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八代尚宏『新自由主義の復権――日本経済はなぜ停滞しているのか』(中公新書、2011年)は、経済財政諮問会議などで活躍した著名な経済学者による政治的パンフレットである。その主たる眼目は、「官から民へ」「民間にできることは民間に」をスローガンとした小泉政権期の一連の改革を擁護し、同じ路線を継承した更なる改革を訴えることにある。 著者によれば、近年しばしば「市場原理主義」と同一視され、小泉改革を貫いたイデオロギーとされる「新自由主義(neo-liberalism)」は、必ずしも市場を万能視するものではない。著者によって現代経済学の標準的立場に等しいものとして位置づけ直されたこの考え方は、「政府の失敗」を強く問題視はするが、市場を健全に機能させるためのルールとしての規制の必要性は認めている。新自由主義は、一部集団の特殊権益など多くの非効率を生む過剰な政府介入を、人々のインセンティブを巧みに刺激する
池田信夫さんのブログで「ステークホルダー民主主義」が叩かれていて、それに濱口桂一郎さんが反応しています。終焉も何も、まだ始まってもいない気がするわけですが、備忘として書き留めておきます。 「ステークホルダー民主主義」という言い方をする人は決して多くないわけで、池田さんの念頭に濱口さんが置かれているのは明らかでしょう。濱口さん的なステークホルダー民主主義については、当ブログでも書いたことがあります。私が理解する「ステークホルダー・デモクラシー」一般については、こちらに書きました。 池田さんは原発再稼働に絡めた話をしており、これについては私が2月に書いたエントリに当てはまる立論になっているなぁという印象です(以下、強調は本エントリによる)。 福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質
以下、拙稿『利害関係理論の基礎』第1章第5節2「利害関係者と当事者」(2008年1月)から、ほぼ全文に近い引用。 日本語において、当事者という語彙は、利害関係者よりも日常的に用いられる一方で、法律条文や学問研究、社会運動の現場など多様な文脈で用いられている。だが、そうした多様な文脈、多様な領域で共有される当事者という語彙が示す「当事者性」とは何であるのかについての研究は、利害関係についての研究以上に少ない。 しかしながら、それは、これまで「当事者とは誰か」という問いが発せられることが乏しかったからではない。そうした問いは、女性運動や障害者運動など、主に「運動」の現場で盛んに発せられ、真剣に検討されてきたのであり、それが学問研究の場で当事者研究として反映されることが少なかったに過ぎない。近年では、こうした「運動」の歴史と成果を継承しつつ、学問研究の場で改めて当事者について語ろうとする動き、あ
まもなく私たちは、3月11日という日付を再び迎える。去年のその日は、大きな地震と津波があった。人が沢山死んだ。たくさん、たくさん、死んだ。同じ日に原子炉が壊れ、放射性物質が漏れた。私たちの生活は見えない怖れに汚染され、日常性はひしゃげた。 自らの命や愛する人、住まいを喪った人は不運だった。そう言えるだろうか。河野/金(2012)は、不運(misfortune)と不正義(injustice)を区別することの必要を説く。いわゆる天災と人災に対応させれば解りよいこの区別は、ジュディス・シュクラーに従うものである(Shklar 1992)。シュクラー自身が区別しながらも明確な線引きを避けたように、不運と不正義の違いは、それほど明瞭に得られるわけではない。道歩き、石につまづいて転べば、私たちはそれを不運と嘆けばよい。だが、もし私を忌む人がその石を仕込んだのだとすれば、いかにたわいがなくとも、それは不
震災と原発について私が読んだものの中から、菅原琢氏のブログおよび「シノドス・ジャーナルによる、3.11関連記事まとめ」に挙がっていないものを載せておきます。国・自治体のサイトも、必ずしも全部読んだわけではありませんが、挙げておきます。個人的に作っていたリストから流用したものなのでかなり穴ぼこで偏っていますが、ご参考まで。より網羅的なリストとしては、東京市政調査会の「東日本大震災に関する資料リスト」があります。 1. 震災 1-1. 救助・遺体捜索・遺体処理 改めて言うまでもなく震災は非常事態であり、緊急事態であり、有事であった(である?)わけですが。 笹本浩「東日本大震災に対する自衛隊等の活動――災害派遣・原子力災害派遣・外国軍隊の活動の概要」『立法と調査』317号、2011年6月 [pdf] 水島朝穂「史上最大の災害派遣──自衛隊をどう変えるか」『世界』2011年7月号 遺体の捜索と処理
