考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

街場の教育論

2008å¹´12月29æ—¥ | æ•™è‚²
を読んだ。内田先生のブログに養老先生が書評を書いた、と書いてあったけど、読んでない。残念。
細かい内容は忘れた。(たいてい忘れる。)でも、おもしろかった。
あの本は、イマドキの教育論に追従した人の場合、「先生はえらい」を先に読んで納得しておかないと、ついて行けないと思う。それから、教育と経済と政治と人生論はそれぞれ別物だ、と考える人はなぜこれが教育論なのであろうか、と、この論が教育論としておもしろく感じる人と全く逆の感想を抱くと思う。

キーワードは「無能な大石先生」で、たぶん基軸にあるのは彼女をどう見るか、なんだってば。

私は自由英作文の添削に向いている

2008å¹´12月28æ—¥ | æ•™è‚²
と思った。
 なぜならば、生徒が書いてきた文構造も単語も論理もめちゃめちゃな文章を見て「その生徒がなにを言いたがっているか?」をかなりの確率で推し量ることが出来るからである。ネイティブの先生より、私の方がこれはうまい。だって、日本人だから、発想が似ている。これは、学校のAETとしゃべっていても、日本人教師の方が向いてるね、ということで同意している。おまけに私は、かなり想像力が豊かである。そんなこんなで、私の場合、「それで君は結局何が言いたいの? だから何なの?」という問いかけをする必要がない。代わりに、「君が言いたいのは、こういうことじゃないの? ならば、こうこうこうな風にすると伝わりやすくなる」とか、たとえ生徒の意図が私が推測したものと異なっていたとしても、「あ、そうか。分からなかった。それなら、こういう風にした方が良いかもね」と提案できる。あるいは、「と言うことは、君が言いたいことは、最後まで言い切ってないわけだから、ここまでちゃんと書いた方が良い」とアドバイスすることが出来る。もちろん、「う~ん。。それは難しいねぇ。どうしよう。。」としばらくアタマを悩ませて「無理だわ、ごめん」になることもある。「どう考えても、ここ、何が言いたかったのか分からなかったのだけど。」と言うと、「時間がたっているから、自分でも何が言いたかったのか忘れた」と言われる場合もある。「そうだねぇ、何が言いたかったのだろうねぇ。」で二人で、あはは。

 多くの場合、文章は舌足らずか言い過ぎかのどちらかだ、と内田先生が書いていた。自分で文章を書いているから、実によく分かる。私が書くものは、舌足らずか冗漫かのどちらかで、生徒の書くものも、舌足らずか冗漫かのどちらかである。
 ということは、ひょっとしたら、表現に関しては、「的確な表現」を目指させるのが良いものの、「読解」については、舌足らずの文章やら冗漫な文章から、書き手の真意を汲み取る、という読解力の養成も意外に大切なことではないだろうか。
 よって、試験問題は、下手くそな文章を提示して、筆者の意図を的確に表現し直せ、という内容が良かろう。これは、論理的な文章を論理的に読みこなす力も、言外を読み取るという想像力も、共に優れていないと出来ないことになろう。それで、へたくそな文章を添削させる授業は、「私の分かるように書け。言え。」「読者にわからない文章は書き手が一方的に悪い」「この書き方は曖昧だから、その意味にはならない。」、あるいは、「私には関与しない」などの、「受け手」が受動的であるが故に陥りがちになるある種の傲慢さを払拭できるという利点があるかもしれない。人を騙したり陥れたりするために書か文章でなければ、それで、下手くそながら誠実に書いた文章なら、これは機能する。「読解」は、その意味で確実に能動的な仕事なのである。

対談本・内田VS橋本

2008å¹´12月26æ—¥ | æ•™è‚²
 内田先生と橋本治氏の対談本を読んでいる。
 で、これがけっこう、面白いのである。最初、期待しなかった。でも、面白い。でも、理由がわからない。

 私は橋本治は好きでない。「考える人」等の連載を読んでも、私は文章がくどい気がして好みでない。桃尻語訳枕草子は出たての頃に読んだ。窯変源氏は何巻か持っている。(ほとんど読んでない。文学は好きでない。特に、男女関係の云々は好みでない。)セーターを編むとか、イラストを描いているのも知っていた。

