ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジが、それぞれ、「これだけをやれ」と言ったことがある。

マハルシのものは、「『私』以外の想念を持つな」だった。
こう言われたら、どうやったらいいか分からないが、ある時、マハルシは「私」をマントラとして唱えよと言っている。
つまり、やることはただ1つ。
「私」と唱えることだ。心の中で唱えるのである。声に出す必要はない。

マハラジのものは、「存在の感覚にしがみつけ」だった。
これもまた難しいように思う。
ただ、「存在の感覚」とは「私という存在の感覚だ」ということをはっきりさせておく。
そして、マハラジもまた、「私は在る」を真言として唱えよと言ったのだ。
この「私」は、「私の意識」である。
よって、「私の意識がある」というつもりで「私は在る」と唱えれば良いのである。
もちろん、心の中でだ。こちらも、声に出すものではない。

これらをやった結果、何が起こるのか?
それは、両方とも同じで、一般的な言葉で言えば、「悟りを開く」であり、それが唯一の成果ということになっている。
しかし、現代人が、それでやる気になるはずがない。
ただ、彼らの時代は、まだカースト制度(インドの世襲の身分制度)が根強く社会に残り(実際は今もだが)、庶民に下手な願いを持たせるわけにはいかなかったという事情もある。
だが、現代であれば、「心に浮かんだ願いは何でも叶う」と言って間違いないのである。
だが、ここで、誤解してはならないのは、叶う願いは、「考えた願い」ではなく「心に浮かんだ願い」だ。
実際は、両者は、同じである場合も多い。
しかし、特に現代人は、自分の本当の願いでもないことを、自分の願いであると勘違いしている場合が、あまりに多い。
本当の願いとは、自分で勝手に決めたり、誰かに押し付けられるものではない。
それは、自然に浮かぶもので、潜在意識から与えられるものなのだ。
裕福になりたいとか、健康になりたいとか、あるいは、素晴らしい恋人や伴侶が欲しいと願うのは、自然な願いであり、潜在意識から与えられたものと言えると思う。
しかし、金メダルを取りたいとか、議員になりたいなどというのは、不純な願望である場合が多い。
いずれにしても、本当の願いであれば、悟りに近付けば、どんどん叶っていくのである。

マハルシと、マハラジのやり方は、「私」と唱えるか、「私(の意識)は在る」と唱えるかの違いであるが、実は、原理的には同じである。
「私」か「私の意識」という想い以外の全ての想いを消し、最後は、それらの想いも消してしまい、一切の想念を消すのである。
想念が消えれば、潜在意識の万能の力が、いかなる願いも叶えるのである。








  
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