私は政治理論を専攻していて、とりわけ「ステークホルダー」(利害関係者)という概念をテーマにした研究を行っています。企業の意思決定に対するステークホルダーが株主だけでない従業員や消費者、地域社会、環境などを含むように、政治も、法的な権限に根拠づけられないような多様な主体を想定できるのではないか。権利はないが重大な利害関心はある――というように、ステークホルダーという観点を用いることで、デモクラシーの中に存在する様々な「境界線」を問い直すことができるのではないか。大ざっぱに言うと、そうした問題意識から研究をしています。 福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分
2006/12/10(日) 17:44:54 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-305.html 普段あまり真面目には読んでいないEU労働法政策雑記帳を改めて見ていると、濱口さんが以前厳しくダメ出しした薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』とかなり共通する見方で政治的対立軸について語っていることが分かった*1。とりあえず目に付いたところでこのぐらいある。 ネオリベとリベサヨの神聖同盟(特にコメント欄) ザ・ソーシャル リベじゃないサヨクの戦後思想観 リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い リベラルとソーシャル 薬師院についても述べたが、何に苛立っているのかは解る。解るし、実践的にはこうやって単純化した切り口を提示した方が良い結果をもたらすのかもしれないとも思う。でも、こういう単純化が、大げさではなく日本の戦後思想のかなりの部分をドブに捨てようとして
2006/10/31(火) 14:32:03 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-288.html 複数のブログで採り上げられているのを見て、薬師院仁志『日本とフランス 二つの民主主義』(光文社新書、2006年)を読んでみた。すると、ページを繰るたびに物凄く違和感を覚える。著者の「自由主義」や「民主主義」についての理解がかなり粗放なためだ。問題意識は理解できるし、具体的記述については首肯できるところもそれなりにあるのだが、政治理論・政治思想史プロパーの人が読んだら言葉を失うのではないかと心配するほどである(私が何プロパーかは不明)。社会学者が書いた新書にすぎないのだから、それほど目くじらを立てるべきじゃないのかもしれないが、よく知らないくせにやけに自信満々な書きぶりが若干ムカつくので、一応基礎的な部分で批判を加えておきたい。 まず「自由だけが民主主義
A3 作者: 森達也出版社/メーカー: 集英社インターナショナル発売日: 2010/11/26メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 89回この商品を含むブログ (30件) を見る地方政府の民主主義 -- 財政資源の制約と地方政府の政策選択 作者: 砂原庸介出版社/メーカー: 有斐閣発売日: 2011/04/18メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 38回この商品を含むブログ (19件) を見る遺体―震災、津波の果てに 作者: 石井光太出版社/メーカー: 新潮社発売日: 2011/10メディア: 単行本購入: 11人 クリック: 388回この商品を含むブログ (62件) を見る よいお年を。
