「古代中国の24時間」

柿沼陽平「古代中国の24時間―秦漢時代の衣食住から性愛まで」について。

6148y8HEsNL.jpg 古今東西、人間の暮らしというのは、そうそう違うものでもないらしい。というか、自他の社会を比較したとき、それぞれの社会構造で、似たようなグループを対応させると、やっぱり同じような暮らしぶりみたいだなと思うことが多い。

と言ってみたものの、実はそう思うのは、自分が属するグループに対する共感というのが先にあってそう思うので、それぞれの暮らしを構成するいわゆる文化要素を直接比べると、随分違っているのに、知らず知らずに「見立て」が作用しているわけだ。

米国のTVアニメに"The Flintstones"というのがあるが、恐竜に乗ろうが、石のお金を使おうが、現代と変わらぬ構造が、異なる文化要素で実現されている。


で、この本は、そういう文化要素の違いと、見立ての心理を認識させてくれるものだと思う。"The Flintstones"はそういう心理の下に作られた虚構の世界だけれど、こちら「古代中国の24時間」は事実である。

このような歴史学の分野、すなわち英雄や事件の歴史ではなく、こういう何気ない日常生活をとりあげるのは「日常史」というそうだ。
プロローグ―冒険の書を開く
ある朝の権力者/未来からきた男/日常史への道/使えるものはすべて使う
序 章 古代中国を歩くまえに
姓氏と名を決める/君の字は/字をよぶにも注意が必要/失礼のないよび方/地図を眺める―郡県郷里の構造/郡城と県城/方言の問題
第1章 夜明けの風景
    ―午前四~五時頃
曙光に照らされる版図/さまざまな森林のひろがり/東西の時差/古代人の季節感覚/時間をつかさどる/時刻の名前/夜明けまえのひととき/明け方のサウンドスケープ/路地裏の酔っ払い
第2章 口をすすぎ、髪をととのえる
    ――午前六時頃
起床/朝からせわしい郵便/早起き寝坊/井戸と河川/古代人も歯は命―口内衛生と虫歯/切実な口臭問題/髪型とハゲ/祭冠をかぶるとき
第3章 身支度をととのえる
    ――午前七時頃
庶民の服装/フンドシ囚人服・老人の杖/祭服と朝服/女性の容貌と身体/女性の匂いと髪型/化粧をする女性/アクセサリもつけ、カガミでチェック
第4章 朝食をとる
    ――午前八時頃
食事の回数/だれが料理をつくるのか/主食の準備/キッチン/庶民のオカズ/上流階級のオカズ/食器の種類と使い方/座り方と席次の作法/食べすぎに注意/室内ではクツを脱いでいたか/クツをはいて外に出よう
第5章 ムラや都市を歩く
    ――午前九時頃
四合院のかたち/建物のヴァリエーション/ニワトリ・イヌ・ネコとふれあう/道の名前とゴミのゆくえ/社を中心とするムラの配置/ムラを歩く/橋をわたる―ハンセン病患者・戦争孤児・鬼/高級住宅街/負郭窮巷
第6章 役所にゆく
    ――午前十時頃
道ゆく男性と馬車・牛車/イケメンかどうか/役所に入る/そびえる城壁/顔面偏差値の高い官吏たち/キャリアとノンキャリア/昇進ルート/エリートの矜持と労苦
第7章 市場で買い物を楽しむ
    ――午前十一時頃から正午すぎまで
市場の喧騒/人混みをかきわけて/多彩な商店/使い分けられる貨幣たち/取引のテクニック/市場の階層性/郡市や県市
第8章 農作業の風景
    ――午後一時頃
農民たちの姿/華北農業のつらさ/南中国の水田と焼畑/平均の収穫高/家計を支えるもう一本の柱①―絹織物業と桑栽培/家計を支えるもう一本の柱②―麻織物業/山での暮らし/牧畜から猿回しまで
第9章 恋愛、結婚、そして子育て
    ――午後二時頃から四時頃まで
昼寝の時間/ナンパではじまる恋心/恋のかたちもさまざま/婚礼への道/占いの館/婚礼の手順/妊娠/出産/子育て/子どもの世界
第10章 宴会で酔っ払う
    ――午後四時頃
いつからどこで酒を飲むか/大きな宴会と余興/お酒の種類/酒席のマナー/終わり果てぬ宴会/二日酔い/トイレはどこだ/用を足すだけでなく
第11章 歓楽街の悲喜こもごも
    ――午後五時頃
夕方の歓楽街/芸妓のファッション/退勤後の官吏の行き先/芸妓をめぐる争い/男女の性愛/自慰と性具/さまざまな性愛のかたち
第12章 身近な人びとのつながりとイザコザ
    ――午後六時頃
一家だんらんの光景/ムラのなかのもめごと/嫁姑問題は昔から/壊れゆく夫婦関係/不孝と離婚のはざまで/再婚への道
第13章 寝る準備
    ―——午後七時頃
明かりのもとで残業する女性たち/おもいびとへ手紙をしたためる/フロに入って寝る準備/夜空のもとで/夢の世界へ
エピローグ―一日二四時間史への道
秦漢時代の日常生活とは/すべての道は興味からはじまる/資料の史料化/歴史を動かす
 このように、人びとの暮らしに焦点をあてる歴史学は、ふつう「日常史」とよばれる。本書では古代中国、とりわけ秦漢時代の日常史の大まかなありように焦点をあてる。そのさいに適宜、前後の時代 (戦国時代と三国時代。 紀元前四世紀中頃~紀元後三世紀中頃)の史料も射程に入れる。というのも、戦国時代から三国時代にいたる人びとの日常生活には、じつはあまり大きな変化がなく、一緒くたに論じる事象が多いからである。また春秋時代や南北朝時代の史料も、もし両者の内容が同じであれば、そのあいだにはさまれる秦漢時代の日常を知るよすがとみなしうる。本書はこれらの史料を駆使して日常史に迫るものである。かりに読者の皆さんが古代中国の世界にタイムスリップし、ロールプレイングゲームのようにその時代を生きていかねばならないことになったら、皆さんは古代中国の一日二四時間をぶじに過ごせるであろうか。本書はそのガイドブックとなる。

