げ‐だつ【解脱】
読み方:げだつ
[名](スル)《(梵)vimukti, vimokṣaなどの訳。縛るものを離れて自由になる意》悩みや迷いなど煩悩(ぼんのう)の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達すること。悟ること。涅槃(ねはん)。「—の境地」「煩悩を—する」
げだつ【解脱】
解脱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 16:44 UTC 版)
ヒンドゥー教用語 解脱 | |
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英語 | Deliverance, emancipation, liberation, release |
サンスクリット語 | मोक्ष (mokṣa), विमुक्ति (vimukti) |
バリ語 | ᬫᭀᬓ᭄ᬲ (moksa) |
ベンガル語 | মোক্ষ (mokkho) |
グジャラート語 | મોક્ષ (mōkṣa) |
ヒンディー語 | मोक्ष (moksh) |
ジャワ語 | ꦩꦺꦴꦏ꧀ꦱ (moksa) |
カンナダ語 | ಮೋಕ್ಷ (mōkṣa) |
マラヤーラム語 | മോക്ഷം (mōkṣaṁ) |
ネパール語 | मोक्ष (moksh) |
オリヤー語 | ମୋକ୍ଷ (mokhya) |
パンジャブ語 | ਮੋਕਸ਼ (mōkaśa) |
タミル語 | துறவு-முக்தி-வீடுபேறு-விடுதலை (tuṟavu-mukti-vīṭupēṟu-viḍutalai) |
テルグ語 | మోక్షం (moksham) |
日本語 | 解脱 |
解脱(げだつ、梵: vimokṣa[1], ヴィモークシャ、mokṣa[1], モークシャ、vimukti[2], ヴィムクティ、mukti[1], ムクティ、巴: vimokha, vimokkha[3], ヴィモッカ、mokkha[4], モッカ、vimutti[1], ヴィムッティ、mutti, ムッティ)とは、インド系宗教において、解放、悟り、自由、放免を手に入れた状態を意味する語であり、ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教において様々な形で語られる[5] 。解脱を果たした者は、解脱者(梵: vimukta、巴: vimutta)と呼ばれたりする[6]。
もともとは紀元前7世紀前後の古ウパニシャッドで説かれたもので、インド哲学一般に継承されている観念である[7]。解脱はインド発祥の宗教において最高目標とされてきた[7]。
ヒンドゥー教の伝統ではモクシャは中心概念であり[8]、ダルマ(道徳、倫理)、アルタ(富、財産、生計)、カーマ(欲望、性欲、情熱)を通して達成される人生の目的である[9]。これら4つの目的はプルシャールタ(Puruṣārtha)と呼ばれている[10]。
仏教においては、煩悩に縛られていることから解放され、迷いの世界、輪廻などの苦[1][11]を脱して自由の境地に到達すること[2][7]。悟ること[7]。対義語は繋縛(けばく, 巴: bandhana; 結縛)[12]。
ジャイナ教においては、魂という存在にとって至福の状態である。
原語
「解脱」は、梵: vimokṣaや梵: vimuktiの漢訳である[2][7]。vimuttiは「自由」という意味である[13]。 vimokṣa は毘木叉、毘目叉と音写し、 vimukti は毘木底と音写する[2]。
ジャイナ教において
仏教において
—聖求経
比丘たちよ、このように見て、聖なる言葉を聞く弟子は、色を厭離し、受を厭離し、想を厭離し、サンカーラを厭離し、識を厭離する。
厭離のゆえに貪りを離れる。貪りを離れるゆえに解脱する。解脱すれば「解脱した」という智慧が生じる。
「生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされ、もはや二度と生まれ変わることはない」と了知するのである。
仏教における解脱は、本来は涅槃と共に仏教の実践道の究極の境地を表す言葉であったが、後に様々に分類して用いられるようになった[2]。
相応部ラーダ相応では、比丘ラーダより「解脱は何を目的としているのか?」と問われた釈迦は、「解脱は涅槃を目的としている」と答えている[15]。
分類
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仏教における解脱には、次のような分類がある[2]。
仏典における記載
火ヴァッチャ経では、釈迦はある沙門より「解脱した比丘はどこかへ生まれ変わるのか? あるいは生まれ変わらないのか?」との問いを受けた。釈迦は、その者に「火が消えた場合、その火はどの方角(東西南北)に消え去ったのか?」と問い返した。「その質問は適切ではありません、火は燃料が尽きたために消えます」との返答を受けた釈迦は、同様に如来というのも(生まれ変わるかどうかとは関係なく)、五蘊(色受想行識)が尽きたために解脱した者であると説いた。
脚注
出典
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『解脱』 - コトバンク
- ^ a b c d e f 総合仏教大辞典 1988, pp. 324–325.
