分教場とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 分教場の意味・解説 

ぶん‐きょうじょう〔‐ケウヂヤウ〕【分教場】

読み方:ぶんきょうじょう

辺地など、本校から離れた所に住む児童・生徒のために設けられ小規模教場分校


分校

(分教場 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/25 10:08 UTC 版)

分校(ぶんこう)とは、学校において本校と分離して設けられる教育施設である。かつては、分教場(ぶんきょうじょう)と称されたこともある。

解説

一般的なものとして、高校などで交通機関が不便な地域や離島等通学が困難な遠隔地に設置されるものが多いが、病院内に病弱者を対象とするもの(院内学級)、刑務所で受刑者を対象とするもの(松本少年刑務所内の松本市立旭町中学校桐分校など)、冬季など季節を限定して設置されるもの、児童や生徒の数が多すぎて本校だけでは賄いきれないために設置されるもの等がある。

高校や大学専修学校などで異なる学部課程ごとに設置されるものもあるが、大学では昨今「○○キャンパス」と呼ばれることが多いのに対し、高校や特別支援学校、専修・各種学校では「○○校」「○○校舎」と呼ばれることが多い。幼稚園保育所では「分園(ぶんえん)」ともいう。

分校の規模は原則、小学校では5学級以下[1]中学校では2学級以下[2]と規定されている。

分校の設置者は概ね本校と同じ場合が多いが福岡県立高校の市町立分校[3]のように設置者が異なるケースも見られる。

分校には、分校主任(分校主事)がおかれるが、校長決裁が必要な議決や校長名で発行される文書発行については、本校の校長の決裁が必要なため、実施までに時間を要することがある。

分校であってもクラブ活動は本校から独立して行われており、和歌山県立日高高等学校中津分校第69回選抜高等学校野球大会に出たというような例もあるが、昨今は分校運動部の部員数僅少により、本校と連合チームを組むことも珍しくない。

かつては児童自立支援施設教護院)に入っていた者の学歴は(学園、学院などの入った)施設名となっていたものの、近年は近隣の公立小中学校の分校を施設内に開学させるという動きが見られ、児童自立支援施設出身の者も普通学校で義務教育を受けたように見えるようになっている。

特別支援学校の場合は、分校・分教室・分級・○○校・○○校舎の5形態がある(cf. 秋田県立比内支援学校たかのす校秋田県立ゆり支援学校道川分教室広島県立三原特別支援学校しまなみ分級宮城県立利府支援学校富谷校市川市立須和田の丘支援学校稲越校舎など)。

秋田県では2016年度より、従来の「分校」相当の学校を「○○校」の名称とする形に変更されている。

脚注

  1. ^ 学校教育法施行規則(昭和二十二年文部省令第十一号)第四十二条”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2017年9月13日). 2020年1月8日閲覧。 “2017年9月13日施行分”
  2. ^ 学校教育法施行規則(昭和二十二年文部省令第十一号)第七十九条”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2017年9月13日). 2020年1月8日閲覧。 “2017年9月13日施行分”
  3. ^ 福岡県立鞍手高等学校鞍手町立豊翔館(2022年廃校)、福岡県立嘉穂総合高等学校嘉麻市立大隈城山校福岡県立築上西高等学校築上町立上城井分校(2010年廃校)、福岡県立朝倉高等学校夜須町立夜須分校(1985年廃校)

関連項目


分教場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 19:28 UTC 版)

宇都宮市立上河内東小学校」の記事における「分教場」の解説

南分教場 出典 1880年明治11年2月 - 下小倉有隣芦沼分舎として設立大字芦沼1292番地校舎新築CITEREF上河内村1986 1884年明治15年3月 - 河内郡第6番学区芦沼学校校名変更 1885年明治18年6月 - 河内郡第11番学区芦沼分校校名変更 1887年明治20年6月 - 河内郡第11番学区第一芦沼分教室校名変更 1889年明治22年10月 - 下小倉尋常小学校第一芦沼分教室校名変更 1892年明治25年7月 - 絹島尋常高等小学校南校に校名変更 1909年明治42年9月 - 絹島尋常高等小学校南分教場校名変更80人近児童4年生までの複式学級としていた 1934年昭和9年9月 - 西分教場統合した校名引き続き南分教場とされた。旧分教場の中間地点となる芦沼2660の1に校舎新築し移転2年生までの分教場となった1947年昭和22年4月 - 絹島小学校南分校校名変更 1955年昭和30年4月 - 上河内村小倉小学校芦沼分校校名変更 西分教場 出典 芦沼村西組は1872年明治5年)の学制施行により白沢宿修身舎の学区とされ、片道6kmの白沢宿まで通学していたが、遠路による障害多く学区住民分室設置1880年明治13年)に請願した結果請願認められ学区変更され下小倉有隣舎の分舎として容認された。 1883年明治16年4月 - 大字芦沼峰下3539校舎新築開校 1885年明治18年6月 - 河内郡第11番第二芦沼分校校名変更 1887年明治20年6月 - 河内郡第11番第二芦沼分教室校名変更 1889年明治22年10月 - 下小倉尋常小学校第二分教室校名変更 1934年昭和9年9月 - 南分教場統合され西分教場廃校となった北分教場 1902年明治35年9月28日暴風雨のため校舎全壊し清水寺延寿寺校舎として再利用していたが、2年後新校舎完成後も上小倉結社児童のうち1,2年生は延寿寺での教育継続していた。 1910年明治43年5月 - 分教場の必要が生じ学区一部変更の上大字上小倉中里536に校舎新築北分教場開設 1947年昭和22年4月 - 絹島小学校北分校に校名変更 1955年昭和30年4月 - 上河内村小倉小学校北分校に校名変更老朽化した校舎改築

※この「分教場」の解説は、「宇都宮市立上河内東小学校」の解説の一部です。
「分教場」を含む「宇都宮市立上河内東小学校」の記事については、「宇都宮市立上河内東小学校」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「分教場」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

','','','','','','','','','','','','','','','','','',''];function getDictCodeItems(a){return dictCodeList[a]};

すべての辞書の索引

「分教場」の関連用語


2
分校 デジタル大辞泉
56% |||||









分教場のお隣キーワード
検索ランキング
';function getSideRankTable(){return sideRankTable};

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



分教場のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの分校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの宇都宮市立上河内東小学校 (改訂履歴)、熊谷陸軍飛行学校 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS