『ビニール傘』を読んだ
知人の 岸政彦氏が書いた小説「ビニール傘」をやっと読む事が出来た。
生活史の聞き取り調査をしている社会学者の著者が初めて書いたこの小説は、女性客を乗せたタクシー運転手の視線から始まって、登場人物の目に映る光景が淡々と書き出されていく。「断片的なものの社会学」での 氏の視線に似ているなと思っていると、いつのまにか別のシーンにいた。丁度グーグルストリートビューで街を眺めているときに、そこに映り込んだ何か、ポストとか、看板とかをよく見ようとズームした後、元に戻ろうとすると今までいた道ではない、どこかずれた、別の、思いもかけない場所が目の前に現れるように、話はズームし少しずつ場所と人を変えながら、なめらかに進んで行く。
違う人なんだけど何かが重なっている。ふと立ち止まって後ろを振り返ったときに別の登場人物の人生が見えたら、それが自分の人生だとなんとなく納得してまた歩き出してしまいそうな、覚束ない感覚が続く。出来事が指の間からすり抜けて、そのすり抜けた瞬間だけ自分の人生を感じられる、そんな心許なさ。
後半、極々若い、女の子と言ってもよい人物が登場する。この子が語る出来事は、前半に登場してきた登場人物達のものよりは遥にはっきりしっかりしている。それは彼女が生きている事の覚束なさに囚われるにはまだ若すぎるだけなのかもしれない。ならば彼女は年を重ねるうちに、前半に出てきた人達の様に心許なくなってしまうのだろうか・・・
私は新聞などに小さく載せられた、孤独に死んだ人や、情けない小さな事件に巻き込まれて命を落とした人が、少し間違えれば我が身に起こっていたのではという気持ちによく襲われる。たまたま、運良く、難にも遭わず屋根の下で暮らしているが、何処かで違う選択、判断をし、別の出来事に遭遇していたら、彼らの代わりに私が冷たくなっていたのかもしれないと思い、親近感では決してなく、ただその人達と自分との境、違いが判らなくなって落ち着かない気持ちになることがある。この作品を読んで、その不安な気持ちが説明され、共感され(そう、この小説は共感を求めるのではなく読者に共感するのだ)、ほっとした気持ちになった。そして少し救われた。
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