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海螢の昼行燈 -To be determined-

臨床人体実験

27 8月

タスキーギ梅毒実験(8)

Tuskegee-syphilis-study_subjects-talking-to-nurse-eunice-riversタスキーギ梅毒実験(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)

 


rivers

 

 

リバーズ看護師を縛っていたもう一つのヒエラルキーがあります。それは医療従事者と医学者の関係です。タスキーギ実験が始まった当時、アメリカ社会における科学者の地位は高く、実験に携わった人の社会的地位を押し上げました。彼女の経歴はその流れに平行して深まって行ったのです。

リバーズ看護師自身は、決して医学研究が理解できるようなそぶりも示さなかったし、研究ということについて、あまり考えることもないと明言していました。彼女は臨床家だったのです。

 

性的役割も倫理面における彼女の受動性を示しています。看護師はほとんど女性であるし、医学界はアメリカ社会一般同様、男性優位です。

人生初期においては父親が、また、職業の上では大学病院の院長であったディブル医師が彼女の職業上のモデルとなり、また彼女を実験コーディネーターとして個人指名したのもディブル医師でした。上司に当たる人は、全て男性でした。

リバーズ看護師は、被検患者を守るためには、時には、医師と口論するのを厭わなかったこともありましたが、このほとんどのケースは、そのような状況下ではそうするよう、もともと指示されていたからでした。

 

最後に、人種の問題がありました。

 

彼女は黒人で、実験を仕切っていた医師たちは白人でした。医学・医療界は白人優勢です。

彼女は、黒人男性のみが選別され、組織的に騙されウソをつかれ、治療を拒否され、そしてそのうちの多くは、梅毒のために亡くなったことを知っていました。それでも彼女は、実験が人種差別であるとは考えていませんでした。彼女には、実験が人種差別であるということに対する否認(ディナイアル: denial)があったのです。

 

否認とは、受け入れがたい事実に直面しなければならない時に、その事実の存在を認めない、無視することによって、無意識的に心理的葛藤を和らげることで、心理的自己防衛機制のひとつです。

 

歴史学者のジェームス・H・ジョーンズは、この否認を説明する最大の理由として階級意識をあげています。

 

彼女が直面するジレンマは、実験にかかわる全ての黒人のプロフェッショナルに共通するものでした。

タスキーギ梅毒実験では、長いこと科学にも医療にも無視されてきた黒人に、科学研究に対する情熱と公的資金が注がれた一方、実験の枠組みそれ自体が、病気の研究ではなく、白人と黒人は医学的に異なることを証明しようとする、人種差別を強化するための病人の研究であったのです。

 

リバーズ看護師と実験被検患者である男性達の間には、社会的格差が存在しました。

この社会的ギャップが、黒人は白人とは異なるということを証明する試みが暗示するものに対して、彼女の感受性を鈍らせたのです。

 

階級意識は、看護師という専門職についているという意識によって強化され、彼女や他の黒人専門職者を、白人研究者の側に置いたのです。

社会階級を上昇しつつある黒人にとって、黒人がまたもや白人とは違うと言うこと証明することに、個人的に脅威を感じることはなかったのです注)

 

そうは言っても、彼女は命じられた範囲の制限内で出来るかぎり、誠心誠意、被検患者に尽くしました。被検患者は全て、自分たちに注がれる彼女の献身を、感謝の念を持って好意的にとらえていました。

 

リバーズ看護師個人は、民事でも刑事でも告訴されてはいません。

 

さて、ここで再び改めてお聞きします。リバース看護師の取った行動について、どうお感じになられましたか?

 

James H. Jones.  BAD BLOOD – The Tuskegee Syphilis Experiment - New and Expanded Edition.  The Free Press. New York. 1993.