 橋本さんは、とても頭の良い人だと思っていたが、そうなのかなとかも思ってしまった。(重要な注・自分は棚に上げているから、ファンの方お許しを。)
 で、何が面白いのかまだわからないけど、なにかしら、この対談は、うん、面白い。

 なぜなのだろう? なぜ、私はこの対談を面白いと感じるのだろう。目下の疑問である。

公衆衛生と学力増強の共通点

2008å¹´12月26æ—¥ | æ•™è‚²
 大正時代、平均寿命が大きく伸びた。人が死ぬのは病気は事故である。平均寿命を上げるには、病人を見たら、早く治す、そのためには、十分な医療体制を整えることが有効である。実際、そうであろう。常識的な、ふつーの考え方である。これは、具体的に言うと、人の命を「個」の観点で捉え、Aさんも、Bさんも、Cさんも、小さいときから皆の一人一人にに十分な医療を提供できる環境を整えれば、命を落とす心配が少なくなるという考えに基づいている。Aさんが、栄養失調の症状を示したなら、栄養を改善させるべく治療を行う、ということである。癌なども重病であっても同様である。そのようにして一人一人の命を大切にする。しかるに、もう一つ、全く異なる方策がある。良い例が、かつても東京市長後藤新平さんという偉い人がしたことである。インフラの整備で、水道の塩素消毒を実施したことである。(養老先生の受け売り。)当時、乳児死亡率が高かったらしい。これには、あまり清潔とは言えない水と、井戸の水汲みなどの重労働、もちろん、子を産み育てる女性の仕事--が関与していた。塩素消毒の水道水の普及で、清潔な水が手近にあり若い母親が重労働から解放されたことで平均寿命が上がったと言う。

 学力についても、同様なことが言えよう。
 現場にいても、確かに今の生徒の学力は、知識、思考力とも、20年前の生徒と比べて落ちていると、私は生活感覚で思う。それで、言いたいのは、これは、個別の問題ではない、ということである。例えば、「ウチの子、学校の成績が悪くて、困ってるのよ。」という嘆きは、「個別」のものだから、宿題をきちんとさせる、場合によっては、塾や家庭教師、と言う手だても考えられる。なぜなら、学力不足が個別の問題だから、個別に対応をすれば良いということである。
 しかし、今、おそらく問題になっているのは、--大学で高校や予備校の先生を呼んで補習指導を行わなければならない状況は、個別の問題でない。マスの問題である。
 それで、高校までの学校教育に関して、一人一人の学力を上げるべく、「個別指導」「少人数指導」が喧伝され、昔に比べて、一定数の生徒に割り当てられる先生の数が増えた。この意味では、「十二分に対策が取られている」わけである。それでも、効果が見えてこない。
 ならばどうするか。
 答えは、マスを対象とする↑「公衆衛生」に学べばよいと言うことになる。
 個別指導や少人数指導は、医療体制の充実によって平均寿命を上げる方策に似ている。なぜなら、「個」に対応する方策だからである。しかし、これが抜本的な対策にならないのは、「個」に対応する策でしかないからだ。間違えて貰っては困るが、「国家規模」で行ったとしても、所詮「個」への対処法にしかなりえない。
 しかるに、「水道の塩素消毒」は、個に対応する策ではなくて、マスに対しての方策である。英語で言うと、eveyと、allの違いで、水道の塩素消毒はallに処する策である。「一人一人」に目が行くのがeveryの見方で、それらの要因を皆ひっくるめて大きく俯瞰的に見る見方がallだからだ。(よって、複数になる。「見えない線」で集団をくくり、その枠内に複数のものがある、という見方だからだ。)公衆衛生は、この点で、みんなひっくるめて見ている。(で、日頃から思ってるのだけど、日本語の「みんな」は、everyの感覚であって、allの俯瞰的な感覚はないのではあるまいか。)

