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泥臭いWEBの底から~WEBディレクター覚書~

WEBディレクターというのは何を考えておるのか。その一例。

色々と「地味だけれど意外と役立つ」能力について書こうかと思っていたんだけど、仮にこの記事を読んでくれる人がいたとしても、webディレクター的にはそうした能力を身に付けたり伸ばしたりするより、手持ちの能力でどうやりくりするかの算段をする方が有効なんじゃないかという考えが浮かんで、書く気が失せた。そもそも、仕事で必要は能力は遣っているうちに自然と伸びるし、自然と伸びない能力は持っていてもあまり使わない(アフリカのサバンナで暮らす人の視力がいいのは、視力向上のトレーニングをしたからでも、視力向上に意欲的意識的だからでもない。本当にそういった人の視力が言いとして、だけど)。まあ、「役立つ能力」とか「必要なスキル」といった話題が「あるあるネタ」の一変種だってことは解ってるものの。

とりあえずウソっぽいノウハウのTipsでも。

誰かから作業完了の知らせを受けたあと、クライアントに対応完了のメールを出すとする。一言で済むんだけど、他に忙しい仕事があったりして後回しになっていることはないだろうか?
これは実にもったいない。たとえば作業が依頼を受けてから1時間後に終わったとする。この時点でメールすればクライアントからは1時間で対応完了したように見える。当然だけれど。
一方で、1時間後に終わったのに後回しにしたせいで、連絡するのが3時間後になったとする。すると、クライアントの目には対応完了まで3時間かかったように見える。
2時間というのは実際にはたいした違いじゃない。けれど、実際に依頼されてから対応完了までの時間が同じでも、そこですぐに連絡するディレクターと後回しにするディレクターとでは、積み重ねの効果でクライアントの持つ印象はずいぶん違う。すぐに連絡する人は「動きがいい」「仕事が速い」というイメージを持たれ、後回しにする人は「レスポンスが悪い」「時間がかかる」というイメージに。

連絡するより先にたまたまクライアントがテストサイトなりを見て「あ、もう終わってんじゃん」と気付いてから数時間後とか半日後に「終わりました」という連絡をディレクターが出しているような場合は、ムダな悪印象が持たれかねない。

というわけで、どんなに忙しくても作業完了のメールは可能な限り先に出した方がいい。それだけでクライアントから「あの人は仕事が速い」という評価を得られることもある。

以上。役に立ちそうだろうか。

さて、折角なので前回に引き続きインターネットと関係ないことを「能力」というお題で二つほど。


◆「だいたい解った」までのスピードが大事
あちこちで繰り返し言われているように、webディレクターは各作業の専門領域について、当の専門家ほど詳しい必要はない。しかし、相手の言うことがだいたい理解できるくらいの知識は必要だ。しかし、各専門領域はそれぞれ相当のスピードで変化している。クライアントの事情や状況もどんどん変わるし、新しいクライアントごとにも違ってくる。

こうしたとき、「よく解った」に至るまでの時間はどうでもいい。重要なのは、どれだけ早く「だいたい解った」まで到達するかだ。この段階まで持っていくスピードに必要なのは粘り強さでも理解力でもない。もっとスプリンター的な能力、たとえば「要点を把握する力」とか「既存のものに置き換えてイメージする力」だ。

例えばの話。先輩のwebディレクターはこれまでPCサイトだけをやってきたが、諸事情でモバイルの仕事もするようになった。そこへ、デコメ案件が回ってきた。それまでデコメなんて送ったことも受け取ったこともなかったらしいのだけれど、実物を見て言った。「アニメバナーみたいなものなの?」と。

傍で見ていると(というか隣の席で見ていると)、最初の瞬間に「アニメバナー」と置き換えて理解し、そうした観点でディレクションしたことで、特に不都合はないようだった。というか、まずまずクライアントからの評判はよかったらしい(まあこれは、デザイナーさんの力量によるところも大きい。表示確認だけ手伝ったけど、よくできていた)。これは上手くいったっぽい事例なので証明材料にはならないが。

そういえば、具体的な事例をこのブログで書くのは初めてかもしれないな。

で、詳しく理解するにつれ初期の認識と違っている部分が出てくるケースはあるだろうが、こういう「だいたい解った」に至るまでの時間が短いと、早く動き出すのに都合がいい。

