考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

創造力の限界

2012å¹´11月24æ—¥ | æ•™è‚²
 この頃、学校でちょっとしたプリントを作っている。英語の問題とか解説とかそういうのではなく、ブログ記事のような小論的な評論でもない。「チラシ」みたいなものだが、私の割にはレイアウトや文言も考えてで、それなりにフィーリングとアタマを使う。気分的には、作り始めるまでエネルギーを貯め込み、一気呵成に作品?にする、と言う感じ。(実態は、そんなことない。だらだら、ちょこちょこ、ちまちま手直しをし続ける。)まだ作っている数が少ないから、書く内容というか発想が枯渇してなのだろう、今のところ、それなりに好評。
 ブログの投稿が少ないのはだからだ。要は、私の創造性の「量」としての限界がそのチラシ程度だということだろう。記事に書きたいことがないわけでないが、文章化するエネルギーがないのである。(私、文章を書くのに、すごくエネルギーを使うの。)

反故にできるかどうか

2012å¹´11月22æ—¥ | æ•™è‚²
 人との約束などは別にしても、何らか作り上げたものを反故に出来るかどうかは、キャパシティによるのかなと思ったりする。ちょこちょこっと作ったものは大して労力をかけてないから、気に入らなかったりできが悪いと思ったら、すぐに反故にする。また作れば良いと思う。でも、時間をかけて練り上げたものは、なかなか捨てられない。時間をかければ良いというものでなくても、労力がかかっていればかかっているほど、もったいない、と思う。人の心情だろう。だから、何であれ自分にはできないものやことをあっさり捨て去る人は、きっと能力が高いのだなと思う。

数学の2側面

2012å¹´11月20æ—¥ | æ•™è‚²
 数学は、数や図形などに関わる「本質」的な部分と、その本質を「利用」して思考するという2つの側面があるんじゃないかと思った。で、数学が苦手な生徒は、本質を理解せずに、たとえば、公式だけを使おうとしたり、解法だけで問題を解こうとする。小手先で利用をすることだけを考える。よって、問題の本質がつかめず、あるいは、ちょっと応用的な内容になると、もう、わからない。数学が得意な生徒は、そこのところが違う。本質から理解している、あるいは、本質から理解しようとしているから、わからないときは、常に、本質的な部分に立ち返って自分で考えようとする。そこからヒントを得て、出来ても出来なくても考える。

 ま、こんなことを言うと、どの教科にも当てはまるように思うが、数学は、他のどの教科より、「知識」よりむしろ「本質」を押さえた上でどのように考えを進めるかに焦点を当ててより本質に立ち返る重要性があるのではないかと思った、以上、英語の先生の言。

「まろ・ん?」と「あさきゆめみし」

2012å¹´11月12æ—¥ | æ•™è‚²
 源氏物語の漫画はいろいろあるようだが、「まろ・ん?」と「あさきゆめみし」、それから江川某の源氏物語というのがある。(というか、私が手にしたことがある。)
 あらかじめ断っておくが、私は国語の教員ではないし、まあ、そもそも、全部読んでもないし、いい加減なことしか書かないと思うが、これらは、同じ漫画といえど、かなりコンセプトが異なると思った。

 「まろ・ん?」は、54帖の「あらすじ」を知りたい人向けだろう。1帖が8コマくらいにコンパクトにまとめられていて、途中に人間関係の家系図みたいなものが入る。原文理解が進まない人向けの参考書として使えそうだ。源氏が出世するにつれて装束が替わる点などでも、衣装などの考証もかなりしっかりしているらしい。
 「あさきゆめみし」は、ストーリーの観点で原文と異なる点が多い。だから、「あらすじ」を知るつもりで読んでも期待はずれになるだろう。まあ、私見(って、このブログは私見しか書いてないけどね。)だが、とにかく、「あらすじ」が知りたかったら、「まろ・ん?」がよろしかろうということだ。

 じゃあ、「あさきゆめみし」の利点は何か?
 たぶん、「なぜ登場人物たちがあのように振る舞うのか?」言い換えると、「なぜ、源氏物語はあのような筋書きになったのか?」という観点からの理解が進むだろうということだ。
 源氏物語の難しさは、使用語彙がかなり抽象的であることだ。(徒然や枕と比べても一目瞭然。)物語だから具体的なはずなのに、それでも、たぶん、現代人にとっては、非常にわかりにくい書き方だろう。古文特有の主語の省略などといったことだけでなく、主観的な形容詞が多用されている割に、具体的な記述に乏しいからだ。なぜ、どうして、そのような表現(形容詞など)になるか、といった点がすべて読者に任されている。まあ、当時は、それだけで読者は十分に理解したのだろうが、これが難解さの要因の一つではないかと私は思うのだけどね。(←国語科の教員じゃないから怪しいかもしれないよ。)
 この点で「あさきゆめみし」は、一つの解答を与えてくれる。もちろん、著者大和和紀の解釈だが、漫画という描写方法が女性の心理状態や、男性の心の動きを具体的に描き出してくれるわけだ。「なぜあのとき源氏はそのようなことをしたのか」、「女性はあのように振る舞ったのか」などの話の流れを下支えする理解の助けになると私は思うのだよね。この意味で、「あらすじは何とかわかるけれど、なんだか納得がいかない」という人向けかもしれない。もちろん、大和和紀の解釈がすべてではないだろうが、この漫画は、自分なりの源氏を作り上げるための土台になるのではないかと思う。

 最後に、江川某の源氏物語だが、読んで気分が悪くなった。かなり下品である。動物としての「ヒト」として何をしたか、という観点での描写が多い。しかし、これは、源氏物語という物語の歪曲ではないか。
 「古典だから」、「高尚な物語のはずだから」という既成概念で私はそのように思うのではない。男性は烏帽子を取ることが何よりも恥ずかしいこととし、また、歌を詠むことこそがアイデンティティに関わる人たちの物語なら、動物的な行為は現代人が考えるほどの重要でなかったはずだ。当時の男性にとって、そのことそのものはどうだって良いのである。それよりもまず、歌を詠み交わす方こそが重要なのだ。だから、行為そのものを重要視してここかしこに描き出す表現方法はお門違いというものだ、というのが私見である。よって、歪曲であると判断するわけだ。
 で、付け加えると、源氏物語の時代のこうした精神指向性(?造語)というか観念重視の男性中心主義において、女性は苦しい立場に追いやられる。歌も重要だろうが、それでも子供の身ごもるかどうかの方が遙かに大事だろう。そうした存在の矛盾から生じる苦難が「生き霊」のような観念を生じさせたのではないか、とふと思った。(専門家がどう言うかは知らない。)