考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

繰り返しの妙

2006å¹´12月31æ—¥ | ç”Ÿæ´»
 冬休み前は、必ず生徒にちゃんと正月を迎えろ、と言っている。(だから、宿題は計画的にやれ、でないと、正月に遊べないぞ、正月はちゃんと遊べ、と言っている。)しかし、かくいう自分は、いくつかの作業を思うと、めんどーでしようがない、内心、嫌だなぁと思っている。子供の頃、どうしてあんなに正月が待ち遠しかったのかわからない。
 でも、年を取ってきたら、毎年毎年、同じことを繰り返すからいいんだなぁと思うようになった。(まあ、大してやってないけど。)
 繰り返し、ってのは、大事だ。
 (でも、こんなことを書くのは、「繰り返し」が日常で意外に減ってきているからなのかな。)

 ただいま、帰省中。ネット環境は一応あるけど、たぶんしばらくお休みします。

 では、良いお年をお迎えください。来年もどうぞよろしくお願いいたします。


偶然は必然かもとか(ゴミ)

2006å¹´12月28æ—¥ | Weblog
 高校の同級生の2人だが、一人が私が最近偶然知り合った人と会ったということで驚き、もう一人はその人の仕事がこれまた私の近く(学校のことじゃない)でちょっとばかり関係があるのがわかって驚いた。で、昔、能楽堂で知り合った人があるところに文章を書いているのを発見し、そしたら、その頃は知らなかったが、多少私とご縁?があることがわかったもので、まあ、こっちも多少伝えたいこともあったから久しぶりに年賀状を出した。
 う~ん。。。世間は狭いものでもあるし、ここまで偶然が重なるとちょっとわくわくする。

 「考える人」万物流転の養老先生は、やっぱりアタマが良い。今回感心したのは、「『同じ』と『似ている』の違い」 私は、「同じ」と「似ている」を同じように扱ってしまっているけど、養老先生は、異なることとして捉える。Sameとidenticalの違いを考える。いずれにしろ、感覚と抽象の行ったり来たりに関係する。
 にしても、他にちょっと考えることがあったのだが、感覚と抽象という捉え方は万能である。うん、何にでも使えるよ。便利♪

門より入るものはこれ家珍にあらず

2006å¹´12月27æ—¥ | æ•™è‚²
という言葉が中国にあるようだ。「他からのもらい物は大したことがない」という意味らしい。
 これ、先回の記事「人から習ったことと自分の力で学んだこと」に書いたこと、「人から教えて貰ったことには限界があるが、自分で学び取ったことには無限の広がりが出てくるものではないか」ってことじゃないか。

 「分け入っても分け入っても青い山」は種田山頭火である。「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」は高村光太郎だ。いずれも自らが新たな境地を開いた人のようだ(とある人が語っていた)。(その人が続けて言っていた。)ある人が禅僧に道はどこにあるか問うたそうだ。禅僧は「道は真っ直ぐ目の前にある」と答えた。新しい道を開くことが出来ない凡人には、その方が良いということだ(とその人は言った)。

 しかし、私は前者を好む。

 道は前にない方がいい。自ら切り開く道は、どんなに細く頼りないものでも良いのである。それでも道は自分で切り開いた方が良い。ふと気が付いたらすでにあった道を歩いただけだったということもあるだろう。しかし、たとえそれであっても、足下の道に気が付くまで、自らが切り開いたという現実には千金万金を超える価値があるはずだ。
 だから、私は、たとえ凡人であっても、道は前にない方が良いと考える。道は自分で切り開くべきである。正確に言えば、人は、自分で道を切り開く力を持つのが良いということである。

 「門より入るものはこれ家珍にあらず」は、本質的に借り物ではいけないということだろうし、私のコトバで表現すれば「人が生きているとは過程である」ということになるだろう。次元は多少異なろうが、根っこは同じである。
 
 しかし、なんという「シンクロ」であろうか。
 ブログを書いていると、とても不思議な気分になるときがある。私の記事にはかなりの長文があるが、数日掛けて書いたものもけっこうある。さあ、そろそろUPしようか、と思うと、決して時事ではないのに、時に、内田先生でも他のお気に入りブログでも、似たような話題が書かれていたりするのだ。読まれた方は、まるで私が他の人の記事を読んで書いたかのように思われるであろう。しかし、必ずしもそうでないのだ。