というか、逆に「だいたい解った」と思えたら、それ以上理解を深めるより先に、その理解で動ける範囲だけでも動いた方がいい。まあ、「だいたい解った」と「早合点」は似ているので、時々ミスを招くけど。


◆コミュニケーション能力
コミュニケーション能力は「誰も実体を指し示せないのに、確かにあると思えるもの」だ。もしくはオルゴンガスとかエーテルとかアストラル体とか動物磁気みたいなもので、「実際には存在しないにもかかわらず、一部の時代や社会において「あるもの」という前提で物事が進む」要素。いずれにせよ、仕事においては採用試験の面接くらいでしか登場しない。実際の仕事の場では「やりやすい、やりにくい」とか「ソリが合う、合わない」とか「口が上手い」とか「聞き上手」など無数の具体的な能力や特徴の中へ霧散してしまうから。

そもそも、コミュニケーション能力は「喋る・書く」という場面で発揮されるものばかりではない「聞く・読む」という場面でも発揮される。喋るのが苦手でも、相手から必要なことを喋ってもらうのが得意な人、書くのは苦手でも相手の書いてることからニュアンスがちゃんと汲み取れる人は、それはぞれでコミュニケーション能力に長けてるんだと思う。というわけで、「自分はコミュニケーション能力に自信がない」と思っている人でも、「聞き上手」や「読解力ある読み手」という形で必要充分なコミュニケーション能力を持っている人は多い。「伝達」という意味でのコミュニケーションではなく、「物事を円滑に回す」という意味でのコミュニケーションであっても、それは同じだ。ホームズとワトソンでは、喋るのが上手いホームズと同様、ホームズに上手く喋らせられるワトソンも同じくらい「コミュニケーション能力に長けた」人なのだ。

で、話は変わるけど。どうせなら求人募集の要項に「コミュニケーション能力」と書くのは止めたらどうかと思う。どのみちあれはコミュニケーションを取る相手次第の面もあるし、周囲がそう評価するかどうかの問題なので、いたずらに募集要項にそう書いて応募者が減るリスクよりも、書かずにいて応募者が減らない事の方が有用なんじゃないか。逆、つまり「募集要項にコミュニケーション能力と書いてないから応募を止める」という人はいないだろうから。まあ、「募集要項にコミュニケーション能力と書いてあったから止める」という人は、それはそれで何がしか問題あるようにも思うけど。まあ、募集要項に「コミュニケーション能力」と書くことの意味とか意義をそんなに深く考えるほどヒマな採用担当者もいないだろうが。

でも自分なら面接の場で、「コミュニケーション能力に自信があります」なんて言われたら「あるかどうかはこちらが判断すること」とか思ってしまいそうだ。
今日はこのブログにしては珍しく、自分の話から。
自分のひそかな趣味として、「web制作会社のサイトを見る」というのがある。正直、あまりイイ趣味とはいえない。だいたいビジネス・アーキテクツのサイトを見たりして「ああ、自分も大きな企業を相手に案件を切り回したこともあったなあ。でももうそんな機会もないだろうな」とか追憶にふけったり、実績の欄を見て今の自分とのレベルの違いに絶望して「あかん。もうアカン」とか不安定な気持ちになってみたりと、精神衛生上もよろしくない。
livedoorはいつもWebディレクターを募集しているふうなのに待遇について書いてないしせっかくの「ディレクターblog」へのリンクがないのはもったいないとか、そんなこと考えている暇があったらさっさとクイズの問題考えろよ→自分などと自分を責める結果にもなる。

そもそもこうやって不安定な気持ちになったりするのに制作会社のサイトを見るのは「意外と楽しい」という点が強い一方で、自分のレベルがどんなもんか、フリーランスだとだんだん判らなくなってくるというのもある。

webに限らずだと思うけれど、基本的にフリーランスの人間は目に見える評価がない。仕事が回ってくるかどうかが一つの目安ではあるけれど、それさえも自分に商品価値があるからなのか、相手が発注先を変更するのが面倒なだけなのかハッキリしない。(まあ、そんなによくないけど今さら他の人とか会社探すよりは、ねえ?そこまで悪いってわけでもないし…ということかもしれない)

