考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

うふ。

2011å¹´05月30æ—¥ | æ•™è‚²
 内田先生と名前が並んでいる。
 うふ。
 かなり、嬉しい♪♪
 私以外は、みんな、本を書く人。

 残念ながら、非売品。
 ま、でも、たぶん、これが最後。

あー、忙しかった

2011å¹´05月29æ—¥ | æ•™è‚²
 このところ、ずっと忙しかった。やっと、「宿題」が終わった気分。(気分だけになるかもしれないけど。)
 ずっと、本を読んでない。養老先生の大言論も、途中読み。「考える人」連載で読んだ内容ばかりではあるが。
 本が読めないのは、目が悪くなっているせいでもある。すらすら読めないから、うっとうしい。疲れる。すぐに、放り出す。

 ま、でも、ちゃんと読もう。

文字はきちんと書け

2011å¹´05月28æ—¥ | æ•™è‚²
 ○付けが進まない。
 gが上に上がっている。sとtの高さが同じ。hがTより高さが高い。bdの○の大きさが、aより小さい。rがハングルのハングル文字のあ(だっけ?)みたいな感じ。fとtの区別が付かない。語頭のs、cが大文字。

 文字の形は視覚的な刺激である。こういった刺激をきちんととらえていないのは、感覚が鈍いと言うことである。
 成績が良い生徒と、悪い生徒を比べると、確実に言えるのは、成績が悪い生徒は、感覚が鈍い。鈍い感覚で勉強をしても、できるようになるわけがない。だって、鈍いのだもの。だったら、どうしたら、鋭くなれるか。大事なのは、そこだ。
 文字は、ちゃんと、書け。

 と、こう言うと、「字が汚くても、できる生徒はできる」と必ず、「例外」を持ち出して反論する人が出てくる。本質を見ない方々である。
 少数の例外を持ち出して、一般化するのは、誤った考え方である。経験的に、きちんとしない生徒は、圧倒的に、できない。数学でも、イコールをそろえて書かない生徒ができないのと同じである。

 勉強なんて、そんなものだ。

 ほりは悪筆である。しかし、大文字と小文字の区別が付かない文字は、書かない。高さもきちんと書く。自然に書くと、独りでにそうなっている。子供の時に徹底的に訓練されたのだろうし、自分でも気をつけた。答案だったら、ことさらに、気をつけて書いた。だから、勉強だって、それなりに、ちゃんとできるようになったのだろう。

 あー、○付けが進まない。

文字はきちんと書きましょう

2011å¹´05月21æ—¥ | æ•™è‚²
 この頃、ハラが立ってしようがないのが、生徒の書いた文字である。
 
 ひらがな、カタカナがちゃんと書けない。たとえば、カタカナの「ア」が、3、了、マ(この間違いは古典的。)、刀、に見える。アの第1画の、ハネではないけれど、少しずつ力を抜いて書く書き方ができていない。イの第1画が丁の第1画とそう変わらない。
 古典的に言われる、シとツの区別、ソとンの区別どころではない。

 もー、根本的に、へ・ん。

 アルファベットも、いかにも頭の悪そうなアルファベットである。

 c、s、wの、高さが大文字だか小文字だか、区別が付かない。sが細長く、下にはみ出している。rを撥ねて書く。vも、wも、最後を撥ねる。
 撥ね、止め、であっても、「違い」に対して鈍感なのは、もー、「無教養」としか、言いようがない。「きれい」「きたない」の違いではない。

 sは、ただ見て書くだけだと、どうしても、細長くなるものである。それを、しっかり、縮めて書くことに、「意識的な勉強」ゆえの練習の「成果」が出るのだ。勉強とは、無意識的にできるようになるまでには、意識化すること以外、他にすることはない。決して、独りでにできるようになる、なんて、夢のような話はない。大文字と小文字が同じ形なら、違いが何であるかに意識を持っていかないと、決して大文字も小文字も習得できない。

 それが、全く、できていない。
 文字がきちんと書けているかどうかと、学力には、経験的に、相関がある。「目の付け所」が学力に結びつく。

 中学の先生は、何を教えているのだろう? でも、中学の先生だけの責任でもない。
 そもそも、ひらがなカタカナでも、似たようなことが起こっているのだから、空間や平面の認識力がないのである。文字を覚えはじめるときに、差異を認識する訓練をやってないのである。

