自分が今まで「女性的」「男性的」だと思っていたものは、実は体力と想像力のバランスのことだったのではないか、と考えるようになった。
以下は、体力に偏った成長と、想像力に偏った成長の一例である。
体力がもともとあった場合
体力があると、それを活かす遊びや活動に自然と参加できるようになる。幼少期に外遊びやスポーツの機会が増え、自主的に体を動かすことが習慣となる。
たとえば、精神的に嫌なことがあったとき、相手を身体で制圧することを想像し、実行に移すこともできる。この場合、精神的な成長は妨げられるかもしれないが、身体は発達する(主に小学生までの話)。
成長過程で身体が強くなると、さらに鍛えようという意欲が湧く。そこでは、以下のような経験が得られる。
• 身体に覚えさせる訓練
このように身体能力を高める過程では、想像を抑え、目の前のことに集中する「体育会系的」な思考が身につく。そして最終的には、心と身体を切り離して考える能力が養われる。
これにより、以下のことが得意になるだろう。
しかし、身体的に無理を重ねると想像力が欠如し、自覚のないまま倒れることもある。また、精神的に辛いときに「心無い言葉」で相手を傷つける傾向が出るかもしれない。
体力がもともとなかった場合
体力が乏しいと、体を使う遊びへの参加機会が減り、結果として想像力を鍛えることに意識が向くようになる。
たとえば、精神的に嫌なことがあったとき、身体で相手を制圧することはできない。そのため、「なぜこんなことが起きたのか?」「どうして相手はこうしたのか?」と想像するしかない。これによって身体は育たないが、精神的な成長が促される(主に小学生までの話)。
精神が成長すると、それをさらに高めたいという意識が芽生え、次のような経験を通じて強くなる。
・馬鹿にされても芯を持ち、考えを折らない
これによって心と身体を繋げた戦い方が身につき、以下のことが得意になる。
・遅れている人へのサポートや気遣い、そしてそこから全体のバランス感や不満の改善
ただし、身体的に無理を感じたときも心で補おうとするため、気づいたときには倒れることがある。また、周囲に対して「もっと想像してほしい」と求めすぎてしまうこともある。
これらは、体力の有無による精神の成長の仕方を大まかに分けたものだ。これまで自分はこうした違いを「男女差」と考えていたが、それは誤りだった。これは性別ではなく、先天的な体力の差に起因する問題である。たしかに、男女には平均的な体力差が存在する。しかし、議論すべきなのは体力と想像力のバランスの問題であって、性別の問題ではない。
社会は、身体能力過多を「男性的」、想像力過多を「女性的」と呼びがちだ。しかし、本来重要なのは、それぞれの差を埋め合い、支え合うことである。
・体力が強い人は、体力が弱い人ができないことを率先して行う。それが相手の心を守ることになる。そして決して相手を見下してはならない。
・心が強い人は、体力が強い人が無理をしているときにそれを察し、休ませるべきだ。それが相手の体力を守ることになる。そして決して相手を見下してはならない。
これを「男女」という枠組みで考えると、以下のような問題が生じる。
・体力のない男性が、「体力で頼られる」ことで無理を強いられる。
・体力のある女性が、「後方支援を期待される」ことで能力を発揮できない。
重要なのは、個々人が自分の特性を理解し、それを最大限活かすことである。体力がない人は想像力を武器に、体力がある人はフィジカルを磨き、互いを補い合うべきなのだ。
男女論ではない。これは体力と想像力の話だ。互いの偏りを認識し、補い合うことで、人としての可能性を広げていけると信じている。
(当然、例えば身体が強くて、誰かを傷つけて、想像力を鍛えようと努力した人も居るはずだし。身体が弱くて、それに気付けて、身体を鍛えた人もいるだろう。どちらも強くしようと意識している人もいるだろう。どちらもマジで強いひとも居るだろう。今回それは割愛している。)