アメリカは多民族国家です。
アメリカは、バックグラウンドの違う人がうまく調和して暮らして行けるよう大変な努力を払っていると思います。
正直言って、日本語という単一言語、日本人という単一民族の国と大多数の住民が信じている日本で生まれ育ってからアメリカに住んでみると、移民を社会に同化させるためにはらわれる、その熱心な気の遠くなるような努力には、なんとなく、めまいを覚えるくらいです。自分が適応するのにもひと苦労 ― どころか、かなりの苦痛が伴いました。多民族社会には、ツーといえばカーとくる共感などはなく、索漠とした味気なさがあります。学校でも職場でも多数の人が集まって何かするところでは、何でも事細かに説明し、ものごとを誰の目にもわかるよう、簡単で明確にしなければないわずらわしさがあります。そしてこのためにかなりの神経と労力を使っても、実際にわかりあえることは、実に大雑把です。
と、これだけ努力を払っていても、特に新参者が多くて多民族が入り混じった都市部では、犯罪が多いです。殺人事件にまで発展する極端なヘイト・クライムや人種差別は、局所的には常にあります。また、ときには異人種、異民族間での軋轢から暴動が起こって、たとえば、1992年のロサンゼルスの暴動のように、軍隊が出動して、鎮圧しなければならない事態も起こります。
アメリカ社会では、メディアでも職場でも学校でも、「文化の多様性は素晴らしい」と讃えるプロパガンダのごとき表現があふれていて、米国人はみんなそれが良い、と少なくとも表向きは思っているようにみえます。しかし、自分的には、はっきり言って、こんなにいろいろと気遣いして一つ一つ確かめ合わなければならない、わずらわしい手続きを要求される割には、大した合意や共有感の得られない、「文化の多様性のどこがそんなに良いものなの」と、つい最近まで、感じていました。
ところで、“つい最近まで”ということは、今現在はそうではないという受け止め方に変わったということです。
今は、アメリカという国は、文字通り移民が支えている国なのだと思っています。
アメリカを牽引してきたのは、上はよその国からやってくる優れた人材が、常に新しい分野を開拓して、アメリカ発という形で、世界をリードして来たことによるものです。一方、下は人のしたがらない仕事を請け負って世の中がとどこおりなく回るよう、下支えをして働いてくれる人が、たくさんいるということです。
というわけで、アメリカには、外国から新しい人々を次々に引き寄せて、たとえ状況がきびしくなってもそれを打開するであろう活力が、常に満ちあふれてているような気がします。
移民は確かに社会を活性化するのです。
最近は移民を受け入れれば、日本は活性化するんじゃないかという議論がさかんです。
それでは、日本でもそうすれば、再び社会が活気を取り戻して長く続いている停滞から抜け出せるでしょうか?
残念ながら、多民族国家といわれるところで実際に生活する体験をしてみると、全然そのようにはみえません。
移民を成功させるためには、社会の秩序を守るために、かなりの強権的装置が必要です。
つまりいろんな雑多な人がそれぞれの価値観で好き勝手に振舞って、社会秩序を破壊したりしないよう、“かなめ”を押さえる必要があるのです。
アメリカでは、それは厳格な原理原則に基づいた法治の徹底と、それを確実に実行するための暴力装置である、場合によっては被疑者をその場で殺すことすら容認される強権の警察と、新参者であるよそ者を監視する諜報活動を含めた国防のための軍事力です。
現在の日本には、そのどれひとつもありません。
また、よく単純労働者は将来社会負担になるので避けるべきだが、優秀な人材ならどんどん取るべきだという、選択的移民が良いという人がいるようなのですが、本当なのでしょうか?
単純労働者の方が、期限付き条件付き滞在という形で受け入れることはある程度可能です。現にアメリカではこの不況で、不法滞在のメキシコ人ですら、かなり去って行きました。
しかし、国防に対する現実的で明確な考えも整備もないところに、外国の優秀な人材などたくさん受け入れたらどうなるでしょうか?
国そのものが乗っ取られてしまうのではないでしょうか。
バックグラウンドの違う人と交じり合って住む経験もなければ、厳格な法治国家でもない日本の社会では、単純労働者の移民より、むしろ指導層になれるような才能のある優秀な移民を受け入れることの方が、よほど怖いことのように、私には見えるのです。