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海螢の昼行燈 -To be determined-

文化比較

10 7月

家族の風景(2)

ランチ・パーティーは各人の結婚観ないしは結婚生活についての会話で和気あいあいと過ごされました。有志に手作りでかなり大きなケーキを焼いてくれたくれた人がいました。生クリームとパールの砂糖菓子で覆われた真っ白なケーキは、豪華に花束で飾られていました。みんな最初、花束は造花だと思ったのですが、本物の生花でした。茎の根元が水を満たした鞘でおおわれ萎れるのを防ぎ、ケーキに刺してあったのです。しかも中身はチョコレート・ケーキですから、とってもオサレな上においしいのです。こんなケーキを作ってくれる人の凝り様もすごいのですが、パーティーの最後に、独身の女性群が一列に並んで主役の女の子が後ろ向きに花束を放り上げ、女達の嬌声のなか、その中の一人が花束をはっしとキャッチして、次の花嫁となるべくパーティーは締めくくられたのでした。

それで大変印象深かったのは、日本と違って、女性の社会進出がすっかり当たり前になっている米国の職場での、女性の結婚に対する並々ならぬ関心でした。未婚者のみならず既婚者もです。ヒスパニック(スペイン語を話すスペイン以外の国々、中南米の人)系の秘書さんがおられるのですが、たとえばメキシコ人の文化は昔の日本風で、肝っ玉母さんタイプの働き者で包容力の高い女性に、親分子分みたいな縦関係の強固な男社会です。その普段は暖かく陽気なタイプの女性が、夫に腹が立つとご飯を作らず、キッチンをピカピカにして無言の抗議に出るのだそうです。「子供のご飯はどうするの?」と、他の一人が聞くと、「旦那が面倒をみる」ことになっているのだそうです。普段がとてもあったかい雰囲気で面倒見が良いので、ピカピカで食べ物の気配の無いキッチンというのは、旦那にしてみれば、さぞかしホラーじゃのぉ、と想像してこちらの方が寒くなったのでした。この秘書さんは他にもあれこれ結婚生活について指南していました。

一方、米国の南部のある地域で育って、今二十歳そこそこの人が、彼女の高校では卒業と同時に結婚する人がワンサカいたというので、「親か年長者が仲介する、お見合い結婚なのか」と聞くと、そんなものはないと言って笑われました。つまり高校卒業までに恋愛して、卒業と同時にゴールインが普通と言う地域があるわけですね。それを聞いてドイツ人の大学生が、ドイツの彼女の周りではみんな大学に進学し、生涯の伴侶を選ぶなどと言う考えは彼女くらいの年では想像もつかない、どうやって相手を見つけたらいいのか、どのタイミングで結婚したらよいのかわからない(だから心配というニュアンスを感じました)、と言いました。ユダヤ系の女の子は、若い女の子らしく結婚生活にとても憧れを持っているようでした。

するとアフリカ系の秘書さんが、黒人社会における結婚、家族に関する熱弁をふるったのでした。

黒人には、シングル・マザーがとても多いのです。テレビのドラマなどを見ていても、黒人のカップルは、盛大にけんかします。どうも男性には家庭を持つということに無責任な人が多く、女性とそれなりの関係になってもマジメに家族を作って暮らそうとしない人がかなりあるようです。一方、女性は子供ができると、果敢にシングル・マザーとなってでも、子育て、日々の糧を得る為に健気に働く人が多いのです。日本と違ってアメリカでは、ある女性が強い人だという評価は皮肉ではなくポジティブで、さらに黒人社会では、特にほめ言葉のようです。家庭を作るということに関して男性が当てにならないので、家族の維持、子供を育てるためにも、女性は強くなければならないようです。日本風のかわいい妻は全く通用しないように見えます。

ところで、母子家庭が普通ということになると、家庭における父親像というのが、なんだかわからなくなってしまうのですね。これは後々の世代にも影響を及ぼします。とくに男の子を持つシングルマザーは、男の子をどう躾けたらよいのか、成人男性のあるべき姿とは何なのか、子供に伝えることができなくなってしまったのです。

そこで結婚して家庭を持つという、人生の一大事には違いありませんが、普通の生活と人々が思っていることが、その黒人の彼女にとっては、ことさら難題なのです。



<つづく>

25 5月

Why are we over-eating though we know that it is bad to our health?

After a while, when I had first time talked to my parents with Skype, they said my face got round. I have gotten some weight, which is true, but my body mass index (BMI) is still around 22 (normal range: 18.5-24.9; over weight: 25-29.9; obesity: >=30).
Well, yes, I have become the heaviest in my life. I have gained 15 pounds (7 kg) since I came to US.

