考えるのが好きだった

徒然でなくても誰だっていろんなことを考える考える考える。だからそれを書きたい。

はじめに

 このブログは、ほり(管理人)が、自分の思考を深めるために設置したブログです。私のものの見方を興味深く思う方は、どうぞお楽しみください。 / 書かれていることは、ほりが思考訓練として書き連ねた仮説が多く、実証的なものでありませんが、読み方によって、けっこう面白いと思います。 / 内容については、事実であっても、時空を変えて表現している場合が多々ありますので、リアルの世界を字面通りに解釈しないでください。何年か前の事実をまるで今起こっているかのように書いたものもあります。 / また、記事をUPしてから何度も推敲することがあります。記事の中には、コメントを戴いて書き換えを避けたものもありますが、どんどん書き換えたものも交ざっています。それで、コメント内容との整合性がないものがあります。 / なお、管理人は、高校生以下の方がこのブログを訪れることを好みません。ご自分自身のリアルの世界を大事にしていただきたいと思っているからです。本でも、学校でも、手触りのあるご自分の学校の先生や友人の方が、はるかに得るものがありますよ。嗅覚や触覚などを含めた身体全体で感じ取る感覚を育ててくれるのはリアルの世界です。リアルの世界で、しっかりと身体全体で感じ取れる感覚や感性を育ててください。

言い聞かせるより考えさせる

2005å¹´07月29æ—¥ | æ•™è‚²
 生徒が悪いことをしたときは、やっぱり、叱ってやる。叱責も立派なコミュニケーションだ。
 で、この間同僚に言ったら、「私もそうしよう」と言われた叱り方があるから、ここに書こうかな、と。

 授業中に内職をしていた生徒がいた。もちろん、取り上げる。この子は、英語の時間に英語の宿題をやっていた。こういう場合、「英語の時間だから英語の勉強をやって何が悪い」という論法で来ることが多い。とにかく、後で取りに来させる。

 近頃は開口一番に「返してください。」と言ってくる。「その前に言うべきことがあるでしょ?」と考えさせる。場合によっては、それすらわからない。でも、しつこく問う。

 ちょっと賢いと、「済みませんでした。」と謝る。でも、すぐには返さない。「なぜ? 何故悪いの? だって、英語の時間に英語の勉強をしていたんでしょ?だったら、良いんじゃない?」などと聞く。(我ながらいやらしいというか、生徒はさぞかし嫌だろうなあと思う。)

 そうすると、生徒によっていろいろなことを言う。こっちの予想外のことも言う。生徒が言ったことに対して、「なぜ?」「何のために?」を2回3回続ける。と、そのうち答えに窮してくる。形式的な受け売りの返答だとてきめんに窮してくる。だから、自分で考えさせる。一つ理由を言っても、「理由はそれだけ? 他には?」と聞く。まあ、かなりしつこくいやらしい。必ず理由を3つか4つか言わせる。場合によっては、私が思いついたものがほとんど出ないことがある。でも、生徒によっては、それが限界だなと思えば放免する。大事なのは、自分で自分のしたことの意味を考えることだ。それが一つ大人になるということだろうから。

 こうすると、帰るとき、顔つきが変わっていることがある。考えが内面から変わるのだろう。私との会話で、自分で何か発見するのだと思う。もちろん、「のど元過ぎれば」で、長続きするわけでもなかろうが、それでも、苦しんだ生徒の以降の行動には何らかの痕跡が見えることがある。私としてはこれで御の字である。

 「先生はどう答えさせたいの?」と聞かれたこともある。(凄い返答でしょ?)マニュアル人間になっているんだと思う。「大事なのは私じゃなくて、君がどう考えるかだよ。」だって生徒の返答に私自身なるほどと思うこともあるのだから。
 分からなくて本当に困る生徒もいる。なかなか答えられなくて、あるいは全く何も考えられなくて、苦渋に満ちた顔をする生徒がいる。こっちも真剣である。冷たいようだが、私はそれで良いと思っている。すぐに思いつく答えが良い答えじゃない。考え続ける姿勢が大事なのだ。それさえあれば成長できる。
 それでも最低一つは何か見つけさせる。まあ、学校は生徒を脳化させ、社会性を身に付けさせる場所だから、「何のために学校があるんだ?」「もし学校がなかったら、人間の社会はどうなる?」などと、その辺りの答えを一つは自分で考えつかせる。質問は、これとその追加質問で事足りる。

