2026-01-09

宮台真司丸の内弁当についていいそうなこと

丸の内弁当と「虚無」の構造──なぜ日本人劣化した「餌」を食い続けるのか】

いいですか、まず前提からしましょう。僕が「丸の内弁当」という言葉で指し示したいのは、単なる弁当の中身の話じゃない。それは、今の日本社会が抱えている「全能感なき空虚システム」の完成形、その末端にある「記号の残骸」のことなんです。

丸の内という場所は、かつては日本エリート層が国家グランドデザインを構想する「中心」でした。しかし、今の丸の内はどうですか? そこにいるのは、システム従順適応し、リスク回避することだけを最適化された「動機なきエリート」たちの群れです。彼らがランチタイムに1500円も2000円も払って、整然と並べられた「丸の内弁当」を買う。その光景こそが、日本の終わりの縮図なんですよ。

1. 「意味」の消滅と「記号」の消費

この弁当の特徴は、見た目の「お行儀の良さ」です。色とりどりの惣菜が、整然と区切られたプラスチックの枠の中に収まっている。一見すると豊かですが、そこには「食の強度」が決定的に欠けている。 本来食事というのは生命のやり取りであり、ある種の「祝祭」のはずです。しか丸の内弁当は違う。それは、栄養バランスという名の「数値管理」と、彩りという名の「記号消費」に完全に還元されている。

僕がよく言う「クズ」という言葉を使えば、これは「クズのための餌」です。なぜか。それを食べる人間たちが、弁当の内容物そのものクオリティ)ではなく、「丸の内で、この価格帯の、このパッケージのものを食べている自分」という承認形式しか見ていないからです。中身の鮭がどれだけパサついていようが、煮物の味がどれだけ画一的であろうが、彼らは気づかない。いや、気づかないふりをする能力けが発達してしまった。

2. 「不全感」を麻痺させるためのパッケージング

今の日本は、社会学的に見れば「終わった後の世界」です。成長の神話崩壊し、中間集団家族地域)も溶け落ちた。残ったのは、剥き出しのシステムと、そこにしがみつく孤独個人だけです。 丸の内サラリーマンたちは、心の奥底では気づいているはずです。「自分たちの仕事意味なんてない」「自分たちはシステムの交換可能部品に過ぎない」と。その耐え難い不全感を埋めるために、彼らは「ちゃんとしたもの」を食べているというポーズ必要とする。

丸の内弁当のあの「整然とした仕切り」は、彼らの不全な内面一時的に仮構する「外部装置」なんです。バラバラになりそうな自我を、あのプラスチックの枠が支えている。だから、どれだけ味気なくても、彼らはあの形式を捨てられない。それは食事ではなく、システム論理内面化するための「儀式」なんですよ。

3. 「贈与」なき食卓

僕が提唱してきた「贈与」という観点から見れば、丸の内弁当は究極の「交換」の産物です。そこには作り手の顔も見えなければ、素材の荒々しさも介在しない。すべてがマニュアル化され、計算され尽くした「商品」です。 「誰が作ったかからないが、とりあえず安全で、体裁が良い」という過剰なまでのマニュアル化。これは、かつて僕たちが失った「共同体の祝祭」の真逆にあるものです。

かつての日本では、たとえ貧しくても「共に食べる」ことの中に、理屈を超えたつながり(コミットメント)があった。でも、丸の内弁当デスクで一人、スマホを眺めながら突っつくエリートたちに、そんな繋がりは皆無です。彼らはシステムに飼いならされた「家畜」であり、その家畜に与えられるのが、この去勢された弁当なんです。

4. 処方箋としての「野性」の回復

じゃあ、どうすればいいのか。答えは簡単です。そんな「記号の餌」を食うのをやめることです。 僕がよくナンパフィールドワークを通じて若者に伝えてきたのは、「身体感覚を取り戻せ」ということです。丸の内弁当の整然とした枠をぶち壊して、もっとドロドロとした、予測不能な、強度の高い現実リアル)に触れるべきなんです。

添加物まみれの「綺麗な弁当」をありがたがっているうちは、日本は良くなりません。それは、自分たちがシステム奴隷であることを肯定しているのと同じだからです。 「まずいものはまずい」と言う。枠からはみ出したものを愛でる。システムの外部にある「野性の思考」を取り戻す。それができない限り、丸の内弁当を囲む光景は、この国の緩やかな死を象徴し続けるでしょう。

いいですか、繰り返しますよ。丸の内弁当を食べて「丁寧な暮らし」をしているつもりになっている君たち。君たちが食べているのは、自由の欠片もない「管理の味」そのものなんだ。そのことに絶望することからしか、本当の生は始まらない。

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