うんこを漏らした話ではない。うんこした話だ。より詳しく言えば、空港でうんこして、飛行機に乗りそびれた話である。
私は単身赴任しているおっさんである。この週末は自宅に戻り、愛する妻子と過ごした。
月曜日から憂鬱な仕事に戻るべく、空港に着いた。勤務地への最終便に間に合う時間ではあった。トランクを預け、搭乗手続きも済ませ、搭乗ゲートへと向かった。
国内便であり、搭乗ゲートには十分前につけばいい。まだ二十分の余裕がある。
ふと、うんこをしたくなった。我慢しようと思えばできなくはない。しかし、機内で激しく便意をもよおす可能性がないとはいえない、そんな感じの腹の具合だ。
私はうんこをしようと決意した。機内の狭いトイレで大きい用事をすませたくないという気持ちがそうさせた。
もちろん、機内でうんこは可能だ。しかし、考えてもみたまえ。乱気流に巻き込まれたらどうするのだ。糞尿まみれになるかもしれない。それならまだいい。頭のうちどころが悪ければ、ズボンを下げ、局部をさらした、糞尿にまみれたおっさんの死体のできあがりである。
ピカソのゲルニカには、両手をあげて死んでいく男が描かれている。私の記憶が正しければ、彼は便所で焼け死んだのだとピカソは説明していたはずだ。便所の火事すなわちヤケクソなどとくだらない冗談を思い起こすまでもなく、本人にとっての悲劇は他人にとっての喜劇でしかない。私は上空一万フィートで喜劇の主人公になりたくはなかった。
搭乗ゲート近くのトイレで、私は個室にこもった。思ったより順調にうんこは出てくる。しかし、うんこの排出はなかなか止まない。スマホの時計を見ると、搭乗ゲート十分前のタイムリミットが迫ってくる。
トイレを飛び出し、ゲートへと向かうところで、航空会社のスタッフに呼び止められた。私の名前を確認している。
お客様、まことに申し訳ありませんが、搭乗ゲートは先ほど締め切りました。
出発まであと七分。ああ、あと三分早ければ、私は飛行機に乗れたのだろうか。
何度かアナウンスでお呼びしたのですが。
残念ながら、そのアナウンスは個室では聞こえなかった。あるいは、私がうんこに集中するあまり、聞き逃したのかもしれない。いずれにせよ、スタッフのせいではない。うんこのせいだ。
翌朝の始発に振り替えてもらい、妻に電話した。彼女の反応は「はあ?」というものだった。当然だ。私はトイレにこもっていた旨を説明した。「下痢したの?」と妻。「うん、まあ」と私は答えた。本当は喜劇の可能性を避けたかっただけなのだが、説明のしようがない。
上司にも電話した。社畜しかいない会社だと、たとえ日曜日でもスムーズに連絡がつく。事情を説明すると、失笑していた。当然だ。私は明朝一番の便で戻り、朝の九時には着座する旨を説明した。上司は、いくらか憐れみを帯びた、しかしどこか朗らかな口調で了承した(それは、カフカ「変身」の最後のパラグラフに似た明るさだった)。
私は今、自宅へと戻るバスの中にいる。この話が悲劇なのか、喜劇なのか、よくわからない。おそらくは、喜劇的色彩をまとっていることだろう。それもどうでもいいことだ。
私が伝えたいのは次の事実だ。搭乗時間二十分前にトイレに行くと、飛行機に乗れなくなることもある、ということだ。もちろん、うんこの出る具合(速度、量など)や機内の個室を忌避する精神的傾向など様々な要素もからんでくるのだが。あなたがこれを教訓とするも、暇つぶしの笑い話とするも、どうぞご自由に。