でまあ、そんな状況で働いているときにいろいろな同業者のサイトを見ていると励みになったり焦燥感を抱いたり、「自分もまだまだ捨てたモノじゃない」と思えたりもする。つまりはまあ、なんだ。自己啓発的な役割を担っているわけだ。自己啓発!この私に?とはいえ、事実は認めざるを得ない。本当はこういう気持ちは同業者との接触の中から生まれるものなのかもしれないが、いかんせん身の回りは公私共にIT・web関連以外の人ばかりだ。というか、まともに働いてる人が多くない。

そんなこんなでフリーランスが自分の商品価値を把握するのは、意外と難しい。しかし、正しく把握するのが困難であっても、「自分の商品価値」を高める努力は必要だ。と、考えてきたのだけれど、最近ちょっとこの考えが揺らいでいる。

というのも(フリーランス以外にも当てはまるかどうか知らないけれど)、むしろクライアントが期待or評価するのは自分の「商品としての価値」よりも「コストパフォーマンス」じゃないか、そしてという気がしているからだ。

「コストパフォーマンス」も広い意味では商品価値だろうけれど、もっと…相対的というか。見積りの額が幾らだろうと「値段のわりにイイ仕事」をするのが「コストパフォーマンスがよい」ということであって、その額はいくらでもいい。腕利きで1000万円の価値がある仕事をする人が1000万円で受注していたら、それは別に「コストパフォーマンスがいい」とは言わない。値段相応だ。まあ、そんなわかり易く測れるもんでもないけど。

※以下、話を単純にするためモデル化する。実際はこんなに単純で図式的な話じゃない。

◆試みとして、発注側の立場で考える。

たとえばAさんは非常に腕利きだけれど、その分高い。BさんはAさんほど腕利きではないけれど充分なくらいの能力はあって、Aさんよりも安い。Cさんは払ったなりの仕事振りで、クオリティはAさんからDさんまで変動する。Dさんは他の三人より安いが、安いだけのことはある。

この場合、大きな案件だとか予算がある案件じゃないと、Aさんには頼みたくても頼めない。一方で、Dさんには予算がないときに仕方なく発注する。その中間の幅広いボリュームゾーンで浮かんでくるのはBさんとCさんだ。
ここでBさんとCさんの違いがどこかといえば、コストパフォーマンス。

多くの予算が払える案件(あるいは企業)の場合、CさんはAさんと競合する。一方で、予算がない場合、CさんはDさんと競合する。そしてその中間の予算であれば、BさんはCさんよりいい仕事をする。
たいていの案件がそうであるように、「そこまで予算が掛けられないけど、安かろう悪かろうってのもなあ」という状況で、CさんはBさんより不利なのだ。Bさん以外のレイヤーでも、それぞれAさんやDさんと競合して勝つ必要がある。

というわけで商品価値の高い人より、コストパフォーマンスの高い人の方が、仕事を頼みやすい。需要があるということだ。

◆今度は制作側から考えてみる。

Aさんは商品価値が高いので、先にも書いたように「頼みたくても頼めない」というケースがママある。それでもAさんは客単価が高いので、窮乏はしない。むしろ「お金を稼ぐ」という意味では、他の三人より成功していたりする。

しかし制作者がAさんになって/Aさんとして(しかも)仕事を継続するのは難しい。まず何であれ商品価値を高める実力や実績がいる。これだけで容易ではないのだけれど、さらに、そうした商品価値にお金が払えるクライアントとの繋がりがいる。やみくもに「商品価値が高い」だけではダメで、それにお金の払えるクライアントがいてくれないと発注数ばかりが減り、「値下げもやむなし」になりかねない。でなければ「開店休業」か。おまけに、どうかすると能力を上げる以上にそういったクライアントを持つことは難しい。Aさんで居続けるならフリーランスでやるより、それなりの会社に就職するか起業する方がいいんじゃないか。

フリーランスがBさんになるのはAさんになって(しかも)クライアントを見つけるよりは簡単だ。継続的な取引も見込みやすい。Cさんになると無駄に大変そうだし、Dさんになるのはジリ貧を意味する。