こうした日常史を明らかにする方法だが、いわゆる史料や考古遺物はもちろんだが、普通は史料とならないような説話や小説などの文学も資料となる。
 その一方で、伝世文献もけっして軽視はしなかった。むしろ生活史に目を向ける研究者が昨今とりわけ簡牘史料に注視しているのとは異なり、数年間をかけてみっちりと広範囲にわたって伝世文献を読みとくことで、そのなかにちらばる日常史関連の史料をあつめていった。
 そのさいには史書や思想書だけでなく、いわゆる小説類の利用もいとわなかった。中国には古来、オバケや妖怪などにかんする説話が多く残され、おもに漢代以後に志怪小説とよばれる文学カテゴリを形づくってゆく。それはフィクション性がきわめて強いため、近現代歴史学では史料として軽視されやすい。だが、「昔あるところに老夫婦がおり、おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯にいった」とあれば、その老夫婦が実在したか否かはともかく、昔話が生まれたころに山で芝刈りし、川で洗濯する者はいてよい。さもなくば、昔話は前提から崩壊し、その読者や聴衆は内容に入ることさえできまい。その意味で、説話は日常史研究にも活用しうるのである。まことにアナール学派の歴史家が指摘するように、歴史学にとっては問題意識こそが重要なのであって、そのためには使えるものをすべて使うべきなのである。

言われるまでもないことだと思う。公文書にパンツを履いてこいなどと書いてあるわけがない。ただ思うに、昔のことを今語る場合には、今の常識のようなもので過去を改変してしまって語ることがあるのではないだろうか。引用部分の例でいえば、おじいさんが山へ芝刈りにいったとしても、それがいつの時代かは語られておらず、現代の童話本にそう書いてあっても、現代では芝刈りにいく人は普通ではないだろう。
当時の風俗が垣間見られる文学だからといって、やはり無批判に、それが書かれた時代の風俗と信じるわけにはゆかない。そのあたり多くの史料を読み込んでいる著者のような人の眼力にすがるしかない。

説話に書いてあるといって、昔は妖怪が実際にいたと信じるわけにはゆかないだろう。


本書から、テレビドラマなどでは見た憶えがない話を一つ紹介しておこう。
室内ではクツを脱いでいたか
 室内をみわたしてみよう。現代日本ではクツを脱いで和室に入るのが一般的であるが、欧米や中国では室内でもクツを脱がないことが多い。では、古代中国はどちらか。
 戦国時代に、ある人が列子の家を訪ねると、来客のクツが戸外に満ちていたので、北を向いたまましばらく考え、帰ろうとした。来客のひとりがそれを列子に告げると、列子はクツを手にもち、はだしで飛びだし、門のそばでかれに追いついたという。これによれば、 列子の家は南側に門があり、中庭をとおって北側に屋敷があった。そして来客はその手前でクツを脱ぎ、室内でははだしであったようである。
 また戦国時代に老子が旅籠に泊ったとき、訪問客の楊朱や陽子居はクツを戸外で脱ぎ、戸内で膝行して老子に近づき、教えを請うた。このように自宅でも旅籠でも、戸ではクツを脱ぐのが一般的であった。夜の孤独に苛まれて寝つけぬ女性が「履を躡み起ちて戸を出づ」、「衣を攬りて長帯を曳き、屣履して高堂を下る」との詩歌もあり、みなクツをはいて外出している。さらに秦の公子胡亥は兄弟らと始皇帝に謁見し、食事を賜って退出するさい、階段 下にならぶクツをみて、とくにりっぱなクツを踏みにじったと伝わる。それが史実かどうかはともかく、宮殿内にもクツを脱ぐべきところと、そうでないところがあったようである。

古代中国を舞台にしたドラマや映画では、靴を脱ぐシーンというのは記憶にない。そのことを注意して見ていなかったからかもしれないが、思い返そうとしても、靴を脱いだり履いたりするシーンが思い当たらない。

韓国ドラマだと、王妃とかの部屋へ行く場面では、靴を脱いであがり、王妃の前で跪くシーンはいくらもある。そもそも挨拶を受ける王妃は座布団のようなもののうえに座っている。


映画やドラマがどの程度の時代考証をして、当時の風俗を再現しているのかわからないから、そういうところをチェックしてもしかたないのかもしれないが、視覚化されていると知らず知らず、そういうものだと思わされることになる。
中国のことはわからないが、たとえば奈良時代のドラマでお茶を飲むシーンがあったとき、それをそのまま受け止めるか、おかしいと引っかかるか、ということだけど。

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