My bones may be thin, and I may not have much amount of muscles compared to ordinary Americans, so I should keep my body weight to the lower side on BMI. In addition, Japanese are more susceptible to diabetes. I should be more careful what I eat. There are many diabetic patients as Japanese and Japanese Americans who are not obese at all. Recently, the genes have been discovered, which cause Japanese to get diabetes more easily than Caucasian.

http://www.oucom.ohiou.edu/dbms-blazyk/Zimmet%202001.pdf

http://www.nature.com/ng/journal/v40/n9/abs/ng.207.html

 

Presentation1

I will eat less from now on.

Last Sunday, dinner was half-brown rice (Haiga-mai,
胚芽米), Miso-soup (with wakame-seaweeds, sliced round onions and potatoes), Tofu as Hiya-Yakko with grated ginger, green asparagus roasted with a little olive oil and salts, and steamed or boiled eggplants with a little sesame oil and bonita flakes (Katsuo-bushi). I used citrus soy sauce (pon-zu in Japanese) for seasoning. Also, I ate anchovies (Niboshi) used to make a soup stock for Miso-soup.

I felt stuffed quickly; however, calories-wise, it was not that much (I believe the dinner was 500-600 kcal), but the amount of the foods might be big enough to make me feel stuffed, and the meal was rich in minerals and dietary fibers.

 

Compared to this oriental meal, I feel that American foods like potato-chips, cakes and processed foods exaggerate your appetite, so you can over-eat easily. I would say the same thing about foods in fast-food restaurants.

The other day, I was really surprised that some of the meal sets in ‘Burger King’ were over 2,000 kcal, just for one meal!

And I can eat-up this kind of meal set without any problems and even do not feel it is a heavy or high calorie meal, and after eating, I may still want to get something sweet for a dessert.

Doesn’t it sound crazy?

 

Flavors and tastes in those American foods enhance your appetite and can even cause craving. In addition, the strong chemical-like tastes of those foods dampen your taste buds and make you unable to enjoy real fresh foods. As a result, you eat those convenient foods more and more because they are immediately ready to eat and cause craving. A vicious cycle kicks in your system.


Over-eating plays a major role for alarmingly increasing type 2 diabetes. This behavior is exaggerated by strongly artificial tasts of processed foods that urge people into over-eating.

 

 

 

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26 12月

おまかせ医療の文化的背景

米国臨床研修1年目のときのことです。近所で洋裁店を営むコリアンのおじさんが、急病にかかって、私がインターンをしていた病院に入院しました。

この方はヘビー・スモーカーだったのですが、かなり珍しいタイプの急性心不全になっていたのです。病棟では主治医チームのほかに心臓・循環器専門医がその日の回診に加わっていました。

ベッドサイドには、少しアクセントの残る流暢な英語を話す
20
代前半くらいに見える患者さんのお嬢さんが、通訳を兼ねて立ち会っていました。

心臓の先生の質問を、丁寧に訳しては父親に伝えますが、肝心の患者さんはといえば、ひとことふたこと答えるだけで、木で鼻をくくったような応対です。

それでその心臓の先生が、さらに丁寧にひとつひとつ確かめるように質問を進めてゆくと、患者さんは、終いには怒り出して、回診チームを病室から追い出すようなことになってしまいました。

 

「やっぱり、言葉のバリアがねぇ・・」

 

のようなことを、その心臓の先生はぼやいていましたが、私はそれは違う、と思って聞いていました。


患者さんは洋裁店を経営しているので、生活に必要な英語のコミュニケーションには不自由のない人なのです。


このコリアンのおじさんは、おまかせ医療の文化をそのまま米国の病院に持ち込んだだけなのです。


「俺の仕事は仕立物。

あんたの仕事はオレの病気を治すこと。

ごちゃごちゃ言ってないで、とっとと悪いところを見つけて治せよ、

プロなんだろ?」


と、実際に言葉に出して表現はしないものの、このコリアンのおじさんの心の内は、私にはそのよう聞こえたのです。


今、日本の比較的若い世代の人にはこういう患者さんは少なくなったのではないかと思いますが、これは日本でもよくある患者さんの医療に対する「構え」なのではないかと思います。

 

 

日本は個人主義individualism)ではなく集団主義collectivismの文化です。

 

個人主義では、一人一人が独立した個人、社会を構成する完全な単位です。すなわち、基本的には自分のことは自分が決める、面倒をみるという考えです。

 

一方、集団主義では個人は全体の一部であり、完全な単位である必要はありません。集団や社会の中で機能する一部であれば、それ以上個人として独立した機能、単位を形成する必要は無いのです。

 