 で、結論だが、教育に関しても、allの感覚「みんなひっくるめて」を大事にしたらどうだろうか。
 今の教育は、一人一人の先生を頑張らせることで、つまり、質を高めることで(不適格的確教員の排除もこれの一種である)教育の質をあげようとしている。しかし、私は、どんなに一人一人の先生が頑張っても、塾の先生が頑張っても、全国レベルで、例えば、街なかで「近頃の子って、何かしら、いろんなことを良く知っているわね。私たちが学校で習ってないようなことまで当たり前のように話してるわね。よく物事を考えているようにも思うし、感心するわ。」という言葉が人の口から出ることは絶対にないと思う。
 一人一人の学校の先生、塾の先生の努力は、「自分が教えてやった生徒」のレベルにおいて効をなす。しかし、効をなすのは、自分が対応しきれる生徒だけである。その先生に習った生徒の友達や、そのまた友人知人までもが感化を受けて成長、発展するということは決してない。逆に「おまえは、○○先生で良かったなぁ。オレは、××先生だから、はずれだ。」と、マイナス要因になる場合も起こりうる。(人間同士だから、合う、合わない、と言う問題もあって、ホントは、私にとっての良い先生が必ずしも、あなたにとっても良い先生にならないのである。個が個を越えることは決してない。「本校の合格率○○%」あるいは「本校の素晴らしい教育」は、決して近隣の学校や塾、隣県の生徒まで生き生きとさせたり、生徒の向上心を高めたりはしないということである。で、こうした方策をとる場合、それで、「競争」などをさせれば、逆に、「近隣や自分が関わらない生徒まで伸びては困る」という場合の方が多くなろう。競争とは、見える範囲内での相対的なものでしかなく、自分が優れることを示すことは同時に、他が自分より劣っていても十分に成り立つ図式である。それでも、十分に「競争」は機能するのである。

 教育における「公衆衛生」や「予防医学」が何になるかの研究をした方が、余程良いのではないか。その方が、ずっと安上がりで、効果もあるぞ。マイナスは、「生徒の学力が上がったのは私の成果である」と、教える側が自分の能力を誇示できなくなることである。「ウチの塾にくると成績が上がる」とか「私は大変指導力がある教員である。他の先生と違うのだから(オレの給料を上げろ)。」などの「宣伝」ができなくなる、ということである。一部の人にとって、これは「人生を賭けて困ったこと」になるだろう。

 で、「二十四の瞳」の大石先生である。先生の問題ではなく、「瞳」の問題である、ということである。--その意味で、今、気が付いたが、このタイトル、実に上手くできている。象徴的である。大事なのは、大石先生ではなく、生徒の「瞳」だということだ。「子供が先生をどのような瞳で見つめていたか」ということだ。大石先生は、基本的に関係ない。
 
 子供にこのような「瞳」を持たせると良い。
 えっ? 「どんな瞳ですか?」ですって。そんなのわかりきったことですよ。

 基本は「子供のあなたは、人間として無力である。だから、学ばなければならないのです。そのために、親の言うことを聞きなさい。学校では先生の言うことを聞きなさい。」という自覚を国家規模で(マスコミをつかって)子供に促すことです。

 えっ? 何ですって? ろくな親も教師もいないから、そんなこと言えないですって?
 それはね、あなた自身の「人間の大人としての自信のなさ」の表れですよ。それと、心の底に、「私」の存在を子供にアピールしたい気持ちがあるのですよ。親であろうとどこの先生であろうと。「私に注目して。私の存在を認めて。私は良い親で、良い先生なのだから。あなたが今あるのは、私のお陰でしょ。」そんなのは、捨ててしまいなさい。今まで以上に「自由」になれますよ。

 そういえば、以前、「公立学校教員の透明性」という記事を書いたなあ。読み直してないけど、たぶん、同じことだと思う。(「個性はいらない」という話だった。自信があれば、個性なんて、いらないのよ。)

suchの発音

2008å¹´12月26æ—¥ | æ•™è‚²
「すっち」と言ったから、最初、何のことかわからなかったよ。これで、旧帝大のどこかは受けるだろうし、受からなかったら困る子だから、・・・大学の先生も大変だ。
(今日は、お休み♪ 明日は仕事!)

