はてなキーワード: paroleとは
小島先生のブログがホットエントリに上がっていたことで、ひろゆきがフランス人サッカー選手の人種発言問題に関してTwitterやYoutubeで触れていたことを知った。
ひろゆきはputainという言葉は、強調の意味でフランス人もよく使っていると言うのだが、本当に聞いたことがあるのか?
というのは、小島先生の記事中、このような部分があったからだ。
渦中の動画に出て来るフランス語の問題の単語は、フランス語のメディアの一致した報道によると「putain」です。カタカナ転写は、F爺には「ピュタン」以外に考えられません。「ピュータン」と長音にする理由は全くありません。
putainはカタカナ表記すれば、「ピュタン」。フランス語では最後の文節にアクセントを置くので「ピュターン」と聞こえることもある。どうやっても「ピュータン」には聞こえない。
ひろゆきのYouTubeをみてみたら、複数箇所で「ピュータン」と言っていたし、字幕も「ピュータン」と書いてあった。
なぜ「ピュータン」??と思ったら、辻仁成のブログで「ピュータン」とカタカナ表記されてたんだね。これは「ピュターン」と書こうとして間違えたんだろう。ひろゆきは、自分では動画を見ても聞き取れてないんじゃないかな。
putainは、まともな人であれば、あまり使わない。少なくとも自分が普段親交があるフランス人は日常的には使っていない。ただし、腹が立ったときなど、「チクショウ!」と同じように思わずはいてしまうことはある。
putainは若者言葉だとひろゆきは言ってるけど、老若男女問わず使う。汚い言葉だから、あまり人前では使わない。人前でしょっちゅう使うとしたら、いわゆる貧民や下層とされる人たちとか、悪い言葉使いをカッコイイと思ってるパンク気取りとか、分別の付かない(精神的な意味で)子どもたちだ。
ひろゆきの周りのフランス人が、そういう人たちばかりという可能性もあるけれど、本当にしょっちゅう聞いてるなら間違っても「ピュータン」と言ったり書いたりから、周りにフランス語で会話しあうようなフランス人はいないんだろう。
putainという言葉を検索すると、フランス人が「もともとは売春婦という意味だったが、今日のフランス語においてはヴィルギュル(読点)と同じように、文章中ごく頻繁に使う」なんてことを解説しているのを見つけるかもしれないが、フランス人がよく言う冗談なので真に受けないように。
該当動画を解説して「差別である」とした日本在中のフランス人ユーチューバーに、Twitterでひろゆきが質問していた。
Les japonaises sont là pour changer la langue de PES. Est-ce que c'est possible que "la langue" indique un paramètre du jeu, pas de la parole japonaise.
Comme un débutant en français, je voudrais savoir pourquoi vous l’affirmez.
Je vous remercie de votre temps.
「その日本人たちはPESの言語を変更するために来てます。「la langue(言語)は話している日本語ではなく、ゲームの設定のことを指しているということはありませんか?フランス語初心者として、なぜあなたがそうおっしゃるのか知りたいのです。お時間を割いていただき、ありがとうございます」
なお、レスで「それはない。la langueは日本語をさしている」と言われている。
不必要なほど丁寧な言い方で、なんだか機械翻訳のような文章。ある程度のレベルのフランス語を読み書き話すことができる人なら、Twitterで質問するときにこんな書き方はしない。
ひろゆきは、自分が書いているとおり、フランス語初心者で、それもかなり初級に近いレベルなのだと思う。
ひろゆきがTwitterでこう言ってるけど、まさしくブーメラン。
「sales gueules(酷い顔)」にしろ「putain」にしろ、その言葉自体をフランス人に対しても使うから「差別ではない」ということじゃない。
日本人をさして(わざわざ顔にズームしながら)、笑いながら言ってるから差別なのだ。「おまえ恥ずかしくないのか」というセリフも含め、あの状況をすべてひっくるめてが差別。
「細い」という言葉にも「目」にも差別の意味はないし、「細い目」という言葉もアメリカ人、イギリス人、フランス人などの間で使うかもしれない。だが、アジア人をさして「細い目」だと言ったりジェスチャーをしたら差別なのと同じこと。
ただ、デンベレ、グリーズマンともに、差別をしているという意識はなかったのだと思う。ダバディ氏が
貧しい階級の子供たち(フランス系であろうが、アフリカ系であろうが)はありえない用語でお互いを差別し、それが面白いと信じています。
と言ったように、差別してるんだけれど差別の意識がなく、面白がって言ってるだけ。
差別だとわからず意識なく話している。それこそが差別なんだよ。
差別だという意識があって言ってるなら、「悪意のある差別」になるだけ。
>ピュターンは知り合いはよく使うんよ。だから普通の言葉だと思ってた。何かうまくいかない時とかに使うね。下層の人とか言われてるけどそれだって差別じゃない?なんなの?
