ときおり、プログラミング系の人が書いているブログで「人月計算」の話が出てくる。見積りを算出するさい、1人の1カ月分の作業コストを1人月とし、それを基準に計算する方法だ。
いくつか読んだ記事では、この人月という計三単位をいかにして超克するか?ということが書かれていた。たとえば、
矢野勉のはてな日記
「プログラマなら人月なんかさっさと超えろ」
とか。
で、自分はサイト制作なのでプログラムが最終納品物ではない業種だけれど、前の職場で見積りに人月計算を導入していたりしたこともあったので、ちょっと「スーツ寄り」の立場から人月について書いてみる(ちなみに、上記ブログの記事の本題とは関係の薄い内容です)。
上記記事に
特にクライアントの担当者がwebの費用感を持っていない場合、ただでさえ提示された額が適正なのかどうか判らず不安なのだ。なにか理解可能で明快な根拠がなければ納得してもらえない。たとえ発注してくれても、金額について最後までモヤモヤした気持ちが残ってしまうだろう。そこで出てくるのが人月だ。これならwebに暗かろうが経験不足だろうがなんだろうが、算出根拠は理解できる。あとはそれによって算出された額が、予算と折り合うかどうかだ。
もし、人月でなければどうだろうか?算出根拠が少しくらい明確でなくても納得してくれるならいい。あるいはある程度の費用感を持っていて、それに基づいて金額が適正かどうか判断できるならいい。しかしそうでない場合は、なぜその金額なのかがはっきり説明できないといけない。
「最低でもその金額に見合った価値の仕事をします」と言ってみせたところで、担当者は納得してくれるだろうか?特に初取引のクライアントの場合。
その担当者はたとえば決裁権を持った上位承認者に、金額の算出根拠をどう説明できるだろうか?「業者が金額に見合った仕事をすると言っているので」とは言えない。
「ウチはこの作業内容だとこの金額ですから」という説明もあるだろうが、それではお互いに金額交渉の糸口がない。そもそも、「じゃあ、なぜそちらはこの作業がこの金額なのですか?」となれば、やはり個別に根拠を出さざるを得ないだろう。webディレクターとしては見積りを立てる以上、それなりに理由がないといけない。「なんとなくこれくらいでしょ?」というわけにはいかんだろうさすがに。
というわけで、以上が「対外的な」人月のポイントだ。一方で、「対内的な」人月のポイントがある。それ以外の根拠よりも算出しやすい、ということだ。
人月を用いなかった場合、一項目の金額を出すだけでも上記に書いたとおり、何らかの根拠を設定する必要がある。自分もそうだけれど、ある程度の経験を積めば人月じゃなくても見積もりは出せる。ただその場合でも、人月で考えるよりは金額の算出に時間が掛かる。けれどたとえば、初めて見積りを作るようなwebディレクターにとっては、かなり手に負えない。また人月でない方式だと、同じ作業でも見積もる人ごとで金額のばらつきが大きくなりやすい。「同じ会社の同じ部署のはずなのに、AさんとBさんだと同じような作業でも値段が結構違うなあ」ということが起きやすいのだ。これではクライアントに無駄な疑念を抱かせてしまう。こちらもその点を問いただされると、無駄な苦労をすることになる。人月ならば、こうしたばらつきの幅が小さくなる。
こうした事態を避けるため、人月にかかわらず各作業ごとに標準価格を設定するという対処法もある。けれど、よほど手間隙を掛けて価格表を管理しないと、けっきょく個別ケースで役に立たない。
なので、見積りを算出する側にとっても「人月」というのはなかなか判りやすいのである。もし何か見積もり金額を下げるにしても「何人月分」で下げる額を算出する方が管理しやすいし、ブレない。
とまあ、なんやらかやら書いたけれど、ここでは見積り判定の厳しいケースを想定しているので、もっと緩い判定で進んでいくケースもある。
実際には金額交渉などで様々な変数が紛れ込み、最終額はもっと根拠の曖昧な金額になっていたりするし。
「プログラマなら人月なんかさっさと超えろ」という記事について言えば、プログラマが対内的に人月という単位を超えるのは結構なことだと思う。人月で計算しようとすると2人月にも3人月にもなるような、ヤル気と技能のある人が増えれば、そりゃ当然よいことだ。「プログラムなんかしたくない」人たちに埋没して欲しくはない。それで正当な社内評価が受けられれば何よりだ。
まあそういう人が何人いようが、対外的に人月で見積りを出す場合は誰も彼も「1人月」にするけど。
【追記】
この記事ではwebディレクターが見積りを作成するように書いてあるけれど、クライアントに提出するのは営業というのが一般的だろう。そもそも会社によっては見積りを営業が作成したり、プロデューサーが作成したりするところもあるだろう。逆に営業やプロデューサーが作成するときでも、ディレクターが参考意見を尋ねられることもあったりなんだりで、みなさんご存知と思うが、見積もり一つとっても裏ではなかなかに様々な事情やケースがある。
いくつか読んだ記事では、この人月という計三単位をいかにして超克するか?ということが書かれていた。たとえば、
矢野勉のはてな日記
「プログラマなら人月なんかさっさと超えろ」
とか。
