想定外あるいは規定されていない場合は

20220620at83S_p.jpg 同性婚が認められないことが不当だという訴えがあちこちで起こされている。
原告側は、婚姻の自由や法の下の平等を定めた憲法に違反するという主張をしているようだが、被告の国は、憲法で想定されていないと反論している。

この訴訟で、最初(2021年3月)に判決を出したのは札幌地方裁判所、「合理的な根拠を欠いた差別的な取り扱いだ」として法の下の平等を定めた憲法に違反するとした。
続いて先日(6月20日)、大阪地方裁判所は、憲法が定める婚姻は異性婚のみが想定されているもので、合憲と、逆の判決を出した。

同性婚についての判断は措くとして、原告側・被告側の論拠である、憲法に直接規定がないということについて考えてみた。
国の論拠は、憲法制定当時には、同性婚というのはまったく想定されていなかったということで、婚姻制度にもそれは規定されていないということになる。
私はこの主張にも一理あると思う。それは憲法に限らず、どんな文献を読むときでも、それは書かれた当時の状況を反映しているはずだから、その範囲で解釈するのがスジだと思うからだ。
一方、原告側は、想定されていないことをもって、否定されることは不当だという主張なのだと思う。

状況を簡単にするために、数学の言葉で言うなら、ある写像に対し、その写像の定義域外の変数を持ってきたら、その写像の値はどうなるのか、どうすべきかという、写像の拡張の議論になっている。
こうした写像の拡張は、元の定義域での写像は従来どおりであって、かつ拡張された定義域での写像が従来の写像の挙動と矛盾しないことが要請される。

たとえば、an回かける、つまり a×a×…×a という写像を、整数だけでなく実数全体に拡張した指数関数 ar を思い浮かべればイメージできるだろう。


もともと想定されていないから憲法を直接的な論拠にすることは論理的には成り立たない。社会情勢が変化したときに、想定外だったことに対して、どう拡張するのが良いのかという問題なのだと思う。
それを放置した場合、政府あるいは立法府に不作為責任を問うことはできると思うが、前述の2つの裁判ではそこでも判断が分かれたようだ。
札幌地裁は同性婚を認め保護すべきと判断し、他の憲法規定との整合性を問うたのだと思う。一方、大阪地裁は同性婚を保護する必要はないという立場―つまり拡張不要と考えているのだろう。

douseikon-mainichijp.jpg 同性婚問題で注意したいのは、同性愛と同性婚を混同しないこと。
同性愛なら歴史的にはたくさんの例がある。藤原頼長は有名だし、戦国武将の多くが男色を好んだことも周知の事実。同性愛はそれこそ好き嫌いの問題である。

ポルノの古典「ファーニィヒル」では、レスビアンは主人公の成長に寄与する肯定的な行為だが、男色は神の摂理に反する行為として忌み嫌われている。

しかし婚姻となるとそうではない。歴史上、男色関係が婚姻と認められていたとは思えない。頼長が保元の乱で敗れたとき、男色の相手という理由で(つまり配偶者として)連座した男がいたというような話は聞かない。もっとも、これらの男色の例は国によってその関係を保護する必要もない力のある人ばかりだけど。

それに比べたら、日本で禁止されている重婚の方が理解を得やすいといったら叱られるかな。なにせ、妻を4人まで持てる宗教では、妻たちは全く平等に扱われなければならないと厳しく規定されているのだから、重婚は保護されていると言ってよいのではないだろうか。


婚姻という難しい問題は措いて、法解釈について、法律の専門家に教えてもらいたい。
制定時と社会情勢が変わって、同じ文言でも意味が変わった場合、制定時の状況にもとづいて条文を解釈するのが正しいのか、それとも、制定時の事情は考慮せず文言だけで(同じ文言でも新しい意味を与えて)解釈するのが正しいのか。

私は、後者はやっぱりインチキ臭く感じる。ましてや解釈改憲は政府が得意とするところだが、どうしてそんなことが正当化されるのか不思議でならない。憲法解釈は裁判所が行うべきだと思う。憲法改正を議論する場合、あらゆる論点は措いて、まず憲法裁判所を実現するべきだろう。

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