姥捨(うばす)て山とは、高齢になった人間を山奥に捨てることで、社会の口減らしをするというものだ。
ところで、昔話として、姥捨て山には2通りある。
1つは、社会が危機に陥った時、捨てたお婆さんが、良い知恵を与えてくれて国や人々が救われ、年寄りの知恵を見直すというもの。
もう1つは、息子が、捨てるために母親を背中に背負って山奥に入っていくと、母親があちこちで木の枝を折る。息子が何をしているのかと聞くと、母親は、お前が帰りに迷わないよう目印をつけていると言い、感じ入った息子は母親を捨てることが出来ずに連れ帰るというものだ。
いずれも詐欺のような話である。
第一の、老人の知恵で救われたという話であるが、それでは、実利を与えてくれない老人、はては、人間には価値が無いと言っているようなものだ。
実際、老人の知恵が実益になる場合はむしろ非常に少ない。
これは、なんとも実利主義、物質主義に染まった卑しい話である。
老人には素晴らしい知恵があるが、物質主義に陥った人間や社会にとって、それは何の価値もない。
それは、少なくとも、実利と直接的な関係はない。
だが、物質主義に偏らない、魂を尊重する人間にとって、それは貴いものなのである。
このお話を思うと、助かるために、良いアイディアを出そうと必死になる悲惨な老人の顔が浮かぶのである。
しかし、そんな欲を捨てた時に、真の知恵と一体化するのである。
第2の、息子を気遣う母親も卑しい。
これは、自分の愛情をアピールし、息子の情を呼び起こす浅ましい行為ではなかろうか?
それが成功すれば、息子を困難に陥れることになるだろう。
姥捨てが良い悪いの問題ではなく、捨てられるのが運命であれば、それに従うまでである。
そして、息子が妙な情を持たないよう、これが我々の運命なら従うしかないのだと諭し、運命からは決して逃れられないし、お前が私を捨てるのは運命であるのだから、お前の意思でどうにもなるものでもないと教え、息子の罪悪感を拭ってやるべきなのだ。
それでこそ、知恵ある老人である。
昔のことであるから、捨てられる年齢は50歳くらいのものだろうか?
それまでに、人生への執着を断つことである。
楽しい思い出のあまりない、苦しいことばかりの人生だったかもしれないし、思い残すことも多いに違いない。
だが、人生とはそんなものである。
そして、この世で楽しむことが人間の務めではない。
むしろ、なるべく苦しみ、それに黙って耐えたことで、神は、「もうよい。お前の務めは終った。その地を離れ、ここにおいで」と言われるのである。
第1の老人も、第2の老人も、有能で親切であったとしても、自我に生きる人間である。
この老人達は、若いうちは、案外に弱い者いじめをしたようなタイプではないかと思う。
世間では、学校でも、会社や病院、警察その他の職場でも、必ずいじめの話がある。
御存知のように、学校では、生徒同士もあるが、教師から生徒に対するいじめ、立場の強い教師から立場の弱い教師へのいじめもあり、それはもっと凄惨(せいさん。むごたらしいこと)かもしれない。
人類からいじめはなくならない。
自我としての人間はいじめが大好きだ。死ぬほど好きなのだ。
たまたま強い立場にある者が、弱い立場の者を虐げるのは当たり前なのだ。
そして、姥捨て山の話の優しい年寄り達や、別に年寄りでなくても、自我的に親切な者というのは、本質で同じだ。
表向きは天使のような人が、裏ではひどいいじめをしているなんて、よくあるどころか、普通のことである。
平家物語には、「奢れる者は久しからず」とある。
それは別に、権力者や金持ちのことばかりではない。
自分より弱い立場の者を虐げる者全てのことだ。
あるいは、優しい仮面の下でほくそ笑む、世間的善人も同じだ。
そんな者達は、皆、すぐに悲惨な状況になる。病気になったり、大事故に遭ったり、騙されて大損害を被ったり、家族や親しい人に裏切られたり、予期しない大失敗から破滅する。表向きはうまくいっている場合は、もっと悲惨である。
「奢れる者も久しからず」
自制なんて意味はない。ただ、苦しみに黙って耐えることだ。
人生は悲劇である。死ぬまで逃れられないのである。
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ところで、昔話として、姥捨て山には2通りある。
1つは、社会が危機に陥った時、捨てたお婆さんが、良い知恵を与えてくれて国や人々が救われ、年寄りの知恵を見直すというもの。
もう1つは、息子が、捨てるために母親を背中に背負って山奥に入っていくと、母親があちこちで木の枝を折る。息子が何をしているのかと聞くと、母親は、お前が帰りに迷わないよう目印をつけていると言い、感じ入った息子は母親を捨てることが出来ずに連れ帰るというものだ。
いずれも詐欺のような話である。
第一の、老人の知恵で救われたという話であるが、それでは、実利を与えてくれない老人、はては、人間には価値が無いと言っているようなものだ。
実際、老人の知恵が実益になる場合はむしろ非常に少ない。
これは、なんとも実利主義、物質主義に染まった卑しい話である。
老人には素晴らしい知恵があるが、物質主義に陥った人間や社会にとって、それは何の価値もない。
それは、少なくとも、実利と直接的な関係はない。
だが、物質主義に偏らない、魂を尊重する人間にとって、それは貴いものなのである。
このお話を思うと、助かるために、良いアイディアを出そうと必死になる悲惨な老人の顔が浮かぶのである。
しかし、そんな欲を捨てた時に、真の知恵と一体化するのである。
第2の、息子を気遣う母親も卑しい。
これは、自分の愛情をアピールし、息子の情を呼び起こす浅ましい行為ではなかろうか?