 こんな認識の仕方でいくら勉強をしても、できるようになるわけがない。

 君たち、根本的に、小学校の1年生から、や・り・直・せ。

 ウチの学校で、こうだから、他は、推して知るべしだろう。
 日本人は、どんどん、アタマが悪くなっているに違いない。
 (日本は工業国だから、今後が心配になる。)

 近頃、○付けをしていると、すぐにイヤ気がさしてくる理由がわかった。

「それは入試では問われない」

2011å¹´05月21æ—¥ | æ•™è‚²
でも、何でも良いのだが、勉強を教える際の「基準」が、入試に出るか出ないか、とか、入試の採点基準にとらわれる発言や思考法は、私は大嫌いである。
 結局、そういう勉強をすると、ちょっとひねられると、とたんに、太刀打ちできない状態になるのだ。またこれは、「最初から仕切り直さないとできない」状況でもある。

 もったいない。

 でね、続きを言うと「でも、生徒は、入試や試験がないと、勉強するわけがないよ」という理路で攻めてくる。
 でもね、それは、自分がそんな風に思っているからなんですよ。

 子供の思考は、もっと柔軟です。
 1年、2年かけて、「ものごとの筋道」を誠意を持って語れば、必ず、変わる。スカート丈が短い(膝上20センチとかね)のは、叱られ続けると、間違っていた、とたいていは(少なくとも、私が教えてきた限りにおいては)、わかるものです。
 「スカート丈と入試は違う」とおっしゃるかもしれないが、同じです。「違う」といっている限り、「同じ」を理解する勉強は、教えることもできるようになることもできません。

 ↑上記、理解されないと思う。(笑)

たとえ難しくとも

2011å¹´05月21æ—¥ | æ•™è‚²
 勉強ができる、できないというのは、小学生のひらがなの学習から、既に違っていると思う。(ひらがなは実は難しいのだが。)
 生徒の学習法について、あれこれ言うと、他の先生から「それは難しい」と言われることがあったりする。学習内容そのものと言うより、学習の際の着眼点についてである。でも、私が思うのは、習得は、着眼点をどう持つか、ただそれだけだと思う。様々な記憶すべき事項や理解は、すべてが着眼点に基づいてのものである。だから、、着眼点を持つことが難しいと言われたら、勉強なんて決してできるようにならない。せいぜいで、羅列的な暗記で行う作業的な事務処理である。

 ---とここまで書いて、センター試験などの試験をなぜに人々が受け入れるかがわかった。
 みんな、大勢の大人たちは「作業」「事務処理」が好きなのである。(だから偏差値55なんだな。)その意味で、日本は、せっせと働く事務員を製造しているんだな。
 事務処理能力の重要性を私だって認識しないわけではない。しかし、これでは、子供たちが根源的に持つ能力が高まらない。
 
 大人は、子供の持つ能力を見くびっているような気がしてならないんだよね。
 でも、私は、子供に着眼点の持ち方を教えてやりさえすれば、彼らが、ふとした機会に、離陸するのではないかと思う。で、現実そのような子を見ている。英語が、本当に「まとも」になるのだ。

国語辞典を引くか引かないか

2011å¹´05月18æ—¥ | æ•™è‚²
 子供の時、国語辞典を引くのはあまり好きではなかった。私の知る限り、私の知人友人で、賢い人は、国語辞典を引くのが好きだったりする。私はあまり知性的でないのかもしれない。
 で、なぜ、国語辞典を引くのが好きでなかったかというと、引いて意味を調べると、とりあえず、「代替品」としての言葉はわかる。でも、自分が知らないその語句と、どうしても、置き換えて理解して良いものだとは思えなかったのだ。なんか、そう、違和感を覚えた。
 同じ意味の言葉、似た意味の言葉は多数存在する。日本語の場合、非常に多い方ではないのかな。よくわからないけど。でも、異なる言葉としてそれらが存在する以上、なんらかの「違い」がなければならないはずである。でも、辞書で、「○○のこと。なんとか。」と言い換えると、そこに書かれている語としてしか解釈できない。
 私は、きっと、「それ以上」の想像力がなかったのだろう。だから、違和感を覚えた。「それ以上」の想像力を持つ場合、そこからまた、考えを広げ、本当の意味でのその語の意味をつかめたことだろう。しかし、私は、想像力が貧困だったから、できなかった、たぶん。何だか、わかったような、でも、ちょっと違うだろうな、といった変な感じがあった。その「変な感じ」がイヤだった。もちろん、だからといって、知らないのだから、どうしようもないのだけれど。

