分校
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分校(ぶんこう)とは、学校において本校と分離して設けられる教育施設である。かつては、分教場(ぶんきょうじょう)と称されたこともある。
解説
一般的なものとして、小・中・高校などで交通機関が不便な地域や離島等通学が困難な遠隔地に設置されるものが多いが、病院内に病弱者を対象とするもの(院内学級)、刑務所で受刑者を対象とするもの(松本少年刑務所内の松本市立旭町中学校桐分校など)、冬季など季節を限定して設置されるもの、児童や生徒の数が多すぎて本校だけでは賄いきれないために設置されるもの等がある。
高校や大学・専修学校などで異なる学部や課程ごとに設置されるものもあるが、大学では昨今「○○キャンパス」と呼ばれることが多いのに対し、高校や特別支援学校、専修・各種学校では「○○校」「○○校舎」と呼ばれることが多い。幼稚園や保育所では「分園(ぶんえん)」ともいう。
分校の規模は原則、小学校では5学級以下[1]、中学校では2学級以下[2]と規定されている。
分校の設置者は概ね本校と同じ場合が多いが福岡県立高校の市町立分校[3]のように設置者が異なるケースも見られる。
分校には、分校主任(分校主事)がおかれるが、校長決裁が必要な議決や校長名で発行される文書発行については、本校の校長の決裁が必要なため、実施までに時間を要することがある。
分校であってもクラブ活動は本校から独立して行われており、和歌山県立日高高等学校中津分校が第69回選抜高等学校野球大会に出たというような例もあるが、昨今は分校運動部の部員数僅少により、本校と連合チームを組むことも珍しくない。
かつては児童自立支援施設(教護院)に入っていた者の学歴は(学園、学院などの入った)施設名となっていたものの、近年は近隣の公立小中学校の分校を施設内に開学させるという動きが見られ、児童自立支援施設出身の者も普通学校で義務教育を受けたように見えるようになっている。
特別支援学校の場合は、分校・分教室・分級・○○校・○○校舎の5形態がある(cf. 秋田県立比内支援学校たかのす校、秋田県立ゆり支援学校道川分教室、広島県立三原特別支援学校しまなみ分級、宮城県立利府支援学校富谷校、市川市立須和田の丘支援学校稲越校舎など)。
秋田県では2016年度より、従来の「分校」相当の学校を「○○校」の名称とする形に変更されている。
脚注
- ^ “学校教育法施行規則(昭和二十二年文部省令第十一号)第四十二条”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2017年9月13日). 2020年1月8日閲覧。 “2017年9月13日施行分”
- ^ “学校教育法施行規則(昭和二十二年文部省令第十一号)第七十九条”. e-Gov法令検索. 総務省行政管理局 (2017年9月13日). 2020年1月8日閲覧。 “2017年9月13日施行分”
- ^ 福岡県立鞍手高等学校の鞍手町立豊翔館(2022年廃校)、福岡県立嘉穂総合高等学校の嘉麻市立大隈城山校、福岡県立築上西高等学校の築上町立上城井分校(2010年廃校)、福岡県立朝倉高等学校の夜須町立夜須分校(1985年廃校)
関連項目
分教場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 19:28 UTC 版)
「宇都宮市立上河内東小学校」の記事における「分教場」の解説
南分教場 出典 1880年(明治11年)2月 - 下小倉有隣舎芦沼分舎として設立、大字芦沼1292番地に校舎新築CITEREF上河内村1986 1884年(明治15年)3月 - 河内郡第6番学区芦沼学校に校名変更 1885年(明治18年)6月 - 河内郡第11番学区芦沼分校と校名変更 1887年(明治20年)6月 - 河内郡第11番学区第一芦沼分教室に校名変更 1889年(明治22年)10月 - 下小倉尋常小学校第一芦沼分教室に校名変更 1892年(明治25年)7月 - 絹島尋常高等小学校南校に校名変更 1909年(明治42年)9月 - 絹島尋常高等小学校南分教場と校名変更。80人近い児童を4年生までの複式学級としていた 1934年(昭和9年)9月 - 西分教場を統合したが校名は引き続き南分教場とされた。旧分教場の中間地点となる芦沼2660の1に校舎を新築し移転。2年生までの分教場となった。 1947年(昭和22年)4月 - 絹島小学校南分校に校名変更 1955年(昭和30年)4月 - 上河内村立小倉小学校芦沼分校に校名変更 西分教場 出典 芦沼村西組は1872年(明治5年)の学制施行により白沢宿の修身舎の学区とされ、片道6kmの白沢宿まで通学していたが、遠路による障害も多く、学区住民は分室設置を1880年(明治13年)に請願した結果、請願が認められ学区も変更され下小倉有隣舎の分舎として容認された。 1883年(明治16年)4月 - 大字芦沼峰下3539に校舎新築し開校 1885年(明治18年)6月 - 河内郡第11番区第二芦沼分校と校名変更 1887年(明治20年)6月 - 河内郡第11番区第二芦沼分教室と校名変更 1889年(明治22年)10月 - 下小倉尋常小学校第二分教室と校名変更 1934年(昭和9年)9月 - 南分教場に統合され西分教場は廃校となった。 北分教場 1902年(明治35年)9月28日の暴風雨のため校舎が全壊し、清水寺と延寿寺を校舎として再利用していたが、2年後の新校舎完成後も上小倉結社の児童のうち1,2年生は延寿寺での教育を継続していた。 1910年(明治43年)5月 - 分教場の必要が生じ、学区を一部変更の上、大字上小倉中里536に校舎新築し北分教場開設 1947年(昭和22年)4月 - 絹島小学校北分校に校名変更 1955年(昭和30年)4月 - 上河内村立小倉小学校北分校に校名変更、老朽化した校舎を改築
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