 それで、今日の「門より~」は、ついさっき来た友人のメールで関係する本をパラパラ見て知った諺である。山頭火などの話もつい数日前に聞いた話である。で、先日の自分の記事である。そしたら、全てが見事に繋がった。

 これは、決して私の力ではない。私そのものの存在は、ここに書かれたもの(つまりこの記事)のコーディネーターに過ぎないと思う。
 う~む、実に不思議であるがそんなものだと思う。

 と、ここで、急に思い出したけど、「門より入るものはこれ家珍にあらず」は、「学校の木の机」でも思ったことなんだよね。また違う話だが、あるお家に行ったら、100年ほど前のご先祖様の描いた大きな掛け軸が掛かっていた。なかなか素晴らしい作品で見映えがしたが、線が素人である。しかし、その家で生まれた作品だから、大いなる価値がある。うらやましいと思った。

 しかし、(とここで、ちょっと冷静に考える。)中華思想ってのも、こういうところから出てきたのかな。(無粋だね。)

(上記、コメントをいただいてから多少手を加えました。)

人から習ったことと自分の力で学んだこと

2006å¹´12月21æ—¥ | æ•™è‚²
 人から教えて貰ったことには限界があるが、自分で学び取ったことには無限の広がりが出てくるものではないか。で、後者の方が遙かに刺激的である。
 だから、子供たちには、自分で学び取ることの重要性に触れさせたいと思う。それは効率や容易なわかりやすさとは相容れない世界だと思う。
 日本の伝統的な教育、マネをさせる、見て覚えさせる教育方法の良さとは、案外にそういうところにあったのだろう。

「納得する」より「いいからとにかく、やってみろ」

2006å¹´12月19æ—¥ | æ•™è‚²
 この頃の傾向なのか、今の勤務校がそうなのか。
 しかし、前者と見る。

 近頃、親の話を聞いても、或いは生徒の対応の仕方を見ても、「自分が納得できないことはしない子供」が増えたように思う。
 「そりゃ、そうだ」と同意する人も多いだろう。世の流れだと思う。

 しかし、生徒を見ていると、「納得できないからやらない」→「やらないから自分の能力が伸びない」→「能力が伸びないから、納得できる能力も伸びない」→「納得できる理由が理解できないのでますますやらない」という悪循環に陥っているように思われることが多い。しかも、「納得できないことはしない」という論理は決して外さないので、言わば、自分が小さく、小さく凝り固まるように見える。子供とは、どんどん大きくなっていく存在であるはずなのに、実に不自然な様相である。

 ふつーの子供は、コドモコドモした時期、非常にオトナに従順である。反抗期などの特定の時期は別としても、小さいときの子供は、実にオトナの言うことをよく聞く。理由を説明しなくても「これこれしなさい」と命じるだけでよい。そうでもない場合でも、言うことを聞かせるための理由は、「親の言うことは聞かなければならないから」「先生の言うことは聞かなければならないから」という、生意気盛りの成長期から見れば理由にならない理由がかなりちゃんとした理由になるように思う。
 子供は、自分がまだ未熟者であること、今のままでは生きていけないことを知っているのだろう。だから、オトナの言うことを聞く。

 で、大事ではないかと思うのは、たぶん、子供が「オトナの言うことは聞かなければならない」と思っている時期に、「養育者たるオトナの言うことを聞くことは大切なことだ」と子供に教えなければならないのではないかということである。

 ところが、今の生徒を見ていると、大人たちはそれに失敗したのではないかと思われるのだ。

 最近の生徒の様子を見ると、(以前も書いたが)自分に都合の良いことは聞く。しかし、都合の悪いことには「なぜ?」と理由を求め、納得しないと聞かない、という傾向が強い。しかし、それでは、回りのオトナが理由を説明できないとき、或いは、その子供の理解力が乏しくて理由が理解できないとき、子供は「納得できない」として、すべきことであっても行わなくなる。
 今の子供がこうなったのは、たぶん、小さいときに、ことを行うのに、常に理由を示されてきたからではないのだろうかと推測する。