集団主義はある意味個人に取っては、楽で居心地の良い社会です。何しろ何か一つ集団のためにできさえすれば、その他の必要なことは、他の人が面倒をみてくれるのですから。相互依存interdependenceによって社会は円滑に機能するのです。

 

これは家族にも当てはまります。男性は外で働いて一家を養う能力がありさえすればよく、家事やその他のことには関与せず、奥さんに任せておけばよいわけです。逆に奥さんは、生活の糧を得る能力は無くてもよく、家事と子育てができればよいのです。夫と妻が一人の独立した単位として社会で生存して行く機能を持つ必要はないのです。従って、日本の夫婦というのは、一人一人の独立した個人の繋がりというよりは、むしろ役割で結ばれた関係になります。

 

相互依存だと、他の人は自分の生存になくてはならない人達ですから、お互いを大事にし合う傾向が高くなります。従って親切で礼儀正しい人が多くなります。

 


医療の話に戻ってみましょう。このように集団主義だと、患者さんは病気になって医者にかかったら、自分の責任において治すという考えはないのです。それは医療従事者の仕事なのです。従って、自分の病気のことについて知ろうというモチベーションの低い患者さんが多いのです。

こうして丸投げ、盲目的に信頼を寄せて、言われたとおりに素直に医者の言うことを聞いて治療を受けるのですから、それで思ったように回復しなければ、大変不満に、そして裏切られたような気持ちになります。

 

このような感情を抱くのは、社会構成のコンセプトからは必然になりますが、現実に対する対応としては、理不尽以外の何ものでもなく、なんの解決にも結びつきません。

 

医者は現実への対処ではなく、患者の“感情”をなだめることに奔走し、患者側はますます「だまされている」という気持ちを昂じさせることでしょう。

この点が問題なのです。

 

米国に来て気付いたことは、「ゴネる患者さんがほとんどいない」ということです。医師には説明義務がありますが、患者にも納得して治療を受ける義務があるのです。必要なことは、治療効果の限界も含めて全て開示され、それを理解していることになっているので、ゴネようがないのです。

 

もし患者さん自身に、自分の病気のことや検査、治療が理解できないという状況があると、それを理解してどうしたいのかを決断することのできる代理人(power of attorneyを立てなければなりません。そのような身寄りや知り合いのない人は、裁判所が代理人を指名することさえあります。


どうですか?個人主義は、突き放されたような、なんだか冷たい社会のように感じる人もあるのではないでしょうか?私自身、当初はそのように感じました。

 

しかし、近代以降、西洋医学・医療を取り入れてきた結果、個人主義の文化でない日本にも、なんとか折衷案で、その考え方、技術を使いこなす方法を考えないといけません。

 

 

19 9月

サビ残―日本独特?

白人の放射線技師さんで、患者さんに対する気遣いがとても細やかな女性に出会いました。それだけ細やかな気遣いができる方なので、プロフェッショナルとしての知識や技量は、もちろん優秀な方です。

 

一見大変仕事に打ち込んでいる、50代に見えるベテラン技師さんであるその人が言うことには、

 

「人生にもっとリラックスする時間があれば、と思う。」

 

だそうです。もっと休暇が取れて、ゆっくり、のんびりとした時間を過ごしたいということのようです。そこで私が思ったのは、

 

『かくもアメリカ人にとって仕事とは(神から与えられた)苦行である。』

 

ということです。

 

米国では、基本的に仕事とは、神の御心にかなうために、あたかも苦行であるかのように必死に働き、それが認められて十分な資産を得れば、あとはリタイアして悠々自適に暮らす、というのが、人生に対する一つの目標やあこがれのようです。

 

アメリカ人は総じて働き者です。時間内に集中して仕事をします。日本で14~15時間かけてのんびりする仕事(サビ残ですね)を、8時間でキッチリ仕上げるかのような、過激なまでの働きぶりです。

 

『時は金(かね)なり。』

 

を地で行っているような感じです。

 

個人的に一番ゲッソリしたのは、ランチョン・カンファレンスあるいはミーティングです。

食べるか会議するのか、どちらか一つにして欲しいと思いました。そういう風土なので、会議でなくとも昼食をデスクでコンピューターの前で仕事しながらムシャムシャというのはざらです。こういう食行動も、米国で異常に肥満が多い原因の一つかなと。

 

そもそも8時間勤務とは、9時5時ではなくて、昼休みを1時間取るなら、8時5時です。

 

唐突ですが、ここでちょっと人様のブログ(ぼやきくっくりさん)から引用です。

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid877.html

 