普通の言葉ではないけど、うまくいかない時とかに使うよ。そうだね。下層の人っていうのは差別だ。さらに言うと、自分はサッカーにまるで詳しくないからデンベレもグリーズマンも知らなかったけど、動画を見て発音があまりきれいではないから「移民系の人かな」と感じた。ぐぐって「なるほど」と思った。これも差別というか、見下してるのかも。
> putain は「ピュータン」気味に聞こえることもけっこう多い
動画みてみたよ。確かにあの言い方だと「ピュータン」と取れなくもないんだけど、ちゃんと「タ」にアクセントがある。ひろゆきが動画で言っていた「ピュータン」とは全然違う。
まあ、putainがピュタンでもピュータンでもいいのだけど、ひろゆきのフランス語のレベルはツイートの文章だけで、よくわかるよ。
putainは、ひろゆきが言うように「英語でいうveryと同じで強調するときに使う」という人は自分の周りにはいないけど。日本語でも「クッソ暑い」「クッソまずい」みたいに、何でも「クソ」を付ける人はいるようだから、veryの意味で使うフランス人もいるのかもしれない。ヤバイ人だと思うけど。
仮に、putainはフランス人なら1日100回くらい使うとか、単純にveryの意味でもいいのだけど、言葉そのものが差別なんじゃない。
自分が言いたかったことは後半に書いたように、言葉自体が差別かどうかじゃなくて、状況と合わせて差別だっていうこと。
putain la langue(ひでぇ言語)とだけ言ってたなら、問題にはならなかった。デンベレが「アニキ」と呼ぶほど仲がよいチームメイト同士のくだけた会話だから「putain la langue」くらい言ってもおかしくない。日本人をさしながら「きたねえツラが揃いやがったぜ」という意味のことを言ったり笑ったりして(こっちのほうが問題)、「ひでぇ言語だぜ」と言った。この一連のセリフが問題発言。
そもそも、この動画を流出させた人は「これは差別だから問題になる」とわかってやったわけで。それを、なんで日本人がよってたかって「差別じゃない」って擁護するのか理解できない。
おかしい。明らかに男性なのでLes Japonais。大文字、小文字のミスは大したことない。面倒で全部小文字で打つこともあるし、ネイティブでもあまり気にせず小文字のこともよくある。
知恵袋に質問した質問なのですが字数制限がきたのでここに載せます
Negli ultimi anni, mi sono sempre preoccupata di procurare delle candele che illuminassero l'angolo di strada su cui affacciava la finestra della camera da letto di mia sorella, il punto in cui sorgeva il cumulo di macerie in cui mio padre iniziò da subito a scavare e da cui il suo corpo, abbracciato dal piumone e dai soccorritori, in gran parte amici, dopo 13 ore, tornò alla luce. Era giorno, dopo 13 ore, e faceva anche caldo. Eppure, il buio di quella notte e di quella strada resta inciso nella mia memoria, insieme a tanti altri particolari che spesso ho condiviso, senza che le parole mai bastassero né riuscissero ad essere definitive. Quest'anno, a causa di quel che tutti stiamo vivendo, non potrò illuminare quel pezzetto di strada, né dare spazio a quel gesto simbolico che mi dà serenità. Va bene così.
Illuminerò le mie finestre con le candeline che sempre ho in casa e alla cui luce spesso mi cullo e, nel farlo, mi farò aiutare da quel figlio adorato che ha per la zia pensieri di affetto che riescono sempre a stupirci, nella loro disarmante spontaneità.
Come Comitato dei familiari delle vittime abbiamo chiesto a chiunque possa e ne senta il desiderio, di accendere una luce o una candela, nella notte tra il 5 e il 6 aprile: in ricordo dei nostri cari ma anche di tutti i connazionali deceduti nelle ultime settimane , a causa del Covid-19. Un pensiero di vicinanza che non possiamo non esprimere in occasione di un dolore che per noi si rinnova immutato ma che per qualcuno è soltanto all'inizio.
So che tanti di voi mi saranno vicini con il pensiero, so che tanti di voi mi stringeranno e mi aiuteranno a fare luce, nel buio.
6 Aprile 2016, via XX settembre 123.
5 vittime: Anna, Claudia, Katia, Piervincenzo, Rosina
近年、姉の寝室の窓が見える通りの角を照らすろうそくの取り方にいつも気を使っていました。瓦礫の山があり、父はすぐに掘り始めました。 そして、羽毛布団と救助者に抱かれた彼の体は、13時間後、ほとんどが友人で、明かりに戻りました。 13時間後はもう昼間であり、暑かったです。 それでも、その夜とその道の暗闇は、私がよく共有している他の多くの詳細とともに、はっきりとした言葉が足りなかったり、管理できなかったりして、私の記憶に刻まれたままです。 今年は私たち全員が経験していることのせいで、その道路の一部を照らすことも、静寂をもたらすその象徴的な行動に場所を与えることもできなくなります。 わかりました。
私はいつも家に置いてあるキャンドルで窓を照らします。そしてその光の中で私はしばしば揺りかごを立てます。そうすることで、私はいつも私たちを驚かせることに成功した彼の叔母への愛情の考えを持っている愛する息子によって助けられます。
犠牲者の家族の委員会として、私たちは4月5日から6日までの夜にライトまたはキャンドルをつけることを望んでいる人や感じている人に尋ねました。私たちの愛する人だけでなく、過去数週間で亡くなったすべての同胞たちを思い出して 、新型コロナウイルスのために。 苦しみの時に表現し損なうことのない親近感は、私たちにとっては変わりませんが、誰かにとってはまだ始まったばかりです。
あなた方の多くがその考えをもって私の近くにいることを知っています。あなた方の多くが私を抱きしめ、私が暗闇の中で光を当てるのを助けることを知っています。
2016年4月6日、XX Settembre 123(住所)。