で、自分はサイト制作なのでプログラムが最終納品物ではない業種だけれど、前の職場で見積りに人月計算を導入していたりしたこともあったので、ちょっと「スーツ寄り」の立場から人月について書いてみる(ちなみに、上記ブログの記事の本題とは関係の薄い内容です)。
上記記事に
という一文がある。webディレクターという、スーツに片足突っ込んだような立場からすると、まさに「発注者側に分かりやすい」という部分において、人月計算は重宝なのだ。だいたい見積もりを立てる際、「クライアントに判りやすい見積り」「クライアントが納得できる根拠に基づいた金額」であった方がいい。それで発注してくれるかはともかく、クライアントが見積りを受け取って「なんでこの額か判らない」「理由が書いてあるけど理解できない」といった見積りは、そりゃまあよろしくない。人月というのは「人月の神話」以来、現場の技術者にとっては「お金の計算にしか使えない単位」なのですが、発注者側に分かりやすいということでいまでも大はやりしています。というか受注者側もまじめにこの単位で計算しています。
特にクライアントの担当者がwebの費用感を持っていない場合、ただでさえ提示された額が適正なのかどうか判らず不安なのだ。なにか理解可能で明快な根拠がなければ納得してもらえない。たとえ発注してくれても、金額について最後までモヤモヤした気持ちが残ってしまうだろう。そこで出てくるのが人月だ。これならwebに暗かろうが経験不足だろうがなんだろうが、算出根拠は理解できる。あとはそれによって算出された額が、予算と折り合うかどうかだ。
もし、人月でなければどうだろうか?算出根拠が少しくらい明確でなくても納得してくれるならいい。あるいはある程度の費用感を持っていて、それに基づいて金額が適正かどうか判断できるならいい。しかしそうでない場合は、なぜその金額なのかがはっきり説明できないといけない。
「最低でもその金額に見合った価値の仕事をします」と言ってみせたところで、担当者は納得してくれるだろうか?特に初取引のクライアントの場合。
その担当者はたとえば決裁権を持った上位承認者に、金額の算出根拠をどう説明できるだろうか?「業者が金額に見合った仕事をすると言っているので」とは言えない。
「ウチはこの作業内容だとこの金額ですから」という説明もあるだろうが、それではお互いに金額交渉の糸口がない。そもそも、「じゃあ、なぜそちらはこの作業がこの金額なのですか?」となれば、やはり個別に根拠を出さざるを得ないだろう。webディレクターとしては見積りを立てる以上、それなりに理由がないといけない。「なんとなくこれくらいでしょ?」というわけにはいかんだろうさすがに。
というわけで、以上が「対外的な」人月のポイントだ。一方で、「対内的な」人月のポイントがある。それ以外の根拠よりも算出しやすい、ということだ。
人月を用いなかった場合、一項目の金額を出すだけでも上記に書いたとおり、何らかの根拠を設定する必要がある。自分もそうだけれど、ある程度の経験を積めば人月じゃなくても見積もりは出せる。ただその場合でも、人月で考えるよりは金額の算出に時間が掛かる。けれどたとえば、初めて見積りを作るようなwebディレクターにとっては、かなり手に負えない。また人月でない方式だと、同じ作業でも見積もる人ごとで金額のばらつきが大きくなりやすい。「同じ会社の同じ部署のはずなのに、AさんとBさんだと同じような作業でも値段が結構違うなあ」ということが起きやすいのだ。これではクライアントに無駄な疑念を抱かせてしまう。こちらもその点を問いただされると、無駄な苦労をすることになる。人月ならば、こうしたばらつきの幅が小さくなる。
こうした事態を避けるため、人月にかかわらず各作業ごとに標準価格を設定するという対処法もある。けれど、よほど手間隙を掛けて価格表を管理しないと、けっきょく個別ケースで役に立たない。
なので、見積りを算出する側にとっても「人月」というのはなかなか判りやすいのである。もし何か見積もり金額を下げるにしても「何人月分」で下げる額を算出する方が管理しやすいし、ブレない。
とまあ、なんやらかやら書いたけれど、ここでは見積り判定の厳しいケースを想定しているので、もっと緩い判定で進んでいくケースもある。
実際には金額交渉などで様々な変数が紛れ込み、最終額はもっと根拠の曖昧な金額になっていたりするし。
「プログラマなら人月なんかさっさと超えろ」という記事について言えば、プログラマが対内的に人月という単位を超えるのは結構なことだと思う。人月で計算しようとすると2人月にも3人月にもなるような、ヤル気と技能のある人が増えれば、そりゃ当然よいことだ。「プログラムなんかしたくない」人たちに埋没して欲しくはない。それで正当な社内評価が受けられれば何よりだ。
まあそういう人が何人いようが、対外的に人月で見積りを出す場合は誰も彼も「1人月」にするけど。
【追記】
この記事ではwebディレクターが見積りを作成するように書いてあるけれど、クライアントに提出するのは営業というのが一般的だろう。そもそも会社によっては見積りを営業が作成したり、プロデューサーが作成したりするところもあるだろう。逆に営業やプロデューサーが作成するときでも、ディレクターが参考意見を尋ねられることもあったりなんだりで、みなさんご存知と思うが、見積もり一つとっても裏ではなかなかに様々な事情やケースがある。
