に何よりも優先されているのが、実のところは「両者の納得」ではないのか。医療者の考える最善と患者側の最善が異なることも大いにあるだろう。その両者をはさむのが「双方の納得」で、そこに至るための手段が「コミュニケーション」ということになる。
 このように考えると、「最善の医療とは、実は患者の納得に帰着する」という実態は、何だか妙な話に思われるが、非常に人間的であるという気もする。
 
 この「人間的」という表現からは、その昔、忠君などで命を落とした多くの人の存在の「幸せ」を思い浮かべてしまう。「封建制度は親の敵」の時代にあっては、「なんという不幸きわまりない時代の犠牲者」と言う評価が一般的であろう。しかし、「それが当たり前」の時代にあっては、時として英雄たり得る者であっただろう。養老先生に言わせれば「身体性欠如の時代」ということにでもなろうが、まあなかなか判断は難しいというのが本当のところではないのか。まあ、人間とはかくも複雑な存在であるか、ということであろうが。(これを言っちゃうと、何でもそうなるのだけど。)

 さて、医療に戻るが、治療法などが進み、「どこまでするのか」が大きなポイントになっている豊かな時代だからこそ、「コミュニケーションによる双方の納得」の方が、「専門的知識や技能」の上に来てしまうと判断が生まれているのだろう。

 しかし、しかし、である。専門的な知識技能を全く持たない、これからその修業をする身の者が、最初から「コミュニケーション」では、これは困ったことにならないか。彼らの勉強に対する考え方、重心の置き方が変わってくると言うことを意味するだろうから。

 「患者」は、素人である。専門家に何か言われれば、大方は「ああ、そうですか。はい、分かりました」がほとんどであろう。治療にはさまざまな段階があるだろうから、いったん「私は納得しました」ということを表明してしまうと、「それ以上に進まない」ことも起こりうるのではあるまいか。「それで納得されたでしょう」ということで。

 「セカンドオピニオンを求める」という言葉を聞く。言い様は悪いが、これは、「アンタはホントに専門家なの? 私は専門家だからといって、それだけの理由でアンタの言うことは信じないよ」ということの裏返しである。
 素人と専門家の垣根が低くなってきていることでもあろう。素人が高くなったのか、専門家が低くなったのかはわからない。
 歓迎する向きも多いようだが、正直言って、私は分からない。

 話がどんどんずれた。
 何が言いたかったかって? 時代が豊かになると、つまり「物量」と言う「絶対性」が満たされる時代においては、「コミュニケーション」と言う「相対的な人間関係」が重きをなしてくるのであると言うこと。

 ふむ。
 これも、身体性を含めた物量に関わる「絶対性」と人間関係という「相対性」で説明が付く問題だということがわかった。

 終わり。


文字を正しく書きましょう

2008å¹´02月23æ—¥ | æ•™è‚²
 うん、これに、尽きる。

 今の子の字はキタナイ。解読不能な場合が多い。入試の解答ですらそうである。ただの「記号」だから、「区別が付けばいい」と思っている。他人は自分と同様に解釈してくれると思っている。
 だから、「きちんと書く」ことに価値を置かない。「きちんと書く」ためなら、パソコンを使えばきれいだからそれでいいと思っている。

 きちんと書く重要性を知らない。だから、ノートなんて取れない。

 「きちんと書けない」のにも理由がある。
 鉛筆をきちんと持てないからだ。「持ち方なんて、本人が書きやすいように任せれば良いんじゃないのか」と思っている指導者の存在を感じる。
 また、生活の全般で、「握る」という動作が減っている。水道の蛇口もドアノブも、バリアフリーになった。ひょいと引っかければそれでいい。テレビのチャンネルも何もかもがボタンである。押しさえすればいい。そもそもの握力も低下しているはずだ。
 椅子にきちんと座れないという理由もあろう。背筋力がないから姿勢が悪く、きちんと机に向かえない。だから、鉛筆も持ちたくない、勉強もしたくない。いちいち自分で考えてノートに書くなんてもってのほか。たぶん、そう思っている。そんなことなんて、思いもよらない。