- ^ 水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.298
- ^ 水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.262
- ^ John Bowker, The Oxford Dictionary of World Religions, Oxford University Press, ISBN 978-0192139658, p. 650
- ^ 「vimutta: a. [vimuñcati の pp., Sk. vimukta] 解脱した, 解脱者. -atta 自ら解脱した. -citta 解脱心」水野弘元『増補改訂パーリ語辞典』春秋社、2013年3月、増補改訂版第4刷、p.298
- ^ a b c d e 『解脱』 - コトバンク
- ^ John Tomer (2002), Human well-being: a new approach based on overall and ordinary functionings, Review of Social Economy, 60(1), pp 23-45; Quote - "The ultimate aim of Hindus is self-liberation or self-realization (moksha)."
- ^ See:
- A. Sharma (1982), The Puruṣārthas: a study in Hindu axiology, Michigan State University, ISBN 9789993624318, pp 9-12; See review by Frank Whaling in Numen, Vol. 31, 1 (Jul., 1984), pp. 140-142;
- A. Sharma (1999), The Puruṣārthas: An Axiological Exploration of Hinduism, The Journal of Religious Ethics, Vol. 27, No. 2 (Summer, 1999), pp. 223-256;
- Chris Bartley (2001), Encyclopedia of Asian Philosophy, Editor: Oliver Learman, ISBN 0-415-17281-0, Routledge, Article on Purushartha, pp 443;
- The Hindu Kama Shastra Society (1925), The Kama Sutra of Vatsyayana, University of Toronto Archives, pp. 8
- ^ See:
- Gavin Flood (1996), The meaning and context of the Purusarthas, in Julius Lipner (Editor) - The Fruits of Our Desiring, ISBN 978-1896209302, pp 11-21;
- Karl H. Potter (2002), Presuppositions of India's Philosophies, Motilal Banarsidass, ISBN 978-8120807792, pp. 1-29
- ^ 世界大百科事典 第2版『解脱』 - コトバンク
- ^ ブリタニカ国際大百科事典『繋縛』 - コトバンク
- ^ アルボムッレ・スマナサーラ『テーラワーダ仏教「自ら確かめる」ブッダの教え』(kindle)Evolving、2018年。ISBN 978-4804613574。
- ^ パーリ仏典, 律蔵犍度, 大犍度, 38 Mahakkhandhakaṃ, Sri Lanka Tripitaka Project
- ^ パーリ仏典, 相応部蘊篇ラーダ相応, Sri Lanka Tripitaka Project
参考文献
- 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』 上巻、法蔵館、1988年1月。
関連項目
解脱
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1987年(昭和62年)初めごろ、戒律を破ったことなどから、麻原に「意識が集中していない。30日間籠るしかない」と長期修行を命ぜられる。 1987年5月28日より、59日間にわたる連日16時間~20時間の独房修行を行う。 1987年7月25日、麻原彰晃により、ラージャ・ヨーガにて成就したと認定。岡﨑は、石井久子に続く2番目の大師となった。 当初、30日間の予定だった修行期間は実際には59日間に及んだ。真夏の時期に、真っ暗な通風口のない独房で1日1食で過ごし、あばら骨も浮き出るほど痩せこけた。岡﨑は「このまま死んでいくのだろうな」と漠然と考えていたという。独房に入って10日めに麻原の命令で遺書を書かされる。遺書を書かされたのは、教団信者の中で岡﨑が初めてだった。その頃から急に眠れなくなり、麻原に相談したところ「それは佐伯、私に対する帰依が無いからだ」と告げられ衝撃を受ける。更に、麻原に何でも良いから書いたものを提出するよう言われ、岡﨑は悟ったていの文章を出した。世話役のOはそれを読んで感心したものの、麻原は電話口の向こうで「それはエゴだ」と言い放った。また、この独房修行中に営業の仕事上で教団内で誤解を受けていると感じ、自分はオウムには必要の無い存在ではないかと疑心暗鬼となる。修行を断念することまで考えるが、その苦しみの原因が、自分の存在を教団内で認めてもらいたいというエゴイズムであると思い直し、修行を続けた。その後、解脱3日前にサットヴァとラジャスという2つのグナ、翌朝には3グナを見たことで麻原に成就を認められた。 しかし、のちに、他の古参信徒らが『ラージャ・ヨーガ』より一段上の『クンダリニー・ヨーガ』を成就した、と次々に認定され、「自分は後れをとった」と焦燥感に駆られることになる。 麻原は、岡﨑の解脱について「グルに対する真が無くとも、意志が強ければ修行だけで成就することができる例だろう。実は彼はグルに対する真が無かったのだ」と語っている。
※この「解脱」の解説は、「岡崎一明」の解説の一部です。
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