 「親の言うことだから聞きなさい」「先生の言うことだから聞きなさい」は、はっきり言って「押しつけ」である。コドモとしては、たとえそうであっても、イヤなことはイヤで、したくないのである。これは非常に不快なことなのだ。
 で、実は、この不快さは、命じるオトナに伝わるのである。で、オトナも不快さがイヤなのである。なぜなら、子供に対する、言わば「加害者」になってしまうからである。それで、オトナは自分が「良い子」であるために、不快さを取り除くために、「子供が納得する」つまり、「子供の不快を取り除く」方法を編み出した。それが、「納得させたうえでやらせる」という方策ではなかったのだろうか。よって、子供もオトナも、不快を取り除くことができてハッピーになることができた。

 これでうまくいっている間は、良かった。ところが、子供は成長をする。やるべき課題も増えてくる。正直言って、イヤなことが非常に多い。忍耐強さが必要な勉強だったり、ちょっとした日常生活上の仕事だったりが多かろう。いずれも人間として生きていく上で大切なことばかりである。ところが、世の中は快楽志向の世界で「不快」は悪である。で、子供は、上記のごとく、イヤなことには「なぜ?」と必ず理由を求め、不快を取り除くべく自分を納得させようとする。それで、もし出来なければ、やるべきことを行わないと決定する。で、「しないことに決めた」ことによって、以下2つの観点で「成長を阻害する」ことになりうるのである。

 子供の能力とオトナの能力の違いで最大のものは、「成長する能力」の程度である。もちろん、子供の能力の方が成長の度合いが高い。子供はめまぐるしく変化する。変化とは、成長そのものである。昨日わからなかったことが今日はわかる、できなかったことが出来るようになる、それが成長である。
 ところが、「自分が納得する」とは、実は、「自分の枠内で事柄を理解する」ことに他ならない。「納得」は自分が理解できる範囲でなければ生じないのである。よって、「納得させる」という方法は、意外にも、子供に自分の成長を自ら設定する枠内に留めて阻止するという策となったのだ。「不快」を取り除くために。

 また、次のようなことも言える。
 出来ないことを出来るようにする、わからないことを分かるようにする、というのは、実は、そんなに心地よいことではない。やはり、苦しい。イヤになる。そんなモノである。
 今私は喜んでこの文章を書いているが、それでも、「快感」そのものとは言い難い。結構アタマを使って大変な思いをしているのである。快感そのものを味わうとしたら、それなりに納得できる文章が書けた、その時でしかない。それまでは話を整理しなければならないし、結構不快で気分悪い時もあるんだよね(私の場合は、今回特に。なぜか。)。
 だから、子供の理解もそんなモノだと思う。
 こういった「不快」は、ジャンプの助走のようなものかもしれない。助走してぽんと跳ぶ。跳ぶのは成長である。助走無しで跳んでも遠くへ跳ぶことは出来まい。そんなモノではないかと思う。

 能力がかなり高い生徒であっても、「納得」しないとできないのでは、「それ以上の高い能力」を目指しにくくなる。持って生まれた能力が似たような程度の子供が、「納得できなくてもやってみる」能力を獲得していれば、「やってみる」ことの積み重ねで、納得しないとやらない子供より、持つ能力もだんだんに高くなっていくのではないかと思う。
 また、能力が高くない生徒は、納得できる能力も高くない。よって、ますます能力を伸ばす機会が少なくなる。(能力伸長にも、「階層差」が大きくなるということである。)

 だから、「納得できないからしない」という言葉を聞くと、「能力を伸ばす」という観点で、傲慢だとも思うし、目先の快感のために何だかもの凄くもったいないことをしているのではないかと思う。

 で、解決策があるとしたら、納得できなくてもやってみて自分が変わる、成長することを実感させる、その体験を積ませることしかない。それで、納得できなくてもやってみる価値があることを知ることしかないだろうと思う。


次元の違い(どうでもいい話)

