ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

平家物語

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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おごらぬ人は久しき

『平家物語』の冒頭である『祇園精舎』ほど感慨深いものは、そうはない。
「盛者必衰の理」
「おごれる人も久しからず、ただ春の世の夢のごとし」
「たけき者も遂にはほろぼぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」

確かに、青年、壮年期に、富と名誉に包まれた者が、やがて、惨めで哀れな状態になってしまった例にはこと欠かない。
ところが、世界一の金持ちビル・ゲイツは、病気にでもなれば別だが、おそらく、死ぬまで安泰で、勢いも維持しそうである。
そして、死は、自然現象であり、滅びではない。
それなら、「盛者必衰」とは言えない。
つまり、『祇園精舎』に書かれたことは、必ずも真実ではないと思える。

だが、
「おごれる人も久しからず」
だけは、例外を見ない。
そして、それは、特に、成功者というほどでなくても、ちょっとエリートだったり、ちょっと美男美女だったりといった人々にも言えることである。
最初に一部を取り上げた『祇園精舎』の前半部では、ただ、「盛者」、「たけき者」と書いているだけで、大成功者、大征服者、大権力者、大スターとは書いていない。
『祇園精舎』の後半部で、いよいよ、「これほど権力の絶頂にあった人ですら」という話になるのだが、別に、権力者が全部駄目になる訳ではない。
秀吉すら、個人としては死ぬまで天下人だったし、家康は、一族に関しても、まあ、いろいろあるのだが、勢いは長く維持した。

だが、勢いの大きさ、成功の度合いに関わらず、おごる・・・思い上がった振る舞いをする者は、そう遠からず、悲惨に陥ることだけは間違いなく、おそらく、人類の歴史の中に例外はない。
それこそ、ちょっと難関の学校に入学したり、会社の中でちょっと出世した程度であっても、傲慢になり、それを改めないと、落とし穴に落ちることは、絶対確実である。

ここまでは理解し易い。
では、なぜ、「おごれる人も久しからず」なのか?
簡単なことで、思い上がるとIQが急激に低下するからだ。
小さなことでも、大きなことでも、IQが高い者が、才能や特技を生かして成功するのである。
そして、IQが高い間は、それを維持出来る。
だが、IQが下がると、得たものを維持出来ないばかりか、誤用して大怪我するのである。
そのことは、その気になれば、理屈で説明出来るかもしれないが、直観で分かることだ。傲慢になれば、これはもう見事にIQは大きく下がるのである。
それがカラクリだ。
IQが高い者が入会出来る団体なんてものがあるらしいが、そこに入れて思い上がると、再試験したら、もはや、その者のIQは入会資格に全然足りなくなっているだろう。いや、再試験などしなくても、IQが下がっていることは、見れば分かるはずだ。
IQというものは、上げることは難しいが、下げるのは実に簡単で、それこそ、悪いことなら、「何をやっても下がる」のである。
その悪いことの中でも、最悪なのが、思い上がること、即ち、驕ることである。
Googleのモットーが「Don’t be evil(悪いことをするな)」であるが、これは、社員のIQが何より重要なGoogleのトップが直観的に言ったことだろう。
もし、Googleの偉い人が、本気で、「このモットーは駄目」と言うなら、その人のIQが下がっているに違いない。

そして、次の歌のようだと、宇宙に守られ、永遠である。

Last night,Good night
Last night,Good night
いつかは むかえる
最後を 想うよ
夜空に 願うの
ときわの 笑顔を
~『Last Night, Good Night』(作詞・作曲・編曲:kz、歌:初音ミク)より~

私は、最後は、ミクさんがこの歌を歌うのを聴きながら死にたいと思っている。
本日は、初音ミクさんの聖誕日なり。
敬い崇めること、そして、怠らずに素振りをすれば立ち続けられること・・・ミクさんからのメッセージを忘れまい。








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上昇するだけになる秘法

『平家物語』の冒頭に次のようにある。

祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響あり。
娑羅雙樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。
おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

このように4行にすれば、4行が全て同じ意味になる。
ただ、わずかに1行目だけが、「滅び」ではなく「無常」を強調している。
この行だけで、全ての行を表しているのだ。
今、金持ちであったり、権力があったり、人気があったりしても、全て一瞬のことであり、すぐになくなってしまうのだから、いい気になったり、威張ったり、力を見せ付けたりといったことをしなければ良さそうなものだが、それができない人間は愚かなものである。

