「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」(その3)

617fDoG_YAL.jpg 藤井達夫「代表制民主主義はなぜ失敗したのか」の3回目。

本書は、信頼を取り戻し国民が参加できる政治の実現を提案するのだが、その前に、かつては政治がまだ信頼されていた時代があったことも一瞥している。

それは大衆政党の時代であると著者は言う。
 大衆政党の誕生には、選挙権の拡大、より正確には、資産を持たない労働者への選挙権の拡大が必要であった。 そもそも大衆政党は、人口において圧倒的な多数を占める労働者の政党を意味し、そこから、厳格に組織化された新たなタイプの政党が発展していった。大衆政党の組織上の特色は、党費を支払い、持続的に支援する党員によって財政的に支えられ、政党を運営する専従の職員と政治家を職業とする人びとから構成される点にある。したがって、政党はもはや地元の名望家の集まりではなく、党が掲げるイデオロギーと綱領の下に集い、党の規律に厳格に従う専門家集団という形態をとり始める。
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 こうした大衆政党の時代こそ、代表制度が民主主義の制度として黄金期を迎えた時代であった。私たちがいまだに思い描く、社会における多数派の意見を反映する選挙、自己の利害が何であるかを知り、それに従って合理的に投票する有権者、社会を構成する諸階層を代表する政党といった代表制度のイメージ。それがこの時代のものというのは確かに正しい(待鳥二〇一八)。ただ、重要なことは、大衆政党の時代は、社会の変化とともに過ぎ去ったということだ。すなわち、このようなイメージに基づいた代表制度の理解は過去のものであり、そうした理解から現代の民主主義諸国の政治を見ることは、時代錯誤であるばかりか、誤謬の源になることを指摘しておこう。

はじめに
 
第一章 民主主義諸国における社会の私物化
一 私物化から支配へ
  ―自由はどのように失われるのか
ルソーの『人間不平等起原論』/自由共有のもの・私物化/二つの共有のもの
二 新自由主義と社会の私物化
共有のものとしての《社会》/新自由主義による社会の解体/私物化による自由の喪失と社会の分断
 
第二章 民主主義諸国における政治の私物化とその先
一 政治権力をどうコントロールするのか
  ―共和主義と自由主義、そして民主主義
代表者による政治の私物化―アメリカの場合/代表者による政治の私物化―日本の場合
二  新自由主義が政治の私物化を加速させる
新自由主義と政治の決断主義化
三 私物化の時代の民主主義はどこへ向かうのか
中国の誘惑/政治的メリトクラシーとしての中国モデル/中国モデルのインパクト
 
第三章 民主主義とは何か―古代と近代
一 始原にさかのぼる
  ―権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義(1)
古代アテナイにおける民主主義の誕生と発展/古代の民主主義を実現するための制度/古代の民主主義における共有のものと自由
二 近代に復活した民主主義
  ―権力の私物化を禁じ、専制に対抗する民主主義(2)
『社会契約論』と共有のもの/全面的譲渡と一般意志/自由・共有のもの・私物化
 
第四章 代表制度とは何か
一 民主主義と代表制度との理論上の接合
多元主義と代表制度/人民主権と代表制度
二 代表制度を民主化する
正統性と選挙/代表制民主主義と選挙/代表制民主主義と政党
三 民主的な代表制度の変容
名望家政党とエリート主義/大衆政党と代表制度の黄金期/政党の黄昏と代表制度の行き詰まり/代表制度の変容の帰結
 
第五章 行き詰まる代表制度とポピュリズム
一 民主的な代表制度の黄金期の諸条件とその消失
戦後和解体制と福祉国家という条件/工業化社会という背景/日本の事例/ポスト工業化社会への移行と代表制度の黄金期の終焉
二 代表制度の行き詰まりと現代のポピュリズム
代表制度とポピュリズム/ポピュリズム化する民主主義のリスク/ポピュリズムか中国モデルか、それとも……
 
