私は、ごく幼い頃に、『ゴッドファーザー』という映画をテレビで見て、ストーリーはさっぱり分からなかったが、いくつかの場面を印象深く覚えている。
マフィアの支配者コルレオーネ家の息子なのかもしれないが、若い男が、かなり若い娘と一流レストランにいる。
娘は、落ち着いて、堂々と飲み物、食べ物を注文する。後で分かるが、この娘は、卑しい家の出であるが、女優になる夢を果たすため、こういったことを勉強で習得したようだ。
だが、男の方は、こういった店のことを知らないようで、娘のようなやり方をしない(単に面倒だったからかもしれないが)。
私のような田舎者の庶民が間違って「高い店」に入ったら、お金の問題よりも、恥をかくことを、私は子供ながら知っていたので、私は興味深く見ていた。
しかし、映画のこの男は、ウェイターにさらりとこう言う。
「まかせるよ」
ウェイターは、うやうやしく頭を下げて退散する。
「まかせるよ」
これこそ、世界を制する魔法の言葉である。
『魔法使いサリー』という古いアニメがあるが、オープニングソングの一番最初で、「マハリクマハリタ」と歌う歌声の中、サリーが木の切り株に魔法をかけると、それが魔法の力で、見事なお屋敷になる。
まさに、子供のお伽噺だ。
「大人っぽく」考えるなら、家の構築には、壁や床の材質や色、家のあらゆる部分のデザインが必要だ。
しかし、サリーはこう思ったのだろう。
「まかせるわ」
ゴッドファーザーに戻るが、渋い顔のゴッドファーザーこと、ドン・コルレオーネに睨まれ、ある男が「おろおろ」している。
おろおろしている男は、大変な苦境に追い込まれているようだった。
コルレオーネは言う。
「お前が俺をゴッドファーザーと呼ばないからだ」
そう言われた男は、コルレオーネにすがりつき、肩を震わせながら、「ゴッドファーザー、お助け下さい」と哀れみを乞うように言う。
すると、コルレオーネは優しい顔になり。
「よしよし、まかせておけ」
と言って、男の肩を抱く。
ゴッドファーザー・・・父なる神。
それを人間が名乗るのは不遜ではあるが、コルレオーネは、その名に相応しい一面を見せたのだ。
神様、仏様というのは、そういうものなのだ。
名を呼んで、「助けて」と言えば助けてくれるのだ。
「南無阿弥陀仏」の意味を、「阿弥陀如来に帰依します」などという、小難しいことを言う者が多い。
しかし、法然は、「阿弥陀如来様、お助け下さい」という意味なのだよと言ったのだ。
素直に、「ヘルプ!」と言えば助けてくれるのだ。
キリスト教では、重要な祈り言葉である、「キリエ・エレイソン」(ギリシャ語)、これを英訳した、「The Jesus Prayer(ザ・ジーザス・プレヤー)」という言葉があるが、同じようなものだと思う。これも、「主、憐れめよ」などいう訳の分からない訳をするのを偉い人は好む。
まあ、直訳ではそれに近いのかもしれないが、本当の意味は、「神様、助けて」ではないのか?
アメリカの本来のモットーは「我々は神を信じる」(In God We Trust)であった。
これも、やはり、本当の意味は、「神様、助けて」であると思う。
ビートルスの有名な歌「ヘルプ」だって、あの「ヘルプ」は神様に言うべきなのだ。そして、やはりビートルズの「ひとりぼっちのあいつ」(Nowhere Man)で、「誰かが手を貸してくれるから心配すんなよ」と歌うが、その誰かって、神様のことなのだ。
だが、ある時期からのアメリカ人は、「イン・マネー・ウイー・トラスト」だ。それで、アメリカは落ちぶれつつあるのだ。
そして、それは、我々日本人も同じで、中国もそうなったのである。
アメリカは、もう一度、建国の精神でもある、「イン・ゴッド・ウィー・トラスト」を思い出せ。そして、我々はアメリカに言うのだ。
中国とかの問題は、「まかせるよ」と。これまで、ずっとそれで上手くやってきたじゃないか?
