2025-04-26

意識相対主義

コヤッキースタジオ三木大雲さんが美について話していた。

日本崩壊の合図。三木大雲さんが警告する未来とは。【 国造りWEEK ゲスト:三木大雲さん 都市伝説

https://www.youtube.com/watch?v=1tqDMhI3SmA

とーや君の質問で「芸術にしてしまうことで、全員が知るべきことが、一部の人しかからなくなる、ということにならないか」という話があった。

それに対し三木さんは十七条憲法から「七に曰く、人各々任有り」とあり、つまり全員が同じように価値判断しなくても良い、と言う。

自分の任にないと思うのであればそこに価値を見出さなくていいという。これを理解すれば、お金第一主義といったものもなくなる、と三木さんは言う。

そして日本人としての究極の美は「恥」であるという。

まり人に迷惑をかけるような行為は恥であり、この美徳日本人にとっては重要だというのだ。

しかし、その前には「日本土地にとっては仏教こそが重要であり、他の宗教土地にあっていない」と言っていたので、各々性とは矛盾している点もあるように思える。

というのも、私の感覚からすれば、異教の地の教えの中にも、日本人が学べることは存在すると思うためである

私は旧約聖書タルムードユダヤ格言などからは学べることが多いと常々思う。

「最も賢いのは、すべての人から学べる人だ」というユダヤの知恵があるが、これは「あれは異教だから日本人には合わないよね」とは本質的に異なっている。

そして倫理黄金律という話もある。「自分が嫌と思うなら、他人にするな」というルールバリエーションは様々な宗教哲学に出現してくる。

ここで「恥」とは何なのか、その本質について考えると、それは「愚かな行いを未然に防ぐ本能」と言えるのではないか

例えばSNS軽率発言をしてしまったとしよう。あとから「これは軽率ではないか。恥ずかしい」という感情が起こり、発言を削除するとする。

この場合、「恥」という感情があったからこそ倫理的行動ができたわけで、論理だけではたどり着けない境地に思える。

痛みを感じないという病気の人の寿命が短いのは、まさに痛みから異常な行動を回避できないためであろう。同じように恥を感じない人は、愚かな行動を回避できない。

数学者論理というものを美しいと言うかもしれないが、ただ論理があるだけでは美しいことにはならない。

そこには土台となる公理があり、その公理を前提として論理を使うから美しい定理が導かれるのである

正しい人間性公理とすれば、論理的に美しいものを生み出すのだろうか。三木氏にとっては、その公理仏教のお教に存在するのだろう。

しかし私の美意識では、もし切腹が恥から来るのであれば、それは美しいとは思わないのである

これもSNSの話になるが、何か発言をして炎上をすれば恥ずかしい思いをするかもしれない。そしてそれによって自殺をした人が実際に存在するのは事実だ。

から頂いた命なのに、自殺美談にすることはできない。だから「恥」という公理は、必ずしも良い美意識とは思えないわけである

私は「対称性」というものに美を感じるタイプだ。例えば円はすべての方向に対して対象変換できる。

この「対称性」は倫理黄金律にも存在する。つまり自分がされて嫌なことは他人にするな」というミクロ総体マクロに普及すれば「他人からは、その人が嫌だと思っていることを、私にしてこない」ということになる。

まり黄金率を社会が守れば、自分に対して不快なことをされたり、あるいは命を脅かされることが減る。

これは「自分の行動」と「他人の行動」との間の対称性である。そして「ノアの法」といったもの人類が遵守すれば、平和に近づくと思うわけである

あるいは、自分がその場に合ったユーモアを言えば、相手もそれに対しておちゃらけてくれる。自分インテリぶって張り合えば、相手も知性で勝負を仕掛けてきてギスギスする。

人間関係とは、対称性なのである

私が言いたいことをまとめると、

  • 恥は愚を避けるという美意識をもたらすが、脆弱性がある。
  • 私は「すべての人から学ぶ」「倫理黄金律」「ノアの法」などを尊しとする。そのため「仏教も一理あり」とするが「異教からも学べる」と考える。
  • 間違った公理というものはあるので、完全な相対主義ではない。

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