前回の記事で「固定客の育成のために、実際にどんな施策が行われてきたか?」をまとめてみたいと書いた。その後で面倒くさくなってしまったのだけれど、しかたない。思いつくままに書いてみよう。書いているうちにヤル気が出てくるかもしれない。
もちろん、魅力的なコンテンツを頻繁に投入するという手もある。難しいうえに「施策」ではないけれど。
こうして見てみると、「継続性」「コンテンツ横断的」「多様性」「コミュニティ意識の醸成」そして「コストが実行可能なレベル」、というのがキーワードだ。また、それぞれの施策には一長一短あることがあらためて判る。いくつかを複合的に行うのがよいのだろう。
ただ、どの施策も「そのサービス、コンテンツだけの固定客」ばかりが増えてしまう可能性を持っているのは課題だ。そうした固定客は媒体資料的な価値には貢献するが、サイトの底力をアップしてくれるわけではない。まあ、それでも人が来てくれればいいじゃないか、というのはあるけれど。
- 多ジャンル化
- 端的に言って、大手ISPのポータルサイト。インターネットの国内黎明期、大手のISPはこぞって総合ポータルを開始した。つまりユーザニーズの全てを自サイト内でまかなおうとしたのだ。
これはインターネットでの情報発信の敷居が今よりずっと高かったときは上手く機能した。ユーザがネットから得ようとする情報も今ほど多様ではなかったので、生活から娯楽まで、ISPの提供する情報はユーザを満足させられていた。
しかし今では総合ポータルが扱う各情報についてより詳しく有用な情報を提供しているサイトも増え、ユーザ側もそうしたサイトを見付けられるようになっている。現在でも総合ポータルとしての存在感を示しているサイトは少ない。
また、ネットのコンテンツが多様化するにつれ、それらを総合ポータルがカバーすることは非現実的となってしまった。コンテンツの追加は時々あるけれども(○○ブログ、○○SNS)、かつてほど「総合」とは言えなくなっている。それでも各ISPが総合ポータルを続けるのは、大企業ならではの諸々のためだろう。 - メルマガ発行
- 今よりも通信コストが高く、ページ表示にも時間が掛かったころ、メルマガはユーザとの関係を構築する協力なツールだった。手軽に開始でき、製作コストもwebページより安い。「マガジン」なので一度発行すれば定期的にユーザへ違和感なく情報を届けられるし、サイトをマメにチェックしていないユーザにも「サイトで今、何が起きているか?」をアピールできる。長くなるので理由は割愛するけれど、webサイトよりも親密な関係を構築できるとされていた。これはサイト外で固定客の育成を試みた例だ。
けれども今やスパムが増え、同様の機能はブログ+フィードに期待され[*1]、徐々に衰退している。 - 更新頻度の増加
- 通信と更新のコストが低下して以降、更新頻度の増加も固定客育成に効果があると考えられている。これは今もある程度は有効だ。ただし、頻繁な更新が違和感のない&可能なコンテンツというのは多くない。かくして多くのサイトがニュースやら日替わり占いやらを掲載するようになった。これなら最低でも一日に1回は更新できるし、コンテンツ企画をゼロから考えなくても済む。購入してくることも可能だ。こうした頻繁に更新されるコンテンツの閲覧がユーザの中で習慣化することで、固定客になることが期待されている。ただしこれは「更新頻度の高いコンテンツだけの固定客」が多くなる可能性が高い。
- ブログ導入
- 固定客の育成という面からすれば、ブログに期待されている効果はメルマガと似ている。頻繁な更新、低コスト、ユーザとの親近感醸成、(フィードによる)プッシュ型情報配信…。コメントやトラックバックはおおむねオープンだが、メルマガもメールによってダイレクトにユーザの意見を吸い上げられるとされている。
そう考えると、ブログはメルマガの占めていたポジションに滑り込んできたものとも言える。ただ、ブログパーツやらアドオンやら、ブログは機能の発展がまだまだ続くだろうから、今後はメルマガとの差異が拡大していくだろう。これも「そのブログだけの固定客」ばかりが増えてしまっては、サイトの底力を上げる効果はない。 - SNS開設
- ここでのSNSは広義に「ユーザ登録をしないと閲覧投稿ができず、ユーザ間のコミュニケーション機能があるサービスで、ほぼ全てのコンテンツがユーザの手によるもの」としたい。特定のブランドや商品、企業などの特化型SNSには、そのSNS利用を通して固定客を育成しようという意図も含まれている。SNSそのものが固定客を前提としたサービス形態なので。ただ、SNSで育成された固定客がその運営元の別サイトの固定客になるとは限らない。むしろ、その別サイトがSNSの中に取り込まれたほうが、対固定客という面からは効果的だろう。
- SNS以外のCGM導入
- CGMだが、SNSと違って閲覧(場合によっては投稿も)が会員登録なしで可能なもの。こうしたCGMは更新頻度と量の増大が期待される。コンテンツ調達費も自前でまかなうよりは低コストだ。ただし、SNSもそうだが、ユーザが活発に利用してくれるにはそれなりの手間隙と工夫が必要だし、コミュニティ管理費が発生するので、コスト面での優位性は疑わしい。閑古鳥が鳴いているところも多いので、固定客育成という観点からは、有効性にしても疑わしい。あくまでも別の意図に付帯して、固定客の育成もなされる、というぐらいに考えた方がいいだろう。
