考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

プロセスをどの程度重視できるか

2010å¹´08月28æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒を見ていると、成績を伸ばせる子とそうでない子の違いに、プロセスをどの程度重視できるかどうかがあるように思われる。最も単純なのは、「この問題の答えは何?」と言う疑問の次に何を思うか、である。答えがわかると「わかった」と安心して終わる生徒と、なぜそれが答えになるのかを問う生徒の違いである。問い方はどうだって良い。なんでもかんでも先生や他の人に頼る態度が好ましいわけでないから、自分でなぜそれが答えになるかを問えばそれで良かろう。しかし、なぜそれが答えになるかどうかを問うかどうかと言う発想の仕方、思考法があるかどうかの有無が重要である。言うまでもなく、問う生徒は伸びるし、問わない生徒は伸びない。
 答えという結論に至るという「結果」に違いは何もない。しかし、「なぜ、どうして?」というプロセスが加わるかどうか、あるいは、プロセスの重要性を理解するかどうかが根源的に重要である。人は大事だと思わなかったらその存在を無視するだけである。こうした認識の違いが、生徒の場合、大きな違いを生む。この違いは、たとえば「学校の成績」のような数値で表現できるものでは、同じベクトル上にあって「大きさの違い」としてしか認識されないが、根源的には、「次元に違い」に関わる大きな相違である。
 「次元」は、異なるものが生じれば新しい価値観として、創造性に繋がる。よって、自分で考えることで、自分自身で新しい問いを生み、新しい答えを見つけることができる。これが、「応用力」になろう。しかし、結論だけを重視する、言わば、あてがい扶持の思考は、新しさを生まない。生徒にしてみれば、「応用問題ができない」ということになる。

 上記は、学校の生徒の話だが、「結局、そういうことか。同じじゃないか」など文言の根源も同じではないかと思ったりする。
 

必要な人になる

2010å¹´08月26æ—¥ | æ•™è‚²
 勉強というのはね、自分が好きだから、必要だからするものじゃないんだよ。自分も誰もいつだかわからない将来、自分が人から必要とされるためにするものなんだよ。だから、自分が好きだからやる、面白いからやる、嫌いだからしなくてもいい、苦手だからやらない、ってものじゃないんだよ。
 正直言って、嫌だよね。そんなこと言われたら。
 ま、でも、そんなものだよ、真実は、たぶんね。
 ホント、嫌だね。


よくあることでしょうが

2010å¹´08月15æ—¥ | æ•™è‚²
 街場のアメリカ論の文庫を買って、「ほほー、面白い、この本」と喜んでて、ある日、ふと書棚を見ると、単行本がこっちを見ていた。
 読んでいないはずがない。。。

 勝間本は読んだことがない。ぱらぱらめくったことはある。エネルギーのすごい人だと思う。私得意?の「ベクトル」で言うと、「次元」よりも「大きさ」、つまり、「作業能力」に特化した人である。ご本人も、そのように思っているようだ。
 
 茂木さんは、これほど売れるまえの「脳とクオリア」は読んだ。でも、まだ答えがわからないことなのだな、ということだけわかって、それで興味を失った。テレビは見るけど、本は買ってない。茂木さんは、わからない。私の印象では、養老先生が茂木さんを取り上げたのがきっかけで有名になったような気がしている。
 「クオリア」は、言わば、「当たり前」のことである。学問は、「当たり前」のことを説明するものである。特に、脳味噌のことなんて、そうでないかと思う。力学もそうだろうが、なんとなーく、当人たちが気づいていることを、例えば、落下距離が、1/2・gt自乗である、と具体的にわかって初めて、「ほほーっ、これが何にでも当てはまるのかい? すごいなぁ」と思われるものである。しかし、クオリアは、今のところ、まだ具体的に「ほほーっ」と感心できることがないように思ったから、それまでになってしまった。「あなたのアタマが悪いから理解できないのだ」と言われたらそれまでである。きっと、そうなのであろう。
 茂木さんは、文学者である。考える人の連載を見るとなんとなくそんな気がする。ただ私がわからないだけかな。(笑)福岡紳一さんは理系の科学者である。