 う~む、結局は、「身体」か。
 全ては「躾」に起因するってことだな。

ああ、冠詞は難しい

2008å¹´02月22æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒に英作文の質問をされた。最上級にtheが付くかどうかと言う質問だった。で、その場合は、theが必要な気がしたからtheがいると思うけど、と言っておいた。赤本の解答を見たら、theがなかった。ふむ。
 で、またそれとは違う箇所で「形容詞 and 形容詞 society」となっているのを見付けて、aが付いてない。
 「これ変だよね」と言って、まあ念のために辞書を引いたら、societyは不可算である。でも、形容詞が付いてるから、これは可算扱いすべきだろうと思って、「私はaがいると思うけど。答えがおかしいよ。」と言っておいた。
 たまたま外国人講師が来ていたので、聞いてみた。theの方はあってもなくてもいいということだが、societyの方は、やっぱりaがないとおかしいと教えてくれた。生徒には、二つとも伝えておいた。冠詞は難しいよなぁ。
 まあ、しかし、赤本の答えはしばしば違っていると言われる。でも、私は真面目に赤本を解いてないから、よく知らない。

 別の生徒がまた違う大学のを持ってきた。「訳を教えてくれ。」
 ぱっと見てわかるわけない。別件の他の生徒も待っていて、10分やそこらで解ける自信がなかったので可哀想だけれど、「他の先生に聞いてね」と、帰って貰った。で、生徒が帰ってから読み直したら、分からないわけではなかったのだけれど、どう見ても、文章の論理に矛盾があると思われてならないのだ。非常に気分が悪い。例の出し方がよくない。まあ、問題になっているところは、全く関係のない部分だけれど、なぜ、筆者の言うとおりになるのかが分からない。それとも私の読み方が間違えてるのかなぁ。。。(この可能性も大あり。)どーでも良いけど、この問題文が受験問題集に採用されることはないだろうと思った。こーゆー文章を採用する大学には行かなくて良いとも思った。(←すぐ、そーゆーことを考える。笑)


添削の是非

2008å¹´02月21æ—¥ | æ•™è‚²
 自由英作文の添削は好きである。でも、英語はできないから(笑)、辞書を引き引き添削する。もちろん、文章の流れ全体を見る。整合性論理が上手く流れているか、無駄な展開はないかを見る。だから、添削は、語彙・文法などのホントの英語関連と、論理展開の「作文」の両面にわたる。
 大方、作文用紙は真っ赤になる。間違いやすい事項や参考になる表現もあらん限り書くので裏面も使ったりする。

 すると、生徒の反応に2通り出る。
 「こんなに直されて、私、ダメだ。」と「こんなに直してくれて感動した。」

 前者は、何度書いても書いても直されてばかりだから、どうやら自信をなくし、イヤになるようだ。後者は、直されたところを学習直したりして、もっと見て貰いたいと思うようだ。

 業者テストで、作文の添削がある。直し方を見ると、私の方が丁寧で、マトモじゃん、と思う。しかし、その業者テストも、最初の頃は、かなり丁寧にやっていたが、そうすると、生徒の中には上記の前者のように、逆にやる気をなくする子が出てきたらしい。それで、そこまで直すのは止めたのだという。
 なんてこっちゃ。かなりの費用がかかっているのに見合ってないぞ。

 しかし、問題は、「こんなに直されて、私、ダメだ」である。逆に言うと、そんなに「自分はできる」と思っていたのだろうか。
 そっちの方が疑問である。それでめげて貰っては困るのだけれど。進歩できないじゃないか。褒められて育ってるから、そんなにひ弱になっちゃうんじゃないのかな。
 そういえば、この頃多いのは、「オレって褒められて伸びるタイプなんだって、先生」と自ら言う子。「甘えるんじゃない。」

何だかとんでもないことに

2008å¹´02月18æ—¥ | æ•™è‚²
なったようだ。
 英語が小学5年から必修化されたらしい。
 これでも一応は英語で飯を食ってる私が言う科白であるが、「バカじゃないか」。
 