 長くなったが、先の生徒の答えの一つが「先生が一生懸命に授業をしているのに他のことをしていたから。」だった。これ、実は私の予想外。この返答の評価は分かれるだろう。その生徒は可愛いヤツとも言えるが、私は気に入らなかった。ふんふんと聞いて、他の理由も言わせたが、さり気なく「たとえ先生が教壇で寝ていても、君は授業の勉強をしなければならないんだ。」と言っておいた。(もちろん、「私があんなに一生懸命に授業しているのに、無視するとは何ごとだ!」と私の方から怒ることだってあるけど。)
 もー、むちゃくちゃである。
 でもね、「先生が寝ているから俺たちはしなくて良いんだ」と言う考え方より、「たとえ先生が寝ていたとしても、俺たちはするんだ、しなければならないんだ。」という意識でいた方が、生徒は実質的に利を得る、悪環境でも果敢に人生を開拓していけると思うんだ。だって、彼らはそこそこの能力はあるはずの高校生なんだもの。手取り足取り、子供扱いしては失礼だ。(と言って、子供扱いされたがるのだろうけど。。 他の先生や親の姿勢、学校全体の態勢の絡みで実際はなかなかムツカシイ。)

「長い命」と「意味探索能力」

2005å¹´07月28æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 「長い命」と「短い命」という概念、意外に自分で気に入ってしまった。
 (それに、「流行は人生のコンビニエンス」で「「差異」と「付和雷同」については論じない」と書いたが、なんだ、結局触れているじゃないか。落ち着いて読み直したら気が付いた。(笑)書いてるうちに分かってくることがあるんだよね。)

 さて、「流行と日本人の付和雷同」でちょっと述べたことだが、たとえば、臓器移植を個体(個人)の生命維持の観点で考えれば、書いたとおり確かに「短い命」に関わるだろう。しかし、臓器移植に関する生命倫理は、「長い命」のあり方になる。個人の命より、「長い命」を持つ「人間」としてどうあるべきか、当然、歴史的文化的観点で考えなければならないということになる。(と言って、この問題を深く言及するつもりはないんだけれど。それに、倫理は養老先生によると、マニュアル化できない、個人個人のそのときそのときの問題だということだから、まあ、個々人によって「ものの見方」、歴史的文化的考察が違うってコトだとも言えよう。)

 それで、以前思いついた(で、このブログにざっと書いたことがある)「意味探索能力」に「長い命」は関係するのじゃないかという気がしてきたのだ。同じ脳味噌が考えることだから関連していて当たり前と言えば当たり前だが。

 「意味探索能力」は、まず、「知的作業能力」と対にして考えるべきものと思っている。
 「知的作業能力」とは読んで字のごとく、アタマ(と身体)を使って何かをする能力、接客から外科手術、コンピューターの扱い等々の人間が行う仕事を遂行する能力を指す。「意味探索能力」もまた字のごとく物事の意味を考える能力で、究極は「何のために生きるか」など、知的動物として人間にしか考えられないことを考える能力である。

 私は人間が他の動物と異なるのは、過去と未来を意識できる点だと思っている。生きるための手段としての知的作業能力は、程度の差こそあれ、動物も持ちうるが、意味探索能力はそういうわけにいかない。人間は、過去と未来を持つ故に「長い命」を持ち合わせるようになり、そこから人間とは何か、生きるとは何かを思い至るようになったはずだ。だから、「長い命」抜きにして意味探索能力はあり得ない。

 知的作業能力に関して、コンピューターを使うのも人間らしい仕事だろうが、コンピューターは所詮道具である。インターネットでおいしいラーメン屋を検索してその店に出向くのと、ドッグフードのコマーシャルで見られるように、ドッグフードの皿が2枚あって、犬が自らの足でおいしい方に寄っていくのとで、私は本当のところは大差ないと思っている。だって、人間も犬も行動の目的は「うまいメシを食う」だから。

 そうはいっても、「そんなぁ、ひどい。だって、知的作業能力、特にコンピューターなんかは、やっぱり人間独自のモノよ。犬と一緒にするのはおかしい」とおっしゃる人は多かろう。が、この考え方の根底にある観点は「道具重視」である。で、世の中には新しい製品(道具)が出ると、早速買いに行って使ってみる人が多い。「知的好奇心」としての行動でもある。
 これはどういうことか。

 たぶん、「短い命」、個人の生存に関わる問題だからだ。良い道具は知的作業能力を高める。従って、人類は太古の時代から、良い道具を持つ者が、より大きな力を得、食料でも何でも自分の(あるいは自分の種族の)生存に有利なように暮らしてきたのである。先の発言は、この歴史的経緯ゆえの判断と考えられる。