もちろん、魅力的なコンテンツを頻繁に投入するという手もある。難しいうえに「施策」ではないけれど。
こうして見てみると、「継続性」「コンテンツ横断的」「多様性」「コミュニティ意識の醸成」そして「コストが実行可能なレベル」、というのがキーワードだ。また、それぞれの施策には一長一短あることがあらためて判る。いくつかを複合的に行うのがよいのだろう。
ただ、どの施策も「そのサービス、コンテンツだけの固定客」ばかりが増えてしまう可能性を持っているのは課題だ。そうした固定客は媒体資料的な価値には貢献するが、サイトの底力をアップしてくれるわけではない。まあ、それでも人が来てくれればいいじゃないか、というのはあるけれど。
- この点については「フィードという悪夢に融合するメルマガ」に書いた[↩back]
前回「“サイト内回遊率”に頭を悩ませる」という記事で、特定の商品に依存しないコンテンツについて頭を悩ませていたのだけれど、これは「固定客と浮動客」についての別側面ともいえる。以下、初心に帰って概要をまとめてみる。
浮動客とは、特定のコンテンツや記事に興味のある読者であり、特定のコンテンツが終了したり、特定の記事から一度情報を得てしまうと、戻って来てくれなくなる可能性が高い。一方で、固定客は特定のコンテンツや記事に依存しない閲覧者なので、特定のコンテンツが終了したり、特定の記事から一度情報を得てしまっても、戻ってきてくれる可能性が高い。
この度合いは、近似的にはリピーターの数や割合で見極められる。あまりに新規ユーザーばかりの場合、そのサイトに固定客は少ないということになる。とはいえ、リピーターも特定のコンテンツを見ている人ばかりだと、そのコンテンツが終了したとたんにUU数やPVが激減することにもなりかねない。
なので、特定のコンテンツがPV数などで安定的に突出しているという状況は、長期的なサイト運用という視点からは、非常にリスキーなことだ。浮動客頼みのサイトでは数値変動が激しく、媒体として予測を立てたりコントロールしたりといったことが難しい。浮動客には爆発力があるが、浮動客による閲覧は「一時的な上積み」であると認識し、あまりあてにしないのが正解だろう。
そこで、複数のコンテンツを閲覧してくれるユーザをいかに集めるか、という部分が課題となる。そうしたユーザが集まっているかどうかは、サイト内回遊率からある程度は推測できるだろう。ということで、固定客は「リピーター数&サイト内回遊率」という数値の組み合わせから判断するといいかもしれない。
これは難しい課題だ。単純にコンテンツの更新頻度や量で解決されるものではない。サイトの扱う内容によっても難易度が変わる(私が今悩んでいるサイトもその性質上、固定客の育成が難しい)。
表面的な部分を変えながらこうした話題が繰り返し語られるのも、それが難しく、かつ無視できない課題だからだ。次回はこれまで、そうした課題に対して「実際に」どのような施策が行われてきたのかを並べてみたい。そこから何かが見えてくるだろうか?
浮動客とは、特定のコンテンツや記事に興味のある読者であり、特定のコンテンツが終了したり、特定の記事から一度情報を得てしまうと、戻って来てくれなくなる可能性が高い。一方で、固定客は特定のコンテンツや記事に依存しない閲覧者なので、特定のコンテンツが終了したり、特定の記事から一度情報を得てしまっても、戻ってきてくれる可能性が高い。
この度合いは、近似的にはリピーターの数や割合で見極められる。あまりに新規ユーザーばかりの場合、そのサイトに固定客は少ないということになる。とはいえ、リピーターも特定のコンテンツを見ている人ばかりだと、そのコンテンツが終了したとたんにUU数やPVが激減することにもなりかねない。
なので、特定のコンテンツがPV数などで安定的に突出しているという状況は、長期的なサイト運用という視点からは、非常にリスキーなことだ。浮動客頼みのサイトでは数値変動が激しく、媒体として予測を立てたりコントロールしたりといったことが難しい。浮動客には爆発力があるが、浮動客による閲覧は「一時的な上積み」であると認識し、あまりあてにしないのが正解だろう。
そこで、複数のコンテンツを閲覧してくれるユーザをいかに集めるか、という部分が課題となる。そうしたユーザが集まっているかどうかは、サイト内回遊率からある程度は推測できるだろう。ということで、固定客は「リピーター数&サイト内回遊率」という数値の組み合わせから判断するといいかもしれない。
これは難しい課題だ。単純にコンテンツの更新頻度や量で解決されるものではない。サイトの扱う内容によっても難易度が変わる(私が今悩んでいるサイトもその性質上、固定客の育成が難しい)。
表面的な部分を変えながらこうした話題が繰り返し語られるのも、それが難しく、かつ無視できない課題だからだ。次回はこれまで、そうした課題に対して「実際に」どのような施策が行われてきたのかを並べてみたい。そこから何かが見えてくるだろうか?