アメリカが本当に強いなら、「よしよし、まかせておけ」と言うだろう。そんなアメリカが愛されるのだ。
しかし、今は無理かもしれないがね。
※言うまでもないが、ウィット(ユーモア)も混じっていることは理解されたい。だが、半分以上は本当だ。
サミュエル・スマイルズという人が、『自助論』という本で、「天(神)は、自分を助ける者を助けるのだ」と書いたようで、日本でもこの本はヒットした。できるところまでは自分で努力しろといったところだ。
まあ、がんばりたまえと言っておこう。
私にできるのは、「南無阿弥陀仏」、つまり、「グレイト・ブッダ、ヘルプ・ミー」と言うだけだ。
むしろ、自分は何もしないのがよろしい。
もっとも、しても良い。
親鸞も、「善人でさえ仏は救って下さる。まして、悪人を救ってくれないはずがない」と言ったのだ。
実は、この言葉は、法然が先に言っていたものだ。
人間が、自分が良しと思ってすることは、全部悪いことだ。人間には猿知恵しかないのだからだ。
しかし、人間は、猿知恵で悪いことをしてしまうのだ。
せめて、それを自覚するのだ。
自覚できれば、自然と、「南無阿弥陀仏」と言うのだ。
「自分で努力せんとはけしからん。そんなやつは神様も助けん」と言う者が多いのだ。
しかし、努力は、自分が「する」のではない。「させていただく」ものだ。
努力する運命であれば、嫌でも努力させられるさ。
コルレオーネは、自分をゴッドファーザーと呼ぶ者を助ける。
阿弥陀如来は、自分の名を呼ぶ者を助ける。
こう言うと、「マフィアはともかく、神仏は公平なはずで、自分の名を呼んで崇拝する者だけを助けるなんておかしいじゃないか?」と屁理屈を言う者がいる。
一生、そう言って苦しめば良い。それもまた運命だ。
それは人間の愚かな小知なのだ。
そして、私が理屈で返すと、さらに理屈で返してくる。連中は、自分の小さな小さな猿知恵の価値を守りたいのだから、永遠にそうなるのだ。
私は相手にならない。
しかし、ちょっとだけ、下に、喩え話で言っておこう(結局、返事をしているのだから馬鹿だ)。
息子や娘に全然相手にしてもらえない父親がよくいる。
そんな父親は、あれやこれやと、息子や娘に奉仕するが、息子や娘は父親に顔も向けない。
愚かな父親である。彼は、息子や娘を愛しているのではなく、自分を愛しているのだ。
良い父親は、そんな息子や娘に何もせずに放置するのだ。
そして、娘や息子が、「パパ、ヘルプ・ミー!」と言ってきた時に、「よしよし」と言って助ければ良い。
コルリオーネや阿弥陀如来のようにね。
福音書や法華経にだって、そう書いてあるのだ。
まあ、パパの方が先に、「ゴッド、ヘルプ・ミー」と言うべきかもしれないがね。
阿弥陀如来も、ジーザス(キリスト)も、クリシュナも、自分を呼ぶ者を助ける。
そして、中でも、阿弥陀如来は、「わが名を呼べば必ず助ける。決して見捨てない。決して、決してだ。だから安心せよ」と言ったのだ。
だから、煩悩具足(煩悩がいっぱい)であることを強く自覚していた法然は、毎日6万回も「南無阿弥陀仏」を唱え、親鸞は、「助けてくれてありがとう」と感謝の気持ちで「南無阿弥陀仏」と唱えたのだ。
イエスだって、「与えられたと思って先に感謝すれば叶う」と言ったものだ。
南無阿弥陀仏
キリエ・エレイソン
ザ・ジーザス・プレヤー
イン・ゴッド・ウイー・トラスト
どれでも良いのだければ、私が思うに、一番、保証の確度が高いは「南無阿弥陀仏」だ。信頼できる材料がいっぱいあるのだからだ。
しかし、理屈をこねないのが良い。
後は皆様に「まかせる」。
ところで、私は高校生の時、父親が愛読していた『ゴッドファーザー』の小説をちょっと見て、すっかりトラウマになってしまい、映画も小説も見れない。誰か変わりに見て欲しい。多分、11歳か12歳の「見たこともないような」美少女の陵辱場面か何かだったと思うので、見ない方が・・・という気もするが。