2006å¹´12月18æ—¥ | æ•™è‚²
 ある管理職と、将来は管理職になるぞ、といっている人が教育の話をしていて、人事に至り「政治力も大事ですよね」と合意していた。(ちなみに、書くまでもないが、私に政治力は全くない。)
 でも、これって、せいぜい自分の出世に関わることで(そんな文脈だった)、教育そのものの「大事さ」とは関係がない。しかし、同列に論じていたから、私は違うよな、と思った。でも、多分、当人たちは、違いを意識してないと思う。

 終わり。

 関係ないけれど、fer-matさん改めLeibniz0さんがブログを閉じた。残念です。面白かったのに。


げげーの総合問題

2006å¹´12月16æ—¥ | æ•™è‚²
 ついさっき、国公立の「電話帳」をぱらぱら見てて、東大前期の総合問題に目をやってぶったまげた。
 私、これ、教科書で教えたことがあるよ~。
 10年ほど(以上?)前の教科書、UNICORN、あるいは、ひょっとしたらGENIUSかもしれないが。ウンベルト・エコーの文章である。教科書に筆者の写真まで出ていたぞ。(筆者名は本文中に出ているけど。)しかも、新出欄外熟語だったものが括弧抜きになっている。定期試験に出したもののそっくり問題が出ている。まあ、こっちの方が難しいけれど。
 この文章、内容がちょとややこしいから、生徒は読解に手こずったかもしれないものだけど、これが東大とは、入試英語も随分易しくなったものである。
 
 えー、今の今まで知らなかった。


辞書引き

2006å¹´12月15æ—¥ | æ•™è‚²
 今日は、forを引かせた。英文を読む上で、「易しそうで難しい単語」があるが、私は自分が高校生の時、and, that, as, for が難しかった。Asは、高校生は、訳そうと思うと難しい。読む分にはそうでもないとは、大人になってからわかった。

 大人?になって自分で勉強をしてみると、「騙された」と思うことがあった。授業で先生から習った語はアテにならない、ということだ。多分教員は誰でもそうだと思うが、授業で教えるときは「これはこうです」とかなり断定的に教える。もちろん、私はforも習った。で、自分で辞書を引いた覚えがない。だって、中学校の時から知っているし、新しい意味は、その時その時に先生が教えてくれたから特に辞書を引く必要性を感じなかった。しかし、forでなくても、いざ辞書で「知っていて当然、引くまでもないと思っていた語」を引いたら、まあ、いろいろなるほどと感嘆することが多かったのだ。そのとき、何だかそれまでの自分が随分と損をしていた気がした。

 人から習うと、「習ったことだけが世の全て」「習ったことだけを覚える」という気になる。しかし、決してそうではない。一方、自分で辞書を読むと、一つの単語であっても、世界が大きく広がっていることがわかる。こういった刺激は早い方が良い。
 
 授業中に一つの単語を引かせると5分くらい掛かることがある。モノによっては自分で意味を捜して自分で大事そうなのを選んで、ノートにそれぞれの用例も書けと指示するせいである。普通は、教師が例文を板書し、生徒が写す。教科教育法の先生に、「どれだけ適切な例文がアタマに入っているかが大切である」と教えられたが、私は出来が悪いから何年経ってもムツカシイ。だからと言うわけでもないが、辞書を引いたときに、考えて訳語なり用例なりを自分で選ぶことが大事だと思うのだ。多少違うのを選んでも構わないのだ。その語の勉強に変わりはない。勉強なんて試行錯誤の連続である。また、用例を一度書いたからと言って、わかるわけではない。でも、そんなものだと思う。未知に慣れさせ、未知を受け入れる素地を作ることが第一の目的である。「へぇー、と思いなさい。こんな意味があるんだ、と感動するんだよ」と指示する。(笑)その姿勢があれば、そのうちに吸収力も高まるであろう。機械的に覚えればいいってものじゃない。
 本当は、この作業、家でやることだと思う。でも、一人ではきっとできない子も多いのだ。根気も能力も。机間巡視は欠かせない。
 効率が悪いのはわかっている。でも、自分で辞書を引くことを覚えさせたい。
 教員がいなくても、ひとまず、英語を読むことに関しては自分でやれる子になって欲しいんだ。


