考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

何でもかんでもレディメイドの時代

2010å¹´11月30æ—¥ | æ•™è‚²
 内田先生ブログを読んで思ったこと。
 今どき、ステキな小物でも持っていると、あるいは洋服でも良いが、人から問われるとすると、その言葉は、「それ、どうやって作ったの?」ではなく、「それ、どこで買えるの?」だろう。ずっと前、なんだっけ?アメリカ開拓時代のお話(「大草原~」でないと思う。)で、仕立屋のウインドウに出来合いのドレスが飾ってあったが、あれはウソである。当時、既製服があったわけがない。ウインドウに飾られていたとしても、生地であろう。しかし、生地だって、大事にされていただろうから、奥にしまわれていただろう。
 以上、前座。
 で、問題は、「情報」と称されるようなある意味、「知性に関わる産物」にあっても、「人が持ってないもの」は、既にレディメイドだと思われるのが通常のようだと言うことである。内田先生が毎日新聞だけで得た情報を元に、大ざっぱな時系列を鑑みて内田先生が自分の脳味噌で見て取ったことを公安関係の人は、他から入手したと思ったのである。
 私は学校の先生だから、生徒で喩えるとこうなる。
 とても良くできる生徒であっても、中には、もの凄く簡単な問いであっても、私がちゃんと答えを言わないと、「先生、この答えはこれでいいのですか?」と問いに来ることである。
 少し、舌足らずであろう。
 そうした生徒は、問いに対する答えは、他人に頼るべきもので、自分で順を追って考えて到達するものではないと思っているのである。自信がない、確信を持ちたい、というのも根っこは同じである。自分で考えられない、つまり、内田先生的に、「こういう前提であるならば、見えない部分はああでなければならないからには、ああである」と思考できない、公安関係の人と同じ思考法をたどっていると言うことである。
 「ものごと」というものは、たいていの場合、「こうであるなら、ああなる」ことがほとんどである。で、勉強というのは、全て、これである。「イヤ、そうでないこともある」とおっしゃるなら、それは「前提の取り方」が間違っているのである。この点、内田先生は、公安関係の人まで唸らせるようなちゃんとした前提で、ちゃんと道理にあった思考をしたのである。でも、公安関係の人は、そうした思考法があることすら知らない。洋服や小物は全て、既製品で、どこからか入手したもののはずで、自分で材料を組み合わせて作ったとは決して考えない人だと言うことだ。
 で、私は学校の先生だから(←くどいなぁ・笑)思うのだが、今どきの勉強の仕方は、すでに、レディメイドの勉強である。正しい答えも問いも、すべて自分の外にあるもので、「勉強ができる」「試験ができる」とは、どこからかそれそのものを入手することだと皆が思っている。だから、生徒も先生も、良い問題がないか、良い解説がないか、探す。外部から入手したものをそのまま飲み込む。それが、今どきの「勉強」なのである。決して、内田先生のように、手にした材料を組み立てて、ぼんやりと見て、自分で見て取るものではないのである。「考える」ことの拒否が、今の勉強だと言うことだ。
 と、私は思いました。

人口がここまで増えたワケ

2010å¹´11月24æ—¥ | æ•™è‚²
内田先生ブログの七人の侍組織論を読んで、人間がここまで増えたわけがわかった。
弱者に目を向けたからだ。
なるほど。
ってことは。。。
日本の人口減少は、「強者」を求めるからである。
なるほど。

Whenを見たら

2010å¹´11月19æ—¥ | æ•™è‚²
 When の後は、必ずどうなっているか?と問うと、余り答えてくれない。教えているにもかかわらず、怪訝な顔をする。それでは、読めるように、あるいは、書けるようにならない。
 Whenの後は、sv, SV. に決まっている。平叙文で他は、あり得ない。言うと、ああそうか、そんなことは知っている、という顔をする。でも、聞いてわかるようでは、積極的な読みはできない。自ら思いつく、というのが大事なのである。でないと、予測しながら読むことはできない。
 
 で、たぶん、この記事を読んだ多くの人は、中学レベルじゃん、と思ったであろう。そのとおりである。(笑)しかし、これが、むーずかしい文章の中に出てくるとき、まあ、when でなくても、従属接続詞だったら何だって当てはまるが、挿入や関係詞節、andがごちゃごちゃ入り込んでくると、もう、大変。(かなりの生徒は、挿入が苦手である。)それなりに生徒でも「わからなかった」と曰う。で、そんなときに役に立つのが、中学生レベルのこうした知識である。whenの後に続くsv, SV.を探す。探し方のコツはちょっとある。基本的に誰でもできる。単語の意味だけ調べても、ダメであろう。