 

 

 

注)この辺ちょっと、ジョーンズの、アメリカの学識者に多いと言われる、左翼がかった態度を感じます。私の個人的経験では、医学、遺伝的には人種の違いはあるというのが実感です。実際に社会的に成功した黒人が、そうでない黒人の、無知や、犯罪と暴力に支配される極貧層のすさんだ生活振りを改めようともせず、差別のせいにして社会から恵んでもらう権利があって当前としたり、逆差別をすることに同調するとしたら、そちらの方が反社会的行動であろうと思います。

26 8月

タスキーギ梅毒実験(7)

タスキーギ梅毒実験というのは、治療法の確立された疾患である梅毒について、医学史上最も長期にわたり治療を施さずに人体実験を、しかもナチスの実験と違って、平和な時代に引き続いてこのような人権を無視した非道なことをしたという、悪名高い事件です。また、被検患者はすべて黒人男性でした。しかもこの実験を40年間運営していたのは、アメリカ合衆国の連邦政府機関である、アメリカ公衆衛生局(PHSだったのです。

タスキーギ梅毒実験(1)(2)(3)(4)(5)(6)

この非道な人体実験をこれほどの長期にわたり支えたキー・パーソンは、なんと黒人女性の看護師でした。

 

(5)で、私は黒人看護師のユーニス・リバースは、自己欺瞞に陥っているといいました。(6)のように、彼女は奴隷解放後の黒人の地位をあげるために、同じ奴隷出身者であるブッカー・ワシントンの驚異的な尽力で設立された学校、タスキーギ・インスティチュートで看護師の資格を取り、母校であるタスキーギ・インスティチュートの大学病院で働いているときに、実験のコーディネーターに抜擢されました。

長年悪名高い人体実験に携わりながら、彼女は、なぜ途中で、これはおかしいと気付いたり、疑問に思ったりすることがなかったのでしょうか?

歴史学者のジェームズ・H・ジョーンズはこれについて考察を加え、説明を試みています。

まず、アラバマ州メイコン郡の黒人の置かれた状況があまりにも劣悪だったということがあります。

リバース看護師は、被検患者の人権無視どころか、被検患者が近隣の住人に比しむしろ“特権階級”的存在になることを恐れていたのです。

実験が始まった当時(1932年)、メイコン郡の黒人は近代医学とは無縁な生活をしていました。寄生虫(hookworm)、ペラグラ、結核、梅毒、その他多数の病気が蔓延していましたが、揺りかごから墓場に至るまで医者にかかることなく一生を終えるのが、多くの人の運命でした。

これと比べたら、被検患者は定期的に診察、検査を受け、梅毒の治療こそ受けられなかったものの、アスピリンやその他のちょっとした薬すら与えられました。

医学は科学であると同時に技能(アート:art)であるという議論からすれば、リバース看護師にとっては、被検患者は想像しうるかぎりの、治療を含めた医療行為を受けることができた、という説明になるのです。

また、リバース看護師の周りは、被検患者が受ける診療行為を見て、何とか自分も実験に加えてもらえないかと懇願する人の群れであふれたのです。

このような事情と、それを眺める周辺の人々の反応を見て、リバース看護師は、実験は倫理的に正当だと、強く信じ込むようになりました。リバース看護師はこの実験初期の印象を、その後長期間、終生保持し続けることになります。

のちに大恐慌も太平洋戦争も去ったあと、世界一豊かな大国アメリカは、公衆衛生政策を推進し、ペニシリンによる梅毒の撲滅運動を展開しました。このとき被検患者は、梅毒撲滅プログラムから遠ざけられ、故意に治療を受けられないようにされ、その結果、近代医学の進歩から取り残されて、リバース看護師の恐れとは正反対の方向に、一般から隔離されて行く結果となりました。実験初期の体験が与えた印象は、彼女から、その後の医学・医療の進歩に伴い、実験が何を意味するのかを関連付けたり、その意味を推測する力を奪ったのです。

また、彼女はドクターのオーダーに従うよう、そして患者の面倒を良くみるよう訓練されて来ました。彼女の時代、看護学校は、医師の指示と患者の最善の利益の間に、矛盾や葛藤がありうることを認識するよう教えるものではありませんでした。彼女を教えたタスキーギの教官、地域の開業医、そして彼女の上司であったアメリカ合衆国公衆衛生局の医師たちは、皆、実験にかかわっていました。彼らの判断に対して疑問を抱くと言うことは、彼女には思いもよらないものでした。

<つづく>


James H. Jones.  BAD BLOOD The Tuskegee Syphilis Experiment - New and Expanded Edition.  The Free Press. New York. 1993.