終わりに:以下は「サイト内回遊率」を軸に考えたことをほぼ無整形、ほぼリアルタイムで書き綴ったものです。なので紆余曲折まとまりのない内容ですが、思考メモの一例として。というか、考えていることを客体化するために書いた。
“サイト内回遊率”という指標がある。一つのサイトに訪れたユーザが、そのサイト内でどれくらいのページを閲覧したか、という指標だ。測定さえ出来れば、この「ページ」とはURLベースでなくてもよいだろう。AjaxなどでURL上は不動でも複数のコンテンツを呼び出せば、それを数え上げることになるはずだ。といっても、この数値は率と言いながら%で表示されるわけではない。実際にはそれは1ユーザごとの平均PVであったり、1ユーザごとのユニークPVであったりする。
言葉の説明はさておき。単純に考えれば、この率は高ければ高いほどよい。それだけ1ユーザごとのサイトに対する興味関心度が高いということになるだろうからだ。この数値の上昇はサイト滞在時間の増加に貢献するわけだし。訪れたユーザが興味を持つ記事がそれだけたくさんあるということにもなるし、それを適切にユーザへ認知させられているということにもなるし。
つまり、同じ総PVでも「1ユーザが100ページ閲覧するサイト」の方が「100ユーザが1ページ閲覧するサイト」よりもサイト内回遊率が高いことになる。
では、前者の方が後者よりも「よい成果を出している」のかというと、そうとも言い切れない。いや、違うな。後者は「1ユーザが0.01ページ閲覧するサイト」ということだから、総PVが同じなら前者の方が魅力のないサイトということに…なるとも限らないか。
一旦仕切りなおし。「言葉の説明はさておき~限らないか。」まではなかったことにしよう。
さて、いま手がけているサイトの一つはいろいろな商品(とここでは便宜的に呼ぼう)について様々な切り口のコンテンツを提供している。まだリリース後間もないと考えてよいサイトだ。で、解析値を眺めていると、どうも個々の商品に興味のあるユーザが訪れるのはいいとして、それらユーザが他商品についてのページは見てくれない。とはいえ、それではサイト内回遊率がなかなか増えないし、滞在時間や平均PVも増えない。それらを増やすには、扱う商品数を増やすしかなくなって、これではサイト成長の効率が悪い。
けれども、じゃあ具体的な商品と関係なく、その分野に興味のある人全員を対象としたコンテンツを増やしていくか。たぶん、いずれはそうする必要もあるのだろう。しかし有限小数のリソースを今どこへ投入するかといえば、やはり商品数の増加の方なんじゃないだろうか。その方がターゲティングしやすいし、諸般の事情から「来る人が増える」ことがわりと明瞭だ。だいたい、商品の枠を超えてユーザにアプローチできるようなコンテンツを考えるのは難しい。ジャンル的に。
となると「個々の商品に結びついたコンテンツ拡充→余力で個々の商品に結びついていないコンテンツの投入」が基本線だろうか。だがそれでは不特定多数にアプローチする力がなかなか伸びない。ここは二兎を追って二兎とも得たい。だいたい、個々の商品とのみヒモ付いたユーザばかりでは、その商品についての情報を更新し続けないと、基本的にその商品とヒモ付いたユーザがどんどん離れていく。新規ユーザが流入しても、リピートユーザが増えにくいんじゃないだろうか?それはいかん。
なにかCGMでコンテンツが増えるようにするか?しかし簡素なものでもシステム導入予算がない。無管理というわけにもいかないから、管理コストも発生するか。それも今は厳しい。
いや、立ち返って“サイト内回遊率”を高めるのはそもそも何のためかというと、こちらのモチベーションもあるが、各クライアントや潜在的なクライアントとの関係性をより良好にするためだ。
なぜ良好になるのか?サイト内回遊率が高まると、ある商品について認知していないor興味のなかったユーザがその商品を認知し、興味を抱く可能性が増えるからだ。そしてそれが商品の公式サイトへの誘導につながり、クライアントの売り上げ増につながるからだ。
となると、商品に結びつかないコンテンツを増やしてそれを閲覧しに来るユーザが増えたところで、「商品の公式サイトへ誘導」という目標には直結しないんじゃないだろうか。しかし母数を増やして商品に結びついたページとの「偶然の出会い」が起こる可能性が高まるのか。でも、それって効率的には?本当に現実的な意味で「高まる」のか?確かに“サイト内回遊率”が増えるだけでも媒体資料上の媒体価値は増えるが、しかし「商品の公式サイトへ誘導」とかの実績が増えないことにはなあ。あんま意味ないわなあ。新規クライアント獲得を除けばなあ。
ということはやはり、当面は商品と結びついたコンテンツを増やして、既存クライアントとの関係性を強化することが重要なのかしらん。
“サイト内回遊率”という指標がある。一つのサイトに訪れたユーザが、そのサイト内でどれくらいのページを閲覧したか、という指標だ。測定さえ出来れば、この「ページ」とはURLベースでなくてもよいだろう。AjaxなどでURL上は不動でも複数のコンテンツを呼び出せば、それを数え上げることになるはずだ。といっても、この数値は率と言いながら%で表示されるわけではない。実際にはそれは1ユーザごとの平均PVであったり、1ユーザごとのユニークPVであったりする。
言葉の説明はさておき。単純に考えれば、この率は高ければ高いほどよい。それだけ1ユーザごとのサイトに対する興味関心度が高いということになるだろうからだ。この数値の上昇はサイト滞在時間の増加に貢献するわけだし。訪れたユーザが興味を持つ記事がそれだけたくさんあるということにもなるし、それを適切にユーザへ認知させられているということにもなるし。
つまり、同じ総PVでも「1ユーザが100ページ閲覧するサイト」の方が「100ユーザが1ページ閲覧するサイト」よりもサイト内回遊率が高いことになる。
では、前者の方が後者よりも「よい成果を出している」のかというと、そうとも言い切れない。いや、違うな。後者は「1ユーザが0.01ページ閲覧するサイト」ということだから、総PVが同じなら前者の方が魅力のないサイトということに…なるとも限らないか。
一旦仕切りなおし。「言葉の説明はさておき~限らないか。」まではなかったことにしよう。