 生徒には、辞書を引いたら(英語ね。)、考えろ、と言っている。「ってことは、どういうことか?」を考えろ、と言っている。賢い子には、大変評判が良い。(笑)

日本の知性をダメにしている

2011å¹´05月18æ—¥ | æ•™è‚²
のって、進学校の教員じゃないかと思ったりする。

 最大の要因は、センター試験の悪弊であるが、結局、「試験」に関して、ラクをすることを覚えたのだろな。
 多くの人は、何かというと「客観」を重視する。というか、客観という言葉に弱い。しかし、「客観問題」などを作っているのは、あくまでも、出題者の「主観」に過ぎない。それが、マーク問題や、配点、基準が「幼稚園児にもわかる数値」で示されると、それが「客観」だと思い込まされてしまう。「①が答えで、他は、答えじゃない」というだけの観点での「明解さ」にだまされるのである。

 しかし、そもそもの学問や勉強とは、こうした「だまし」に乗らないことを目的に行うものではあるまいか。しかるに、全く、逆方向を向いている。

 こんなので、「知性」が育つわけがない。
 「知性」という言葉で表されるものは大学で学ぶことだ、という考え方があるようにも思うが、それは、お門違いだろう。小学生だって、中学生だって、高校生だって、みんな、等しく、萌芽を育て上げるべきである。
 それが、学校の使命だろう。
 でも、思うに、学校の先生そのものが、知性の尊さを信じていない気がする。嘆かわしいことだと思う。
 でも、「偉い人たち」は、こんなこと、誰も気がつかない。

たぶん日本に「公教育」という概念はない

2011å¹´05月18æ—¥ | æ•™è‚²
 内田先生が「国旗国歌と公民教育」を書いて見えるけれど、日本には、「公教育」とか「公民教育」という概念はないと思う、たぶん。
 内田先生は、なくすわけにはいかない今ある制度をなんとかうまく使っていく必要を述べているが、そもそも、日本人に「公」という概念はない。養老先生が書いていた気がするけれど、ムラに官憲だっけ?警察は入れない、自分のムラからは縄付きは出さない、みたいなことと結びつくと思う。「世間」はあっても、「公」という目に見えない社会は、日本に住む人は、そもそもから嫌いなのである。

 だから、「国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的」とする議論は決してなされない。公教育に携わっていても、記憶する限り、公教育とは何か、という議論や研修を受けた覚えはない。あくまでも、「目の前にいる子供たち」対象か、そうでなければ、一足飛びに、教育関連の法律の世界になる。なぜ、どのように、その法が定まったのか、など、基本になる議論はどうでもよくなっている。日々、公教育に携わっていながら、「公」とは何かという視点は、全く抜けて、すぐに、教科指導ということになる。でなければ、生徒指導は、世間感覚からくる、「あの格好は困るよね」という指導である。(別に、それが悪いというわけではないけど。)

 なんとなく、こうした思考法は、私は落ち着かない。数学の証明をするのに、公理もないのに定理が定まっているような感じだ。思考すると言うより、「みんなが思っていることが正しい」「言うまでもない。(といっておきながら、何の論も論拠もない。)」という感覚なのだろう。(だから、「英語の授業は英語で」になる。)判断の材料を、周りの人の顔色で決める、非常に日本人的な思考である。持論、日本語の「みんな」は everyone という1人1人の顔が見える対象であって、決して all the) people という「ある枠内に所属する複数」ではない感覚とも整合性があるだろう。「周りの人」という「具体」を見て物事の判断をするという思考法は、「公」という「なんとなく目に見えないもの」対象に思考できるわけがない。
 「公民意識」などというものに関心を寄せるわけがない。もし、「それ」を関心と呼べるなら、「業務違反命令」とか「辞職」などという言葉でしか現れ出てこないものになってしまうのだ。