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マフィアの支配者コルレオーネ家の息子なのかもしれないが、若い男が、かなり若い娘と一流レストランにいる。
娘は、落ち着いて、堂々と飲み物、食べ物を注文する。後で分かるが、この娘は、卑しい家の出であるが、女優になる夢を果たすため、こういったことを勉強で習得したようだ。
だが、男の方は、こういった店のことを知らないようで、娘のようなやり方をしない(単に面倒だったからかもしれないが)。
私のような田舎者の庶民が間違って「高い店」に入ったら、お金の問題よりも、恥をかくことを、私は子供ながら知っていたので、私は興味深く見ていた。
しかし、映画のこの男は、ウェイターにさらりとこう言う。
「まかせるよ」
ウェイターは、うやうやしく頭を下げて退散する。
「まかせるよ」
これこそ、世界を制する魔法の言葉である。
『魔法使いサリー』という古いアニメがあるが、オープニングソングの一番最初で、「マハリクマハリタ」と歌う歌声の中、サリーが木の切り株に魔法をかけると、それが魔法の力で、見事なお屋敷になる。
まさに、子供のお伽噺だ。
「大人っぽく」考えるなら、家の構築には、壁や床の材質や色、家のあらゆる部分のデザインが必要だ。
しかし、サリーはこう思ったのだろう。
「まかせるわ」
ゴッドファーザーに戻るが、渋い顔のゴッドファーザーこと、ドン・コルレオーネに睨まれ、ある男が「おろおろ」している。
おろおろしている男は、大変な苦境に追い込まれているようだった。
コルレオーネは言う。
「お前が俺をゴッドファーザーと呼ばないからだ」
そう言われた男は、コルレオーネにすがりつき、肩を震わせながら、「ゴッドファーザー、お助け下さい」と哀れみを乞うように言う。
すると、コルレオーネは優しい顔になり。
「よしよし、まかせておけ」
と言って、男の肩を抱く。
ゴッドファーザー・・・父なる神。
それを人間が名乗るのは不遜ではあるが、コルレオーネは、その名に相応しい一面を見せたのだ。
神様、仏様というのは、そういうものなのだ。
名を呼んで、「助けて」と言えば助けてくれるのだ。
「南無阿弥陀仏」の意味を、「阿弥陀如来に帰依します」などという、小難しいことを言う者が多い。
しかし、法然は、「阿弥陀如来様、お助け下さい」という意味なのだよと言ったのだ。
素直に、「ヘルプ!」と言えば助けてくれるのだ。
キリスト教では、重要な祈り言葉である、「キリエ・エレイソン」(ギリシャ語)、これを英訳した、「The Jesus Prayer(ザ・ジーザス・プレヤー)」という言葉があるが、同じようなものだと思う。これも、「主、憐れめよ」などいう訳の分からない訳をするのを偉い人は好む。
まあ、直訳ではそれに近いのかもしれないが、本当の意味は、「神様、助けて」ではないのか?
アメリカの本来のモットーは「我々は神を信じる」(In God We Trust)であった。
これも、やはり、本当の意味は、「神様、助けて」であると思う。
ビートルスの有名な歌「ヘルプ」だって、あの「ヘルプ」は神様に言うべきなのだ。そして、やはりビートルズの「ひとりぼっちのあいつ」(Nowhere Man)で、「誰かが手を貸してくれるから心配すんなよ」と歌うが、その誰かって、神様のことなのだ。
だが、ある時期からのアメリカ人は、「イン・マネー・ウイー・トラスト」だ。それで、アメリカは落ちぶれつつあるのだ。
そして、それは、我々日本人も同じで、中国もそうなったのである。
アメリカは、もう一度、建国の精神でもある、「イン・ゴッド・ウィー・トラスト」を思い出せ。そして、我々はアメリカに言うのだ。
中国とかの問題は、「まかせるよ」と。これまで、ずっとそれで上手くやってきたじゃないか?
