僕らはキラキラと踏み潰されていく。
君たちのような意思の強さなどなく、諦める理由を探せばどれだけでも見つかるだろう。
自分で選んで進んだ者と、なんとなく見えた道を進んできた者の人生はこの10年で凄まじい差となった。
今から出来ることは日々の不安を取り去る事ぐらいなのだが、それすら難しい。
選んで来なかった者からすると、新しく踏み出す一歩が本当に良い未来に繋がると確信がもてない。
それは選んでトライアンドエラーをしてきていないから、先の想像ができないのである。
ただ毎日吐き気がする程に時代が変わっていっているのがわかる。
今までのルールが上から流れてくるが、それの古臭さにも吐き気がする。
どこに吐き出せばいいのか。どこに踏み出せばいいのか。
変わる時代に確信は持てない。しかし今までのルールで生きていけるとも思えない。
身体を鍛えると良いと言うが、そのスタートには痛みが伴い、その痛みに自分の弱さを改めて思い知らされ、また吐き気がする。
本を読んでも力がつく感覚はない。日常に落とそうと足掻くがうまくいかない。
これこそがトライアンドエラーなんだろう。
しかしうまくいかなかった時に何度も繰り返せるほど精神の余裕などない。
職場に行けばやれあいつはダメだ、あいつをどうにかしてくれという声が全て私に集まる。
ましてや嘘をついて逃れようとする人をコントロールする言葉など持ち合わせない。
私が出来ることは思いつくだけでも、たくさんあるのだが、それを全てやるほどの情熱も体力も精神力もない。
そしてそんな自分をみんながどう見てるのか考えると、また吐き気がするし、どこかに逃げ出したい。
逃げだす先など、どこにもないのに。
これがみんなが感じる普通の社会の普通のプレッシャーなら、私は社会に向いていない。
SNSを見るとキラキラと生きる同年代の仲間や、後輩たちがいる。
彼らも辛い事を書かず、キラキラをSNSで演出しているのだろう。
そして戦っているのだろう。
その戦いは私にはとても高次元のものに見えて、見ているだけで疲れてしまった。
スマホを閉じた。
目の前にはさっきのコーヒーが冷めている。
窓の外では誰かが自転車で通り過ぎていく。
今日も仕事に行く。今日もマネジメントに失敗する。今日も誰かに何かを言われる。
画面の中の戦いと、私の戦いは違う。
比べることに意味はない。
そもそも私が向き合っているのは、SNSの向こうの誰かではなく、目の前の吐き気と、明日への不安と、冷めたコーヒーだ。
彼らには彼らの戦場がある。
私には私の戦場がある。
ただそれだけのことだ。
では、私が「足掻く」とは何だろう。
それはおそらく、逃げてきたことと向き合うことだ。
それらにもう一度、手を伸ばすこと。
どうせまた吐き気がするかもしれない。
それでも、手を伸ばしてみること。
「足掻く」という言葉は、決して美しくない。
もがき苦しむ様を表す言葉だ。
でも、それでいい。
私にできるのは、もがくことだけだ。
そして、ここで少しだけ楽観的になることを許してほしい。
ヒントを探しながらやっていけば、勝手に何かが変わることもあるんじゃないか。
そう思っておかないと、やってられない。
これは希望ではなく、燃料だ。
前に進むための、最低限の燃料。
この楽観を捨てたら、足掻くことすらできなくなる。
「どうせ無理だ」と思った瞬間に、手を伸ばすこともしなくなる。
だから、根拠はなくても、少しだけ「まあ、なんとかなるかもしれない」と思っておく。
騙されたと思って、やってみる。
それしかない。
焦燥感は消えない。
向き合うのが怖かったことがある。
それでも、生きている限り、それらはずっとそこにある。
うまくいくかどうかはわからない。
でも、やるしかない。
やります。
長いし中身が薄い。 増田じゃなくてnoteとかでやってください。
まずAIを使うのをやめましょう