さて、いま手がけているサイトの一つはいろいろな商品(とここでは便宜的に呼ぼう)について様々な切り口のコンテンツを提供している。まだリリース後間もないと考えてよいサイトだ。で、解析値を眺めていると、どうも個々の商品に興味のあるユーザが訪れるのはいいとして、それらユーザが他商品についてのページは見てくれない。とはいえ、それではサイト内回遊率がなかなか増えないし、滞在時間や平均PVも増えない。それらを増やすには、扱う商品数を増やすしかなくなって、これではサイト成長の効率が悪い。
けれども、じゃあ具体的な商品と関係なく、その分野に興味のある人全員を対象としたコンテンツを増やしていくか。たぶん、いずれはそうする必要もあるのだろう。しかし有限小数のリソースを今どこへ投入するかといえば、やはり商品数の増加の方なんじゃないだろうか。その方がターゲティングしやすいし、諸般の事情から「来る人が増える」ことがわりと明瞭だ。だいたい、商品の枠を超えてユーザにアプローチできるようなコンテンツを考えるのは難しい。ジャンル的に。
となると「個々の商品に結びついたコンテンツ拡充→余力で個々の商品に結びついていないコンテンツの投入」が基本線だろうか。だがそれでは不特定多数にアプローチする力がなかなか伸びない。ここは二兎を追って二兎とも得たい。だいたい、個々の商品とのみヒモ付いたユーザばかりでは、その商品についての情報を更新し続けないと、基本的にその商品とヒモ付いたユーザがどんどん離れていく。新規ユーザが流入しても、リピートユーザが増えにくいんじゃないだろうか?それはいかん。
なにかCGMでコンテンツが増えるようにするか?しかし簡素なものでもシステム導入予算がない。無管理というわけにもいかないから、管理コストも発生するか。それも今は厳しい。
いや、立ち返って“サイト内回遊率”を高めるのはそもそも何のためかというと、こちらのモチベーションもあるが、各クライアントや潜在的なクライアントとの関係性をより良好にするためだ。
なぜ良好になるのか?サイト内回遊率が高まると、ある商品について認知していないor興味のなかったユーザがその商品を認知し、興味を抱く可能性が増えるからだ。そしてそれが商品の公式サイトへの誘導につながり、クライアントの売り上げ増につながるからだ。
となると、商品に結びつかないコンテンツを増やしてそれを閲覧しに来るユーザが増えたところで、「商品の公式サイトへ誘導」という目標には直結しないんじゃないだろうか。しかし母数を増やして商品に結びついたページとの「偶然の出会い」が起こる可能性が高まるのか。でも、それって効率的には?本当に現実的な意味で「高まる」のか?確かに“サイト内回遊率”が増えるだけでも媒体資料上の媒体価値は増えるが、しかし「商品の公式サイトへ誘導」とかの実績が増えないことにはなあ。あんま意味ないわなあ。新規クライアント獲得を除けばなあ。
ということはやはり、当面は商品と結びついたコンテンツを増やして、既存クライアントとの関係性を強化することが重要なのかしらん。
とあるサイトの立ち上げに向けて、昨日まで通常の2倍の速度で働いていた。今日からやっと通常営業モードに。
通常の2倍の「量」じゃないところがポイント。必要な画像やテキストを手配してもらったら、あとはサイト設計もデザインもコーディングも、もろもろ全部一人でやった。その完成速度を上げるために2倍の「速度」で働いたわけだ。まずまずのページ数だが動的にどうこうするものでもなく、どんどん作った。全体の4分の3くらいは自分で作った。残りの4分の1(MTのカスタマイズとか)は諸事情で他の人に手伝ってもらった。今後、コンテンツが増えても柔軟に対応できる器ができたと自負している。
とまあ、「オレこんなにがんばったんだゼ」的な話がしたいわけではない。
ディレクターになってから(実際にはそのしばらく前から)、今の常駐先に来るまで自分で手を動かして何かを作る仕事はほぼなくなっていた。そこで今回わりと気張ってあれこれ実装することにしたとき、サイト制作の敷居の低下に驚き、助けられることになった。
つまり何年か前、自分が制作を主としていたころにくらべ、圧倒的にフリーのツールやら素材やらジェネレータやらが増えていたのだ。phpだって、「確かこんなことができたはず」と思って検索すると、簡単にサンプルが見つかった。自分でPHPを実装した経験が皆無に等しい身でも、特に問題なく導入できた。他にも、判らないことは調べればたいてい誰かが解説しているし、フォトショップのブラシやらなんやらもすぐに見つかる。もちろん、どれもこれも100%そのままで使えたというわけではなかったし、「道具に使われている」ほど頼ったわけではない。だが、補助的に使うのであっても、今の環境は前に自分が制作をしていたころに比べると、あまりにも便利だ。
私だってそういう事態になっていることは知っていたし、これが「いまさら携帯電話を知り、その便利さに感心している」という類の話だということは判る。しかし、本腰を入れてそうしたツールや情報を活用する身になって、あらためてその凄さが実感できた。
とまあ、ここまでが前フリ。出だしの自慢話は前フリの前フリである。今日も前フリが順調に長い。以下本論。webディレクター的な立場から悲観的に考えてみる。
こうしたweb制作を助けてくれる諸々について、現状ではweb制作者以外での認知度は低い。しかし、これくらいの情報なら時間と共にそれ以外の人へも認知されていくだろう。今後も発展してく類のモノだろうし。
となると、だ。中途半端に知っているクライアントなどから、「これってあれとかこれとか、無料でも作れるんでしょ…(だからもうちょっと値引いてよ)。そちらもああいうのって使われるんですかね?アハハッ」といったような話が出てくるようになるのかもしれない。
そこで「提案力を」「技術力を」「デザイン力を」といった「質」についての頭に花畑が広がったような寝言は言いたくない。今でもたいがいの「お金をもらって作成される」サイトやページは差別化の要素になるくらいの技術やデザインや提案力を必要としない。ほどほどのクオリティをほどほどの予算でちゃんと作ることを求められる機会の方が多い。そもそも、ほどほどの制作しか出来ないくらいの予算しかクライアントも出せなかったりする。
web黎明期に比べて様々な単価が下がり、その一方で新たな技術や手法が出てきて収入の主因が異動するという推移はこれまでにもあったわけだが、どうなんだろう?そうした推移は今後も続くんだろうか?