エセル・ハワード=イギリス人。1865年(慶応元年)生まれ。1895年(明治28年)ドイツ皇帝のウイルヘルム二世の皇太子と弟妹の英語の家庭教師となる。1901年(明治34年)来日し島津家へ入り、30代当主・忠重公と4人の弟たちの家庭教師を1908年(明治41年)まで務めた。

「明治日本見聞録 英国家庭教師婦人の回想」(1918年出版)より

 屋敷(引用者注:ハワードが7年間暮らした永田町の島津邸)の回りには広々とした気持ちのよい庭があったが、芝生は枯れきっていて、花壇は一つもなかった。この庭は家具同様に、子供向きに設計され、もっぱら気晴らしの場としてつくられたものだった。その隣には鞍馬やブランコのある大きな運動場があった。

 ある朝、窓から外をのぞくと、芝生のあちこちに数人の背の低い老婆たちがいるのが目に入った。彼女たちは青い木綿の手拭いを頭に巻いていたが、それは色褪せた青い着物とよく釣り合っていた。そして、膝をついたまま、笑ったりお喋りしたりしていた。一体全体、何をしているのだろうと私は思った。彼女たちは草取りで、めいめい鋏(はさみ)を持ち、草を刈ったり雑草をむしったりしているのだとわかった。後で聞いたことだが、日本では草取りを年取った女たちの仕事に任せるのがごく当たり前のことで、まるで遊んでいて、何も仕事をしていないように見えたが、そう思ったのは間違いだったと悟った。彼女たちの仕事の出来映えは、まるで魔法を使ったかのように見事だった。

 よく注意してみると、仕事に対するこの一風変わった態度は、日本人の国民性であり、路上や建物内やその他の造営物の中で働く人々全部が、ただぶらぶらしたり、ぼんやりして怠けたりしているように見えた。東京に高架鉄道が建設されることになったとき、私はその仕事振りをみて、一体いつになったらでき上がるのだろうかと思った。しかし、しばらくするうちにわかったことは、進捗は遅々たるものであっても、結果は良好であり、いつまでたってもできそうにないと思ってがっかりした後で、ある朝起きてみると、全く突如として、予期もしなかったうちにでき上がってしまっているのである。

 この年取った草取り婆さんの場合も同じことだった。その賃金は微々たるものだったが、お茶や煙草は飲み放題になっていたので、食事代わりにしているのではないかと思ったほどだった。

 

 

日本人にとって、仕事とは生活の延長線上、あるいは生活そのもので、ここからは仕事、ここからは自分の時間と分けるものではなかったのではないかというような気がします。集団主義なので、もともと自分と他の人をあまり区別して考えることはなく、自分は共同体の一部であり、共同体が自分自身のアイデンティティーだったのではないかと思います。仕事場が生活の場そのもので、社交も遊びも仕事も渾然一体として区切りがなく、だからダラダラ残業するわけです。

 

これは悪いことばかりでなく、こういう土壌の遊び心から新しいものが生み出されたり、日本人の特徴とされる、細部に至るまで綿密な仕事が生まれるわけですね。

 

ただ、不況になったり、事情がちょっと厳しくなると、どうも戦時中の総動員制、精神主義的傾向に走りがちなので、「やめてくれ~」となるのはごもっとも。

 

あるいは、社会の変容に伴い、終身雇用制が時代遅れになって、会社共同体が解体しつつあり、それに変わる新たな共同体の見出せない今、しわ寄せが後から来る若い人たちに押し付けられているようです。

 

どうやって、良いところを残し、欠点が出ないように調整したら良いのでしょうね。

 

とりあえず、”Boys be ambitious.” というのが個人的には好きなんですが(girlsもね)、自立自尊、群れの流れを追わず、自分で人生を切り開く気概と行動力を、特に若い人は持つというのはどうでしょうか。

古い体制が合わなくなって来るときは、逆に拘束のない自由と、大きなチャンスと飛躍が期待できるときでもありますからね。ワクワクしませんか?

 

今時の若い世代の方が、戦後の焼け野原から立ち上がった世代より、ちゃんと養育されてるので、いろいろ武器を備えています。今80代位の日系一世のお話を聞くと、終戦直後、焼け野原で、日本じゃ食えないと思ったから出て来たって言う人がいます。その頃の人より外国に出て行くには有利じゃないですか?

 

もちろん日本にとどまって、自由に羽ばたく道を模索する(せざるを得ないという差し迫った状況自体が真剣に取り組むチャンスを与えてくれている天の恵みです)のも素晴らしいことです。

新卒からはずれたとか、正社員になれなかったとか嘆くことはないのです。日本の外ではサビ残など無いでしょうし、日本にいても自営業になればサビ残など存在しなくなりますね。

プロフィール

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