質問を丸投げするな

2008å¹´12月25æ—¥ | æ•™è‚²
先生、この答え、合ってますか?
どれ? えっ、これ、解答も解説も持っているでしょ。
はい。でも、自分の答えがどれくらい合っているか知りたいんです。
自分の答えにある言葉と解答に使われている語を比べてみて、足りない語があったら、それが足りなかったわけだし、余っていたら、必要がなかったということでしょ? それで、言葉の並び方から、何を言っているか、わかるでしょ。
あ、そうやって答え合わせをすんですか。
合ってなかったところは出来てなかったと言うことだし、書いてあったことは出来ていたと言うことだよ
はあ。そうですが。。
そうやってしか、答え合わせはできないでしょ。といか、答え合わせはそうやってするものだし。それで、そうすれば、一人で勉強が出来るわけだし。
でも、はっきりわからないときもあるし。
まず自分でそうやってやってみて、それで、どうしてもわからなかったら、またいらっしゃい。まずは、自分でやってみなさい。それで、やっていくうちに、自然にわかってくることもあるから。思い当たるでしょ?
はい、それはあります。
それでわからないときもあるだろうし、それでね、そりゃ、どうしようもないときもあるものだよ。でも、とにかく、自分でそうやってやってご覧。
はい。自分でやってみます。

・・・というわけで、私のところに質問に来る生徒は少なくなる。
上記の生徒は、本当は「点数として何点くらいか」が知りたかったのだと思う。そんなことも言った気がするけど、点を知って何になるの?と、目的はわかるように、出来るようになることでしょ、と不愉快なことも言ったと思う。(あまりに不親切だと思われるのも何だから(苦笑)、一応ここに書くけど、和訳の仕方もノートにこうやって書いてやるといいんだ、と教えた。そうすれば、答え合わせもしやするなる、と。)
でも、いちいち先生に頼っていたのでは、赤本の勉強なんて、自分で出来ない。結局、「わからない問題」に直面したとき、自分でどうやって考えて良いのかもわからない。試験の最中は、誰も助けてくれない。


作文をたくさん書くうちに頭が少しずつ良くなったような気がする

2008å¹´12月25æ—¥ | æ•™è‚²
作文の効用です。
しゃべっていても、頭が昔よりよく回転するようになりました。年の功だけではないと思います。



新しい学習指導要領のコミュニケーション能力

2008å¹´12月24æ—¥ | æ•™è‚²
 高校では、英語の授業を英語で行うらしい。今更言うまでもない疑問である。
 思うに、発案者の脳裏には、いわゆるselhigh、英語教育を重点的に行うスーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイ・スクールの成功例があるのだろう。興味深いことに、sshスーパー・サイエンス・ハイ・スクールは、進学校、それも、トップ校との言える学校が指定されるが、selhighの方はそうでもない。英語科などがあることは多いようだが、進学校でもない学校が指定されることがある。(もちろん、進学校もある。学校が名乗りを上げれば指定されうる。)それで、selhighの中に、特に学力が高いとも言えない高校生が、英語をかなり自由に操る能力を獲得し、授業で、活発に「コミュニケーション」を行っている実践例がある(と聞いた)。だから、発案者は、英語が話せる、話せないは、生徒の能力によるのではない、教師の指導力による、と思っているのであろう。だから、教師の指導力によって日本全国の高校で、話す英語の授業が可能であると考えたのだろう。まあ、selhighの指定を受けると経済的な側面でもさまざまな恩恵を受ける。もちろん、お金があればできる、と言うわけでない。けっこう、お粗末な実践報告もあると聞く。
 私は、短慮だと思う。「うまくいった事例」を敷衍化するのが危険であるということがある。(これって、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と関係するのかな?)