そりゃ予算以上のクオリティが出せれば出せるほどよいだろう。毎回、もらったお金なりの仕事しかしないというのは先細りになるし、ヤル気も出ないし。しかし、毎度それでは個人でもない限りそうそう採算が取れない。非常に有能な制作チームが素晴らしいサイトやサービスを作るのは素晴らしいことだ。しかし、それは数が少ないからこそ素晴らしいというのは当然のことだ。それ以外の人々はそこまで素晴らしくないし、だからといって飢えて死ぬわけにもいかない。
そうなると「ほどほど~」なサイトやサービス、ページを主な収入源とすることになるわけだが、そこが値を下げざるを得なくなる口実の一つとして前記の「あまりにも便利な諸々」が利用されることになったら、実に悲しいことである。仮に実際、それで制作コストが多少の値下げを受け入れられる程度に下がったとしても、どこかで標準的な価格が損益分岐点をうっかり下回らないだろうか?今でさえ、ディレクターに限らずweb制作において見積りと予算を管理する立場の人間はシビアな価格調整で頭が痛いというのに。競争力のない者が淘汰されるのはある程度しかたのないことだが、過当競争による必要以上の淘汰では全体が疲弊してしまう。それに、競争力が高いものほど数は少ないわけで、ほとんどの人や組織の競争力は自分も含めてそこまで競争力が高くない。だからといって座して死にたくはない。
たぶん歴史の長い製造業では多かれ少なかれこうした変動を何度か乗り越えているはずなので、何か参考になることもあるのだろう。だが、悲しいかな自分にはそうした情報が今のところ見付けられていない。
こうしたことすべてが、当面は確実に杞憂だろう。いつまで経とうが杞憂であって欲しい。
通常の2倍の「量」じゃないところがポイント。必要な画像やテキストを手配してもらったら、あとはサイト設計もデザインもコーディングも、もろもろ全部一人でやった。その完成速度を上げるために2倍の「速度」で働いたわけだ。まずまずのページ数だが動的にどうこうするものでもなく、どんどん作った。全体の4分の3くらいは自分で作った。残りの4分の1(MTのカスタマイズとか)は諸事情で他の人に手伝ってもらった。今後、コンテンツが増えても柔軟に対応できる器ができたと自負している。
とまあ、「オレこんなにがんばったんだゼ」的な話がしたいわけではない。
ディレクターになってから(実際にはそのしばらく前から)、今の常駐先に来るまで自分で手を動かして何かを作る仕事はほぼなくなっていた。そこで今回わりと気張ってあれこれ実装することにしたとき、サイト制作の敷居の低下に驚き、助けられることになった。
つまり何年か前、自分が制作を主としていたころにくらべ、圧倒的にフリーのツールやら素材やらジェネレータやらが増えていたのだ。phpだって、「確かこんなことができたはず」と思って検索すると、簡単にサンプルが見つかった。自分でPHPを実装した経験が皆無に等しい身でも、特に問題なく導入できた。他にも、判らないことは調べればたいてい誰かが解説しているし、フォトショップのブラシやらなんやらもすぐに見つかる。もちろん、どれもこれも100%そのままで使えたというわけではなかったし、「道具に使われている」ほど頼ったわけではない。だが、補助的に使うのであっても、今の環境は前に自分が制作をしていたころに比べると、あまりにも便利だ。
私だってそういう事態になっていることは知っていたし、これが「いまさら携帯電話を知り、その便利さに感心している」という類の話だということは判る。しかし、本腰を入れてそうしたツールや情報を活用する身になって、あらためてその凄さが実感できた。
とまあ、ここまでが前フリ。出だしの自慢話は前フリの前フリである。今日も前フリが順調に長い。以下本論。webディレクター的な立場から悲観的に考えてみる。
こうしたweb制作を助けてくれる諸々について、現状ではweb制作者以外での認知度は低い。しかし、これくらいの情報なら時間と共にそれ以外の人へも認知されていくだろう。今後も発展してく類のモノだろうし。
となると、だ。中途半端に知っているクライアントなどから、「これってあれとかこれとか、無料でも作れるんでしょ…(だからもうちょっと値引いてよ)。そちらもああいうのって使われるんですかね?アハハッ」といったような話が出てくるようになるのかもしれない。
そこで「提案力を」「技術力を」「デザイン力を」といった「質」についての頭に花畑が広がったような寝言は言いたくない。今でもたいがいの「お金をもらって作成される」サイトやページは差別化の要素になるくらいの技術やデザインや提案力を必要としない。ほどほどのクオリティをほどほどの予算でちゃんと作ることを求められる機会の方が多い。そもそも、ほどほどの制作しか出来ないくらいの予算しかクライアントも出せなかったりする。
web黎明期に比べて様々な単価が下がり、その一方で新たな技術や手法が出てきて収入の主因が異動するという推移はこれまでにもあったわけだが、どうなんだろう?そうした推移は今後も続くんだろうか?
