「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」

617fDoG_YAL.jpg 藤井達夫「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」について。

ロシアのウクライナ侵攻で、専制ロシアと欧米民主主義国の対立という言い方がされる。たしかにそういう構図であることは否定できないと思うけれど、ちょっと気になることもある。
そういう言説では、民主主義に絶対的な価値を置いているように思えるのだが、敢えて問いたい、民主主義が絶対的な政体であると言い切る根拠は何か。

チャーチルが言った「民主主義は最悪の政治である、これまで試みられてきた他のすべての政治体制を除いて」とあるように、民主主義だから良いということにはならない。そもそも民主主義が実現されているというのはどういう状態を指すのだろうか。

本書も民主主義に価値を置きながら、それが代表制という形で実施されると失敗がつきまとうという論調になっていると思うが、スタート点は西欧の民主主義が生まれてきた必然性に置いている。
単純に言えば、それは専制を注意深く排除する制度ということのようだ。そしてそれが実現されていない状態なら、いくら「民主的手続き」が行われていても、民主政治はその意義を失い形骸化したものでしかなくなる。

本書のタイトル「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」は、現在は民主政治が形骸化した時代であると著者は考えているということだ。

まず基本的なことだが、代表制民主主義というのは、人口が大きなグループの場合、代表制をとらなければ政治を行うことは極めて困難である。そして、
 ①民主主義を実行するには代表制が必要
 ②代表制が機能していないならば民主主義は行われていない
この2つは論理的には対偶関係、つまり同値なのである。

はじめに
 
第一章 民主主義諸国における社会の私物化
一 私物化から支配へ
  ―自由はどのように失われるのか
ルソーの『人間不平等起原論』/自由共有のもの・私物化/二つの共有のもの
二 新自由主義と社会の私物化
共有のものとしての《社会》/新自由主義による社会の解体/私物化による自由の喪失と社会の分断
 
第二章 民主主義諸国における政治の私物化とその先
一 政治権力をどうコントロールするのか
  ―共和主義と自由主義、そして民主主義
代表者による政治の私物化―アメリカの場合/代表者による政治の私物化―日本の場合
二  新自由主義が政治の私物化を加速させる
新自由主義と政治の決断主義化
三 私物化の時代の民主主義はどこへ向かうのか
中国の誘惑/政治的メリトクラシーとしての中国モデル/中国モデルのインパクト
 
第三章 民主主義とは何か―古代と近代
一 始原にさかのぼる
  ―権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義(1)
古代アテナイにおける民主主義の誕生と発展/古代の民主主義を実現するための制度/古代の民主主義における共有のものと自由
二 近代に復活した民主主義
  ―権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義(2)
『社会契約論』と共有のもの/全面的譲渡と一般意志/自由・共有のもの・私物化
 
第四章 代表制度とは何か
一 民主主義と代表制度との理論上の接合
多元主義と代表制度/人民主権と代表制度
二 代表制度を民主化する
正統性と選挙/代表制民主主義と選挙/代表制民主主義と政党
三 民主的な代表制度の変容
名望家政党とエリート主義/大衆政党と代表制度の黄金期/政党の黄昏と代表制度の行き詰まり/代表制度の変容の帰結
 
第五章 行き詰まる代表制度とポピュリズム
一 民主的な代表制度の黄金期の諸条件とその消失
戦後和解体制と福祉国家という条件/工業化社会という背景/日本の事例/ポスト工業化社会への移行と代表制度の黄金期の終焉
二 代表制度の行き詰まりと現代のポピュリズム
代表制度とポピュリズム/ポピュリズム化する民主主義のリスク/ポピュリズムか中国モデルか、それとも……
 
第六章 代表制度の改革
一 代表制度改革の方向性
どのようにして権力の私物化を禁じ、専制政治に対抗するのか/どのようにして共有のものを取り戻すのか/なぜ、エンパワーメントが必要になるのか
二 具体的なイノベーションを評価する
(1)熟議世論調査/(2)市民集会/(3)参加型予算/まとめ
 
おわりに
では失敗とは何を指しているのか。
前述のように専制を排除できているどうかがその尺度となる。専制とは残虐な王様がやりたい放題やるイメージだが、それよりも緩やかな状態、つまり一部の人やグループによって政治が私物化されている状態であるも含むとする。
そして今の日本も米国も、欧州諸国も、そういう事態に陥っている。これらの国に共通するのは、新自由主義が優越的なポリシーとなり、国民の間に分断が進んだことに一因があると分析する。

こうして民主主義が死に絶えた後は、今でも多くの人が考えているように、哲人政治こそ理想の政治であると、民主主義が登場する以前の状態への回帰が起こる。専制を排除するために編み出された民主主義が、その役割を果たせなくなった以上、哲人政治やメリトクラシーに期待する人が増えるというわけだ。

実は私も哲人政治に期待していた一人である。それは国会で熟議が行われているとは思えない、とりわけ国家安全保障とか重要な問題であればあるほど熟議ではなく、数の力で押し切る姿を何度も見てきたからである。
国民世論も付和雷同型だとしか思えない。本書ではポピュリズムもとりあげているが、そういう国民に熟議を求めて納得できる政治を語れるとは思えない。

本書では、西欧の民主政治がいきづまっているのに対し、メリトクラシーのモデルと考えられる中国の躍進を対比する。中国人民には自由がないと批判しても、民主体制の国々でも「自由は二の次」という状況が現実なのだ。
 前章および本章では、私物化という観点から民主主義諸国の現状を見てきた。それによれば、新自由主義による社会の私物化をとおして、自由は能力主義化され、もはやその享受は特権となっている。その結果、競争に打ち勝ち、人生における選択の自由を満喫する勝ち組と、不安定な労働のために社会生活を営むための必要不可欠な財さえ選び取ることができない負け組との分断が引き起こされた。こうした状況では、特に負け組と呼ばれる人びとにとって、努力しても得られない自由の重要性や優先順位が低下したとしても何ら不思議ではない。そもそも手に入らないのだから、「自由は二の次」というわけだ。とすれば、中国という新たなオルタナティブを拒絶するハードルはおのずと下がることになる。
 また、現代の民主主義諸国では、政治の私物化も留まることを知らない。新自由主義は社会の私物化をとおして、貧困をはじめとする数々の社会問題を深刻化させた。福祉国家の時代の民主的な政府であれば、こうした社会問題に取り組み、人びとの生活の安全を維持した上で、自由を確保することを求められてきた。ところが、いまの民主主義諸国では、政治の私物化をとおしてそうした任務の一部は無責任にも放棄され始めている。その結果、社会の分断は拡大し続け、人びとの生活は破壊されたままだ。政治の私物化が引き起こした政治の機能不全と責任放棄から、人びとの間には民主的な政府への不信や幻滅が非常な勢いで渦巻いている。アメリカやヨーロッパ諸国で台頭するポピュリズムがその証左だ。そうした不信や幻滅から、中国が民主主義に代わる希望のオルタナティブに見えることは十分ありうる。

実現されていない民主政治と、現実的に国民を養い、安定した生活をできるようにするメリトクラシー国家、どちらが国民にとって幸せなのだろう。
その問いかけで一旦筆を止める。

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