理念と実際

2006å¹´12月14æ—¥ | æ•™è‚²
 「本校の教育理念」と言う項目がある。いくつか並んでいるが、気になるものがあった。で、順番や字句などを指摘したら、そんなのはどうでもいい、些細なことだと言う人がいた。
 これ、「ふつー」の感覚だと思う。日常の実際の教育活動で気にすることはまずあるまい。しかし、何かの判断に迷ったときに立ち返るべき所が「理念」だろう。その根拠を明らかにすることを私は大切なことであるとする。
 「その人」は、わざわざ字句にして述べなくても「既にわかっている理念たる根拠」を持っているに相違ない。だから、改めて字句で表すべき理念を些細なことだと思うのだろう。

 などと思いながら養老先生の「無思想の発見」を読み返していたら、「日本人に思想がない」の話で、いざとなったら現実に対処するしかない、というようなことが書いてあった。そういえば、週刊誌か何かの憲法改正の話で、有事になったら憲法どころでなくなる、というようなことを書いていた。
 つまり、臨機応変というか、その場その場に応じて思想を借りてきて行動するほどだから、理念がなくて良いのだろう、そういう気もしてきた。

 で、或いは、「多数決の論理」(←私の造語なのかな?)が蔓延る理由もそうなのかしらと思った。自分がどう思うかより、まず、人がどのように考えているかを気にして決定をする心理である。
 だから、学校の理念としてこうこうだ、より、今その時いる人たちの多数決でことを運んだ方が「良い結果」--効果か円滑な人間関係か満足度か何かは問わないが--を生むと考えるのだろう。だから、「理念」は些細なことだと考えるのだろう。

 

事務処理能力優越と創造性欠如の時代

2006å¹´12月13æ—¥ | æ•™è‚²
 人間の能力は多岐にわたっている。(当たり前だ。)で、問題にしたいのは「事務処理能力」とでもいう能力である。

 書類上の処理に関わることが多い。身体能力と言うより、知的能力に分類されるだろう。学校の勉強もこれに含まれるだろう。忍耐力がなければ出来ない能力でもあろう。分類能力でもあろう。これはこれ、あれはあれ、と判断する能力である。書類の山に関するさまざまな分野に熟達していなければできない作業である。もちろん、計算、言語能力、論理力も関わる。
 要するに、かなり高度な能力の一つと言える。入試問題で言うと、東大の問題が非常に高度な処理能力を問うていると思う。大学入試問題の中での比較に過ぎないが、他大学に比べると「思考力を問う」ものではあるが、所定の時間内にかなりの量をこなさなければならないことも含めると、例えば京大と比べるとおそらく「処理能力」を問う問題ということになる。なるほど東大は官僚養成大学である。

 この種の能力で重要なのは、計算でも字句の誤りでも分類でも論理でも、とにかく「間違わない」ことである。
 誰だって「間違わない能力」は重要だと考えるだろう。技術等が高度になればなるほど、間違える罪は重くなる。コンピュータによる事故など、典型であろう。それで、何だか今は「間違えないことがかなり優先される時代」のような気がする。
 昔からそうだった、と言われるかもしれない。しかし、あなたの周りを見回してみよう。そんなに間違いの少ない人がいるだろうか。ほとんどの人は、しょっちゅう、間違えているのではないか。それで、「お互い様」と互いにフォローしあって何とかうまくやってきた。それは今も昔もそう変わらないかもしれない。しかし「間違い」が生む失敗がおおきくなってきているのが最近の傾向ではないか。だから、間違いに大して寛容になりにくく、「間違わない」ことの重要性が反比例して大きくなってきている。

 ところで、数学コンクールというのがある。(具体的には知らない。)数学的な、通常の試験とは多少異なるが高度な数学問題に数時間に渡って取り組むもののようである。しかし、そこで良い成績を取る子は、意外にも試験の数学が良くできる、いつも高得点をとるわけでもないらしい。なぜなら、彼らは普通の試験ではけっこうケアレスミスをして点を落とすというのだ。つまり、「間違える」のである。この文脈で乱暴に言うと、彼らの事務処理能力は、大したことがない、ということである。