 私は小学5年で初めて英語に接した。今、英語の読み書きが多少できるのは、英語の教員をやって、毎日のように「受験英語」に接しているせいである。小学生の時に始めたからでは断じてない。
 フランス語に初めて接したのは、中学2年のラジオ講座である。3ヶ月ほどで挫折するのを高校3年まで続けた。良かったのは、大学でフランス人講師に「発音が良い」と言われたことと、仮面浪人で授業に出なかったにもかかわらず何とか単位を修得した(で、中退した)ことくらいである。十数年前までは、「辞書があれば読める」と思っていたが、今は辞書があっても読めないだろう。

 外国語を、母語の抽象語も獲得してない時分から始めていったい何の役に立つというのだろうか。
 しかも、なぜ、「英語だけ」なんだ。英語ほどややこしい言語はない。発音とスペリングの整合性も少ないし、大和言葉(古語英語)と漢語(ラテン語由来)も存在する。記憶すべき量が多すぎる。
 文構造に関して、母語との相違が違いすぎる。負担が多すぎる。全てのコドモがすべきことではない。
 
 「英語の先生の集まり」(研修でも何でも)で、流暢にしゃべる先生の中に、そうでない人間(わたし)の言おうとすることをバカにして聞こうとしない人がいた。(まあ、私も教員のくせにしゃべるのが下手すぎたというのもあるんだけど。)話の中身を聞こうとしないのだ。人の話なんて、中身でなんぼじゃないか。自分は全然大した中身を言ってないのに。(これ、断言。)また、「あの先生の発音は良い」と真顔で発音のみに感心する先生がけっこうな割合でいる。発音なんて、それなりに通じればいいだけであろう。余り流暢だとかえって文化摩擦になることだってあるらしいじゃないか。我々は「外国人の英語」を目指せばいいだけの話だろう。媚びたいなら、発音も綺麗な方が良いだろう。---そうか、「媚びる」ための英語教育ということなのか。日本人としての矜恃なんて、言う方が間違いの世の中になったのだろうな。
 あ~あ。。
 

小論文なんて止めちまえ

2008å¹´02月16æ—¥ | æ•™è‚²
 小論指導や自由英作文指導は好きである。
 しかし、試験の小論文やテーマを与えられての自由英作文を、今の状態で高校生に語数も僅かで書かせるのはいかがなものかと思っている。正直言って、反対である。

 ちゃんと理由がある。与えられるテーマが重すぎるのだ。
 世間で専門家や似非専門家がマスコミを絡めて答えが出せない論争中の懸案を、なぜ、ものを知らない、何の知識もない高校生に書かせるのだろうか。この辺りは大学の見識を疑う。もっとも出題者側にすれば、「定型的な答えがない」から、自由に論じられるだろう、定論があれば、受験生はそれを書くだろうから出題できない、と思っているのだろう。
 採点の着眼点は、言葉遣いや語彙等の問題を外せば、いかに整合性のある説得力のある文章を書いているかでしかないだろう。大学が欲しいのは、論理的にものを考える学生なのだろうから。

 しかし、私が問題としたいのは、世の中で論じられ、大人の世界でさえ答えが出ていない問題について、「あなたは賛成ですか、反対ですか」の問いに答える際、実に意外に思われるだろうが、「賛成」と述べるのに余り根拠が要らない、もう少し正確に言えば、非常に単純な論理でまかり通ることが多いという事実である。
 意外に皆さんお気づきでないだろうが、「反対だ」と主張するには、かなりの論理展開が必要になる。短時間に少ない字数、日本語だったらせいぜいで800字、英語なら長くて200語だろう、それで、説得力がある文章を書くには余程の思考力と文章力が必要になるのだ。

 どうです?
 これって、もの凄い「落とし穴」だと思いません?