アメリカが本当に強いなら、「よしよし、まかせておけ」と言うだろう。そんなアメリカが愛されるのだ。
しかし、今は無理かもしれないがね。
※言うまでもないが、ウィット(ユーモア)も混じっていることは理解されたい。だが、半分以上は本当だ。
サミュエル・スマイルズという人が、『自助論』という本で、「天(神)は、自分を助ける者を助けるのだ」と書いたようで、日本でもこの本はヒットした。できるところまでは自分で努力しろといったところだ。
まあ、がんばりたまえと言っておこう。
私にできるのは、「南無阿弥陀仏」、つまり、「グレイト・ブッダ、ヘルプ・ミー」と言うだけだ。
むしろ、自分は何もしないのがよろしい。
もっとも、しても良い。
親鸞も、「善人でさえ仏は救って下さる。まして、悪人を救ってくれないはずがない」と言ったのだ。
実は、この言葉は、法然が先に言っていたものだ。
人間が、自分が良しと思ってすることは、全部悪いことだ。人間には猿知恵しかないのだからだ。
しかし、人間は、猿知恵で悪いことをしてしまうのだ。
せめて、それを自覚するのだ。
自覚できれば、自然と、「南無阿弥陀仏」と言うのだ。
「自分で努力せんとはけしからん。そんなやつは神様も助けん」と言う者が多いのだ。
しかし、努力は、自分が「する」のではない。「させていただく」ものだ。
努力する運命であれば、嫌でも努力させられるさ。
コルレオーネは、自分をゴッドファーザーと呼ぶ者を助ける。
阿弥陀如来は、自分の名を呼ぶ者を助ける。
こう言うと、「マフィアはともかく、神仏は公平なはずで、自分の名を呼んで崇拝する者だけを助けるなんておかしいじゃないか?」と屁理屈を言う者がいる。
一生、そう言って苦しめば良い。それもまた運命だ。
それは人間の愚かな小知なのだ。
そして、私が理屈で返すと、さらに理屈で返してくる。連中は、自分の小さな小さな猿知恵の価値を守りたいのだから、永遠にそうなるのだ。
私は相手にならない。
しかし、ちょっとだけ、下に、喩え話で言っておこう(結局、返事をしているのだから馬鹿だ)。
息子や娘に全然相手にしてもらえない父親がよくいる。
そんな父親は、あれやこれやと、息子や娘に奉仕するが、息子や娘は父親に顔も向けない。
愚かな父親である。彼は、息子や娘を愛しているのではなく、自分を愛しているのだ。
良い父親は、そんな息子や娘に何もせずに放置するのだ。
そして、娘や息子が、「パパ、ヘルプ・ミー!」と言ってきた時に、「よしよし」と言って助ければ良い。
コルリオーネや阿弥陀如来のようにね。
福音書や法華経にだって、そう書いてあるのだ。
まあ、パパの方が先に、「ゴッド、ヘルプ・ミー」と言うべきかもしれないがね。
阿弥陀如来も、ジーザス(キリスト)も、クリシュナも、自分を呼ぶ者を助ける。
そして、中でも、阿弥陀如来は、「わが名を呼べば必ず助ける。決して見捨てない。決して、決してだ。だから安心せよ」と言ったのだ。
だから、煩悩具足(煩悩がいっぱい)であることを強く自覚していた法然は、毎日6万回も「南無阿弥陀仏」を唱え、親鸞は、「助けてくれてありがとう」と感謝の気持ちで「南無阿弥陀仏」と唱えたのだ。
イエスだって、「与えられたと思って先に感謝すれば叶う」と言ったものだ。
南無阿弥陀仏
キリエ・エレイソン
ザ・ジーザス・プレヤー
イン・ゴッド・ウイー・トラスト
どれでも良いのだければ、私が思うに、一番、保証の確度が高いは「南無阿弥陀仏」だ。信頼できる材料がいっぱいあるのだからだ。
しかし、理屈をこねないのが良い。
後は皆様に「まかせる」。
ところで、私は高校生の時、父親が愛読していた『ゴッドファーザー』の小説をちょっと見て、すっかりトラウマになってしまい、映画も小説も見れない。誰か変わりに見て欲しい。多分、11歳か12歳の「見たこともないような」美少女の陵辱場面か何かだったと思うので、見ない方が・・・という気もするが。
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自分の考えと違いがあるのは当たり前のこと
だと思うのですが。
「知を捨ててこそ本当の知がある」とは荘子の
言葉ですが、自分の直感を信じて、良いと思えば
取り入れればよく、理屈をこねて絡むなんて
バカな話だと思います。
take it easy いつも応援してます。