中学の英語と高校の英語

2010å¹´11月18æ—¥ | æ•™è‚²
 英語の活動は、読み書き聞く話す、という4技能という考え方に則っているが、誰が最初に言い出したのか知らないけれど、教育活動としては、極めて非効率な分類である。おそらく、英語の専門の人が言ったことだろうけれど、人が言葉をどのように覚えていくかという、教育的な観点が全く入ってないと思う。この4技能の考え方が英語教育の基本になるから、間違いが起こるのではないかと思う。
 何ごとであれ、物事には階層的なものが存在する。ところが、この4技能の考え方に階層性は全くない。(学校の試験だったら高得点は期待できない。)何だか、この頃、そういう捉え方って、アタマが悪いんじゃないのかと思う。羅列的で、いかにも言語好きな人や、また、四季ある気候風土の日本人が好みそうな考え方だ。単語を覚えれば英語ができるようになる、と思っている生徒のようだ、とも言える。日本人がなかなか英語ができるようになれない理由の一つに、こうした羅列的な考え方が根深くあると思う。
 高校生で英語が苦手な生徒は、全て(といって良いだろう)中学の英語で躓いているのである。だから、可哀想に、いくら勉強をしても、さしたる成果が上がらない。話せるようにも、読めるようにもならない。
 必ずできるようになる方法があると思うのに、なぜそういう勉強をしようとしないのか、不思議でしようがない。
 三年生の受験生でも、かなり良くできる生徒でも、中学レベルの理解の躓きがあったりする。難しくなればなるほど、「基本」が大事なのだと思うけれど、賛同されない。まあ、私が言う「基本」は、他の先生の基本と異なるような気もするけれど。

終わり。

みんな政治が好きなワケ

2010å¹´11月18æ—¥ | æ•™è‚²
 政治は人間関係の一種で、相対性に則られる。相対性とは、みんなが正しいと言ったことが常に正しくなる世界観である。この点、「水は通常の気圧では100度で沸騰する」という絶対的な世界観と異なる。
 よって、権謀術数を計ろうと、金魚の糞たろうと、また、自分の考えそのものがころころ変わろうと、多数派の一員でありさえすれば、自身の存在意義が高まる。人間は、相互扶助がなければ生きていけない存在だから、多数派として協力関係ができれば、それが最善の状態となる。まあ、多数派でなくても、それなりの人数が集まればOKだから、何が何でも最大多数派に所属しなければならないことはない。それでまた、「やっぱ、この件に関しては、AよりBよね」という、人それぞれの「最低限の何か」は変えようがないものがあって、数々の基準から少数派的な党派も数々生じる。
 で、全てが相対性の世界観で処理できれば良いのだが、人間の身体は水でできているので(←たとえみたいなもの)、水は100度で沸騰するからには、どんなに多数派でろうとどうしようもない状況に陥る。でも、ついうっかり、自分の身体が水でできていることを人は忘れる。
 まあ、そのあたりのことが、人間が前頭葉の発達は今いちで、まだ進化の途上にある点なのだろう。


子供は何を学ぶか

2010å¹´11月13æ—¥ | æ•™è‚²
 子供が学ぶのは、内容や知識ではなく、「形式」「(根底に潜む)方法」であることをもっと人は知った方がよいのではないかと思う。知識や内容は変容しても、形式や根底に潜む方法は、世代が変わって時代が変わっても変容しない。

 私がプリント学習が嫌いなのは、教える人はプリント学習で「知識」を教えていると思っているが、生徒が実際に学ぶのは、「穴を埋め、選択肢から余計なものを排除する重要性」である。極めて受動的な態度は役に立たない。
 ん? 権力の下僕を作るという意味で、役に立っているということか。