 一皮捲ると、「賛成意見が多いから巷間にのぼる」という事実に至るということだ。反対意見がまかり通るなら、そもそも話題にならないのがものの道理というものであろう。だから、賛成意見の方が「圧倒的に書きやすい」。

 これって、すごくない?

 ものごとをちょっとだけ深く見て考えれば反対意見の方が理に適っているにも関わらず書きづらいのは、世の中の「賛成意見」、もっと言えば、マスコミによって扇動された大衆の「だって、なんとなく、(みんな言ってるし)そうじゃない~?」をも説得できるほどの反対論を展開しなければならないからである。で、この障壁はもの凄く高い。直観的に「これって、まずいんじゃないの?」と思った高校生、特別にアタマが良いわけではないけれど、大衆的ではない「なんとなくの良識」を持ち合わせている彼らにとって、根拠を具体的に言語化して表現することはかなり困難な仕事になるのである。
 私がここに書いている記事には長いものが多い。なぜなら、「世間の(無責任な)常識」に反する内容を書いているから、論拠を示すとなるとどうしても流れが煩雑でややこしくなって長くなるのだ。「反対意見を書いてもいいんだよ」という要求は、これを高校生に求めることである。直観的に「反対」と思った生徒は、マトモであればあるほど窮地に陥る。どう表現していいのかわからないからである。彼や彼女は、やがて思考を停止するだろう。聞きかじりの「小論対策事前学習」で「もっともらしい知識」を獲得し、「書きやすい方の答え」を書くだろう。恐いのはこの「安易さ」であるが、最も恐いのは、いったん「書いた」という行為が身体的にも精神的にもカラダに刻印されるということである。これは、「聞きかじりのもっともらしい知識」が残るという意味ではなく、「単純な論理で思考する」という経験が残ることである。真に習得されるのは、意識的に理解できる「ものごとの断片(知識)」ではなく、無意識的な「行為の方法」が常である。それで、これこそが「人を作る力」たり得るものなのだ。(ほらほら、この辺のことも、「なるほど!」とすんなり受け入れてくれる人と、「えっ?どういうこと?」と受け入れてくれない人がいらっしゃることだろう。で、後者を説得するには、私はまた多大な字数と時間を費やさなければならないことになる。反対意見を書くとは、要はこれが大変だということなのだ。でも、今は割愛ね。)つまり、一見教育的に思われる今の小論文や自由英作文は、「単純思考」あるいは「マスコミ垂れ流しの受け売り」をうら若き高校生にせっせと勧め、助長させることになりかねないということだ。こんなことをさせる試験が真の教育に結びつくわけがない。
 彼らがなすべきことは、直観的に「これって変だよな」と思ったことを時間を掛けて深めて熟成させたうえで真の思考に高めていくことであろう。必要なのは時間の掛かる訓練なのだ。体系的な理解がほとんどなく、聞きかじりの知識をつぎはぎして、さも自分の論であるかのようにコトバを連ねて論理の形態を整えることでは決してない。しかし、大きなテーマの割には「時間」と「量」が限られた「小論文」・「自由英作文」試験は、「教育」に求められるものを阻害し、歪ませかねないのである。

 小学校の英語授業に反対する意見として、鳥飼玖美子さんは「危うし!小学校英語」を書いた。新書1冊200余ページである。
 まあ、そんなものである。

 ほら、今日も「試験の小論文反対」、たったそれだけの主張に2000字軽く出ちゃいましたよ。

しつこいようだけど

2008å¹´02月14æ—¥ | æ•™è‚²
英語は、S+Vなんだってば。
 で、S+VになるときのVは、「時制」がわかるもの、(ただし、原形と現在形が同じ場合はわかりにくい。例外は、仮定法現在。)それから、助動詞がついてるもの。逆に言うと、助動詞を見付けたら、儲けもの。三単現のsも儲けもの。必ず、S+Vの構造になってる。(仮定法現在の例外以外は、高校時代の私の発見♪ これ、読解に便利よ。)だから、文構造が分からなかったらVから先に捜す。(主語が複数形で、動詞が現在時制、しかも、動詞が名詞と同じ綴りで、主語に関係詞節が付いてて、節の最後が冠詞無しの名詞だったりすると節の動詞によっては分かりにくくなる。あ、わかんない単語の時にね。)