 私は、だいたいにおいて、理系の科学者が好きである。内田先生は、理系の科学者ではないが、あの冷徹な目、ものの見方による人間分析、文化の分析は、驚嘆に値する。

 養老先生にしても、内田先生にしても、興味深く思うのは、「非常に簡単な原理」でものごとを説明することである。
 私が授業で「英語の勉強は動詞の勉強」「名詞は加算か不可算か」と、ほとんど言い切ってしまっているのも、似ているかな。(笑)
 たぶん、私は、そーゆー思考法が好きなのである。

AとBの対立

2010å¹´08月12æ—¥ | æ•™è‚²
 ある考えと別の考えが対立するとき、「どっちが良いか」を判断しようとするが、何がその両者の考えの対立を生むかを考える方が、よほど上手い判断や、あるいはもっと良い考えができるのではないかと思う。内田先生がときどき書いているのがこれだ。
 思考とは、平面、同じ次元で行うべきものでなく、上下させて行うべきモノである。
 ↑これって、試験問題の大部分は、そうなんだよね。(笑)


複数単数感覚の有無など

2010å¹´08月11æ—¥ | æ•™è‚²
 5月だったか、内田先生が、「リンガ・フランカ」と述べていた。英語を共通語とするにせよ、発音と文法の間違いは許容され、言いたいことを伝える、理解する、を意図する言語だったと思う。
 とても良い考えだと思う。要は、徹底的に、「道具」としての英語使用であるということだ。言語そのものを通しての異文化理解などでなく、互いの考えを伝え合う道具であろう。
 発音を軽視するのは、とても良い。文法の軽視も、最初、そう悪くないと思ったが、ふと、文法の間違いは「ちょっと待て」という気がした。

 英語をリンガ・フランカとするとなると、日本人が、たぶん、中国人や韓国人と話すとしたら、問題はさほどなかろうと思う。私は、中国語も、ハングル語もよく知らないが、たぶん、中国人は時制が苦手だろうし、たぶん、両者とも、名詞の単数、複数はさして区別しない言語ではないかと思うからだ。中国語だったら、たぶん、(というか、全然わからないのだが、)aとtheの区別も難しいだろう。この意味で、日本語に似ている。ということは、これらを母語とする人たちが犯す文法上の間違いは、名詞の単数複数や冠詞の間違い、時制の間違いなど、良く似たものになるだろうということだ。互いの間違いのタイプが似ていれば、想像が付くというものだ。同じ間違いする分に、間違いは間違いでなくなるだろう。
 しかし、単数複数、不定冠詞と定冠詞を徹底的に区別する言語文化に育った人と日本人がリンガ・フランカで話をするとなると、大きな誤解が生じる危険性を孕もう。
 何かで読んだが、名詞の可算不可算を区別する母語のネイティブと、日本語話者に「モノ」が映っている映像を見せると、前者は、そのモノが、複数映っていたのか、それとも、1つだけだったのかを日本語話者より、正しく覚えているのだそうだ。言語が介在しない場合でも、「解釈」が違うということである。私は、こうした違いが誤解を生まないかと思うのだ。
 人が他人の文言を耳にした場合、言葉を聞くと同時に、何らかの「イメージ」や「印象」が脳裏に浮かぶのではないかと思う。「コミュニケーション」を考えると、私は、意外に、こうしたイメージや印象が重要でないかと思う。この点、単数であろうと複数であろうと構わず「モノそのもの」についてだけ言及する日本語系話者が言わんとすることを、単数複数を重視してモノを捉える言語話者が耳にした場合、互いに言いたかった真髄が果たしてうまく通じ合うか、という問題である。日本人は、「何であるか」を言及したかったのにaをつけて単数表現で表し、複数にしなかったせいで、欧米人は「単数の存在」としてだけ捉える、などの誤解である。

