医療事故防止について、首都圏の病院では、事故につながりそうな危険を見つけたら、看護師でも研修医でもその上でも下でも、どのレベルからでも誰かに報告し相談し、速やかに処置が取られていた。
誰かの(特に医師の)誤りを指摘した発見者が、医師の間違いを指摘したがために報復処置を受けるということは全くなかった。これは別段事故防止のための病院の組織的通報システムが整っていたわけではなく、素朴に「患者の安全第一」という倫理観を病院全体が共有しており、各自がその職務、能力に応じてお互いに助け合っていたと思う。
一方、以前の話だが、某地方大学病院ではそうではなかった。上司に当たる医師の間違いを指摘することは、たとえ患者を危険にさらすことを防ぐ目的でも、許されることではなかった。
表立たないように、こっそり処方を変更したりして事故を未然に防ぐという静かな処置でも、間違いを正された側の、上の医師の人間性によっては、間違いを正した下の立場の医師は、これまた静かに医局を追い出されてしまった。
それでは日本より医療情報の公開が進んでいると言われる欧米ではどうであろうか。
イギリスで、病院の医療事故をはっきり指摘した医師個人が、その病院を去らなければならなくなったばかりでなく、医師社会全体から追放され、不遇のまま亡くなり、ギルド的専門職社会での自浄というのが如何に難しいことであるかということが指摘された。
アメリカでは医師に問題行動があると、公的機関に報告する義務があり、その後どこに転職しようとも、はっきりと履歴に残る。しかし報告する必要のある問題行動とは、基本的に違法行為であるとか、訴訟に持ち込まれたとかいうような重大事例だ。
アメリカの研修医は一人前でなく医師免許は仮免許で、当然事故を起こす可能性が高いと考えられ、病院内部に彼らによる医療事故を未然に防ぐための通報システムが、組織的に整っている。
しかしこれがアテンディング(attending)といって一人前の医師免許保持者になると、危険な行為や明らかに間違った診療を行っていても、誰も注意したり修正したりしない。
看護師や研修医が指摘しても、下っ端の言う事は単純に無視される。トップ・ダウン組織だ。しかし同僚やそのアテンディングの上司も何も言わない。そのアテンディングに与えられた職権範囲での権威は絶対なのである。危険が明らかでも実際に事故が起こってしまうまで放置される。そのかわり事故が起こったとき、責任の所在が明確だ。
ここら辺が、縦横双方向性にコミュニケーションのある相互依存的(inter-dependent)で集団主義(collectivism)である日本の組織と、個人主義(individualism)をもとにした組織の違いのようである。
ただしアメリカではアテンディング自らが、適性な診療レベルを保つために、同僚や他科の専門医に自ら助言を求める場合には、日本のような縄張り意識はなく、速やかな助言・協力が行われる。つまり、実は横のコミュニケーションもあり、アテンディング個人の力量によっては横のコミュニケーションは日本より濃密である。
どちらのシステムにも一長一短があるが、少なくとも日本が遅れを取っているという考えは間違いだと思う。
別の言い方をすると、日本ではおそらく多くの病院組織においては、たとえ一医師がボンクラであっても、周りが問題が起こらないよう、ちゃんと修正して機能しており、その医師個人に自浄作用がなくとも集団全体としてはうまく回っているということである。
ここで実際に事故が起こってしまったときに、スケープ・ゴートをあぶりだし、マスコミが大騒ぎして特定個人を集中的に叩き(叩く相手が本当に直接の原因なのかどうか疑問でもある)、民事保障は当然としても刑事責任を問い、感情的になんとなく溜飲を下げてスッキリするのが日本のパターンである。結果、その後も何も変わらないとか、叩かれる可能性のある側がさらに保身に気を向け一層情報の秘匿を画策するとか、折角存在する自浄システムそのものも、感情に任せて解体してしまえの流れになって混乱するより、冷静に日本の組織の長所を踏まえて、組織のシステムの改善を模索する議論をする方が、単に改善に要する効率・コストという計算高い面だけから考えても、良策ではないだろうか。
マスコミもスケープ・ゴート憎しの感情報道より、実際に何がどういう経過で起こったのか、事実の提示、情報の開示を主眼にした報道できないものかと思う。