民主党の組織と政策 作者: 上神貴佳/堤英敬出版社/メーカー: 東洋経済新報社発売日: 2011/09/02メディア: 単行本購入: 1人 クリック: 66回この商品を含むブログ (18件) を見る 今夏、書籍としてはほぼ初と言っていい、民主党についての実証的研究が出版された。若手の研究者を中心とする本書では、民主党の特徴を予め(1)理念や政策の曖昧さ、(2)政権獲得の追求、(3)組織戦略の不明確性の3つに見定めた上で、その曖昧な組織と政策についての分析を行っている。 1章では、地方議会における民主党所属議員の議席割合が自民・公明・共産各党などと比較して低水準であり続けていることや、党員・サポーター数が自民党の3分の1程度に留まっていることなどから、民主党の地方組織の脆弱さが示される。これは、国会議員を中心として結成されたため、院外の社会的基盤を欠いている同党の性格を現わすものとされる。
一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル 作者: 東浩紀出版社/メーカー: 講談社発売日: 2011/11/22メディア: 新書購入: 14人 クリック: 581回この商品を含むブログ (164件) を見る 東浩紀『一般意志2.0−−ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)を強いて言えば、公共哲学の本と言えるだろう。表題の通り、本書は、グーグルに象徴されるような高度に発達した情報技術環境に刻まれる行動履歴が人々のフロイト的な無意識(本当の望み)を統計的に可視化することを通じて、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で示したような「一般意志」の新たな形態と言えるものが現れ得るのであり、またそうした「一般意志2.0」こそが従来的な政治過程を規律する原理になり得ると主張する。著者は「政治」(過程/イメージ)の刷新を志しているが、考えられているのは、狭い意味での政治にとらわ
政治・政策に関する言説に触れていると、「この問題については国民的な議論が必要である」とか「まだコンセンサスが得られているとは言えない」などといった言い回しを、よく耳にします。ところが、どうなれば国民的な議論が行われたことになり、どこまで行けばコンセンサスが得られたことになるのかは、ほとんど明らかにされません。 議論は重要ですが、永遠に議論するわけにはいきませんし、永遠に議論したとしても100%のコンセンサスが得られることはありません。いつかの時点で決定が必要とされる以上、広範な議論と合意形成を求める主張には、「最低限ここまで達成できたらコンセンサスが得られたと見なしてよい」という基準の提示が伴うべきでしょう。 難しいのは、たとえば世論調査で国民の7割から8割が原発の停止・廃炉に賛成しているとして、それをコンセンサスと見なしてよいのかどうか。もし「よい」と考えるのなら、その人はコンセンサスと
野球やサッカーなどのプロスポーツを愛好する人々には、決まって「ひいき」にしているチームがあるものだ。プロ野球であれば阪神タイガース、Jリーグであれば浦和レッズが、それぞれ熱烈なファン(サポーター)を多く持つことで有名だろう。こうしたファンの中には、子供の頃から何十年もの間にわたり、一貫して同じチームを愛し・応援し続ける人がかなりの割合で存在する。 だが、素朴な疑問がある。年月とともに各チームの選手やスタッフは入れ替わり、チームの戦術やプレイスタイルも全く同じではいられないだろう。チームのユニフォームや本拠とする競技場、スポンサー、場合によってはチーム名さえも、変わってしまうことがあるかもしれない。すると、そうした変化にもかかわらず同じチームを愛し続けるファンたちは、一体そのチームの何を愛しているのだろうか? 実際、こうした変化に伴って、自覚的にファンをやめたり、なんとなく熱心には応援しなく
近代哲学の名著 - デカルトからマルクスまでの24冊 (中公新書) 作者: 熊野純彦出版社/メーカー: 中央公論新社発売日: 2011/05/25メディア: 新書 クリック: 11回この商品を含むブログ (8件) を見る 最近出た熊野純彦(編)『近代哲学の名著』に、馬渕浩二氏がシュティルナー『唯一者とその所有』の解説を書いています。馬渕氏は哲学・倫理学がご専門で、マルクスやその周辺を中心に研究されておられる方のようです。 シュティルナーについて書かれたものには誤解が多いので*1、どんな様子かなと期待半分不安半分で見てみましたが、巧くまとまっていると思いました(えらそうですいません)。参考文献にカール・レーヴィットと住吉雅美氏のものが挙がっていて、まぁそちらの筋で行けばそんなに変なことにはならないだろうとは思うのですけど、実際まともでした(そういう意味では住吉氏の功績はやはり大きいと言うべき