第六章 代表制度の改革
一 代表制度改革の方向性
どのようにして権力の私物化を禁じ、専制政治に対抗するのか/どのようにして共有のものを取り戻すのか/なぜ、エンパワーメントが必要になるのか
二 具体的なイノベーションを評価する
(1)熟議世論調査/(2)市民集会/(3)参加型予算/まとめ
 
おわりに
二大政党制なる詭弁もこうした時代でしか真実味はなかっただろう。
そして民主主義を破壊することが目的ではなかったのだろうけれど、社会効率と行政効率をすり替えて新自由主義こそ、自由で民主的な制度設計ポリシーだとして大衆政党の基盤が崩されていく。
《社会》を解体するにあたり、最も効果があったのが、社会的なものとされた労働を再び私物化することであった。
 一九世紀以降、人びとが相互依存関係としての《社会》に巻き込まれ、それを経験したのが、労働をとおしてであった。福祉国家の下で労働者は社会的存在と見なされ、社会権に基づき保護された労働をとおして、生活の糧を獲得し、自らと家族の安全を確保した。さらに、労働者は現在と将来のリスクに対処するべく、労働によって得た資金を元手に国家が後ろ盾となった社会保険に加入することで、いっそうの生活の安全を手に入れた。つまり、福祉国家はさまざまな規制によって労働を資本家や企業の私物化から保護することで、その役割を果たしたのであった。だとすれば、規制を緩和し、撤廃することで労働を私物化の対象としてしまえば、容易に福祉国家は機能しなくなるはずであるし、実際にそうであった。
 このことは、平成の日本を見ればよく分かる。日本では、一九九〇年代以降、労働に対する規制が徐々に緩和されたが、それは短期契約で低賃金を特徴とする非正規雇用労働者の増大という形で現れた。そうした人びとの労働は極度に不安定化し、生活の安全は破壊された。これが平成の社会問題の中心にあった。

社会が解体され、勝ち組・負け組に分断されることは、結局、社会の不安定化を招く。だからどこの国でも再統合が図られることになる。

だがその過程において、既製の多数決原理での政治、代表選出は機能しないだろう。本書ではそれに代わる政治参加のシステムの創出に期待しているようである。
それらの試みは総称して「ミニ・パブリックス(mini-publics)」と呼ばれるものである。
ミニパブリックスとは、ランダムに選ばれた市民―したがって、自選ではない―たちが公共の問題に関してともに議論する取り組みを意味する。ミニパブリックスの代表的な事例には、熟議世論調査以外にも、市民陪審、コンセンサス会議、計画細胞、アメリカ・スピークスなどがある。この取り組みでは、特に重視されることが二つある。一つは、そこでの議論が十分な情報に基づき、ファシリテーターあるいはモデレーターによって適切にコントロールされていること、もう一つは、そこでの議論が市民全体での議論を代表していることである。
本書ではそうした取り組みの例として、熟議世論調査、市民集会、参加型予算をとりあげている。
思うに、これらに共通するのが、何らかの利害を代表する者がそれぞれの母体に有利な主張をするのではなく、実際に存在する、あるいは考えられる選択肢について、徹底的に吟味しようということのようだ。

これらミニパブリックスは為政者をしばる制度ではない。やはりミニである以上、有権者の総意であるとは言えないからだろう。そして、これによる政策決定手続きは、民主主義と言えるのかについても、疑問もある。それは全体の意思を汲んでいないという反論がいくらでも予想されるからだ。

しかし、そもそも民主主義ってなんだろうということにまで戻り、その擬制を一旦チャラにして考えれば、一定以上(おそらく考えうる限りの選択肢をそろえ、可能な限りの吟味を行って)の知恵を集める方法として、期待できるのではないだろうか。

3回にわたってとりあげたが、全体を評することは私には力不足だった。
コンパクトな新書であるけれど、実にぎっちりと詰まった本である。

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