というわけで、フリーランスがジリ貧も開店休業や廉売を避けるには、自分の商品価値を高めるよりも、まずはコストパフォーマンスを高めることが必要なんじゃないか、と。その方が供給増につなげやすいんじゃないか、と。

商品価値を高める努力はコストパフォーマンスを高めることに注力した後で取り組む方が達成しやすいかもしれない。しみったれた考えだろうけれど、最初から高い目標設定をして「おまんまの食い上げ」ってわけにもいかんのだ。

ついでに書くと、「見做し(みなし)Bさん」になるのは難しくない。実際の自分の商品価値より、常に「ちょっとだけ」安く自分を売ればいい。実際には自分を安売りしているだけなので、長期的にはいい戦略じゃないだろうけれど。
前の日記でサービスを海外展開するにあたって「地味ながら高いハードルがある。」と書いた。

さて、アプリケーションなりwebサイトなりwebサービスなりを海外展開しようと思ったとする。ひとまずは手を付けやすそうでリーチしやすい英語からだろうか。英語ができる人は自分で訳せばいいし、苦手でも辞書片手にがんばるとか、できる人を引っ張ってくるとか、どうにかして英語化する。実際には中国語だろうとスペイン語だろうと、同じような手順だ。

個人的な楽しみとして、あるいは知名度アップなどを目的とするなら、それで終了。事足れり。ただ、それでビジネスをしようと考えているのなら、と、ここで「地味ながら高いハードル」が出てくる。もったいつけずに言うなら、サポートをどうするか、だ。

展開している言語に堪能なら、ユーザから送られてくる問い合わせに対して返事をするのは難しくない。しかし、人に訳してもらったり、辞書などで調べてどうにか訳した程度のレベルでは、相手が送ってくるメールを読んで理解し、適切な返答をするのは難しい。少なくとも、たいそう手間がかかる。特に口語的な表現が多いと。

自分が客だったとして、問い合わせ窓口がない、あるいは、あったとしても返事がやけに遅かったり文章が変だったり、見当はずれの回答をしてきたらどうだろうか。無料だったら「仕方ない」と思えるかもしれない。あるいは、利用者であることを断念するか。しかし、有料だったらどうだろう。いい気はしない。

と、いうわけで海外展開するならば、展開している言語でのサポートができないといささかマズい。ユーザが無料で使えるもので、アフィリエイトや広告収入(それでも代理店とコミュニケーションをとる必要はあるが)であったとしても、サポートがないばっかりにユーザ離れが起きることはある。

もちろん、窓口対応要員が確保できるならそれにこしたことはない。が、それができない場合にじゃあ、どうするか?といえば…根本的な解決にはなっていないけれど、利用規約に「日本語以外での問い合わせにちゃんとした対応は期待しないでくれ」という旨を書いておくくらいか。アウトソーシング専門のサポセン事業って、たぶんそういうニーズに対応した仕事もしてるんだろうな…。個人で使うには厳しいけど。

というわけで、地味すぎて「海外で展開しよう」「国際競争力だ」みたいな話では不思議とあまり触れられていない、地味ながら高いハードルについての話でした。

【追記】
CGM系のサービスでコンテンツや投稿内容をチェックしたり、炎上を仲裁する必要のあるサービスについても、やはり展開している言語で読み書きのできる人がいないとビジネスとしては厳しいな。
iPhoneについて好意的な評価をこのところよく目にした。「未来だ」とか「プラットフォームだ」とか何とかかんとか。一方で、好意的じゃない評価も目にした。で、それを通して考えたことをとりとめもなく。たぶん勘違いしているところとかすごくすごく多いんだろうけど。失笑しつつ見てください。
あ、結果的にまとめというか、オチらしきものが後ろの方に書けたので、かったるくなったら最後の方まで読み飛ばしてください。


好意的な記事を読んでいて、残念に思ったことがある。じゃあ、その素晴らしく可能性に満ちたiPhoneで、これまでにないどんなモノが出てくるのか、という点について、あまり具体的に書かれている記事を見つけられなかったことだ。もちろん、私が見逃しているだけかもしれないが、可能性と共に浮かんでくるアイデアがあまりにも素晴らしいので、みんな珍しく「人に知られないようにしよう」とか思ってるのかもしれない。その可能性は大いにあるが、それだけってことはないだろう。

だって、「実物を見たことも触ったこともないし、実際にどんなものが作れるかは知らない」ものを(「携帯電話を使う人」としてなら不思議じゃないんだけど)「作り手」の立場からそんな賞賛するなんて、ねえ?まあ、「よく分からないが、とにかくすごい可能性を感じる」というものもある。iPhoneもそういうものなんだろうか?