 逆説的に言えば、個々人の生存は、かつての人類にとって、それほど重要だったということだ。ついこの間まで、うかうかすると人間の「短い命」はすぐに失われていた。だから、人間は、個人の生存がそうとうラクになってきた現代でも--こんなに人間の生存が有利になってきた時代、平均寿命が延びてきたのは、ほんのこの数十年のことだから--知的作業能力を高める道具そのもの、道具を生み出す科学技術にもの凄い関心を抱く。それがますます科学技術の発達を招き、現代の生活を生み出している。
 で、興味深いのは、ここに「意味探索能力」はまず何も関与しないことである。

 人類の「短い命」は、これまであまりにも短かった。ゆえに、「意味探索能力」で人生を内観するにも、多くは「短い命」をどう考えるか、それをどのように納得させるかという観点で問われたことも多かったのではないか。またそれが更なる「知的作業能力」を高め、命を長らえる方向に向かった。
 しかし、現代社会で問われているのは、「長くなった短い命」の扱いである。これは人類史上初めて直面する問題に違いない。それには、より長い「長い命」に頼るのが良いのではないか。それで頼りになるのが「役に立たない」学問のはずである、たぶん。だって、これこそ、人間だけしか持ち得ない大いなる財産なのだから。で、意味探索能力を高めること、それが人間として生きる真骨頂になるのではないかなと思うのだ。

流行と日本人の付和雷同(これは短い)

2005å¹´07月24æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 (「流行は人生のコンビニエンス」の続きです。)

 数十年の人生を移り変わる流行を追って生きる生き方は、命を数十年と限定している捉え方だと思う。
 しかし、人間は、個体として生きる数十年の「短い命」と、世代を超えた数百年、数千年の「長い命」の2つ(←まあ、便宜的に。)を持つのではないかと思う。一般の医療や臓器移植は「短い命」の問題で、環境問題は「長い命」を重視する故の大問題であろう。

 「流行」というと、まあ、極端に言えば、喜ぶ人と毛嫌いする人がいるように感じるが、その理由がそろそろ明白になってきた気がする。(といって、最初からそのつもりで書いてきたわけではないが。)
 「短い命」重視で表層的な短期間の「動き」を求める人は流行を好み、「長い命」重視で物事の深層に潜むより大きな「何か」を本質として求める人は流行を好まない。
 それで、おおよそ「学問」と呼ばれるものは後者で、最も人間らしい(?)「役に立たない」哲学などは長命な学問の筆頭だろう。逆に、数を頼る実学は前者の「短命」に近いところに位置するととらえることができるだろう。

 今思いついたのだけれど、内田先生が「モードの構造」で書いていた「付和雷同」的な日本人の行動様式も、実学を重視し、哲学宗教を教えない日本の学校教育(←これは養老先生が書いていた)あるいは、そういう土壌が日本の教育から宗教哲学を抜いたことと深く関わるのではないか。

 う~ん、なるほど~。(と自分で勝手に納得してる。)
 
 というわけで、また内田先生に戻ったので、これもTBさせて頂きます。

流行は人生のコンビニエンス

2005å¹´07月23æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 内田先生は、以前、ファッションの流行に関して(「モードの構造」)、わずかな差異に価値を見いだす感度の良い市場は、作る側のコストを削減し、利潤を増やしてくれるなどということをおっしゃっている。さすが鋭い、ホントだ。
 内田先生がおっしゃる「差異」や「付和雷同」については論じないが(だって、話がややこしくなりすぎて手に負えない。)、「すぐに古くなるのが分かっていて、なぜ流行を追いかけるのか」を「差異感知能力」以外から考えたい。ファッション誌を見ると、「今年はこれが新しい」などという表現が見える。で、巷に「新しい」ものがどっと増え、あっという間に古くなる。それでも人が流行を追う奇妙さ。

 同僚の一人はおしゃれというか、「今年の流行は、これこれよ。」と昔懐かしのスカートをはいてきたりする。彼女の言によると、流行に乗るのは「今の時代を生きる」証で、価値があることらしい。この価値は「移りゆくことそのもの」に見いだされる価値で、次から次へと追いかけることによって初めて成立しうる。

 何故「次から次へと追いかける」かは、一般に「モノ」を新調する場合、「今まで使っていたモノとは違うタイプ」を手にしようとするのが、多くの日本人の「ふつー」の心情だからだ。それでまた、なぜこれが「ふつー」かというと、たぶん新奇探索傾向の遺伝子のなせる技である。日本人は、新しいモノ好きだと言われるらしいのもこのせいだ。ご先祖様たちは、住み慣れた大陸を捨ててはるばるここまで旅してきたのだから新奇探索傾向が強かったにちがいない(とどこかで読んだことがある)。
 この新奇探索傾向遺伝子は、ふつーの多くの人の場合は、おそらく「周りの人と比べてより新しいことを求める」遺伝子、つまり「流行を生もうとする側の遺伝子」というよりはむしろ、「それまでの自分と比べて違っていれば満足する遺伝子」であるに違いない。つまりは、流行に踊らされたとしても平気な遺伝子である。だから、新しく手にしたモノがたとえ他人と似たようなモノになったとしても、それまでの自分の違っていれば十分に満足できてしまう。だから、「次から次へ」を求めてしまう。