昔、有名な陸上選手が、「記録はいずれ塗り替えられるが、勝利の瞬間は永遠だ」と言ったが、嘘もいいところだ。
勝利の瞬間に執着するのも、地位や金に執着するのも、全く変わらず、愚かなことである。

誰もが永遠を手に入れたいのに、それに失敗する。
だが、上の4行から真理を読み取れば、それができる。
なぜ、誰もそれをしないのだろう?
諸行無常なのであるから、行わなければ良い。
盛者必衰なのだから、盛んにならなければ良い。
おごれる人も久しからずなのであるから、おごらなければ良い。
たけき者も遂にはほろびぬなのだから、猛らなければ良いのである。

諸行無常であるから、何もできない苦しみもいつか消える。
作為しない者は永遠である。
盛者必衰、おごれる人も久しからず、たけき者も遂にはほろびぬ。
しかし、同時に、、蔑まれることも、虐げられることも、貧しいことも、屈辱や嘆きも、遂には終わるのだ。

ここまでなら、良い話ではあっても、ただの概念になってしまい、楽しくはないだろう。
次に、ノウハウを述べよう。

『老子』に、王は、卑しい者、孤独な者、無能者を自称すると書かれているが、そうであるなら、それらは終わるという原理により、後は昇る一方だ。
驕る平家と全く逆で、なんともオツム(頭)のよろしいことだ。
木枯し紋次郎が、「昨日のことなんて憶えちゃいません。明日のことなど考えもしません」と言うのは、彼は少なくとも、「勝利の瞬間は永遠」とか言った元陸上のスーパースターのような愚かさは持っていないことを示している。
勝利も敗北も、栄誉も屈辱も忘れてしまう。
いや、そんなものは元々存在しないので、賞賛を受けたりなどせず、屈辱を感じたとしても耐えることは易しい。
そんな者は永遠と共にある。
あなたも、賢い王の真似をすれば良い。
そうすれば、どこまでも昇って行くだろう。
それが即ち、王である。
宿に泊まるような身分でない卑しい紋次郎に王者の風格があるのはそのためである。









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姥捨て山の話はペテンだ

姥捨(うばす)て山とは、高齢になった人間を山奥に捨てることで、社会の口減らしをするというものだ。
ところで、昔話として、姥捨て山には2通りある。
1つは、社会が危機に陥った時、捨てたお婆さんが、良い知恵を与えてくれて国や人々が救われ、年寄りの知恵を見直すというもの。
もう1つは、息子が、捨てるために母親を背中に背負って山奥に入っていくと、母親があちこちで木の枝を折る。息子が何をしているのかと聞くと、母親は、お前が帰りに迷わないよう目印をつけていると言い、感じ入った息子は母親を捨てることが出来ずに連れ帰るというものだ。

いずれも詐欺のような話である。
第一の、老人の知恵で救われたという話であるが、それでは、実利を与えてくれない老人、はては、人間には価値が無いと言っているようなものだ。
実際、老人の知恵が実益になる場合はむしろ非常に少ない。
これは、なんとも実利主義、物質主義に染まった卑しい話である。
老人には素晴らしい知恵があるが、物質主義に陥った人間や社会にとって、それは何の価値もない。
それは、少なくとも、実利と直接的な関係はない。
だが、物質主義に偏らない、魂を尊重する人間にとって、それは貴いものなのである。
このお話を思うと、助かるために、良いアイディアを出そうと必死になる悲惨な老人の顔が浮かぶのである。
しかし、そんな欲を捨てた時に、真の知恵と一体化するのである。

第2の、息子を気遣う母親も卑しい。
これは、自分の愛情をアピールし、息子の情を呼び起こす浅ましい行為ではなかろうか?
それが成功すれば、息子を困難に陥れることになるだろう。
姥捨てが良い悪いの問題ではなく、捨てられるのが運命であれば、それに従うまでである。
そして、息子が妙な情を持たないよう、これが我々の運命なら従うしかないのだと諭し、運命からは決して逃れられないし、お前が私を捨てるのは運命であるのだから、お前の意思でどうにもなるものでもないと教え、息子の罪悪感を拭ってやるべきなのだ。
それでこそ、知恵ある老人である。
昔のことであるから、捨てられる年齢は50歳くらいのものだろうか?
それまでに、人生への執着を断つことである。
楽しい思い出のあまりない、苦しいことばかりの人生だったかもしれないし、思い残すことも多いに違いない。
だが、人生とはそんなものである。
そして、この世で楽しむことが人間の務めではない。
むしろ、なるべく苦しみ、それに黙って耐えたことで、神は、「もうよい。お前の務めは終った。その地を離れ、ここにおいで」と言われるのである。