「風評被害」の虚飾の下に、差別が拡がっています。差別は昨日今日、生まれたのではありません。レイシズムもセクシズムも、宗教差別も出生地差別も、疾病・障害や能力その他の特徴による差別も、過去から現在まで一貫して存在しているものです。起きたことは、新たな材料が手渡されたというだけです。この事態に私たちができることは、「差別はよくない」とお題目を唱え、お説教をぶつぐらいしかないのでしょうか。 人は差別をするものです。そして多くの人は、自分が差別をしていることを認めたがりません。非難を避けるためには、「これは差別ではなく区別である」などと主張されることがあります。不当な別ではない、と言いたいわけです。 辞書的な意味を言えば、複数の対象をそれぞれ違うものとして分けることが、「区別」と呼ばれます。そして、それら異なるものの間で取り扱いに差を付けること、特に一方をとりわけ不利に扱うような類の差を付けること
進学について激励を頂いた方々、改めてありがとうございました。さて、ごく個人的なことをいつまでも最新記事に掲げておくのはどうも気恥ずかしいので、最近考えたことを簡単に。 以前「私たちはなぜアメリカ大統領を選べないのか」といった論点について述べたことがあります。アメリカ大統領は世界大の影響力を持っているのだから、その選挙権はアメリカ国民に限られるべきではないという考え方ですが、多くの人にとって流石にこれは随分突飛な話に聞こえることでしょう。いくら何でも住んでもいない国のトップを選ぶ権利なんて…と(では住んでいる国ならどうか――となると、これは定住外国人の参政権についての話になりますが)。 さてでは、先般選挙が行われたばかりの都知事について、同じ考え方を(よりマイルドに)適用した場合にはどうでしょう。言うまでもなく、東京都には(わざわざ別に「首都圏」という言葉があるほど)近隣他県から多数の人々が
過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。 法外なものとリークの射程――ウィキリークスをめぐって 「受益者負担」と言われながら、負担が未来へと先送りされるとき、私たちはどう考えればよいか。主要な問題は、システムの「持続可能性」などではない(それは二次的問題である)。コストとリスクを負わされる者に発言が可能でないことが問題なのだ――「代表なくして課税なし!」。今・ここで、語り
政治的であることと非政治的であること われわれの出発点を何処に置こう。「個人的なことは政治的である!」――よろしい。では、個人的なことの全てが政治的であるか? あるいは然り、あるいは否。「全てがそう、とは言わないまでも、全てが政治的にはなりうる」――結構。区別は本質的ではない。とはいえ、非政治的であるという意味で純粋個人的なものごともまた、「ありうる」わけだ。 ところで、非政治的なものごとは、政治学の対象たりうるか? たりえない――ならば、政治学は純粋個人的(私秘的?)なものごとに無関心である。そう言ってよい。政治学が個人的なものごとに関心を払うのは、そこに何らかの形で政治性――ある対象を非政治的と断ずる振る舞いも含めたそれ――が宿っていると認める限りである。 ところで個人的であること、――これは私的なことと言い換えて差し支えなかろうか? 両者の重なりは明らかでない・が、ここでは同じと見な
批評という営みについて私はよく知らないが、ある作品を批評してその価値を測るときの基準としては、まず(1)現実との結び付き(アクチュアリティ)と、それから、(2)何らかの可能性についての展望、ヴィジョンを与えてくれるようなインスピレーション、こうした尺度があるのかな、と思う。これらはそれぞれ、現状についての認識と、未来へ向けた処方箋に対応する。批評する者は多分、作品にこれらがどのような形で内在しているかを問うのであろう。 しかし、私たちがある作品を享受するにあたって心を動かされる創造性や、浴びせられるエナジーというものは、そのような現実や未来についての含意を汲み取れるような部類のものには限られないのではないか。例えばある娯楽作品がエンターテインメントに徹している、そのことが素晴らしい、と評価するなら。何も新しくないし、とりたててメッセージと言えるようなものもない。だが、とにかく面白くて、楽し