PCのサイトだとかシステムだとか、アプリケーションだとかを作ってきた人にとって、iPhoneが現在の日本の携帯よりも作り手として取り組み易そう、理解しやすそう、という気はする(macよりもwindowsの開発経験のある人の方が多いだろうから、windows mobileの方が取っ付きやすそうだとは思うけれど)。で、「よし、いっちょやってみるか」と思った人たちが大勢参入して、細部が微妙に違う似たり寄ったりのアプリがたくさん出てくるんだろう。

以下、ちょっとケータイ向けのコンテンツやアプリビジネスという面からiPhoneについて考えてみたい。

【開発環境】
優れたSDKがあるそうで、そういう点では取っ付きやすいんだろう。ドコモやau、windows mobileなんかもそういったものは提供しているし、それぞれのアプリ開発にとってはそれなりに充分何じゃないかという気もするが。使いやすさが優れているのかもしれない。まあ、windowsなんかでの開発経験や知識がどこまでいかせるか知らないが。

そもそも今の日本の携帯でダウンロード型のアプリを作るにはFlashかJavaアプリが主なんだろうけど、ケータイ向けにこうしたものを作るのって、PC向けに作るのと比べて、どの辺がどれくらい違うんだろうか。ずいぶん違うなら敷居は高いだろう。けど、そうでなくて、PC向けで培った知識と経験があればそんなに苦労しないってんなら、従来の携帯でそうしたものを制作・販売(や無料配布)するのは、その気があれば(経験者なら)すぐできる。

そうしてみると、iPhoneでの開発って、windows mobileや既存の日本の携帯向けにそうしたものを作るのに比べて、どれくらいやりやすいんだろうか。気になるところだ。

【販路】
Appストアで作ったものが販売できるというのは、ケータイ向けに何かを作って利益を出そうとする上で、iPhoneを選択する大きなアドバンテージになる。ただ、全てがその1ストアに集中すると、これまでの日本のケータイでそうしたビジネスをする以上の競争が強いられるかもしれない。一方で、集客を位置からスタートする必要がないというのはメリットだ。

【共通性】
iPhoneならどこの国のどのキャリアでも同じであれば、今みたいに3キャリア向けに別々にコストは必要はなくなる。一つでいい。それに商品内のテキストやサイトでの掲載文などが外国語で書けるなら、翻訳作業だけでその言語圏の人々にだって売れる(なぜかあまり考慮するように書いてある意見を目にしないが、こうした展開では地味ながら高いハードルがある。これについては今度書く)。これは従来の国内ケータイ向けビジネスに比べ、とても効率的だ。

【疑わしい部分】
iPhoneで日本国内のケータイユーザに何か新しいものを提供できるだろうか。思えばiPhone以外の携帯を使っている人にとって、「携帯でできて欲しいのにできない」という需要はあるんだろうか。天気予報やら乗換えやらの情報収集は可能だし、SNSなんかのコミュニケーションもできる。ブログも読み書きできるし、娯楽としてもゲーム・動画・小説・コミック・音楽と、ひととおり揃っている。iPhoneはそれらの「はるかに優れたバージョン」を提供できるだろうか。あるいはそれらの「iPhone対応版」以外の何かを提供できるだろうか。需要に応えるのではなく、需要を作り出すような。

iPhoneは今のところ見た目とUIの使い勝手以外に、日本の携帯より優れた点は少ない。であれば(広い意味での)コンテンツが強力なアピールポイントになるはずだが、それがこれまでの携帯で提供されているものと大差ないなら、なかなか強くユーザを惹きつけるのは難しい。総合的なスペック的に他よりやや劣るゲームのハードがあったとして、コンテンツラインアップの大半が他ハードの移植作だったら厳しいだろう、というのと似ている。