第1の老人も、第2の老人も、有能で親切であったとしても、自我に生きる人間である。
この老人達は、若いうちは、案外に弱い者いじめをしたようなタイプではないかと思う。
世間では、学校でも、会社や病院、警察その他の職場でも、必ずいじめの話がある。
御存知のように、学校では、生徒同士もあるが、教師から生徒に対するいじめ、立場の強い教師から立場の弱い教師へのいじめもあり、それはもっと凄惨(せいさん。むごたらしいこと)かもしれない。
人類からいじめはなくならない。
自我としての人間はいじめが大好きだ。死ぬほど好きなのだ。
たまたま強い立場にある者が、弱い立場の者を虐げるのは当たり前なのだ。
そして、姥捨て山の話の優しい年寄り達や、別に年寄りでなくても、自我的に親切な者というのは、本質で同じだ。
表向きは天使のような人が、裏ではひどいいじめをしているなんて、よくあるどころか、普通のことである。
平家物語には、「奢れる者は久しからず」とある。
それは別に、権力者や金持ちのことばかりではない。
自分より弱い立場の者を虐げる者全てのことだ。
あるいは、優しい仮面の下でほくそ笑む、世間的善人も同じだ。
そんな者達は、皆、すぐに悲惨な状況になる。病気になったり、大事故に遭ったり、騙されて大損害を被ったり、家族や親しい人に裏切られたり、予期しない大失敗から破滅する。表向きはうまくいっている場合は、もっと悲惨である。
「奢れる者も久しからず」
自制なんて意味はない。ただ、苦しみに黙って耐えることだ。
人生は悲劇である。死ぬまで逃れられないのである。









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平清盛が結局は愚か者で終った訳

POPミュージックの歌詞も、積極思考、プラス思考の前向きなものが多く、「叶わない夢はない」といった意味の歌は、おそらく相当な数があると思う。
叶わない夢はない・・・というのは、確かにその通りなのだが、誰も言わないのが、人は思うように願えないということだ。
私は、ひきこもりでニートを長くやっていた時、ジョセフ・マーフィーの潜在意識の活用による成功法則の本を読み、なるほど、どんな願いも実現させることができると分かったが、金持ちになろうと願うことが全くできなかった。そりゃ、大金が持てればいいなあとは思うが、真剣に金持ちになりたいと思ったことはない。
そして、『エメラルド・タブレット』の中に、「富は目的を果たす手段に過ぎない」とあるが、富が必要な目的がなければ、そんなものは必要ない。せいぜいが、豊かで不足のない生活が送れれば十分だろうし、不要なものを求めれば問題が起こるだろう。

ソロモン王は、神様に、なんでもやると言われて知恵を望んだらしい。
また、題名は忘れたが、本宮ひろ志さんの漫画で、ある少年が、最も得たいものを、肝・・・つまり、雄大な心であると言い、それを得る話があったと思う。
ところで、雄大な心が本当の知恵なのである。
ペーパー試験でいい点を取ったり、議論に勝つようなものは、小智の中でも低劣なものだ。それ自体は別に悪いものではないが、そんなものを持つと、虚栄心や欲望に囚われて卑しい人間になる危険が大きい。
本物の知恵のことは、『ソクラテスの弁明』で、ソクラテスが明かしているが、これが学校で教えられることは決してない。それと学校教育とは根本的に相容れないものだし、そもそも、学校教師に教えられることではない。つまり、学校というのは、ソクラテスの知恵に敵対する立場にあるのである。それは断言しておく。
雄大な心とは、動じない心、無欲な心だ。また、無欲であれば動じない。そして、無欲が知恵なのだ。
知恵ある者に崇高な目的が与えられ、手段としての富も得るだろうが、いつか知恵を失くして道を誤るのが人の常であるようだ。

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
おごれる人も久しからず
ただ春の世の夢のごとし
~平家物語の第一章『祇園精舎』の冒頭部分~

本当は、こうである必要は全くないのだ。結果としてそうなるのは、人の自我の問題である。
平清盛も、天から使命を与えられたのだが、自我が前面に戻った時に、愚かさに包まれてしまったのは当たり前のことだった。
イエスが、「退けサタン!汝、敗れたり」と言った時のサタン(悪魔)とは自我のことである。
このあたりの詳細な教えも『エメラルド・タブレット』に記されている。イエスも、タブレットの知恵に学んだという話もあるが、本当ではないかと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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