漳州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 08:32 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動漳州(しょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。唐代から元初にかけて、現在の福建省漳州市一帯に設置された。
概要
686年(垂拱2年)、唐により漳州が置かれた。742年(天宝元年)、漳州は漳浦郡と改称された。758年(乾元元年)、漳浦郡は漳州の称にもどされた。漳州は江南東道に属し、漳浦・龍渓の2県を管轄した[1]。
宋のとき、漳州は福建路に属し、龍渓・漳浦・龍巌・長泰の4県を管轄した[2]。
1279年(至元16年)、元により漳州は漳州路総管府と改められた。漳州路は江浙等処行中書省に属し、録事司と龍渓・漳浦・龍巌・長泰・南靖の5県を管轄した[3]。
1368年(洪武元年)、漳州路は漳州府と改められた。明の漳州府は福建省に属し、龍渓・海澄・漳浦・龍巌・長泰・南靖・漳平・平和・詔安・寧洋の10県を管轄した[4]。
清の漳州府は福建省に属し、龍渓・海澄・漳浦・長泰・南靖・平和・詔安の7県と雲霄庁を管轄した[5]。
脚注
漳州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 16:56 UTC 版)
漳州布袋劇は泉州のものと類似しており、その起源を同じくしている。しかし後場音楽に関しては泉州と異なり、鑼鼓、嗩吶等の北管音楽を使用しているのがその特徴である。その楽器の特性から文戯より武戯が発展した。このほか漳州の雲霄、詔安、東山、平和諸県では近隣の潮州楽曲の影響を受けており、その地方の布袋劇を特に「潮州布袋劇」と称している。 20世紀初頭、漳州地方士紳藍汝漢は上海より京劇団を招きこの地に広めた。同時期に漳州芸人の楊勝将が京劇唱腔と演出を布袋劇に取り込み新しい様式を確立した。1900年から1930年にかけれ漳州北派布袋劇と台湾と泉州で流行した南派布袋劇、或いは泉州梨園布袋劇がそれぞれ競い合い融合していった。そしてこの北派布袋劇は後に台湾に入り、李天禄の外江布袋劇へと発展していく。 1932年、台湾で発達した歌仔劇が漳州に伝わるとその影響を受け、元来京劇の影響を強く受けていた漳州歌仔劇に台湾歌仔劇の音楽と華麗な衣装が融合され薌劇と称された。漳州布袋劇はこの薌劇の模倣を行い、一部の劇団は歌仔調の歌を取り入れた布袋劇を編み出した。その後様々な改良が加えられ1950年代には激しくユーモア溢れる武打を特徴とする漳州布袋劇の風格が確立され、『方針演義』や『西遊記』を題材とした内容が盛んとなった。 中国共産党が政権を取ると、国家による布袋劇の保護が行われるようになる。そして1959年3月、漳州龍渓に「龍渓専区木偶劇団」が結成され、民間芸能の布袋劇が専門家による芸術として扱われるようになった。また1960年にルーマニアで開催された「第2回国際操り人形祭」で漳州布袋劇による『大名府』、『雷万春打虎』が上演され金賞を受賞している。しかし文化大革命が始まると伝統芸能は否定され、10年にわたる停滞期を迎えることとなった。 文革が終結し、改革開放が開始された1980年代、中国政府は再び布袋劇の保護に乗り出し漳州木偶芸術学校を創設している。「漳州木偶劇団」は再び活動を開始しし、中国国家一級演員荘陳華と新世代の洪恵君、呉光亮等の努力により児童劇『森林的故事』などが上演されるようになった。
※この「漳州」の解説は、「布袋劇」の解説の一部です。
「漳州」を含む「布袋劇」の記事については、「布袋劇」の概要を参照ください。
- >> 「漳州」を含む用語の索引
- 漳州のページへのリンク