2006/11/08(水) 01:29:08 http://awarm.blog4.fc2.com/blog-entry-290.html 市野川容孝『社会』(岩波書店、2006年)は、「思考のフロンティア」シリーズとしては異例の200頁超の「大作」で、勉強になり、示唆に富む、とても良い本だ。 ただ、若干違和感を覚える部分も無いわけではない。いくつかあって、ルソーの章も気になるのだが、あまり話を拡散させたくないので、一点に絞って書く。 要はベンヤミン『暴力批判論』の解釈であり、さらにはシュミット解釈であり、ひいては民主主義に対する理解に繋がる話だ。興味深いことに、著者は「ベンヤミンをC.シュミットに結びつけ過ぎる彼(引用者注:デリダ)の解釈に私は全く賛成できないし、このデリダの解釈からも正当化可能な「左翼シュミット主義」とでも呼ぶべき潮流に対しては、この場ではっきりと異議を申し立てておく」
日々不勉強を沁み込ませている身では、専門的なことについて何かを言うということははばかられるのですが、しかしそれでも感じたり考えたりしていることを折々に吐き出しておかないと、いつまで経っても何も言えないことになるので、最近細切れに書き付けていることなどをラフにまとめておきます。お題は「熟議」です。 松浦正浩([twitter:@mmatsuura])さんは、社会的合意形成を導く営みとしての「交渉」と「熟議」を、それぞれ次のように特徴付けています。すなわち、交渉が「各当事者の価値観や利害関心は不変であることを前提に、それぞれの利害関心を満足させる最適解」を模索する点で「利害調整に主眼」を置くものであるのに対して、「利害関係に縛られない自由な対話」を通じて「公共的な価値観を創生していくこと」を重視するのが熟議的デモクラシー(deliberative democracy)である、と(松浦 [201
常日頃、政治学系の本がブログ界隈で紹介される機会は相対的に少ないと感じているので、優れた新刊などは出来るだけ採り上げたいと思っています。簡単な書評や紹介を書ければいいと思っているのですが、ブログに揚げるとなると何だか多少なりともエネルギーが必要で、なかなかできていない現状です。ツイッターだけで書いてもいいのかもしれませんが、それでは代替できない機能と言うか意義がブログにはあると思いますので、羅列的にでも書いておこう、と。いうわけで、幾つか挙げておきます。 秋吉貴雄/伊藤修一郎/北山俊哉『公共政策学の基礎』有斐閣 公共政策学の基礎 (有斐閣ブックス) 作者: 秋吉貴雄,伊藤修一郎,北山俊哉出版社/メーカー: 有斐閣発売日: 2010/12/13メディア: 単行本(ソフトカバー)購入: 6人 クリック: 71回この商品を含むブログ (82件) を見る これは買っただけで、まだきちんと読めていま
A3 作者: 森達也出版社/メーカー: 集英社インターナショナル発売日: 2010/11/26メディア: 単行本購入: 2人 クリック: 89回この商品を含むブログ (30件) を見る オウム側の視点から日本社会を映した『A』『A2』の監督・著者による、『月刊PLAYBOY』連載(2005年2月号〜2007年10月号)に基づく単行本化。今回の「A」は明確に「麻原」の「A」であるとして、2004年2月に一審判決が下り、2006年3月に高裁が控訴棄却、同年9月に最高裁が特別抗告を棄却して死刑が確定した麻原彰晃氏の裁判(2010年9月に再審を求める特別抗告を最高裁が棄却)と並走しながら、彼の実像に焦点を当てて書かれている。 教祖の生い立ち、家族、人となり、宗教家としての実際、法廷および拘置所での姿、教団の形成過程、教義の解釈と変遷、教祖と信者・幹部との関係、警察・検察・裁判所を含む社会の側の反応
数ヶ月前に私は、「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」なる文章を公表しました。十分だったかどうかは分かりませんが、そこでは、経営学でのstakeholder theoryの文脈を押さえつつ、stakeとstakeholderの語源・語義を簡単に整理して、「公共化された利害関係者」としてのstakeholder概念のニュアンスを明らかにしたつもりです。 その際の意識は主に、「ステークホルダー」なる新奇な言葉を使うことに懐疑的な人への説明にあったのですが、その後、事業仕分けを巡る議論などを眺めていると、むしろステークホルダー論を積極的に振り回すようなタイプの人々にある種の怖さを覚えるようになりました。 stakeholder theoryは元々、企業の活動から影響を受け、企業に対して重大な利害を有しながら、意思決定への影響力を持ち得ない主体を再定義する所から出発しました。stakehold