 で、以下を最初に書くべきだったろうが、学習指導要領にある「コミュニケーション能力」とは、私が見る分には、「同時代人とのコミュニケーション」としか規定していないように思う。私はこれを落ち度であると見る。
 人間が行う「コミュニケーション」の大きな特徴は、「時空を越えている」ことにあるからだ。同時代の「種」同志のコミュニケーションなら、あらゆる動物が行っていることである。これは、必ずしも言語を介在せずとも行うことが出来ることを意味する。(帰国子女の生徒に意外にいるのが、「私は英語でコミュニケーションが取れるから、学校で英語を勉強する意味がわからない」というものである。生徒によっては、身振り手振りで伝わるから、それで十分だと言うこともある。)
 しかし、時空を越えたコミュニケーション、特に、時間を超えたコミュニケーションを行うことが出来るのは人間だけではないだろうか。この人間特有のコミュニケーション能力を、この学習指導要領はどのように規定し、育成しようと努めているのだろうか。ほとんど何も述べられていないように思われる。これだけ「コミュニケーション能力」という語を用いながら、なぜなのだろかと訝しく思う。

 「時間を超えたコミュニケーション」は、具体的には文字の解読であろう。(絵というのもあるけどね、まあ、それは英語とはちょっと外れるからのけておく。)読解である。それこそ、人間はこの能力を得ているからこそ、現代に住む我々であっても過去の人と交わることができるし、現代人は未来への遺産を今後残すことが出来るのである。それは、これまで古くは数千年間、近いところでも数百年、1000年にわたって、「教育」と言う名で行われてきた営みそのものではないのだろうか。

 現代の日本に住みながら、我々は、過去の日本人はもとより、数百年前の英語話者の思いを辿ることができる。彼らの思いが深遠で、意味深いものであれば、こちらが問いかけをしたときに、彼らは必ずや答えてくれるであろう。英語話者の言葉そのものでなくとも、「翻訳」と言う手段を通して、これまで我々は、いかに多くの思想に触れることができただろか。(翻訳には、同時代人も含まれるが。)具体的には、「古典」と言われるものを通してのコミュニケーションである。高等教育を受けた人で、この経験を全く持たない人はいるまい。こういった人間特有の、かなり高度なコミュニケーション能力こそが、人間を人間たらしめてきたのではあるまいか。現在の日本人が多くの西洋語に触れることができるのは、高い翻訳能力を持つ人たちがこれまでに数多く存在したからこそであろう。今の高校教科書も、そのお陰を負っているはずだ。こうした高いコミュニケーション能力を培う基盤としての学習の重要性は、新しい学習指導要領のどこに記されているのだろう。コミュニケーションの主流が、同時代の直接的な人と人の関係になれば、新しい学習指導要領は、これまで我々が享受してきた豊かな世界を狭隘なものにしかねない種を蒔くことになるのではないか。

 高等学校の学習は、社会生活における実用性を伴う知識や技能と言った義務教育に置ける学習と異なる側面を持つものだろう。一体、今後の英語教育のどこに活かされるのだろうか。
 
 私が生徒に言うのは、日常的な会話なら、中学の英語で十分である。それなのに高校で英語を学習するのは、それ以上の内容を語るためである、ということだ。日常会話に関係詞はほとんど必要がない。複文も必要がない。ややこしい接続詞の用法も必要がない。
 しかるに、「論理」を語る際に、これらは必要になる。この論理の学習は、現行の学習指導要領において非常にお粗末である。(ライティングの学習指導要領解説を見よ。)より高度な「コミュニケーション能力」の育成を図るならば、論理の学習はいつどのように、どの段階で行うのであろうか。それも、「英語を使った授業」で行うのであろうか。言語習得の学習と論理の学習は、全く別物である。
 発案者は、こういった高度なコミュニケーション能力の育成については、どのように考えているのだろうか。わずか3000語の英語で、いかなる論理を語らせるのか。

 と、文句を述べたが、唯一賛同できることが書いてあった。自立した学習者になるべくの「辞書の指導」である。

センター試験は「間違い探し」

2008å¹´12月23æ—¥ | æ•™è‚²
が素早くできるかどうか。あんなのどう見ても勉強じゃない。

大分長い作文を書いている。行き詰まった。どうしよう。深入りしすぎた。

学校に連れて行く人

2008å¹´12月21æ—¥ | æ•™è‚²
 教育学や先生の語源はギリシャ語で「子供を学校に連れて行く人」であると教えて頂いた。(madographosさん、どうもありがとうございます。)

 これって、とっても示唆的であると思う。
 「これ」とは、先生が「子供を連れた人」ではなく、あくまでも「連れて行く人」であるいうことで、私は「連れて行く」の「行く」に注目したいのである。
 で、結論を言うと、今の学校の先生は世間的に、或いは、自らが「子供を連れる(?)」ことを目的にすることが良しとされ、連れて「行く」ことが目的になっていないということだ。これが歪みを生んでいるのではないか。