 それにまた、流行には、それに乗った人が「自分が社会の一員として認識できる」という機能があるのではないかと思う。
 人間は、社会性というか、群れる動物で、他を意識せずに安定感を得られない存在だと思う。その点、流行に乗った「おしゃれ」は実に好都合である。人間は感覚の大部分を視覚に依存するから(だから、Seeing is believing. 目で見て分かることに証明は要らないと養老先生もおっしゃっている。)、目で見ただけでぱっと「人と同じ」で、自分も同じ社会の構成員であると分かるのは、とてもラクに安心できる方法になる。(制服の存在が組織に一体感と安定を醸し出すのも同様である。)
 洋服の流行について、私は余り関心がない。たぶん、毎日生徒と接していると「時代の波」を感じてやまないし、流行の格好をしていなくても自分の存在を認めてもらえる場にいるとわかる--換言すれば、自分が所属する組織が自分の社会的存在感に安定感を与えてくれるからだと思う。
 その点、専業主婦で組織的活動をしない人は孤立感を感じやすいだろうし、自営業の人(組織内であろうと、職務上「自分のよく知らない人たち」と常に接する立場で仕事をする人)は、社会からはぐれることに強いおそれを感じるだろう。だから、普通に街を歩くときであっても周りの人たちとの一体感を得るために、あるいは、自分が社会の一員であることを交渉相手に認めてもらうためにも、幾ばくかは流行に敏感にならざるを得なくなるはずだ。

 流行について論じるのが洋服に偏りすぎたが、人間が相当部分を視覚に依存している分、やむを得ないと思ってください。でも、他のことでも同様に考えて良いと思う。
 流行の場所、流行の遊び等々、「何か新しいこと、変わったことはないかな?」「面白そう~」という感覚は、新しいことに喜びを見いだす新奇探索傾向遺伝子ゆえだろう。

 「退屈」をおそれる人は多いのではないだろうか。「退屈」という、たぶん「ずうっと同じ状態が続く状況」にとことん耐えられる人は少ないに違いない。だから、「気分転換」という言葉が存在するのだろうし、人はコトあるごとに「イベント」を求める。(そういえば、今万博をやっているものなぁ。。子供の時、私も千里まで行きました。)

 この点、昔の人はよくしたもので、それが「祭り」だったはずだ。何かの祈願であろうとなんであろうと、日常からの脱却の意味もあったに違いない。

 ところが、現代社会ではこれが大きく変わった。なぜなら毎日がお祭りだから。ご馳走だって晴れ着だって、何でも好きなように好きにできて当然の日々である。生活が、昔の人の感覚からすれば、常に恐ろしく刺激に満ちているはずだ。しかし、それが逆説的に、刺激であったはずのものがあっという間に刺激でなくなり「退屈」に変貌する、それが現代の日常であろう。

 ここで救世主のごとく登場してくれるのが「流行」である。生存エネルギー補給の食生活においてすら、「今は○○が新しい」とばかり、飲食店にしろ料理法にしろ、次から次へと新しい何かが生まれる。おまけに商業ベースに乗っているものだから、仕掛ける方も生活をかけ必死になって、より刺激的な広告で人々に訴える。資本主義では複数の仕掛けになるから、受け手は享受者という受け身の姿勢でいながら「選択者」として、まるで自分がひどく能動的な立場にいるかのような錯覚に陥る。かくして、流行に乗ることが、似た中でのわずかな差異を見いだす「選択」行為を通して、、当人はこれを自己の「主体的活動」であるかのごとく認識し、「時代に乗った、社会の一員としての満足感」「新しい刺激を求める満足感」を得ることになるのだ。

 この状況で、私から見れば非常に奇妙なことではあるが、流行にうまく乗った場合には、その時その時で自らを不幸と感じる人はほとんど誰もいないのである。(不幸は流行にうまく乗れなかった場合だけである。)
 仕掛け人は大もうけをし、多少抽象的にものをとらえれば時代を支配したと感じるかもしれない幸せを得る。流行に乗り、先端を行った人は優越感を感じるかもしれないし、それこそ時代を感じて生きている幸福に浸っているだろう。そして過去を振り返って「あのころはああだったのよねぇ。」と懐かしがる。
 
 大勢の人間が関わらなければ流行は成立しないが、最近の消費者は目が肥えているので、そうそう仕掛け人の言いなりになるわけでもない。よって、ある程度の数を頼りにできるまで流行が成長してくれば、それこそ、期待通りの何らかの「面白さ」が見いだされるはずだ。

