自宅の入っているビルの階段の踊り場で、半同棲状態のガールフレンドが、他の男と話をしているのを見て、逆上した男が、女性と話をしていた男を殴ってボコボコにしたところ、今度は殴られた方の男が恨みに思って、どこからか拳銃を調達し、仕返しに、殴った男の左のこめかみ付近に一発お見舞いしました。
弾丸はこめかみの下部から、斜め下方に向かって進み、顎を砕いて喉(のど)を貫通して出て行きました。おかげで脳味噌は無事だったのです。
こうして幸運なことに、撃たれた男は、脳損傷によって死んだり廃人になることをまぬかれました。
そのかわりに、形成外科医と脳外科医は、顎を整復して、金属のワイヤーで上下の顎を閉じ付け、砕けた顎の骨がくっつくまで、動かないよう固定しました。”Your mouth is wired shut.” です。口が開けられません。
喉の方は、呼吸のための気道を確保するために、気管切開され、気管チューブが差し込まれました。気管切開は、声帯の下方でなされるので、空気は声帯を通過せず、声が出せません。
首には念のために、頚椎損傷用のカラーを装着しています。
口から食べたり飲んだりすることは不可能なので、腹に穴をあけ、胃の栄養チューブの設置が、顎と喉の手術時に同時に行われました。
患者さんは、外傷時の状況から察しがつくように、マッチョ系の筋骨隆々たる男性で、黒人でした。手術後間もなくのため、見た目はアンドロイドみたいですが、アタマははっきりしているし、首から下は栄養チューブが腹から突き出してるほかには異常なく、点滴台に流動食のバッグをぶら下げて、ゴロゴロ押しながら歩ける状態にまで回復していました。
その頃、夜勤の看護師さんに、身長150センチもないような、20代後半か30代前半ぐらいの小柄なフィリピン人女性がいました。
ある朝、このコワモテ系のおっさんが、ふるふるしながら、2度とそのフィリピン人の看護師を自分につけてくれるな、と訴えたのです。
痛み止めを頼んだのに、いつまでたっても薬をよこさず、おまけに極端に無礼だったというのです。
その夜、痛み止めは、処方された上限の半量だけ投与されていました。フィリピン人の看護婦さんは、麻薬系の痛み止めなので、中毒を心配して投与量を加減したと言い訳をしました。
術後の痛みがあるし、身体の大きい患者さんなので、処方の痛み止めの量には問題がなく、処方通り投与して良いことが、改めて彼女に説明されました。
無礼だったかどうかの事実はさておき、身動き可能で怒ったら何するかわからないような、こんなコワイ系のおっさんに、そこまで強気に出るわ、オーダーは無視するわ、この小柄なフィリピン女性の神経の図太さに、びっくりしました。
しばらくして、このフィリピン人の看護婦さんは、夜間せん妄の患者さんから、暴行を受けたか、ほとんど受けかかったという話を聞きました。実際、本当に怪我をしたわけではありません。このときの患者さんは、クリプトコッカス髄膜炎という、真菌(カビの一種)による重症の髄膜炎の回復期で、その病棟では、それまで夜間せん妄状態になったことは一度もありませんでした。患者さんは西アフリカにあるシエラレオネからのアフリカ人移民で、英語も上手で、病気になる前は米国でソーシャル・ワーカーとして働いていました。母国では高学歴で、非常に折り目正しい人でした。
私は、ふうんと思って聞いていました。
米国にはフィリピン人の看護婦さんがたくさんいます。フィリピン人女性は小柄で美人が多いことで有名ですが、看護婦さんとしては、結構神経が荒いというか、キツイ人が多いような気もします。
でも、彼女らがどうというより、日本の看護婦さんが特別に優秀なのです。優しいし、気は利くし、看護師としての専門技量も大変優れています。看護師と医師の技術は本来別ですが、状況によっては医師をしのぐといっても良いほどの腕前の人もみかけます。
逆に看護技術において看護師をしのぐ医師というのは存在しません。
その大変優れた仕事内容の割には、日本の看護婦さんは、私の知る範囲では非常に粗雑に扱われていました。やりたいと思う人がいなくなっても不思議ではありません。
日本ではサービスを提供する人、受ける人の態度は相補的関係で、サービスを供給する時には、奴隷のようだが、受ける側になるとモンスターに豹変するということをいう人がいます。
ところが私の知りあった日本の看護婦さんは皆、職場で優秀な人は、立場がどう変わっても、いつも他人への気配りを忘れず、親切でやさしくて立派な人ばかりで、そのような裏表などありませんでした。
最近では、日本人で看護師になりたい人がいないなら、外国人看護師の受け入れをすればいいじゃないかという発想のようですが、これほど要求水準が高くて、報いが少ないと、
1. 定着する人が出てこない。
2. 短期間で大量に外国人採用。マジョリティーが外国人看護師になり、看護の文化が変わる。
1.だと看護師不足は解消されない、2.だとサービスの質が外国並みに低下する、ということになります。
外国人労働者絶対反対とまでいう気はありませんが、やっぱり、人間評価されないとやる気なくなりますから。
そして、仕事を通じて社会に役立とうなどという殊勝な考えの人が多い日本のような国は、たぶん世界のどこにもないんだと思います。仕事とは、お金のためにイヤイヤするものというのが世界の常識です。それなのに、それ以上にやる気のある人まで耐えられないほどの厳しい環境を作って、人手不足、必然的に質の低下、最後に自分が身動きできなくなった時には、質の高いサービスは、もはやどこにもないという状態がやって来るのかもしれません。
まるでYour mouth is wired shut.
不自由です。
やはり、お客様は神様とふんぞりかえるのではなくて、
「素晴らしいサービスをありがとう」
がいいですよ。看護師をやろうと思う人が増えるかもしれませんし、
これなら外国人にも通じます。