とまあ、散漫にもほどがあるのでこの辺で。

で、ここまで来て「iPhoneという奇跡」という記事を読んだ。

「ネットに常時接続されているモバイル端末はどうあるべきか?という長年の問いに、いきなり究極解を出してしまった」

さらにこの先には、ウェブアプリの革新が控えています。

私たちはいま、「パーソナルコンピュータの誕生」に匹敵する歴史的瞬間を目撃しているのです。そのことに気付いていますか?iPhoneの本質は、セクシーなルックスにあるのではありません。その奥の深い中身と、未来に開かれた歴史的意義にこそ、その本質は潜んでいるのです。

ということだそうで。なるほど。そうしてその歴史的事件による革新がもたらしたもので明日の天気を調べたり終電の時間を調べたり、飲み会で行く店のクーポンを手に入れたり新幹線のチケットを予約したりしつつ、空いた時間で友達の日記を読んで励ましのコメントを書いたり、切ない話に涙したり、MAD動画をニヤニヤ眺めたりするってわけか。ふーん。それは素晴らしい。

ああ、冗談です。きっと歴史的事件による革新がもたらしてくれるのは私の貧困な発想力では想像もできないような、素晴らしいものなんですよね!
pandola.jpというサイトがある。

pandola.jpとは「インターネットを使っていて、良かった体験」を共有するサイトです。
「ネットやってて良かった!」という体験や経験を紹介するほか、私たちが実際に
「ネットの力でどのようなことが実現できるのか?」という試みをしてみたいと思います。

ということで、アクセスするとネットにまつわるポジティブな思いや経験が読める。1日1記事で、共有したい人は運営にメール。採用されれば載るらしい。

「体験や経験を紹介するほか」とあるように、運営側が紹介する形になっているので、たぶんインフォマーシャル的なアフィリエイトビジネスなんじゃないだろうか。違うかもしれないけれど。

で、自分はこういう「いいはなシーサー」的な話に興味はないのだけれど、興味を以って読む人もいると思う。そこでサイトから去ろうとして、いくつか気付いたことがあった。

昨今では「共有」する機能や場を提供するサイトが非常に増えている。こうしたサービスを企画する場合に検討する必要があるのは以下だ。

・誰と誰が
・何を
・どんな目的で共有するのか?
だ。
運営視点から言い換えると
・誰と誰に
・何を
・どんな目的で共有させるのか?
だ。

「誰と誰が」はユーザ同士が多い。あるいは「そのサイトにアクセス可能な人同士」と言ってもいい。「何を」は静止画だったり動画だったり、情報だったりする。「どんな目的で」については楽しみのためだったり自己顕示のためだったり。実際にユーザがどんな目的でそのサイトを使って何かを「共有」するかは個々のユーザが決めることだ。けれども、提供側は事前にそれを想定しておいた方がゴールが見えやすく、運営もしやすい。また、何であれ共有するものを「提供する側」のユーザからすれば、「見せたい」「知ってもらいたい」「聞いてもらいたい」だけ、というのも多そうだ。

また、「どんな目的で共有させるのか?」は「共有させてどうしたいか?」と言い換えることも可能で、特に今後はここがこれまで以上に重要なポイントになると思う。ただ共有させることで多くのPVや回遊率、滞在時間、リピート率などを稼ぐだけだと、もう行き詰るだろうから。

で、pandola.jpにあてはめて考えてみる。

・誰と誰が
ユーザ同士だろうけれど、好き勝手にアップできるわけではないので「運営側がユーザと」というのが正しいかもしれない。

・何を
これは「「ネットやってて良かった!」という体験や経験」だ。

・どんな目的で
運営側からすれば「楽しんでもらうため」そして、「ネットのポジティブな面を知ってもらうため」だろうか。もしインフォーマーシャル的なアフィリエイトビジネスなら、興味を持った人に「リンクをクリックしてもらうため」でもある。
情報を提供するユーザからすれば「感謝の気持ちを表明したい」「みんなに知ってもらいたい」といったところだろう。