 だから、人は流行を追う。特別にそれが良いとか素晴らしいというわけではないと分かっていることもある。それでも、新奇探索傾向遺伝子を満足させるべく、新しいことに首をつっこむ。流行であれば、誰でもが認知し、話題にもなりうる。よって、社会との一体感を得ることができる。「選択者」として生きれば自らの「主体性」に(勘違いではあっても)確信を得ることができる。そして、「あのころはああだったのよねぇ」と思い出を作り、後年になって思いで深い人生を振り返ることができるのだ。

 自らの主体でなくとも、その時その時の流行に乗りさえすれば、時代と共に人生を生きたという証を得ることができる、それが現代の流行の最大のメリットなのだ。

 流行にのれ。そうすれば、あなたの人生はそれなりに「豊かな」「満足行く」「面白い」人生になるだろう。まるで、コンビニのような手軽さで。人生はわずか数十年、それで何の不足があろうかというのが、流行を追って生きる人々の論理だと思う。
 
 (あ~、長かった。書くのも疲れましたが、ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。)

私の論理は視覚依存

2005å¹´07月21æ—¥ | ç‰©ã®è¦‹æ–¹
 人間ドッグの眼科で引っかかった。目は中学3年頃から悪い。勉強したせいだ。以来、近視に乱視、数年前からめがねの度が進まなくなってきたなぁと思っていたら、なんと老眼の始まりだったようでこの頃つとに見えない。その上、視神経欠損とか、緑内障なのかなぁ? 精密検査を受けたが、どうもそれらしいようだが今少しはっきりしない。
 視野検査で私は「ウソつき」だったようだ。「小さく光る点が見えたらボタンを押してください。」と言われる検査だが、残像現象もあったりするので(と思う)ちかちかして、つい押してしまったのだろう。検査しながら、ウソつきだと思われたら嫌だなぁと思っていたのに、やっぱり(?)言われてしまった。あ~あ。

 目が見えないと、困る。2,3年前、真っ暗な迷路を歩く肝試し?みたいなところで、急に苦しくなって途中、脱落したことがあった。どんなに光を求めても真っ暗。怖くて仕方がなかった。子供の頃、善光寺の「お戒壇めぐり」は何ともなかったのになぁ。。(昔の話すぎるか。)
 
 人間の能力はいろいろだが、私は各人の「読み書き能力」と「聞く話す能力」の能力差、つまり、読み書きは強いが聞き話すは苦手、とか、その逆とかは、かなり個人差があるように思っている。私は完全に「読み書き能力>聞き話す能力」の持ち主で、時によっては文字を脳裏に浮かべて初めて言葉を理解することさえある。耳から入った情報はあまりアタマに残らない。生徒の中には私と全く反対、「作文は書けないが、討論となるとアタマがどんどん回転する」という子がいる。知的能力と言ってもさまざまなのだ。

 だから、視覚依存人間(←これ造語)の私は目がよく見えないと、文字の読み書きができないと困る。

 本が読めなくて下手な文章も書けないとなると、私はものを考えることすらできなくなる。そういう気がかり。瞳孔を広げる目薬を差しての検査は、そのあと眩しいのは言われたとおりだが、何かを見ようとしても焦点が合わない。瞳孔を開くと言うことは神経か筋肉かを麻痺させるのだろうか? レンズの収縮に使う筋肉にも影響を及ぼすのだろうか。なるべく目を使わないようにしたが、本も読めないし、テレビはちょっと見ただけで疲れるし困った。それに、最近は文章を書くのもパソコン依存だから、画面で疲れるのも困るのだ。

 養老先生によると、聴覚は論理と関係するという。私は聴覚がダメな割には理屈っぽい。私に関しては、聴覚と論理はどんな風に関係しているのだろうか? 
 あ、わかった。
 私の場合、音楽的な感性に関しては、「耳が良い」と言われたことが何度かある。能楽鑑賞でもそのほかでも。音程はわからないが、感性は楽譜や記号の音程で表されるものでもない。何とも言えない妙味みたいなのはよくわかった。だから、私の聴覚は、きっと言語中枢ではなくて音楽的な中枢の方に深く関わっているに違いない。だから、耳で聞き取る言語が苦手なのだろう。私の聴覚は論理的じゃない。
 理屈っぽさの説明にはならないし、当たっているのかどうかわかるわけないが、なんだか自分で納得した。

