開校前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/09 07:20 UTC 版)
学制改革により現在の玉城町に相当する地域には、1947年(昭和22年)に各町村に新制中学校が設置された。すなわち、田丸町に田丸町立城山中学校、東外城田村に東外城田村立中学校、有田村に有田村立中学校、下外城田村に下外城田村立下外城田中学校が開校したのである。田丸町は廃止された青年学校を利用して城山中学校の校舎に充てた。 ところが翌1948年(昭和23年)6月1日には「教育非常措置」により田丸町立城山中学校、東外城田村立中学校、有田村立中学校の3校は統合され田丸町外二ヶ村学校組合立城東中学校が開校した。校舎は旧三重県立田丸実業女学校を利用した。下外城田村は翌1949年(昭和24年)に城田村と学校組合を結成し、下外城田村城田村学校組合立城下中学校となる。 1955年(昭和30年)4月、田丸町、東外城田村と有田村の一部が合併し玉城町が発足すると田丸町外二ヶ村学校組合立城東中学校は玉城町立城東中学校に改称した。1956年(昭和31年)には玉城町が下外城田村を編入、1町1中学校の理想が掲げられ、1963年(昭和38年)に玉城町立城東中学校と城下中学校の玉城町内の学区を統合し、玉城町立玉城中学校が開校した。玉城中学校の校舎は田丸城跡に建設されたため、一部では別の場所に建設するよう請願する動きもあった。また旧城下中学校の学区に居住する住民の中には玉城中への統合に反対する者もいたが、大きな騒動には至らず、無事開校した。
※この「開校前史」の解説は、「玉城町立玉城中学校」の解説の一部です。
「開校前史」を含む「玉城町立玉城中学校」の記事については、「玉城町立玉城中学校」の概要を参照ください。
開校前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/20 00:12 UTC 版)
1873年(明治6年)4月、射和学校が開校し、1876年(明治9年)1月には心光寺を校舎として中万学校も開校した。両校は成輝学校として1883年(明治16年)8月に統合した。その後1887年(明治20年)4月に成輝尋常小学校に改称した後、1892年(明治25年)4月に射和第二尋常小学校と神山第一尋常小学校へ分離した。 一方、1873年(明治6年)4月に開校した庄学校、1874年(明治7年)4月に開校した御麻生薗学校、同年11月に開校した阿波曽学校は1883年(明治16年)9月に統合し、揚名学校となった。揚名学校は東教場を庄村に、西教場を御麻生薗村に置いていた。1887年(明治20年)4月に西教場を廃止すると同時に揚名尋常小学校に改称、1892年(明治25年)4月に射和第一尋常小学校に改称した。 また上蛸路学校(1875年〔明治8年〕3月開校)と下蛸路学校(開校時期不詳)は1877年(明治10年)5月に統合し、蛸路学校となった。蛸路学校は1887年(明治20年)4月に蛸路小学簡易授業所へ、1892年(明治25年)8月に神山第二尋常小学校に改称した。
※この「開校前史」の解説は、「松阪市立射和小学校」の解説の一部です。
「開校前史」を含む「松阪市立射和小学校」の記事については、「松阪市立射和小学校」の概要を参照ください。
開校前史(1947-1970)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 05:34 UTC 版)
「宇都宮市立晃陽中学校」の記事における「開校前史(1947-1970)」の解説
富屋中学校は教育基本法制定により、1947年(昭和22年)4月1日に宇都宮市立富屋小学校の校舎を借用して開校した。1949年(昭和24年)に独立した校舎が完成し、翌1950年(昭和25年)には増築された。1963年(昭和38年)には洋式庭園、1965年(昭和40年)には和式庭園が完成し、その取り組みを評価され、1968年(昭和43年)に栃木県学校環境緑化最優秀賞受賞した。1967年(昭和42年)11月制定の校歌は、作詞が草野心平、作曲が小山清茂であった。一方、篠井中学校は1947年(昭和22年)4月1日に篠井村立南中学校として開校した。独立校舎はなく、新校地が決定すると教職員と生徒は放課後に毎日整地作業に精を出したという。 1954年(昭和29年)11月1日、富屋村と篠井村の南部が宇都宮市に編入されたため、富屋中学校と篠井村立南中学校は宇都宮市立となり、篠井村立南中学校は宇都宮市立篠井中学校に改称した。市町村合併により篠井は宇都宮市の北端となり、教員の間では篠井中学校へ赴任することは島流しに等しいと見られ、「2年間勤めれば市内の学校へ戻れる」と噂された。1965年(昭和40年)3月下旬、保護者からの信頼が厚く、次年度の学年部長に内定していた教員が噂通り2年勤めて異動する人事が新聞で公表された。これに憤ったPTAは教育長に教育の機会均等とへき地教育の振興を直訴した。この時、教育長は篠井中学校の生徒数が少なく教育の充実には限界があるため、富屋中学校と統合し、教育委員会が考える適正規模の12学級以上の学校作りを提案した。