こう考えてみると、なんというか、pandola.jpには違和感がある。
特に「誰と誰が」の部分だ。
このサイトでユーザが何かを共有したいと思ったら、「「良かった体験談」を募集しています」というページに飛んで、そこから運営にメールする。つまり、ユーザ同士が直接なにかを共有するのではなく、運営によるチョイスという手順が介在しているのだ。厳密な意味的にどうかは知らないが、それって普通「共有」ではなく「投稿」って言うんじゃないか?pandola.jpのしていることが「共有」なら、雑誌の読者投稿ページも「共有」と言えるだろう。

ある意味でそれは間違いじゃない。広い意味では「投稿という共有方法」なんだろう。にしても、なんだか「共有」と呼ぶことには、直感的に違和を覚える。自分勝手なイメージかもしれないが、「共有」と呼んだ場合、(利用規約の範囲内で)提供したい人は自由に提供し、享受したい人は自由に享受する、というイメージがある。

pandola.jpに問題があるというわけではもちろんない。ただちょっと、自分が違和感を覚えただけだ。
それよりもポイントなのは、
・サービスを考える上で、「共有」という概念や言葉を安易に使っていないか気を付ける
・「誰と誰に」「何を」「どんな目的で共有させるのか?」は明瞭に考えておく必要がある
という2点は忘れないようにしないと、ということ。

本題はここまで。以下余話。

「マジョリティユーザを念頭におくなら」だが、そもそも「共有」という言い方は上手い表現じゃないのかもしれない。shareの日本語訳なんだろうけれど、普段あまりネットを使ったりしない人からすると「共有」って日常生活では馴染みのない、どことなく硬そうなイメージがあるんじゃないだろうか。
むしろ「投稿」とかの方が同じことを指していても、親しみやすい気がする。本当はそれぐらい親しみやすくて、一語で現せる単語があればいいのだけれど、残念ながら思いつかない。

それにまあ、「共有」という言葉は、それはそれで特定のサービスを表す言葉としてネット上では標準化されつつある面もあるしね。それはメリットと言えるだろう。

さらに余話

私たちが実際に
「ネットの力でどのようなことが実現できるのか?」という試みをしてみたいと思います。

という部分に対応してどんなことをするのか、には大いに興味がある。
こういうことを書くときは「ネタがない」「調子に乗っている」のいずれか(あるいは両方)だ。

主に受託業務のディレクションをしているwebディレクターを念頭においたもの。「初級編」とあるように、他には「中級編」「上級編」があり、合計30戒になる。10と言いつつ実体は3倍になるあたりが、webディレクションというものの性質を暗示していると思う。

・企画書の見栄えを良くするのは、中身を全部作って時間が余ってからにせよ
・可能な限りたくさんの前提条件を盛り込むべし
・初回の打ち合わせでは、何であれ自ら進んで約束してはいけない
・2択を迫られたら、3つめの選択肢を見つけよ
・記憶を信じてはいけない。記録だけを信じよ
・「自分がどう思うか」よりも「クライアントがどう思うか」
・合理的に説明できないことをしてはならない
・どんなときも完全徹夜をしてはならない
・物事を自分の手元にキープしている時間が最小限になるよう努めよ
・制作スタッフはもちろん、営業と事務方のありがたみを忘れてはならない
・最終的に帳尻が合えば問題はない
・仕様が変わっても、実際的な問題がなければ気にすることはない。たとえば「10戒が10以上ある」とか
さて真面目な話、週末を挟んだりしていたら前記事の続きとしてどんなことを書こうか、大まかなところ以外は忘れてしまった。

だいたいは以下のような感じ。

コミュニケーション系のwebサービスはすでに充分多い。ここでいう「コミュニケーション」には、「何かを共有する」「何かについて(テキストや画像、音楽や動画を)投稿する」というものも含む。「何についてのコミュニケーションか?」もあらかた出尽くした感がある。なのに、なおもそれは増えるし制作者側の関心も高いけれど、多すぎて熱心な人以外はついていけない。たぶんネット上にそうした日本語のサイトが5サイトもあれば、本来だいたいのニーズはどうにかなるんじゃないか。