クジ引きは民主的だと言われる。デモクラシーにとっての理想は、人民の中からクジで選ばれた人々が公職を担当することだと考えている人は多い。古代ギリシアの実例に範を採りながら、クジ引きこそ政治的平等と人民主権を究極的に実現する方法だと見なすのである。しかし実際には、クジ引きに民主的な要素など何もない*1。 デモクラシーと多数決の関係を考えてみれば解る*2。多数決は何らかの決定を行うための一方式であり、それ自体は民主的でも何でもない。有力貴族の間で次の国王を選ぶ際にも多数決は使えるのであって、多数決を行えば民主的と言えるわけではない。同様に、独裁者が次に誰を銃殺しようか決める際にもクジ引きは採られ得るから、クジ引きそのものが民主的な性格を有しているわけではない。 それにもかかわらず、クジ引きが民主的な方法だと見なされがちなのは何故か。錯覚がもたらされる経路を、デモクラシーの2つの構成要件である政治
仙谷氏「自衛隊は暴力装置」 抗議受け謝罪、首相も陳謝 http://www.47news.jp/CN/201011/CN2010111801000326.html ツイッターでは政治家が政治学/社会学における初歩の初歩も知らないのか、として批判者を問題視する反応が(私のタイムラインでは)多かったように思いますが、今回の事案で重要なのはヴェーバーやレーニンがどうということではなく、現代の日本において市民がいかに訓致化されているかということです。 市井の一般の人々がヴェーバーなど読むはずもなく、その多くが暴力なる機能語に規範的意味を過剰に読み取ってしまうのは自然であり、その反映としての側面を持つマスメディアや政治家が仙谷発言を批判的に捉えること自体は大した話ではありません。日本ほど相対的高度に民主化された国家において、軍事組織を「暴力装置」と表現することがこれ程の反発を呼び起こすのは、むしろ当
「アナーキー」の概念には、その語義・用法からして、おおよそ3つの意味が見出せる。第一の意味は、(1)無秩序である。これは秩序が失われた状態として否定的に言及される一般的用法のほか、特にヒエラルキーと呼ばれるような階統的な秩序の反対概念として、もっぱら記述・分析に用いられることがある。例えば、統一的な政府機構を持たない国際社会を指してアナーキーと言う場合が、これに当たる。したがって、記述・分析概念として用いられる場合のアナーキーは、無‐秩序なる否定的現象ではなく、一定の均衡状態≒秩序の現象形態を階統的/非階統的の軸上で分類する際の、一方の極を占める術語である。 第二の意味は、(2)無権力ないし無支配である。「an+archy」の由来からすると、もっとも原義に近いのはこの意味である。権力や支配の不在を指す、こうしたアナーキー概念に基づくなら、アナーキズムは無権力主義・無支配主義を意味することに
池田信夫氏のブログは普段読まないのですが、さる人に記事を紹介されたので以下を読みました。せっかくなので、簡単にコメントをしておきます。 熟議という「便利な嘘」 - 池田信夫blog http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51491223.html 話題になっているdeliberative democracyですが、その流行は別に90年代の欧州に限ったことではなく、米国その他でも未だに議論は盛んです(例えば、重要な理論家の1人であるJohn Dryzekは、オーストラリア国立大学に勤めています)。ハーバーマスの理論が現在の議論の重要な源泉の1つを提供していることは確かですが、今では彼に限らず様々な論者が議論に参入しているので、deliberative democracyをハーバーマスに代表させて一括りに批判するのは的外れです。熟議論は理性への信頼が克
昨日までの4日間に分割掲載した論文「確率・亡霊・唯一者」を、pdfファイルでHPに公開しました。 以下のページから閲覧・ダウンロードできます。 http://sites.google.com/site/politicaltheoryofegoism/works ブログでは省略した注が読めますので、是非ご利用下さい。
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