そりゃ予算以上のクオリティが出せれば出せるほどよいだろう。毎回、もらったお金なりの仕事しかしないというのは先細りになるし、ヤル気も出ないし。しかし、毎度それでは個人でもない限りそうそう採算が取れない。非常に有能な制作チームが素晴らしいサイトやサービスを作るのは素晴らしいことだ。しかし、それは数が少ないからこそ素晴らしいというのは当然のことだ。それ以外の人々はそこまで素晴らしくないし、だからといって飢えて死ぬわけにもいかない。
そうなると「ほどほど~」なサイトやサービス、ページを主な収入源とすることになるわけだが、そこが値を下げざるを得なくなる口実の一つとして前記の「あまりにも便利な諸々」が利用されることになったら、実に悲しいことである。仮に実際、それで制作コストが多少の値下げを受け入れられる程度に下がったとしても、どこかで標準的な価格が損益分岐点をうっかり下回らないだろうか?今でさえ、ディレクターに限らずweb制作において見積りと予算を管理する立場の人間はシビアな価格調整で頭が痛いというのに。競争力のない者が淘汰されるのはある程度しかたのないことだが、過当競争による必要以上の淘汰では全体が疲弊してしまう。それに、競争力が高いものほど数は少ないわけで、ほとんどの人や組織の競争力は自分も含めてそこまで競争力が高くない。だからといって座して死にたくはない。
たぶん歴史の長い製造業では多かれ少なかれこうした変動を何度か乗り越えているはずなので、何か参考になることもあるのだろう。だが、悲しいかな自分にはそうした情報が今のところ見付けられていない。
こうしたことすべてが、当面は確実に杞憂だろう。いつまで経とうが杞憂であって欲しい。
海外のweb関連の情報を扱うニュースサイトで、ときおり「家系図サービス」なるものの話題が出てくる。たとえば最近だと
TechCrunch
「MyHeritageが1億8000万人分のプロフィールを持ってGeniと決戦へ」
この記事によると、MyHeritageという家系図サービスは
ということだそうだ。「1720万人のユーザー」「毎日15万人づつ新規メンバーが」数字だけ見ると、心が豊かになる。
とまあ、よくある流れとしてはここで日本語のオンライン家系図サービスが出てきそうなのだけれど、出てこない。あるのかもしれないが、華々しい成果がないので話題にならないのだろう。
実際に使ったことがないという現段階で、家系図サービスに思いをはせてみる。たぶん、家系図が作りやすいんだろう。まあ、招待制でなんか共有とか出来るんだろう。主に家系図を。そして家系図が広がって…。正直、そこまで魅力的な気はしない。使う人は居るかもしれないが、上記のような「新規メンバーが続々」という感触はない。英語版だから世界中のユーザを相手にしていると考えれば、特定サービスのTOPサイトとしては普通の数字なんだろうか。それとも、海外のどこかには「家系図を作ること」に何らかの価値を強く感じる文化風土があるんだろうか。
移民だとか、家族や親戚が複数の国にまたがって暮らしているとかだったら、オンラインで家系図を作って共有しあうのは「絆」みたいなものを感じさせていいのかもしれない。それなら、日本で比較的こうしたサービスが奮わないのもうなずける気がする。
とはいえ、それだけじゃないんじゃないの?という気もする。何かあるんじゃないか。使いたくなる&人に勧めたくなる何かが。ユーザの胸を熱く焦がすものがあるのかもしれない。
というわけで、しばらく使ってみようと思う。で、そのうち続報を。
→07/11/12「Geniを使ってみた」参照
TechCrunch
「MyHeritageが1億8000万人分のプロフィールを持ってGeniと決戦へ」
この記事によると、MyHeritageという家系図サービスは
MyHeritageは2005年の設立。あまり注目を集めることもなく、ベンチャーキャピタルから$9M(900万ドル)を調達した(半分がAccelから、残りはエンジェル投資家のYuval RakavyとAviv Raiz)。最近までMyHeritageでは、家系情報をアップロードするのに、専用のデスクトップアプリケーションが必要だった。情報はオンラインで見ることはできるが、変更はできない。不便なシステムだが、それでも家系図15万枚、ユーザープロフィール1億8000万人分を1720万人のユーザーから集めた。毎日15万人づつ新規メンバーが入ってきている。数でGeniを圧倒しているが、MyHeritageの方がスタートはずっと早かった。
ということだそうだ。「1720万人のユーザー」「毎日15万人づつ新規メンバーが」数字だけ見ると、心が豊かになる。
とまあ、よくある流れとしてはここで日本語のオンライン家系図サービスが出てきそうなのだけれど、出てこない。あるのかもしれないが、華々しい成果がないので話題にならないのだろう。
実際に使ったことがないという現段階で、家系図サービスに思いをはせてみる。たぶん、家系図が作りやすいんだろう。まあ、招待制でなんか共有とか出来るんだろう。主に家系図を。そして家系図が広がって…。正直、そこまで魅力的な気はしない。使う人は居るかもしれないが、上記のような「新規メンバーが続々」という感触はない。英語版だから世界中のユーザを相手にしていると考えれば、特定サービスのTOPサイトとしては普通の数字なんだろうか。それとも、海外のどこかには「家系図を作ること」に何らかの価値を強く感じる文化風土があるんだろうか。
移民だとか、家族や親戚が複数の国にまたがって暮らしているとかだったら、オンラインで家系図を作って共有しあうのは「絆」みたいなものを感じさせていいのかもしれない。それなら、日本で比較的こうしたサービスが奮わないのもうなずける気がする。
とはいえ、それだけじゃないんじゃないの?という気もする。何かあるんじゃないか。使いたくなる&人に勧めたくなる何かが。ユーザの胸を熱く焦がすものがあるのかもしれない。
というわけで、しばらく使ってみようと思う。
→07/11/12「Geniを使ってみた」参照
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