「コンセンサス」はいつ得られるのか――3つの条件
政治・政策に関する言説に触れていると、「この問題については国民的な議論が必要である」とか「まだコンセンサスが得られているとは言えない」などといった言い回しを、よく耳にします。ところが、どうなれば国民的な議論が行われたことになり、どこまで行けばコンセンサスが得られたことになるのかは、ほとんど明らかにされません。
議論は重要ですが、永遠に議論するわけにはいきませんし、永遠に議論したとしても100%のコンセンサスが得られることはありません。いつかの時点で決定が必要とされる以上、広範な議論と合意形成を求める主張には、「最低限ここまで達成できたらコンセンサスが得られたと見なしてよい」という基準の提示が伴うべきでしょう。
難しいのは、たとえば世論調査で国民の7割から8割が原発の停止・廃炉に賛成しているとして、それをコンセンサスと見なしてよいのかどうか。もし「よい」と考えるのなら、その人はコンセンサスと多数決の違いを理解していません。「過半数では物足りないけど8割ならいいんじゃないか」というのは、単純多数決か特別多数決かという違いだけであって、多数派の意見をそのまま通すという意味では変わりません。それをコンセンサスとは呼びません。
ある方針・政策(policy)や決定に7〜8割の人が賛成しているところで、残りの少数が強硬に反対する場合、その対立をどのように調停し、実行可能な選択肢を見出していくかという局面に、コンセンサスへ向けた努力が現われるわけです。原発問題についてそうであるように、自らの主張・立場を容易に崩さない人々というのはふつう、当該のイシューに対する強い利害関心(とそれに伴う専門性)や何らかの権力を持っている個人・集団です。そしてそれゆえにこそ、方針・政策や決定を(彼らの協力を得るか、少なくとも妨害を行わせないことによって)円滑に遂行するために、対立を乗り越えたコンセンサスが目指されることになるのです。
以上を踏まえて、ある方針・政策または決定について、コンセンサスが得られたと見なすために満たすことが必要な3つの基準を、試みに示してみます。
基準1.公示性
- 当該のイシューについての情報がアクセスしやすい状態で公開されており、基本的な諸事項が広い範囲で周知・理解されている。
基準3.コミットメントを伴う合意
- 参加者がイシューについて取り交わす合意(agreement)には、合意された方針・政策ないし決定を自らの立場としてその実現を将来にわたって支持・推進するという、責任あるコミットメント(commitment)が伴わなければならない。
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- 合意は、参加者ごとに異なる理由に基づくものであって構わない。
- 合意に伴うコミットメントは永続的である必要はないが、継続的であることが求められる。コミットメントからの離脱は、合意の前提となっていた何らかの条件の変化など、変容を説明する理由の提示を必要とする。
それぞれに潜む問題
1つ目の基準については、あまり問題となるようなところは多くないように思えます。どこまで行けば情報が周知されたことになるのか、というのは1つあり得ますが、これだけメディアが発達している中でそれほど重大な問題となり得るとは思えません。問題は情報が専門性を多く含む場合や情報の解釈をめぐって争いが生じる場合ですが、これらは論点についての認識と理解という意味で、既に2つ目の基準と多分に重なってきます。
2つ目は最も重要でかつ難しい問題です。この基準そのものが極めて政治的なものになり得ます。「誰がステークホルダーであるのか?」という判断は、イシューが何であるのか、つまり「何のステークホルダーか?」という課題設定(イシューの定義)と無関係ではあり得ません。例えば原発問題にしても、それが電力や経済の問題なのか、生命や世代間倫理の問題なのか、といった問題の意味付けの仕方によって、考え方は違っています。
この問題のステークホルダーは誰々である、と選定していくこと自体において、イシューは定義されていくことになります。それは政治です。決定過程に未来世代の人々を含められないことに象徴的であるように、包摂性を完全に実現することはできません。論点の包括性(これはイシューの定義の時点で既にある程度限定されています)についても同じことが言えます。したがって、コンセンサスは常に不完全で暫定的なものです。これは欠陥のように思えますが、絶えず異議申し立てに開かれるという意味で、有益でもあります。コンセンサスが万能で無謬のものと見なされると、それが排除・侵害しているものが意識されなくなり、政策変更も困難になるからです。
不完全で暫定的なコンセンサスを、それでも実効力あるものにしようとするのが、3つ目の基準です。コンセンサスに与した者は、少なくともある限定的な範囲で、その実現に協調して尽力すべし、ということになります。ここに至ると、責任に訴えるという意味で、倫理の問題が入り込んできます。
3つ全ての基準に関係するのは、それぞれをどのような形で行うのかという手続きの問題です。しかし、それはまた別のところで考えましょう。