利害関係者と当事者


以下、拙稿『利害関係理論の基礎』第1章第5節2「利害関係者と当事者」(2008年1月)から、ほぼ全文に近い引用。

 日本語において、当事者という語彙は、利害関係者よりも日常的に用いられる一方で、法律条文や学問研究、社会運動の現場など多様な文脈で用いられている。だが、そうした多様な文脈、多様な領域で共有される当事者という語彙が示す「当事者性」とは何であるのかについての研究は、利害関係についての研究以上に少ない。
 しかしながら、それは、これまで「当事者とは誰か」という問いが発せられることが乏しかったからではない。そうした問いは、女性運動や障害者運動など、主に「運動」の現場で盛んに発せられ、真剣に検討されてきたのであり、それが学問研究の場で当事者研究として反映されることが少なかったに過ぎない。近年では、こうした「運動」の歴史と成果を継承しつつ、学問研究の場で改めて当事者について語ろうとする動き、あるいは当事者として語ろうとする動きが盛り上がっている。
 そうした動きの基礎になっているのは、上野千鶴子らによる「当事者主権」の主張および「当事者学」の提唱である。当事者主権とは、「私のことは私が決める」という自己決定の権利を徹底的に要求する立場を意味する*1。当事者学とは当事者による当事者のための学問であり、①担い手の当事者性の自覚、②当事者のニーズ充足を目的とする明確な運動的立場の表明、③「客観性」や「中立性」を標榜する既存の専門知の相対化などを主な特徴とする*2
 上野らによれば、「私の現在の状態を、こうあってほしい状態に対する不足ととらえて、そうではない新しい現実をつくりだそうとする構想力を持ったときに、はじめて自分のニーズとは何かがわかり、人は当事者になる」*3。ここでは、当事者はニーズの存在によって定義されていると言えよう。野崎泰伸は、当事者概念が用いられる文脈として、①「あくまでその本人しかわかり得ない」という「個別性・排他性」の強調、②「ニーズを持つ本人こそが適正なサービスを知っている」との主張を支える「ニーズに基づく共通性」の提示、③当事者としての自己肯定や連帯をもたらす「自己の再定義」、の三つを挙げているが*4、これは上野らの立場と一致している。すなわち、ニーズによって当事者を定義し(②)、自らを当事者と位置付けることで運動の担い手としての自覚と他の当事者との連帯を強めつつ(③)、当事者としての個別性・排他性の強調から自己決定の権利を要求する(①)、といった形態である。
 当事者学に共鳴し、不登校経験者として当事者学を実践する貴戸理恵の研究においては、当事者という語彙によって意味される範囲が、現在および過去における不登校者に限定されている*5。貴戸によれば、不登校を経験している当事者と、「親・教師・民間の実践者・専門家・行政など、不登校を経験した本人以外の人びと」、すなわち非当事者との間には、「ぬぐいがたい落差が存在している」のであり、その落差を提示するためにこそ当事者が語る必然性が生まれる*6。このような当事者による語りの意義の重視から、貴戸においては、「何らかの本質や実体を共有する集合としてではなく、あくまでも行為者相互の関係における一つの位置としての暫定的なカテゴリー」としてではあれ*7、当事者の範囲は本人体験の有無によって画定されることになる。
 野崎もまた、本人と本人以外の関係者の間では、「明らかに経験や体験の存在に相違がある」として、この差異を「当事者概念を、本人概念と関係者概念に分ける」ことによって明示化しようとする*8。野崎によれば、そうした経験や体験の存在と、「経験や体験をもとにして表出される感情」の存在が有する唯一性は、本人の主張を「<重み>づける」ものであり、そうした<重み>ゆえに他者による本人の代理表象可能性は否定されなければならない*9。ここで野崎は、「本人the person in question」概念を本人以外の関係者概念と区別し、本人を含めた関係者全員を意味して「当事者the person concerned」概念を用いることを提唱している。
 改めて整理するならば、当事者性の要件として提出されている主な候補は、①ニーズの存在と、②本人体験の存在の二つである。論理的には、ニーズの存在を当事者の要件とするならば、本人体験を持たないがニーズを抱える者が当事者に含まれるし、本人体験性を当事者の要件とするならば、ニーズを持たない本人体験者が当事者に含まれる。だが、少なくとも上野らにおいて「ニーズを有する当事者」として想定されているのは、高齢者、障害者、女性、患者、不登校者といった何らかの「本人体験」を有する人々が中心であり、当事者としてのニーズとはこうした体験に基づくことが前提とされている。
 そこでは、例えば不登校という事象において、「子供を学校に行かせたい」というニーズを抱える親や「生徒を学校に来させたい」というニーズを抱える教師を、そのニーズゆえに当事者と位置付けることは、まず想定されていないし、位置付けるとしても不登校者本人に対する周辺的当事者と見做すことになるだろう。ならば、実質的には上野らも当事者たる条件を本人体験性に求めていると言ってよい。ニーズの存在は、本人体験性から蓋然的に導かれていると考えるべきだろう。
 それゆえ、当事者概念を定義するに当たっては、本人体験性を条件とする狭義の当事者と、本人以外の関係者を含めた広義の当事者を区別した野崎の議論に準じるのが、最も適切であると思われる。すなわち、狭義の当事者the person in questionとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人」を意味し、広義の当事者the person concernedとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人、およびその関係者」を意味する。