 

 

4 7月

タスキーギ梅毒実験(6)

ちょっと間が空いてしまいましたが、タスキーギ梅毒実験の続きです。

 

タスキーギ梅毒実験とは、黒人男性被験患者に対し、治療法の確立した性病である梅毒を治療せずに、梅毒がどのように進行して患者を死に至らしめるかを観察した、40年の長期にわたる人体実験です。この人体実験は米国国家機関がとり行い、米国医学史上、最悪の人権無視の事件として認識されています。

 

前回は、このひどい人体実験のキー・パースンは、被害者と同じ人種である、黒人の看護婦であったという話をしました。

タスキーギ梅毒実験(5)

タスキーギ梅毒実験(4)

タスキーギ梅毒実験(3)

タスキーギ梅毒実験(2)

タスキーギ梅毒実験(1)

 

 タスキーギ梅毒実験のキー・パーソンであった黒人女性看護師ユーニス・リヴァーズは、アラバマの地元出身者で、タスキーギ・インスティテュートで教育を受け、働いていました。

 

タスキーギ・インスティテュートというのは、19世紀の後半黒人の地位向上を目指して、ブラックベルトと呼ばれるアラバマ州メイコン郡のタスキーギに創設された学校です。当時黒人は、ジム・クロウ法 1876年~1965年)のために、南部では公立の学校で教育を受けることはできなかったのでした。

 

ジム・クロウ法というのは、奴隷制が撤廃されても黒人を奴隷同様、南部の農場に縛り付けておくための法律でした。


南北戦争(1861-1865年)終結後、アメリカ合衆国の黒人奴隷制度は廃止されましたが、その後の復興の時代(レコンストラクション:1863-1877年)
に、保守派で敗戦した側である南部の民主党は再び勢力を盛り返し、北部の急進派共和党の間で政治抗争が起こりました。

その結果、「分離すれども平等」を合法と判断したアメリカ合衆国最高裁の判断1896年)が示され、こののち、ジム・クロウ法として知られる数々の差別法が加速され、黒人奴隷解放を形骸化しました。

こうして黒人を隷属状態から開放せず、農園の労働力として温存したのです。

 

また、黒人や彼らをサポートする白人に対してテロ活動が起こりました。

選挙での黒人の投票行動を、武力・暴力によって実力阻止したり、無差別に黒人住民をターゲットにしたリンチが横行しました。犠牲者は、生きながら焼かれるようなこともあったそうです。

 

公民権運動が高まる1960年代になるまで、南部では黒人に対するリンチは一般的に行われていました。

 

このような社会状況下、タスキーギ・インスティテュートは、ブッカー・T・ワシントンによって、”Negro Normal School in Tuskegee” (タスキーギ黒人尋常学校)の名称で、1881に創設されました。

現在はタスキーギ大学と呼ばれています。

 

ブッカー・T ・ワシントンBooker Taliaferro Washington, 18561915年)奴隷として生まれ、大変な苦学のすえ、アメリカ黒人の地位向上を目指して教育者、指導者として活躍した人物です。タスキーギ黒人尋常学校の設立から亡くなった1915まで、同校の校長として、また著作や、各地で多数の講演、演説に招かれ、黒人の地位向上に尽力しました。


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 英語の勉強に興味のある人は、是非この自叙伝を読んでみて下さい。ブッカー・T・ワシントンは地に足の着いた実践的な人で、実質的に黒人社会に貢献しました。白人の支持者も多く、アプローチの仕方が違うので比べるには無理がありますが、キング牧師マルコムXよりも、本質的に偉大な人物のように、私には感じられます。http://www.topicsites.com/booker-t-washington/booker-t-washington-biography.htm

 
 

奴隷解放宣言(1862年)により、制度上奴隷制は廃止されたものの、それまで教育の機会に全く恵まれなかった黒人には、近代化して行く社会で自立して生きるすべは、全く身についていませんでした。

 

 
また、黒人の人口に占める割合は、10%程度で、圧倒的大多数の白人のもと、黒人は文字通りのマイノリティーにすぎません。

 

平等を主張し、権利獲得のために政治活動に身を投ずる人は多かったのですが、

ブッカー・T・ワシントンは、真っ向から白人と対立するより、社会の需要に応える生産的な活動を行うことによって、経済的自立と社会的地位を獲得して行こうと考え、手に職を付けるという実学的教育の普及に熱心に取り組みました。