究極の目的

2005å¹´07月19æ—¥ | æ•™è‚²
 廊下に生徒が使用するロッカーがある。これがまたひょいと腰を浮かせば座りやすい高さである。たまに生徒が座っている。(かつては、その上で寝ていた生徒もいた。たまーに先生も座っていたりした。オイオイ)見つけたら、私は注意する。だから、私が近くに来ると降りる生徒は多い。で、かまって貰いたい生徒はそのまま座っている。(苦笑)

 その日も3人並んでいるのを見つけて「降りろ」と言った。一人は何かというと私にくってかかる生徒で、「っだれが決めたぁっ~?」と聞いてくる。(私に関心があるのだ。)仕方がないから「物には用途があるんだ。」と怒鳴ってやる。ま、私は文化とはそういうものであるとも考えている。(だから、どんなにその方が便利であろうと窓は出入りをする場所じゃない等々。)

 教室に入っても、その延長で会話は続き、「何事にも目的があるんだ。」と言ったら、他の生徒が「じゃあ、究極の目的って何ですか?」と聞いてくる。純粋な興味と、ちょっとだけ私を試そうとして聞いてきたのだろう。「おっ、良い質問だね~。(←満面の笑みで)大事なのはそこだよ、それなんだよ。で、自分で考えるんだよ。人によって答えは違う。そのために勉強だってするんだし、人の話だって聞くんだよ。答えが最初からあるんじゃない。」意外な返事に驚いていたようだった。
 
 ウチの生徒はバカじゃない。

 でもね、疲れるんだ。だって、ウチの学校でこんなこと言っているの、きっと私だけなんだよ。

生徒の気持ちをくむ?

2005å¹´07月16æ—¥ | æ•™è‚²
 もちろん私の知らない生徒である。が、ズボンの裾をまくり上げていたのが目に付いた。と、違う生徒の陰に隠れようとするので、--たぶん、今までに私に注意されたことがあるか、友達が注意されるのを見ているのだろう--ちょいとばかり回り込んで、裾を指して「直せ」と言った。その生徒曰く、「先生、視野が広いね。」「そりゃ、仕事だからね。」云々。
 「視野」はちょっと変な言葉遣いだとも思う。まあ、こーゆーのは「先生、よく見てるね」が順当だろうよ。

 同僚の中には上記の状況を「視野が狭い」と解釈している方がいるはずだ。ズボンの裾じゃないけど、「(高校生らしくちょっと格好をつけたがる)生徒の気持ちをくまないあなたは視野が狭い。」と主任クラスに言われたことがあるもんね。(笑)

 聞いた話だが、何年か前、あるトップクラスの進学校で炭酸飲料の自動販売機を入れるかどうかの話が生徒指導関係部で出たらしい。反対意見もあったが、主任の「でも、生徒はああいうのが飲みたいんだよね。」という判断で置くことが決まった。その学校は、近年だんだんと進学が悪くなってきている。
 「炭酸飲料の自動販売機を置いたことと無関係じゃないと思うんですよねぇ。」と言っていた人がいた。

 学校って、なんとも表現しがたい「雰囲気」でがらっと変わるものです。

ごはんの力

2005å¹´07月13æ—¥ | æ•™è‚²
 不登校気味の生徒がいる。母親によると、生活時間が乱れているらしい。朝食は、軽く果物を食べるとか。ごはんは要らないと言うらしい。どうも夜中にピザやら何やら食べているらしい。「朝、呼んでも起きてこない」と言う。母親はかなり年配で、まだ、昔ながらの親の感覚を持ち合わせているようだ。だらしない制服の着方が嫌でたまらない、学校にきちんと行って欲しいなどと言う。

 しかし、と思う。
 自分の経験である。平日はそんなことはなかったが、私は中高校生の頃、日曜に遅くまで寝ていると父親が「起きろ」と怒鳴りに来て布団を剥がされたものだった。それでもしつこく寝ていると、敷き布団まで捲られる。(笑)「ぎゃー」と叫びながら、さすがに起きざるを得ない。当然、私はしばらく猛烈に不機嫌である。父はどうだったか覚えはない。笑っていたかもしれないし怒っていたかもしれない。

 で、私の疑問は、なぜ、「呼んでも」なのか? 起こしに行かないのか? これまで出会ったこういう親はほとんど(というか、例外なく)「呼んでも起きない」と表現する。
 小さい頃からの習慣にだろうが、私の父のような起こし方をしてきていないのではないか、「本人の意志」を尊重して。
 朝、起きないから夜にモノを食うことになる。いい若者が果物の朝食で保つわけない。悪循環だ。

 保健室に来る生徒の多くは朝食を食べていない。時間がないと言うよりも母親が朝食を作ってくれないせいだ。百マス計算の蔭山先生は、親にごはんとみそ汁の朝食を作るよう頼んだそうだ。これは、小学生の子供の親だからできたことだと私は思う。高校生の親は40代。だんだん体力が落ちてくる年齢である。親が20代、30代のときに朝食を作る習慣がなく、40代でいきなり朝食を作れといわれても無理だろう。子供には過酷だが、親には頼れない。