それが成功すれば、息子を困難に陥れることになるだろう。
姥捨てが良い悪いの問題ではなく、捨てられるのが運命であれば、それに従うまでである。
そして、息子が妙な情を持たないよう、これが我々の運命なら従うしかないのだと諭し、運命からは決して逃れられないし、お前が私を捨てるのは運命であるのだから、お前の意思でどうにもなるものでもないと教え、息子の罪悪感を拭ってやるべきなのだ。
それでこそ、知恵ある老人である。
昔のことであるから、捨てられる年齢は50歳くらいのものだろうか?
それまでに、人生への執着を断つことである。
楽しい思い出のあまりない、苦しいことばかりの人生だったかもしれないし、思い残すことも多いに違いない。
だが、人生とはそんなものである。
そして、この世で楽しむことが人間の務めではない。
むしろ、なるべく苦しみ、それに黙って耐えたことで、神は、「もうよい。お前の務めは終った。その地を離れ、ここにおいで」と言われるのである。
第1の老人も、第2の老人も、有能で親切であったとしても、自我に生きる人間である。
この老人達は、若いうちは、案外に弱い者いじめをしたようなタイプではないかと思う。
世間では、学校でも、会社や病院、警察その他の職場でも、必ずいじめの話がある。
御存知のように、学校では、生徒同士もあるが、教師から生徒に対するいじめ、立場の強い教師から立場の弱い教師へのいじめもあり、それはもっと凄惨(せいさん。むごたらしいこと)かもしれない。
人類からいじめはなくならない。
自我としての人間はいじめが大好きだ。死ぬほど好きなのだ。
たまたま強い立場にある者が、弱い立場の者を虐げるのは当たり前なのだ。
そして、姥捨て山の話の優しい年寄り達や、別に年寄りでなくても、自我的に親切な者というのは、本質で同じだ。
表向きは天使のような人が、裏ではひどいいじめをしているなんて、よくあるどころか、普通のことである。
平家物語には、「奢れる者は久しからず」とある。
それは別に、権力者や金持ちのことばかりではない。
自分より弱い立場の者を虐げる者全てのことだ。
あるいは、優しい仮面の下でほくそ笑む、世間的善人も同じだ。
そんな者達は、皆、すぐに悲惨な状況になる。病気になったり、大事故に遭ったり、騙されて大損害を被ったり、家族や親しい人に裏切られたり、予期しない大失敗から破滅する。表向きはうまくいっている場合は、もっと悲惨である。
「奢れる者も久しからず」
自制なんて意味はない。ただ、苦しみに黙って耐えることだ。
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これを数日やっていて思ったのが、人間に対して批判的な感情を持つのも、自然のものを批判するという馬鹿らしいことも、基本的には同じことなのかもしれないという事です。
そんな事を考えていたら気分が高揚してきました。
昨日はなんだか楽しくなって両腕を上げました。
こんなことは初めてでした。
今がピークなだけかもしれませんが。
「全ては神様の意志だ」と思っても力は湧いてこないし辛いものは辛いし、結局そう信じるか信じないかという話になってしまいます。
実感が持てるようになりたいし、精神的に楽になりたいです。