単に職能技術を教え込むのではなく、どうやったらより合理的、効率的にその技術・技能を活用でき、改善することができるかという点にも重点を置いていました。

 

奴隷というのは所有者にとってはヒトではなく、手段であり、持ち物です。黒人奴隷は祖国のアフリカから切り離され、伝統や、祖先から受け継いでいるものは、基本的には何もありませんでした。

 

事実、ブッカー・ワシントンは、自身の先祖について、どのような人たちで、どのような生活をしていたのか、全く手がかりがないと、自伝の中で述べています。また、彼の生物学的父親は白人でしたが、奴隷女に産ませた息子について、自分の「子供」だという認識はなかったようです。

 

彼が、その驚異的に強靭な意志、克己心、忍耐、実行力をもって獲得し広めたものは、アメリカ社会で成功するために、失ったアイデンティティーに替わる、アングロサクソン、清教徒の宗教・道徳・文化に、みずから進んで同化し、それを同胞である南部の黒人に広めたことであったともいえます。

 

 

<つづく>

 

 

6 6月

タスキーギ梅毒実験(5)

タスキーギ梅毒実験(4)

 

前回、タスキーギ梅毒実験はその根底に黒人に対する人種差別があると言いましたが、

白人=加害者で悪人黒人=気の毒な被害者というふうに、単純な図式にはなりません。

 

タスキーギ梅毒実験は、40の長きに渡り継続しました(1932年~1972)。その間、実験担当医師は入れ替わり立ち代りしています。担当者が変わってゆく長期実験において、実験を存続させる鍵となった人物は、なんと黒人の女性だったのです。



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この黒人女性はユーニス・リヴァーズという看護師で、臨床実験のコーディネーターとして
40年に及ぶの実験の、ほぼ全過程に携わった人物でした。

 

1930年代に南部の黒人女性看護師白人男性医師の指示のもとで働く場合、現実問題として、実験に異議を申し立てたり、変更を求めることなど不可能だということは十分に考えられます。しかし1950年代までにリヴァーズの知識と被験者との間の親密な人間関係に、実験に関与する医師はますます依存するようになり、彼女をむしろ同僚として扱うようになったとの指摘があります。

 

この実験医師らとのグループ写真は、彼女の実験における重要性を示唆するものなのだそうです。(写真の中に一人黒人男性医師がいますが、この医師は実験とは無関係だそうです。)

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また、リヴァースは、実験開始から22年目に突入した1953に、実験について学術雑誌に筆頭著者として報告を発表しており、他の論文にも共著者として名を連ねています。

 

リヴァーズは死ぬ前にインタビューを受けていて、その中で彼女は、被験患者は明らかに実験から大きな利益を得ていると感じていると言っています。被験患者は定期的な診察を「政府の医師」から受けており、そのようなサービスはメイコン郡のほとんどの人には手がとどかないものでした。 

またのちに、公衆衛生局の予算は、種々のちょっとした症状に対する被験患者の医療費をまかなうようになりました。しかし依然として、梅毒に対する治療は全く行われなかったのです。

 

タスキーギ梅毒実験1972に、新聞による実験の記事掲載により、ようやく中止されましたが、その時代でもアメリカ人にとって医療とはそういうものだったとのだという点が注目です。日本では国民皆保険1961に達成されました。

 

リヴァーズについて、彼女は全面的に被験患者のために献身しており、心情的にも被験患者に大変愛情深く接していたと、被験患者はみなそのように証言しています。

 

このエントリーの元記事は、彼女の「倫理観」をよく表現している箇所を、1953年の学術雑誌の報告から抜粋していますので、訳してみます(p.4, 結論:Conclusionsの直前のパラグラフ)。

 

長期間に渡って、ひとつのグループの人々と働いていると、誰でもこれらの人々に情が移らずにはいられない。それがこの臨床実験にかかわる看護婦の体験であった。看護婦は被験患者を個人的に知るようになり、被験者の抱える問題を理解することによって、ときになぜ、被験者が一見奇妙な反応を返してくるのかがわかるようになった。