 では、先生は子供をどこに連れて行くのか。--ギリシャ語では「学校」である。先生はすでに学校にいるにもかかわらず、「学校に連れて行く人」なのである。では、ここで言われる「学校」とは、どこか、或いは、何か。--当然、「学ぶ」ということであろう。
 つまり、先生が直接子供に学ぶことをさせるのではない、学ばせる主体ではないということを意味するのではないか。ということは、先生にできるのは、あくまでも子供を学ぶ場においてやることだけである。先生が、ストレートに教えるわけでは決してないのである。←と書いても、よくわかってもらえないかもしれない。

 「先生は勉強を教えるためにいるのではないか、ならば、先生は子供を教える人そのものではないか」--世間的な常識ではそのように捉えられるだろうが、そうでないのだ。あくまでも、先生は、「子供を学ぶ場に連れて行く人」であるのだ。
 
 では、「学ぶ場」とは何か。学校という「場所」ではない。学習そのもの、学ぶことそのものなのである。
 算数だったり国語だったり、理科だったり、まあ、枚挙にいとまがない学習内容である。先生は、子供にこの世の中には、そういうものがあるということをあくまでも提示するに過ぎない存在なのである。だから、「連れて行く」のである。子供が最初に学ぶのは、算数の1,2,3で、国語のひらがなカタカナである。同時に、「数」という、実は概念としか存在しないものが存在すること学ぶ。言葉というこれも概念としか存在しないものが、人間の世界に存在することを学ぶ。それで、人間は、それを使って自分の周りの世界を捉えてきたことを、さらにまた、世界をどのようにとらえてきたかを我が身を通して知ることそのものが「学ぶこと」で、子供が学ぶ対象に直に触れることによってしか子供は習得し得ない、ということである。(う~ん。。上手く説明できない。)子供が、自分で、1,2,3がどのようなものであるか習得しないことに「学ぶこと」は成立しない。この過程において、「先生」は介在しない。あくまでも、子供と対象とのストレートな関係でしか学習は成立しないと言うことである。子供の脳味噌に先生の脳味噌を植え付けるわけにはいかないと言うことである。子供の自身の脳味噌を変容させなければならない、これは、子供自身の活動でしかなし得ない。そこに、他人が介在する余地がないと言うことである。「学ぶ」とは、自身の変容に他ならないからである。自身の変容に他人は関係がない。だから、「他人」としての「先生」は、「連れて行くこと」しか出来ないのである。「馬を水場に連れて行くことは出来ても水を飲ませることはできない」そのものだろう。

 まだ、どうしても納得できない人は、「だったら、水場で馬に水を飲ませる気にさせることだったら、先生が学習に介在することになるのではないか」と考えるだろう。しかし。それこそ「落とし穴」である。
 「学ぶ」とは、上記の馬の譬えなら「水を飲むことによってのどを潤し、体内に水を行き渡らせる」行為である。それは、馬にしか出来ない行為で、水場に連れて行った人にできることでない。

 「学ぶ」とは、外形的なものではないのである。水を飲んだ個体が水が体内に入り込むことによって変容するように子供が変容しないことに「学ぶこと」は成立しない。主体はあくまでも子供自身にしかない。だから、先生は、あくまでも「連れて行くこと」しかできないのである。

 ところが、あまりにも「連れて行くこと」の価値が肥大化し、子供自身の変容が「連れて行くことの肥大化」に隠れてしまった。そこに、昨今の教育問題の根幹があるのだと思う。「学ぶ主体が子供であること」が忘れられているのである。だから、「先生が何をするか」、「先生が何をしたか」ばかりが問いただされ、「子供が内的にどのように変容したか」という視点がない。せいぜいで学力テストの点数などの数値化したものか、「目を輝かせる」かどうか、ということだろう。が、子供はさまざまなことで目を輝かせる。どういった観点から見た子供の目の輝きかがきちんと問われているか。
 ここに大いなる不幸があるのだと思う。