 私の母は教員だったが、毎日4つの弁当を作っていた。弁当にはときどきハンバーグが入っていた。弁当用で小さめである。前日もその日の夕食もおかずは挽肉を材料にしていない。母は朝から肉をこねて弁当のためだけに作っていた。仲の良い同僚のお母さんも働くお母さんだったが、弁当に入っていたミートボールは手作りだったらしい。朝からシラスおろしが食卓にあったそうだ。(そういえばウチもそうだった。)二人とも、朝っぱらからせっせと大根をおろしていたのだ! 

 私の母は料理が得意というわけでない。が、手は掛けていた。「お母さん」は大変である。働くお母さんなら尚更だ。正直言って、生半可な意識では無理だと思う。かなりの能力と体力と根性、愛情がなければできないと思う。

 それに、食べ物は大事だ。身体を作る云々以上のものもあると思う。人間の脳がここまで大きくなったのは、ヒトが雑食性だったからだと読んだことがある。その数万年の歴史が私たちのどこかに刻み込まれているに違いない。だから食べ物は食文化になったに違いない。

 う~ん、そう考えると、ひょっとしたら人間の子供は、「ごはん」を通して自分が人間であることを確認するのかもしれないな。味覚の発達は子供の頃に培われるらしい。(有名シェフの三國清三さんは北海道出身。豊かな海の幸で味覚が育ったらしいし。)話がヨコに行きそうだが、サプリメントやそういう安直な製品でヒトのコドモが真っ当に人間に育つのはそうとう難しいに違いない。

ジュラシック・コードVS人間脳

2005å¹´07月09æ—¥ | é¤Šè€å­Ÿå¸
 先日の養老先生出演テレビ番組「ジュラシックコード」では、人類の脳の中での古い脳、本能的な欲望を司る脳を「爬虫類脳」と呼び、人類特有の新しい脳「人間脳」、理性を司る脳は、科学の進歩した時代では爬虫類脳の影響を強く受けているとしている。
 本能を抑える倫理観など、つまり新しい脳が強い力で古い脳を制御していたのが中世で、すなわち、神が力を持った時代だったと言う。だから、ニーチェの「神は死んだ」は、新しい脳が古い脳を制御しきれず、逆に新しい脳が古い脳に支配されはじめて人間の欲望が尽きない時代に入ってきたと言うことらしい。

 テレビ番組の養老先生とは関係ないが、養老先生はこの現象を「科学は宗教の解毒剤」と言い、また、「古い脳は本能的な欲望を制御できるまで進化しているが、新しい脳はまだ進化の途上にあるので欲望を制御できないでいる」と(言葉は正確でないが)言っている。

 両者とも、表だって見える現象からの推論だろうなあと思う。私は「神は死んだ」の他の解釈を知らないが、番組の説は確かに説得力がある。

 しかし、新しい脳の持つ欲望は、果たしてテレビ番組の推論のように、古い脳の指令で動くものだけではなかろうに。(番組ではそんな印象を受ける。)
 テレビ番組では、二つの脳の支配被支配の関係を、戦争などの負の側面や、他の、まあ、本能的な欲望を満たすための道具を生み出すための新しい脳の働きというとらえ方をしているが、新しい脳の働きはそれだけとは言い難かろう。
 物理学者や数学者の研究、文学者であっても、言わば世の中の役に立たない研究、つまり、他人の欲望を満たすことに繋がらない研究を、人があれほど強烈に求めて止まないのかの答えにはならない。(ニーチェが哲学者になって「神は死んだ」などと言う必要はないと言うことだ。)金や他の本能に強く関わる支配欲とは、やはり一線を画すのではないかと思うが。私がこんな風にいろいろ考えるのも、程度の差こそはあれ、新しい脳の持つ性質である「知的好奇心」で、古い脳からの欲求とは思えないし。
 そう考えると、養老先生の説に軍配が上がる。(と言っても、養老先生の説は、私が意図するものとはまたちょっと違うものであるが。)

 番組では、古い脳を抑えすぎるとストレスを生んで病気になると言っていて、この病気とは身体の病気だろう。が、新しい脳が抑えられても病気になるんじゃないかと思う。この場合は古い脳に抑制されると言うことではなく、逆にたとえば、本人が考えたがっていることを「考えるな」と言われたら、一部の人間は確実に脳の調子が悪くなるのではないかということだ。この場合、新しい脳が古い脳を超えて身体を支配していることを意味するだろう。(私なんて、アタマがおかしくなりそうだったら、--この文脈で言えば、新しい脳を抑制できなくて--、自分のブログを持ったようなものだし、本を読んでいるのだから。)