 だが、ここで直ちに気づくことは、広義の当事者の定義が「関係者」の定義に依存しており、それゆえに不完全であるということである。本人以外の関係者を当事者に含める限り、「関係者とは誰か」という問いに答えなければ、「当事者とは誰か」という問いに答えたことにはならない。そうであれば、当事者性についての研究は、最終的に利害関係についての研究によって補完されなければならないだろう。
 また、より根本的な問題も存在する。それは、「本人体験」とはどのような体験でも有り得るために、当事者とは誰でも有り得ることである。不登校という事象についての「本人体験」として一般に想定されるのは不登校そのものの経験であるが、不登校の子供を持つ親にとっては、自分の子供が不登校であるということは紛れもない「本人体験」であるし、不登校の生徒を担当する教師にとっては、担当する生徒が不登校であるということは同様に「本人体験」である。それぞれの体験と、体験から表出される感情はそれぞれに個別的・唯一的であり、その意味での「重み」に優务があるわけではない。
 また、不登校者、親、教師、その他の関係者は、不登校という事象における自らの体験に基づくニーズをそれぞれに有していると推測できる。したがって、当事者たる要件を本人体験ないし体験に基づくニーズに求めるのであれば、論理的には、不登校という事象における当事者は、不登校者、親、教師、その他の関係者の誰でも有り得る。
 こうした事実は、「当事者とは本人体験者である」といった定義が、それだけでは当事者の範囲をほとんど限定しないということを意味する。それにもかかわらず、不登校の中心的な当事者が不登校者であると一般に見做されているように、特定の事象について特定の体験が当事者性の指標とされやすいのはなぜであろうか。誰もが当事者で有り得るのに特定の当事者のみが当事者として現れるのはなぜであろうか。
 それは、私たちが当事者を指示するに当たって、複数の「本人体験」および体験に基づいたニーズ=<利害>の間に予め優先順位を想定し、重要であると考える体験およびニーズを有する当事者だけをその事象における当事者として見做すという選択を行っているからである。不登校者の親や担当教師よりも不登校者自身が中心的な当事者として扱われ、しばしば不登校者のみが当事者として扱われるのは、不登校者自身の体験およびニーズの方がより重大であると考えられているからであり、不登校についての専門家が不登校の当事者として扱われないのは、専門家にとっての個別の不登校に直面するという体験およびそこから生じるニーズがあまり重大でないと考えられているからである。
 つまりここでは、多様な「本人体験」に基づく多様な当事者集団の中から、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべきであると考えられた当事者を狭義の当事者(本人)と見做し、二次的に配慮すべきであると考えられた当事者を広義の当事者(関係者)と見做す、という選択が行われていることになる。このように考えるならば、当事者概念の意味内容、あるいは当事者性の要件には、規範的予断が含まれていると言わねばならず、それは記述理論の観点からして欠陥が見出されたということである*10
 他方、当事者たる要件としての本人体験と体験から生じるニーズを<利害関係>と見做すことは可能であるから、当事者概念および当事者性についての議論は、利害関係理論の枠内で説明可能である。特定の問題状況において、「当事者は誰々である」という有意味な限定を為すことは、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべき利害関係者を選択し、彼に当事者という呼称を付するということにほかならない。したがって、当事者概念は、利害関係理論の内部に位置付け直されるべきである。
 もっとも私は、こうした事実を指摘することによって、当事者概念を用いることが無意味であると言いたいわけではない。ただ<利害関係>概念と当事者概念の異同と、それぞれの適性を明らかにしたいだけである。本人体験を要件とする当事者概念は、「体験」が可能な特定の行為、状態、事件、事案などを前提として用いられるため、事物そのものなどに対しても用いることのできる<利害関係>概念よりも汎用性が低い。それゆえ、政治的対立状況や問題状況を包括的に記述するためには、<利害関係>概念の方が適している。
 また、野崎が指摘しているように、個別性・排他性の強調と結び付きやすい当事者概念の使用は、結果として「当事者ではない人たちを寄せつけないような強度」を持って排他的・権威的に機能してしまいがちであり、「当事者の言っていることが「当事者であるだけで」正当性を帯びてしまう」傾向を生みやすい点にも注意が必要である*11。利害関係者という概念は、当事者という強い言葉が意味する範囲から洩れてしまいがちな周辺的関係者を含めた多様な人々を同一平面上で捉えることによって、当事者とされる人々の地位を敢えて相対化するような視座を提示することができる。それは、問題状況を反省的に捉え直す上で大きな寄与を為すことができるだろう。
 ただし、本人体験という中心部を明確に照らし出し、押し出す力強さと、抽象を拒み、固有性を提示することができる点で、当事者概念には大きな強みがある。<利害関係>概念は広範な当事者・関係者を同じ地平で捉えるために、そうした政治的突破力を弱める方向に働いてしまいやすいようにも思える。それゆえ、<利害関係>概念と当事者概念は、領域と場面によって使い分けられればよいのであって、相互排他的であると見做す必要はない*12