その絆は、単なる看護婦と被験患者の関係を超えて、より強固になった。看護婦の助言は、完璧な自信に満ちていた。被験者のあるものは看護婦の専門領域ではないことも持ち出して尋ねるようになった。建物の心配、保険やその他の事柄について、彼女は何も的確な助言はできない。しかし看護婦はいつもこれらの被験患者に対して最善と思われる相談先を教えた。

被験者が看護婦をたよりにし信頼しているのを知れば、看護婦は心を開いて、患者に対して批判的にならないよう、常に注意を払わなければならない。これは、最も倫理的な手段によって、被験患者が最上のケアを受けることができるよう助けるためである。

 

 

彼女の口調から推測すると、治療法があるにもかかわらず無治療の臨床実験に参加することが、被験者である梅毒患者の利益であると、心の底から信じて、実験のために献身して働いたようです。極めて巧妙な自己欺瞞におちいっていると考えられます。

 

 

<つづく>

 

こういう大変不名誉と思われる資料をタダで一般公開し、世界中から誰でもアクセスできるようになっているとことが、アメリカ合衆国の大したところではないでしょうか。アメリカから何かを取り入れるなら、日本はこういうところを見習うべきではないでしょうか。

 

26 5月

タスキーギ梅毒実験(4)

昨日のつづきです。

          タスキーギ梅毒実験(3)

 

エイズ関連団体による公聴会のひとつにおいて、ジョンズ・ホプキンズ病院という全米で常に一、二を競う大学病院で、医師が患者から聞いたエピソードの中に、ある黒人女性は子供の時に


『暗くなる前に家に帰らないと、道端でジョンズ・ホプキンズの職員にひっ捕まえられ、さらわれて、夜中に地下室で実験台にされてしまうよ。』


と言い聞かされたというのがありました。

 

タスキーギの物語は、黒人社会において、子供のときによく聞く物語の中心的存在となったのです。

 

こうして話は、受け継がれて行くにつれ誇張されて行きました。間違いをそのまま出版し、「実験の被験者は故意に梅毒に感染させられた」とするものもありました。

 

タスキーギ梅毒研究が、エイズの予防・治療の普及に対して障害となっているのは明白です。


また、ネイション・オブ・イスラム
という、過激な黒人差別解放運動を展開して来た、米国黒人イスラム教団は、エイズ治療薬の効果は極めて疑わしいというデマを流しました。これについて、ネイション・オブ・イスラムは、タスキーギを人種差別闘争のカードの一つとして使ったのだとする指摘があります。


さらに、なぜ、黒人は白人に比し献血や臓器提供をすることが少なく、黒人の子供はワクチン接種率が低いのか、タスキーギ事件がこれを説明するとする意見もあります。

 

記事当時、生存する犠牲者は87歳から100109歳とされていました。1974年の和解で、生存者には37500ドル、死亡した犠牲者の家族・子孫には15000ドルが支払われました。

<概訳オワリ>

 


和解補償
には犠牲者から病気をうつされた妻や、先天性梅毒で生まれた子供は考慮に入っていないそうです。

 

事件の告発をしたピーター・バクストン1965年に27歳で疫学者として米国公衆衛生局に入局し、1966年と1968年に公衆衛生局内で、真正面からタスキーギ実験の非倫理性を訴えます。しかし相手にされず、1972年に情報公開に踏み切りました。そのときには弁護士だったので、1968年から1972年までの4年の間に、退職してロースクールに通い弁護士になったようです。ロースクールは卒業するのに普通3年かかり、それから弁護士の資格試験があります。

 

国家機関に2回噛み付いたものの歯が立ちませんでしたが、それでもあきらめず、もともと“チョー安定職”のはずの、いわば国家公務員の身分を投げ捨てます。30歳になって、疫学者だったのが、ガラリと進路を変えて、なんと弁護士の資格を取った上で、重大な社会問題の告発をしたのですから、本当に根性入ってますね。すごい人です。

 

アメリカという国は、タスキーギ事件のような、日本人からしたら"映画的”なまでに極端な事件がありますが、義憤からか、それとも他に何かあるのか、バクストンのように、これまた“映画のヒーロー”みたいな濃い生き方を選ぶ市井の人がいるわけで、やはり広大な、スケールの大きな国だと思わされます。

 


<つづく>

 

プロフィール

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