また中学校の統合は宇都宮市では初の事例となることから、統合する場合は理想的な校舎・施設を整備すると宣言した。 教育長の話を持ち帰ったPTAは当初、中学校の統合に反対の立場であったが、生徒数は減少し、校舎が老朽化し、学校設備は不十分で、臨時免許で3教科を1人で担当する教員がいるなど問題が山積していたため、「教育は待ってくれない」との思いから、統合へと舵を切っていくことになった。こうした諸問題は富屋中学校も同様であり、1968年(昭和43年)4月に市教育委員会から富屋・篠井の市議会議員を通して、正式に統合問題が地域へ提示された。翌1969年(昭和44年)4月には統合中学校の建設地が決定し、6月28日に「篠井・富屋統合中学校建設促進委員会」が発足した。統合へ向けて連日夜遅くまで激論が交わされ、通学路となる日光街道などの勤労奉仕による整備や、バス通学になる生徒への定期券の支給の要望などが行われた。また富屋・篠井の両校の校庭の樹木の移植先を巡り、富屋と篠井の間で陣取り交渉が発生した。富屋中学校の卒業生総数は1,883名であった。
※この「開校前史(1947-1970)」の解説は、「宇都宮市立晃陽中学校」の解説の一部です。
「開校前史(1947-1970)」を含む「宇都宮市立晃陽中学校」の記事については、「宇都宮市立晃陽中学校」の概要を参照ください。
開校前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/21 14:21 UTC 版)
1875年(明治8年)、学制の発布により各村に学校が設置された。すなわち、五知学校・沓掛学校・山田学校・上之郷学校・下之郷学校・飯浜学校・恵利原学校・迫間学校・築地学校・穴川学校・坂崎学校の11校である。これらの学校は多くが村内の寺院に開設され、下之郷学校と恵利原学校は2つの施設を間借りしていた。1883年(明治16年)には学校統合が行われ、磯部学校と修斉学校の2校となった。磯部学校は恵利原村に設置され恵利原村・山田村・上之郷村の児童が本校に通学、五知村・沓掛村・下之郷村・坂崎村の児童は村内に置かれた分教場に通学した。修斉学校は迫間村に設置され迫間村と穴川村の一部の児童が本校に通学、築地村と穴川村の児童は村内に置かれた分校に通学した。1886年(明治19年)、磯部尋常小学校と築地尋常小学校の2校となり、磯部尋常小学校は下之郷と迫間の2分教場、飯浜・坂崎・穴川・三郷の4簡易授業所を有した。 1892年(明治25年)には2校は解体され、6つの尋常小学校となった。すなわち磯部尋常小学校が恵利原尋常小学校に改称、坂崎簡易授業所が坂崎尋常小学校に改称、穴川簡易授業所が穴川尋常小学校に改称、三郷簡易授業所が三郷尋常小学校に改称、下之郷分教場と飯浜簡易授業所が統合して磯部尋常小学校、迫間分教場と築地尋常小学校が統合して修養尋常小学校となったのである。1900年(明治33年)に授業料が廃止され、それまで男子は米2升、女子は米1升分かかったと言われる授業料が不要となった。三郷尋常小学校は1903年(明治36年)に分裂し、五知尋常小学校と伊雑尋常小学校となった。各地区に学校が設置されていたため、教育環境は厳しく、複式教授や二部授業などで急場をしのいだ。 磯部小学校として統合されるまでの各地区の学校の変遷を示すと、以下のようになる。 地区1875 - 18831883 - 18861886 - 18921892 - 19031903 - 1911五知 五知学校 五知分教場 三郷簡易授業所 三郷尋常小学校 五知尋常小学校 沓掛 沓掛学校 沓掛分教場 伊雑尋常小学校 山田 山田学校 磯部学校 上之郷 上之郷学校 磯部尋常小学校 恵利原尋常小学校 下之郷 下之郷学校 下之郷分教場 磯部尋常小学校 飯浜 飯浜学校 下之郷分教場 飯浜簡易授業所 磯部尋常小学校 恵利原 恵利原学校 磯部学校 磯部尋常小学校 恵利原尋常小学校 迫間 迫間学校 修斉学校 迫間分教場 修養尋常小学校 築地 築地学校 築地分校 築地尋常小学校 修養尋常小学校 穴川 穴川学校 穴川分校 穴川簡易授業所 穴川尋常小学校 坂崎 坂崎学校 坂崎分校 坂崎簡易授業所 坂崎尋常小学校
※この「開校前史」の解説は、「志摩市立磯部小学校」の解説の一部です。
「開校前史」を含む「志摩市立磯部小学校」の記事については、「志摩市立磯部小学校」の概要を参照ください。
開校前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/23 17:01 UTC 版)
1947年(昭和22年)4月15日、学制改革により後の一志中学校の学区となる地域には、大井中学校・高岡中学校・川合中学校・波瀬中学校の4つの中学校が開校した。新制中学校発足初年度は1年生のみ義務教育としたため、上級生は少なかった。その後、大井・高岡・川合の3校は統合して三和中学校となり、波瀬中学校は単独校として存続した。
※この「開校前史」の解説は、「津市立一志中学校」の解説の一部です。
「開校前史」を含む「津市立一志中学校」の記事については、「津市立一志中学校」の概要を参照ください。
- 開校前史のページへのリンク