しかし実際にはもっとたくさんあるので情報が分散する。分散した情報をまとめるサービスやツールが出てきたが、それすらもう多すぎ。セマンティックだかなんだか知らないが、「AとCというサイトからデータが引っ張ってこれるツール」「BとDというサイトからデータが引っ張ってこれるツール」じゃなくて、「ほとんど自分が目にするどんなサイトからもデータが引っ張ってこられる」ような、しかも簡便なのが3つくらいあればたぶん充分。「好みやニーズが多様化」っても、日本のネット人口のほとんどはwebでのコミュニケーション系の機能にそんな好みもクソもないんじゃないか。せいぜい見た目が好きかどうかくらいで。

でもたぶん。オープンさが増してセマンティックが(どんなものか知らんが)さらに加速すると、そうはならない。微妙に違う似たようなツールやサービスがますますアッサリと増えるだけ。

その点で、WIREDVISIONのこの記事は示唆的。特に、サービスやツールなど「プラットフォーム的な」(あるいは場所提供的な)サイトが増えるだろう今後のwebにとっては。

そもそもそうしたサイトが増える要因は「ニーズがある」「熱中性が高い」の他に、「相変わらず自前のコンテンツを調達するのは大変」というのがあると思う。FlickrでもTwitterでもはてブでもニコ動でも、別に自前でコンテンツを調達しているわけじゃない。(YouTubeやニコ動は自分たちでもコンテンツを調達してこようとしているが、苦戦している。提携先なんかはちゃんと見付かっているのだけれど、成果的に。ビジネスとしてはそうした試みも成功しているのかもしれないけど。逆に全部自分たちで調達しようとすると、Gyaoのようにエラいことに)。

これはかつてのダイエーとか西友、ヨーカドーみたいな業態より、ショッピングモールとか「場所を作って出店者を集める」方がやりやすいのに似ている。

まあ何かを投稿したいという人の数からすると、「動画」「写真」「音楽」については似たようなサイトがいくつもあって、1サイトあたりの数は分散した方がいいのかも。

余談1:
「自前でコンテンツ調達+課金+それで収益上げる」が珍しくないアダルトサイト業界はその点でも興味深い。というか、アダルト業界の制作側、運用側は常に興味深い。提供しているコンテンツと同様に。この辺はそのうちまとめて書くかも。

余談2:
とか書いている最中で以下の記事を読んで全身の力が抜けた。
TechCrunch Japanese アーカイブ » Twitter難民のためのFriendFeedツール13選

FriendFeedのより良い環境に移動した人へ。これがオーガナイズされた「ノイズ」フリーな体験に不可欠な13のツールだ。

Twitterユーザになるような人向けというか、サイトのメイン読者層を考えると別にいいのだけれど、「快適に使うには別途、これこれ13のツールが不可欠ですよ」っておかしくないか?HDDレコーダを「快適に使うには別途、これこれ13のツールが不可欠ですよ」とか、ヘルシオを「快適に使うには別途、これこれ13のツールが不可欠ですよ」とか普通に紹介してたら何か問題あるだろ、「企画趣旨」か「製品そのもの」に。まあ、単純に家電とかにそのまま当てはめて考えるのは間違ってるけど。(ってのが何を意味するのかも不明だが)を「快適に使う」に置き換えていいかどうかもあるし。

そもそもこれって、「FriendFeed単体」では「オーガナイズされた「ノイズ」フリーな体験」ができませんよってことでしょう?そこに何も引っ掛からない人が少なくないなら、それってwebにさほど熱心じゃない人の感覚と大きな隔たりがありそうだよなあ。


と、案外長くなったけれど、「余談2」以外は金曜の段階で書こうと思っていたものの概要を「おおざっぱにまとめよう」とした結果。その意図からすると失敗、だな。普通に書いてるのとあんまり変わらない。

あとこれは仕事としてwebに関わっている人間として視点から見た考えであって、ただのネット大好き!な立場から見ると「自分にとって面白いものや興味深いもの」が出てくるのなら、別に似たようなものが100も200も出てきたって、「それが何か?」と思っている。

ちょっと受託制作者的な視点からの記事が減っているようにも思うので、次か次の次くらいで何かそうした気持ちに立ち返りたい。
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