 作文では、だから、時制に気をつける。動詞が他動詞か自動詞か、馴染みの良い前置詞は何かを思い出す。動詞は前置詞と一緒に覚えないと使えない。(勉強をするときには、この逆を行く。)

 それから、名詞は可算か不可算か。それで、aを付ける、複数にする、theを付ける、付けない、他の数詞関係のものを付ける付けないを、状況から判断して考える。多い感じ、まとまってる感じなどの「イメージ」を忘れない。

 これだけで、それなりに正確に書ける。

師匠と呼べる人

2008å¹´02月08æ—¥ | æ•™è‚²
がいる人をうらやましいと思った。

 自分の親が学校の先生だったから、「先生」は嫌いだった。嫌悪していたわけではないが、ちょっと近づきがたく、近づきたくなかった。なにせ学齢期には、学校の先生の多くが親の友達や元同僚、何かしの知り合いで、私は常に「○○の娘」「○○の子供」だった。イヤでイヤでたまらなかった。

 大学では勉強をしなかった。自分のアタマが悪いことなんてとっくの昔にわかっていたことだから、心のどこかで「勉強は終わり」と思ったのかもしれない。いや、単に、授業にも何にも付いていけなかっただけかもしれない。もったいなかったと言えばもったいなかったのかもしれない。ぼーっとしていた。本を読んだ覚えも余り無い。読んでいたかも知れないけど。あ、多少は読んでた。でも、全然覚えてない。難しい本は難しすぎてわからなかった。

 養老先生を師と仰いでいるつもりだけれど、接点は何もないから、師ではない。生身の人間を師として、肉声を聞き、ほのかな体臭?や体温をそれとなく感じながら薫陶を受け、自分が変容する。尊敬し、師事し、それで自分が師から形の上で「独立」しようとしたとき、「師」に報告と何らかのお願いに上がることができる。師の元を巣立って何十年かしても「師」がときおり乗り移るように出てくる。そんな師を持つ人を、私はうらやましいと思った。

 「先生はえらい」じゃないけど、「こころ」の「先生」は不思議な存在だ。だから、私も自分で勝手に「先生」と思って「先生」に師事すれば良いのかもしれない。でも、私には、それはできなかったというか、思いもよらないことだった。そういう人を見付けることができなかったということでもあろう。私は全く謙虚でなかったのかもしれない。
 
 自分が生徒だったときも、教員になってからも、私には師とする人がいない。傲慢なのかなとも思う。

 と、ここまで書いて、思い出したことがあった。

 中学の英語の先生だ。2年3年と担任だった。その先生の定期テスト問題が好きだった。教科書の文ではない文章が出題されていた。でも、単語は、既出単語以外には全て「注」が付いていた。教科書の単語の全てを覚えていれば全て意味がわかる仕組みだった。だから、テストの単語でわからないものはなかった。高校に入ったら、定期テストは教科書の文章そのものが出ていた。何だこれ、と実は呆れた。

 大学を出て、英語の教員になった。同窓会があった。先生もみえていた。私は先生の定期テストは良かったというような話をした。先生は、その中学だったから、ああいう出題をしたと言っていた。(「入試」があった中学だった。)でも、その時の先生は、同業者になった私に対して少し「遠慮」のようなものを抱いているようだった。なんだか寂しかった。

 私が今も「定期テスト」の出題方法が気に掛かるのは、ひょっとしたら、その先生の影響なのかもしれない。
 この意味で、その先生は、私の「師匠」だったのかもしれない。私は幼すぎて気が付いてなかったのかもしれない。
 その先生は数年前に亡くなった。毎年年賀状は出していた。ある年、添え書きの筆に力がなかった。その年の暮れ、喪中欠礼が奥様の名前で届いた。ご自宅は私の実家から少し遠い町にある。まだお参りに行ってない。