参考

*1:中西正司・上野千鶴子『当事者主権』(岩波書店、2003年)3-4頁。

*2:同、序章。貴戸理恵不登校は終わらない』(新曜社、2004年)24頁。

*3:中西・上野前掲書、3頁。

*4:野崎泰伸「当事者性の再検討」(『人間文化学研究集録』第14号、2004年)76-77頁。

*5:貴戸前掲書、21頁。

*6:同、11、15頁。

*7:同、23頁。なお、こうした理由から貴戸は「当事者」ではなく「<当事者>」との表記を一貫して用いているが、煩瑣であり混乱を招きやすいため、本稿では準じていない。

*8:野崎前掲論文、83頁。

*9:同上。なお、本稿ではこれ以上立ち入らないが、野崎の論考において重要かつ尖鋭なのは、そうした代理表象の不可能性を真剣に受け止めつつ、なお代理表象の必要性あるいは不可避性の検討に踏み出そうとする部分である。

*10:もちろん、限定された目的のために、ある事象(例えば不登校現象)全体における特定の体験(例えば生徒としての不登校そのもの)のみを「本人体験」と見做し、その体験を有する者だけを当事者=本人と見做すことにする、という操作的な方法選択が明示されるならば、それは一つの有り得る方法であろう。しかし、多くの場合のように、そうした意味限定が暗黙の内に為され、特に断りも無いまま当事者=本人という言葉で不登校者のみが意味されるということは、不登校現象全体における最も重要な当事者は不登校者であるという判断が疑われていないということだろう。不登校現象以外についても同様である。

*11:野崎前掲論文、77、80-81頁。

*12:むしろ私は、当事者研究と利害関係者研究が相互に交流を深めていくことを希望する。人種、エスニシティ、女性、性的マイノリティ、高齢者、障害者、患者、犯罪被害者、民事訴訟などの問題領域では当事者概念が用いられることが多く、企業経営、労働、消費者、経済、行政、自治、参加型開発、紛争解決、環境などの問題領域では利害関係者概念ないしstakeholder概念が用いられることが多いなど、それぞれの歴史と特徴を生かして相互に成果を参照することが常態となれば、当事者主体の社会設計、利害関係者中心の社会設計は一段と促進されるだろう。