『アラビアンナイト』は『千夜一夜物語』が正しい名称で、沢山のお話があるが、その中で最も有名なものは、おそらく、
『アラジンと魔法のランプ』
『アリババと40人の盗賊』
『シンドバッドの冒険』
ではないかと思う。
ところが、『アラジンと魔法のランプ』と『アリババと40人の盗賊』は、原典の『千夜一夜物語』にはなく、後で作られた偽物であることは、ほぼ分かっているらしい。
しかし、偽物だからといって価値がないわけではない。
仏教の『浄土三部経』と言われる経典は『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』であるが、このうち、『観無量寿経』はサンスクリット語の原典がなく、後に作られたものだと言われている。
しかし、法然は、『浄土三部経』の中で『観無量寿経』を最も重視し、他にも、『観無量寿経』こそ最高の経典と考える僧も多いのである。
ロンダ・バーンの有名な引き寄せ書『ザ・シークレット』では、人間は誰でもアラジンの魔法のランプを持っており、願いが叶えられる回数に制限はないと書かれている。
私は、中学校に入る頃までは夢の世界に生きていて、潜在意識とは馴染み・・・つまり、顕在意識と潜在意識の境界がはっきりせず、よく気楽に引き寄せを行っていた。
そして、当時私が書いたものには、アラジンの魔法のランプを使う様子が書かれているものがあるが、当時は、その使い方をよく知っていたことが分かるのである。
たとえば、成績を良くしたいと思ったら、ランプの魔神に「成績を良くしてくれ」と頼むのではなく、「僕の成績が良い世界にしてくれ」と頼むのである。
モテたかったら、「僕がモテる世界にしてくれ」である。
このように、自分基準でなく、世界基準でないと願いは叶わない・・・というわけでもないのかもしれないが、世界基準にした方が簡単に叶う。
ただ、実際に魔法を使う時は、ランプの魔神を呼び出すわけではないので、既に、「成績が良い世界」「モテる世界」であると決めてしまうのである。
とはいえ、私は欲張った願いを持たず、そこそこ成績が良ければよいだけだし、もっと言えば、成績が良いと感じればそれで良かった。
それで、全く勉強しないに関わらず、そこそこの成績だったし、モテることに関しても、色男扱いされていたので、そこそこモテていたようである。
ただ、中学校というところは、小学校とは違う方式の洗脳場所で、勉強もスポーツも、努力しないと成果が出ないと思い込まされるので、私も、成績はどんどん悪くなるし、思ったようにモテなくなっていった。
ストーリー性のある恐い夢を見ることがあるだろうか?
乗っている船が沈没していったり、宇宙人が地球を侵略に来たりだ。
引き寄せを天然でやっていた頃の私は、そんな夢を見ても、ちっとも恐がらなかった。
なぜかというと、結末が分かっていて、それはハッピーなものだからだ。
なぜ分かっているかというと、自分で決めているからだ。
現実世界も同じで、自分がいる世界がどんな世界か決めてしまえば、何が起ころうと何とも思わず、見守るなり楽しむなり出来る。
誰かが、この世界は立体映画(三次元映画)だと言ったが、今流に言えば、全くのVR(仮想現実)ゲームである。
どんな世界か決めるのは自分だが、気楽に、適当に決めれば良いのである。
上で取り上げた『観無量寿経』というのは、誰かが決めた世界を壮大に描いたものだ。
この経典の中で、韋提希(いだいけ。ヴァイデーヒー)という王妃は、釈迦に、
「こんな世界は嫌です。もっと良い世界で生きたい」
と言うので、釈迦は、彼女に、世界をそんなふうに変える方法を教えるのである。
まあ、それを小難しく形式的な解説をする人が多いのだが。
『アラジンと魔法のランプ』
『アリババと40人の盗賊』
『シンドバッドの冒険』
ではないかと思う。
ところが、『アラジンと魔法のランプ』と『アリババと40人の盗賊』は、原典の『千夜一夜物語』にはなく、後で作られた偽物であることは、ほぼ分かっているらしい。
しかし、偽物だからといって価値がないわけではない。
仏教の『浄土三部経』と言われる経典は『無量寿経(大無量寿経)』『観無量寿経』『阿弥陀経』であるが、このうち、『観無量寿経』はサンスクリット語の原典がなく、後に作られたものだと言われている。
しかし、法然は、『浄土三部経』の中で『観無量寿経』を最も重視し、他にも、『観無量寿経』こそ最高の経典と考える僧も多いのである。
ロンダ・バーンの有名な引き寄せ書『ザ・シークレット』では、人間は誰でもアラジンの魔法のランプを持っており、願いが叶えられる回数に制限はないと書かれている。
私は、中学校に入る頃までは夢の世界に生きていて、潜在意識とは馴染み・・・つまり、顕在意識と潜在意識の境界がはっきりせず、よく気楽に引き寄せを行っていた。
そして、当時私が書いたものには、アラジンの魔法のランプを使う様子が書かれているものがあるが、当時は、その使い方をよく知っていたことが分かるのである。
たとえば、成績を良くしたいと思ったら、ランプの魔神に「成績を良くしてくれ」と頼むのではなく、「僕の成績が良い世界にしてくれ」と頼むのである。
モテたかったら、「僕がモテる世界にしてくれ」である。
このように、自分基準でなく、世界基準でないと願いは叶わない・・・というわけでもないのかもしれないが、世界基準にした方が簡単に叶う。
ただ、実際に魔法を使う時は、ランプの魔神を呼び出すわけではないので、既に、「成績が良い世界」「モテる世界」であると決めてしまうのである。
とはいえ、私は欲張った願いを持たず、そこそこ成績が良ければよいだけだし、もっと言えば、成績が良いと感じればそれで良かった。
それで、全く勉強しないに関わらず、そこそこの成績だったし、モテることに関しても、色男扱いされていたので、そこそこモテていたようである。
ただ、中学校というところは、小学校とは違う方式の洗脳場所で、勉強もスポーツも、努力しないと成果が出ないと思い込まされるので、私も、成績はどんどん悪くなるし、思ったようにモテなくなっていった。
ストーリー性のある恐い夢を見ることがあるだろうか?
乗っている船が沈没していったり、宇宙人が地球を侵略に来たりだ。
引き寄せを天然でやっていた頃の私は、そんな夢を見ても、ちっとも恐がらなかった。
なぜかというと、結末が分かっていて、それはハッピーなものだからだ。
なぜ分かっているかというと、自分で決めているからだ。
現実世界も同じで、自分がいる世界がどんな世界か決めてしまえば、何が起ころうと何とも思わず、見守るなり楽しむなり出来る。
誰かが、この世界は立体映画(三次元映画)だと言ったが、今流に言えば、全くのVR(仮想現実)ゲームである。
どんな世界か決めるのは自分だが、気楽に、適当に決めれば良いのである。
上で取り上げた『観無量寿経』というのは、誰かが決めた世界を壮大に描いたものだ。
この経典の中で、韋提希(いだいけ。ヴァイデーヒー)という王妃は、釈迦に、
「こんな世界は嫌です。もっと良い世界で生きたい」
と言うので、釈迦は、彼女に、世界をそんなふうに変える方法を教えるのである。
まあ、それを小難しく形式的な解説をする人が多いのだが。