 ここから類推するに、「創造性」と「事務処理」は、相容れない能力ではないか。まあ、予測できないことじゃないけれど。

 例に挙げるのが数学ばかりだから説得力に欠けるが、京大の数学の先生が、近頃の答案には、変わった解き方をする者がいなくなったと何かに書いていた。また、中間点で点を稼ぐ戦略で、どの問題も中途半端になってきちんと最後まで解かないものが多いらしい。
 素人目にも嘆かわしいことであると思う。ここにおいては、数学という思考力を問う試験で、創造性に近いところに位置する京大においてさえ、「処理」のしかも「辻褄合わせ」だけが目的となっている。これは、期待されて当然である創造性が、残念にも全く発揮されなくなったということである。
 この例では、行動の目的が目的的である場合、「間違わないこと」が「なんとか辻褄を合わせる」こととして目的化されたと見て良いだろう。
 つまり、創造性を大いに発揮できる場面においてさえ、全てが処理能力に換算される。しかも、「間違わない」という価値観が「辻褄合わせ」というピンポイントのような「間違いのなさ」に集約されてしまったのである。
 (ちょっと強引かな? でも、なんだか根っこでは繋がっているような気がするのだ。) 

 これは、「創造性」が大切でありながらも、現実的に人々が価値を見出しているのが、「間違えない、問題を生じさせない能力」だいうことである。

 では、「間違えない能力」が持つ意味は何か。
 「間違えない」ためには、「正しい答え」があると考えられる。これは、そもそも「想定」がなければ「正しい答え」は存在しないということである。となると、「想定」とは、もちろん、「予めわかっていること」であるから、「創造性」とは相容れないものになる。

 どうやら答えが見えてきたかもしれない。(書くのが面倒になってきた。)

 ここにおいて、「効率の重視」と結びつく。なぜなら、「効率の良さ」とは予め想定された範囲内のことでしか為しえない。なぜなら、「無駄を出さない」ことが最高の「効率の良さ」に繋がるからだ。となると、効率よくものごとを行うとは、予め設定された目的内のことしかできないことで、「間違えない能力」との親和性が非常に高くなると考えられる。

 現代は、学校の勉強においても「効率的な学習」が重視されているほどの世である。(ちなみに、勉強、学問とは、行き先のわからないところに乗り出す果敢な行為である。決して想定されるものではないのだ。その意味で、「効率」とは全く相容れない。)今の日本は、これほど「効率重視」の世界になっていると言うことである。
 よって、想定された範囲における「間違えない能力」を重視する「事務処理能力」が重視されるのはもっともなことで、実に奇妙にリンクする。

 つまり、今は、案外に「創造性の欠片もない時代」だということだ。
 工業や先端医療などでは「創造性」がもてはやされているように見える。しかし、これは、本質的なものではない。単なる技術的なものでしかない。(と書くと、開発者の先生たちに失礼になるかもしれないけど。)なぜなら、これまでの理論や技術の応用にすぎないだろうからだ。数十年、100年も経てば「古くさい」ものでしかあるまい。全く異なる世界観を構築するものにはならない。それは創造的とは言えまい。

 それで、「間違えない能力・事務処理能力」と「創造性」の大きな違いは何か。
 前者は、「後追い・後始末の仕事」、後者は「先駆け・準備の仕事」であることだ。

 仕事には、この2種類があると考える。

 (話がヨコに逸れるけれど、今の教育は、「後追い・後始末」になっている。しかし、教育ほど「先駆け・準備」が大切なものはないだろう。
 と言っても、わかる人にはわかるだろうけれど、わからない人にはわからないだろう。しかし、たぶん、多くの教員が「先駆け・準備」と思っているやっていることのほとんどは、ただの目先の先駆けでしかなく、本質的には「後追い・後始末」にすぎないのだ。
 で、また、教員も(事務)処理能力の高い人が、能力が高いと見なされている。
 書くのが面倒になってきた。)

 それで、今の時代は、けっこう「後追い・後始末の仕事」の能力のある人が表に出てきている時代なのだろうということだ。
 要は「国家百年の計」がない時代だと言うことだ。

 そう考えると、いろいろ納得がいく。これ以上書かない。愚痴になる。(まあ、もともと愚痴ブログなんだけれど。笑)

 話がずれた。