 それこそ「翻訳」において表層に出てこない根源的な思考が、全然違うのである。内田先生は、中世のラテン語をリンガ・フランカとして優れたものと捉えていたように思ったが、西洋の言語は、どれも思考の根源は近似し、言語構造も似ているだろうから、十二分に役割を果たしただろう。(日本でも、中世は「謡曲」がリンガ・フランカかはともかく「共通語」の働きをしていたとか、何かで読んだ。)しかし、世界の言語で日本語だけかなり異端であるともいえるが、リンガ・フランカであろうと、日本人は、何だか、ソンな立ち位置にいるなぁと思ってしまった。

 もっとも、こうした問題は相手の母語がどういうものか、相手がしやすい間違いがどのようなものかがわかれば問題は生じにくいだろう。揚げ足を取るつもりがなければ。(ま、コミュニケーションの最大の問題は、これだよなぁ。)

脳味噌が疲れた

2010å¹´08月06æ—¥ | æ•™è‚²
 暑さとクーラーの寒さで、疲れる毎日である。
 近頃、腰痛を起こす人が増えているらしい。猛暑で運動不足になり、それで、いきなり動くとぎっくり腰になるらしい。
 なるほど。


甘やかしと丁稚奉公

2010å¹´08月06æ—¥ | æ•™è‚²
 何かで、昔、日本の親は子育てができないと思われていたとか読んだ。それで、丁稚奉公に出したというのである。
 これって、昔、それこそ、江戸時代に日本を訪れた外国人が、日本の子供は親から甘やかされて大事にされて育てられている、と見ていたこととリンクするなと思った。
 
 そんだけ。

スピーチの指導

2010å¹´08月02æ—¥ | æ•™è‚²
 スピーチコンテストの指導は、結構好きだ。原稿作りが面白いと思う。最初に、小論文(自由英作文)の書き方のプリント(自信作♪)を渡して、しっかり読んで、それに即して書いてこい、と指示する。書いてきたら、自分が何を言いたいのかを確認させる。と、大方は、これがはっきりしてないことがわかる。生徒は、自分が何を主張したいのかを知ることが第一の課題である。書いてきた草稿を元に、あれこれ、確認させる。あるいは、課題にさせる。私は、こう書け、とか、こんなことを主張しろ、とは決して言わない。(言いたいことがはっきりしたら、作文してしまうこともないでない・笑)
 困るのは、こうした「書き方」にどうしてもなじめない場合である。こちらはなるべく論理的整合性を持たせる書き方を指導しようとしているのに、どうしも、なじめないようすなのである。そうした生徒は「思考法」が異なるようだ。欧米の論調では、とにかく「結論を先に言う」が、ここが実は最大に難しい。私自身も良くできるわけでないが、生徒には要求する。(教員の仕事とは自分にできないことを生徒に要求する仕事である。でないと、自分以上の生徒は仕上がらない。)しかし、悲しいかな、お互いに日本人である。これがめっぽう難しいのである。
 日本語では余り気にならないが、英語の場合、「浮いた言葉」には気がつきやすい。普段の読解でそうした読み方をしているせいであろうが、他の語句類と整合性がつかない語を発見すると、必ず注意することにしている。そうした語は、カットする方が文章がわかりやすくなる。
 英語だと5分のスピーチ、1枚に収まる程度なら、私の記憶力も大丈夫である。ぱっと概観できるから。あ、これじゃ、「記憶力」じゃないか。(笑)


わかったときはそろそろ終わり

2010å¹´08月02æ—¥ | æ•™è‚²
「生徒って、どうしてあんなにわかることばかり目的にするのかねぇ。わかったときには、もう、終わるのにねぇ。」
「そうそう、人生なんて、そんなものだろうねぇ。」