実名敬避俗
実名敬避俗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 07:35 UTC 版)
実名を敬避する(敬って避ける)習俗という意味の語である。漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。 その一例として高堂隆の逸話が挙げられる。『都の督軍が薛悌と論争したとき、薛悌を名前で呼んで怒鳴りつけた。高堂隆は剣の柄に手をかけて督軍を叱り、「昔、魯の定公が侮辱されたとき、仲尼(孔子)は階段を上がってたしなめ、趙王が秦の琴を弾かされたとき、藺相如は秦王に缶(かめ。打楽器として使う。)を叩かせた。下臣を前にして主君を名前で呼べば、道義では討ち果たすことになっている。」督軍は真っ青になり、薛悌は慌てて起(た)ち上がり彼を引き留めた。』 日本では、本居宣長の説が主流であった。それによれば、諱とは中国から伝わった「漢意」であって日本古来の風習ではなく、むしろ日本では古来、名前とは美称であった。そしてのちに漢国(中国)の風俗にならい、名指しが無礼とされるようになった、と宣長は考えたのである。しかし穂積陳重は、フレイザー『金枝篇』などの文献を独自に調査し、このような名前に関するタブーが漢字文化圏のみならず、世界各地に存在することを突き止めたと述べた。そして日本でも中国の諱の礼制が導入される以前から、実名を避ける習慣が存在したとして、これを「実名敬避俗」と定義した。また陳重は、宣長が名前を美称と認識したのは、『古事記』『日本書紀』に記録された神や天皇の名前は、実名の多くが忘れ去られ、副称・尊号のみが伝えられた結果と指摘した。たとえば、伊耶那美命・伊邪那岐命の神名は、賀茂真淵・宣長 の説に従い「伊耶(イザ)」を「誘語(いざなふことば)」の意味、すなわち国産みのための遘合を互いに誘ったことから呼んだものとすれば、これは明らかに後から奉られた尊号であって、実名ではないことになる。 実名敬避俗の発想から貴人の諱を忌み避けることを「避諱(ひき)」という。特に天子(皇帝)の諱は厳重に避けられ、詔勅以下の公文書にも一切使われず、同じ字を使った臣下や地名・官職名は改名させられたり、漢字の末画を欠かせるなどのあらゆる手段を用いて使われないようにした。例えば、漢の初代皇帝劉邦の諱は「邦」であったため、漢代には「邦」の字は全く使用できなくなり、以後「国」の字を使うことが一般化、戦国時代に「相邦」と呼ばれていた役職は相国となった。避諱の実際は時代によって異なるが、多くは王朝の初代、現皇帝から8代前までさかのぼる歴代の皇帝の諱を避けた。また皇帝のほか、自分の親の名も避諱の対象となった(例えば、杜甫はたくさんの詩を残したが、父の名である「閑」という字はすべての作品で使用しなかった)。(詳しくは避諱の項を参照。) 日本には親の実名を避ける例はほとんど見られないが、中国の影響が大きかった桓武天皇の時代に編纂された正史『続日本紀』において、天皇の父である光仁天皇の即位前の記事に関しては、諱である「白壁王」という表記を避けて(大納言)「諱」と記載されている。 江戸時代中頃以降は、将軍家の当主と家族の諱と名のりは実名に使うのを避ける傾向があり、諸藩においては将軍家に加えて藩主とその家族の実名および名のりを避けた(後述する将軍から大名家当主・世子等への偏諱授与の場合を除く)。この場合は、将軍家や藩主家の娘の名も使用を避ける対象であった。 具体例としては、徳川綱吉の時代に綱吉の娘、鶴姫と同じ「つる」という名を変えた例や、長州藩の毛利重就が当初「しげなり」という名のりだったのを、徳川家斉が将軍になってからは「しげたか」と改めた例がある。また薩摩藩では、将軍家の当主と正室や子女の諱、及び藩主とその正室や子女の実名および名のりを避けるように藩法で規定していたことが、「薩藩政要録」や「三州御治世要覧」から分かる。その他、「仙台市史 通史4 近世2」によれば、伊達宗村に徳川吉宗の養女利根姫(雲松院)が嫁ぐと、領内での「とね」という女性名が禁止され、武家・庶民の別なく「とね」の名を持つ女性の改名が令達されている。 安政5年10月、松平茂昭が将軍家茂の偏諱を賜って名を直廉から茂昭と改めた。この年以後の福井藩民の名の茂の字は忌諱によってすべて藻と改められ、人別張等には藻左衛門・藻兵衛等と記されている。 薩摩藩ではまた、将軍家及び藩主家の実名や名のりの禁止は、将軍家や藩主家の一族が死去もしくは結婚などで家を出た場合には解除されたことが「鹿児島県史料」で散見される。
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