 うん、きっとそうだ。

 だから、工学部や医学部系の世の中の役に立つ学問は古い脳の支配を受けやすい分野だが、純粋数学や理論物理学、哲学や文学は、新しい脳の専売特許のようなものに違いない。それで、「宗教」(宗教「学」じゃなくてね)は、本当のところは、哲学と物理学を「世の中の役に立つようにわかりやすくしたもの」に違いない。だから創世記のようなものがあるのだろうし、神話があるのだろう。(というと、宗教と神話は違うとか言う人が出てくると思うが、まあ、そこまで細かく定義しないでね。人間のバックボーンになるものということです。)

 最初書こうと思っていたことと違うけど、アタマがすっきりして私は嬉しい。
 おつきあいくださってどうもありがとうございます。

 と書きながらも、すでにこの続きが脳裏に浮かんできていて、また「もやもや」が始まってしまいました。
 ああ、また違う「もやもや」も生じてきています。キリがないのでUPします。

たまには自分の教科の話

2005å¹´07月07æ—¥ | æ•™è‚²
 英語を教えている。英語教員対象の研修にもいくつか参加したことがある。今の授業は子守のようだ。何でも良いから活動させれば評価が高くなるようだ。

 英語の達人で学校の授業そのもので英語を身につけた人はいないという言を複数、耳にしているが、かなり当たっているんじゃないかと思う。同僚は高校の時から授業中に原書を読んでいたと言っている。映画好きの英語教師は多い。

 私は達人じゃないから、まだ授業を役立てた方だろう。(苦笑)高校時代は一生懸命に予習で和訳をし、授業中はしばしば寝ていた。(それがなぜかチャイムの5分前に目を覚ます。)授業より予習が大変だった。夏休みには予習のやり貯めをした。2学期に授業を受けるときは、1ヶ月前に自分が訳したノートを眺める状況だった。と、奇妙なことに、授業前に、自分の訳の間違いに気がつくのである。まあ、1ヶ月間辞書を引いて、どんどん読んでどんどん訳して、ひとりでそういう作業をしただけで多少の英語の力がついたということだ。その意味では先生は必要なかった。授業は、ほとんどが英語学習の機会提供、自分で学習した内容の確認だった。
 だから、私自身、教員になっても授業の力を信じていないのかなぁ? すぐ「自分でやればいいじゃないか」と思ってしまう。外国語なんて、人から教えて貰ってそれでできるようなものじゃない。
 
 でも、ウチの学校の場合は、自分一人ではできない子たちのようでもあるし、本人たちは、よく言えば素直で、悪く言えばそういう意味での向上心に乏しい。すぐに「わかりません」「やっていません」と言う。腹も立つので、「私の前では見栄を張れ」と言うことにしている。「やってなくてもやっているような顔をして、それなりの答えを言いなさい。間違うのはかまわないから。『わかりません』より間違えよ。」本当はいけないことだろうが席順で指名している。(そうでもしないと円滑に答えてくれない。)だから、自分がどこが当たるか、察しがつくはずである。それでも、「やっていません」「わかりません」。もー。多少良いクラスだけ、ちょっとばかり見栄を張ろうとする気配がある。きっとこのクラスは伸びる。
 若者が能力を高めるためには、「見栄」も重要だ。昔から若者はそういうものだっただろうに。難しいコトバを使ってみたり、難しそうな本を読んだりした。今は、ただ素直がいいのだろうか、見栄を張る所が違ってきたのだろうか。

 和訳がでたついでである。私が参加した「日本で最も権威ある英語教員の研修講座」で、とある大学教授(名前、ど忘れした。ある年齢以上だったらみんな知っている有名通訳者。)が、「ここだけの話だが」ということで、---なんと言っても「聞く話す」ための研修講座だもので、---「和訳をすればいいのだ」とおっしゃていた。「自分もそうやって英語を習得した。」と。参加者はみんな多少笑っていた。何かの本で読んだ同時通訳西山千さんは、「瞬間的に和文英訳をしている」らしい。別の講師の吉田研作さんは、2時間しゃべりっぱなしで、英語に間違いがなかった。(というか、私は気がつかなかった。)この人すごい。けど、視点の取り方から数学が苦手じゃないかと感じたがやっぱりそのようで、途中、何かのついてで数学が苦手だったと顔をしかめて言っていた。日本人で極端に外国語能力の高い人の中には、思考の方法にそれなりのバイアスがかかっていることがありうるだろう。なのに問題にされないのは良いことと思えない。

 尻切れトンボですが、今からまた本読みます。