家族Aのこと
家族Aこと我が母は女学校時代が丁度戦中だったため、学校で音楽の時間がほとんど削られたそうで、本人曰く「習ってないからまったくわからない」との事でしたが、私が10代の頃クラシックのラジオ番組を聴いていると「これはこの前あの曲弾いていたあの人?」などと言って、ふらっとやってきたわりには演奏者名を当てていくことがよくありました。というか判ったときだけやってくるせいか外した記憶がほとんどなかったりします。
それから母も私もあれこれ忙しくなり、途中で、ポゴレリッチのコンサートに一人で行くつもりだったのか!と私にくってかかって一緒に付いてきた揚げ句、自分だけポゴ師と握手するというトンデモ行為を挟んだりしましたが、全体としてあまり音楽を聴いている暇はないようでした。
十数年前の手術の後からは、深夜ラジオを聴くようになり、そこで週一でクラシックを流す枠があるらしく毎週楽しみに聞いていたようでした。
ある朝、「夕べ流れた曲は絶対にアルゲリッチだと思うけど誰が弾いたかを聞きそびれた」というので、深夜枠にアルゲリッチ御大とかあるわけないでしょとせせら笑いながらネットで調べたところ大姐さんの演奏でらっしゃいました。
また「夕べは昔の人の演奏だっていうんだけど素晴らしくて、名前をしっかり覚えたつもりが寝て起きたら忘れてた。誰だかわかる?」というので調べたところ結構な名演奏家だったことが何度かありました(ヘンリック・シェリングもあった気がします。私がよく覚えてないのですが)
そんなこんなでこの人結構聴く耳があるのではないか?とはずーっと思っていたのですが、去年の12月のとある夕暮れ、当時は茶の間に家族Aの介護ベッドを入れていたため殆どテレビを観ることが出来なかった私は、丁度母が寝ていたのでこれ幸いとスイッチを入れたのでした。今となっては何の番組か記憶がありませんが、ドキュメンタリーかなにかでその映像に合わせて歌が流れ、字幕に歌手名と曲名が示されました。それがなんとテレサ・ベルガンサだった為(多分スペインのドキュメンタリーだったのだと思います)私は思わず身を乗り出しました。歌が流れ出すと寝ていたはずの家族Aが起き出してきて身じろぎもせずに聴き入り、曲が終わった後私にこう聞いたのです。
「この素晴らしい声の持ち主はだれ?これを歌った人の名前はなんていうの?」
私は「これはスペインの至宝とまで言われた世紀のメゾソプラノ、テレサ・ベルガンサだよ」と答えながら、改めてこの人の聞き分け能力に恐れおののいたのでした。私がこの歌を素晴らしいと思ったのは誰が歌っているか知っていたからで、それを知らずにこんな反応は少なくとも私にはできる自信がありません。私はこの人の足元にも及ばないと改めて思った次第です。
その後、家族Aは年明けにシフのベートーヴェン協奏曲全曲演奏放送の前半を聴いて涙を流したあと、滑って転んで骨折って、入院に手術、果ては車イスで自宅復帰できず病院からそのまま老人ホームにご厄介になり、8月にもう一度骨折してから一気に体が弱くなり、先日ついに帰らぬ人となりました。
遺体が家に帰ってきてから、何か気に入る曲をかけてやろうとあれこれ試したのですがどれも今ひとつ納得できませんでした。しかし葬儀の朝、ふと思いついて前日に出来上がったお仏壇用の小さな写真をテレビの前に据え、奈良正暦寺福寿院客殿でのポゴレリッチの演奏録画を流しました。
最後の曲、シベリウスの「悲しきワルツ」が空に吸い込まれるような余韻を残して静かに終わったとき、出棺の時間となりました。
生前の家族Aに対する皆様方のご声援ご心配、本当にありがとうございました。故人になりかわりまして御礼申し上げます。
追記
葬儀の朝ポゴレリッチの録画を再生しようと考えつくほどの余裕を私に与えてくれた老人ホームのスタッフの皆様、ケアマネさん、病院のスタッフの皆様、困った時に助言を下さったお友達の皆様、本当にありがとうございます。 最期になりましたが御礼申し上げます。
最近のコメント