勉強をするとわかること

2011å¹´05月17æ—¥ | æ•™è‚²
 私は世にも珍しい大人である。
 何が珍しいかというと、「ああ、勉強をして良かった」と思うからである。
 子供の時、大人の人たちが「今のうちにしっかり勉強をしないと、大人になって、ああ、もっと勉強をしておけば良かった、と後悔するよ。」と言っていた。だからというわけではない。でも、私はものすごくよく勉強をした。自分の能力の限界が実に良くわかった。(笑)私の知的能力は、実に、大したことがない。私は、なんて、「バカ」なんだろうということが、よくわかった。だって、勉強をすれば、「わかる」のはほんの一瞬で、わからないことの方が、どんどん増えるのだもの。。。中学までは、勉強をすれば、どんどんわかって、世の中が明るくなるように感じた。しかし、高校の勉強は違った。やっても、やっても、キリがない。
 
 勉強をして良かったのは、学校の先生という職を得たことだ。だけれど、「教職」だけを目的に勉強をするなら、おこがましく不遜な言い方になるが、自分の専門教科以外は、あんなに勉強する必要はなかった。だって、私より、ずっと成績が悪い人でも、いくらでも同じ高校教員になっている。(失礼。)
 あんなに苦労をして、数学や物理や化学や生物や、政治経済や倫理社会や日本史や世界史や、家庭科や保健体育や、美術や古典や漢文や現代文をする必要はなかっただろう。しかも、あんなに勉強をしたのに、知識としては、今、ほとんど何も残っていない。
 それでも、私は、勉強をして良かったと思っている。

 なぜなら、私は勉強をすることを通して、世の中には、わからないことがたくさんあるということ、何が本当で何がウソであるかの見極めが実に難しいかということを知ったからだ。

 大勢の人が言っていることが正しいわけでもなく、昔から言われていることが正しいというわけでもなく、まして、最新の発見が正しいかというわけでもなく、まして、まして、マスコミが言っていることが正しいわけがないことを、まんべんなく、一生懸命に勉強をすることで、私は知った。

 人類がこれまでのいかに努力を積み重ねてきたか、過去の人間が、いかに愚かしいことをしてきたか、それが今でも続いているか、しかし、それでも、人類は少しずつきっと賢くなっているのだろうということを知った。

 「人間の思考」が、いかに、土地と風土の影響を受けるものか、それは、言い換えると、人は自分の意識のあずかり知らぬところで、束縛されるものなのかを、私は知った。言語のすべてがそうである。日本語には日本語の限界があり、英語には英語の限界があるだろう。それは、欠点でもあり、同時に、他にない特性でもあるのだ。論理というものが、何を基盤にすべきものなのか、客観性という響きの良い言葉のいい加減さ、数値が表す欺瞞、嘘っぽさ。それらに、多くの人々がいかにだまされやすいのかが、私はわかる。真理、真実という言葉の持つ恐ろしさを私は少なくとも、「想像する」ことができる。それほどまでに、真理や真実は、得体の知れないものであることを私は想像することができる。
 人にできるのは、自分自身が、いかに虚妄に満ちた場にあるのかを知ることだけである。ただ、その「足場」を己の足で一歩一歩確かめて歩もうとすることだけである。是非もわからぬままに。

 これは、自らが、自らの力で勉強の対象物に直に対峙し、対決するかのように、思考し、自分のものにしなければ、決して我が物として得ることができない認識だろう。おそらく、本当に真摯に勉強をした者だけが知ることのできる「自然の摂理」のようなものであろう。まるで、水が高いところから低いところに流れるように。
 逆に言うと、水の自然な流れを知らない人が、あまりに多い事実を私は知る。

 ここに私が記したことは、ちゃんと勉強をした人であるならば、誰であっても、成績の如何に関わらず、体験することであろう。
 私は断言する。
 上記の言に異を唱える人は、本当の意味での勉強を知らない人である。