2種類の文法

2010å¹´11月13æ—¥ | æ•™è‚²
 「文法」という語には、誤解がつきまとう。文法には、2つある。これをごっちゃにすると間違える。
 一つは、たぶん、文法学者が唱えるような文法、5文型とか、to不定詞の名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法の分類や、現在完了の継続、経験、完了、結果などの用法などの、う~ん、こうして考えると、用法という分類方法に関わるものが大きいかもしれない。あと、単文複文の「書き換え」などの類で、ホントの所は、言い換え不能にもかかわらず、英語という時制にしろ、語句の形態?に関わる類似点から、よく似た表現を同じと見なす思考訓練の様な種類のものである。(と、表現して伝わるだろうか?)
 もう一つは、「読むため、書くための文法」である。同じto不定詞であっても、名詞的用法で主語の働きをしているものを目的のように読み取っては、間違える。指示語のthatを関係代名詞だと誤読してはいけない。書く時も同様である。大きな間違いだから通じなくなる。コミュニケーションどころではない。
 巷や生徒が生半可な知識で「文法」というとき、両者は混同される。前者を指すこともあれば、後者であることもある。英語の先生に多いのは、結構前者を文法の勉強であると捉えることである。中には、--ingを、動名詞か現在分詞かの区別を気にする人がいる。しかし、実際の「英語運用能力」という観点では、どうでも良いことが多い。--ingは--ingなのである。to原形は、to原形なのである。大した違いはない。大事なのは、聞くにしろ読むにしろ、話者の言いたいことを読み取ること、また、話すにしろ書くにしろ、自分の言いたいことを誤解を招かない正しい表現で表現すると言うことに尽きる。
 新しい学習指導要領で、ホントのところ、言いたいのは、そういうことだと思う。コミュニケーション能力は、これなくしてあり得ない。
 こんなことは、余りにも当たり前すぎて、考えてみるまでもないことである。
 でも、「文法」という語を聞いただけで、「文法とは文法用語の定義である」と解釈して、定義を覚えて運用する、現実の英語の当てはめて考えることだと思う人が大多数だから、通じない。
 あれこれ言われる学校の訳読にしても、to不定詞が形容詞的用法か副詞的用法か区別が付かないものは多い。結果か目的かもわからないことが多い。当たり前である。使っているネイティブが用法の違いを意識して書いているのではない。toで表現したかったから、toで表現しているのである。用法は、前提として存在するものではなくあくまでも結果として生じるのだ。toから後ろがもの凄く長いときは、訳すとき、意味的には目的だろうけれど、長いから、結果のように訳した方が日本語としてわかりやすいことはよくある。
 「文法をやっても英語はできるようにならない」などの文法否定論は、前者の文法ばかりが文法だと思っているから生じる考え方である。(それから、ものを体系的に分類して捉えるという考え方は、基本的に嫌いな人が多い。特に、語学の達者な人の中には数学ができなかったりする人がけっこういる。目に見えないところで、体系的な捉え方は数学的な思考だから、もの凄く英語ができるけれど、そのせいで、ある意味での権力の中枢的地位にいるけれど、数学は駄目、という人の発想に受け容れやすいのだと思う。)それが、学校から文法の授業を追放した。(「文法」という科目は今ない。)「読む、書く、聞く、話す」の4技能を一つの科目、英語Ⅰで学ぶという発想になった。どちらも、異言語習得はできない考え方である。
 言語の習得、とくに、日本語と英語のように文構造が全く違う言語を習得する際に「シャワーのように浴びればひとりでに覚える」は、全く不可能である。(シャワー説は、きっと、「勉強は大変だからやりたくないよなぁ」という非常に多い考え方に迎合するから誤解されて受け容れられるのだろうな。で、広い世の中には、1億も人間がいれば、中には何人かは、才能があって、それで習得できるような人だっていないとは限らない。しかし、そんな人たちは例外中の例外なのである。自分と同じだと思ったら、間違える。)読み書き話し聞くための文法であっても、当たり前だが、体系的に学ばないと習得できるわけがない。その際の考え方のヒントになるのが、たぶん、さまざまな文法学者が捉えた体系であろう。「体系」は、上手に利用して、英語という言語を捉えれば良いのである。
 しかし、人は何かを学ぶとなると、なんて言うのかなぁ、ビミョウに本当に大切なことから「ずれる」のである。偏差値55の間違いなのかなぁ。0点ではないにしても、決して満点や90点でなく、わかっているようなわかってないような60点や70点なのである。それが、「教え方」や「ものの捉え方」に影響を及ぼして、2つの文法の違いも何も明確にせず、言語の習得の深部におけるプロセスも感じ取らず、「文法は不要だ」などの誤った議論を生むのだろうな。

思考訓練

2010å¹´11月02æ—¥ | æ•™è‚²
 作文を書くというのは、本当に思考訓練だと思う。
 分子構造の複雑な立体を1本の時系列に置き直すのは、難しい。
 同時に作文を見るのも、思考訓練である。やってないと、勘が狂う。というか、発想が貧困になる。